⚫︎『禁忌アーカイブ』(近藤亮太、深沢麿央)は、一年くらい前に観て正直あまり面白いと思えなかった。モキュメンタリー+ファウンドフッテージという実話ホラー的な形式が行き詰まっているという認識はその通りだと思うが、それへの批判的(自己言及的)対応としてはあまりに中途半端だと思った。だから最近になってその「後編」がU-NEXTの配信に加わったのを知っても、「え、あれで完結じゃなかったの ? 」とは思ったものの、すぐにでも観ようとは思えなかった。しかし、(前編二話+後編二話という構成の)最後の四話目の監督が『屋根裏の巳已己』の寺西涼だと知って、これはすぐに観なければと思い、改めて前編の一話目から通して観た。
(『屋根裏の巳已己』は、ここ数年で観たゴーストストーリーの中で最も興奮させられたものだ。)
「後編」(近藤亮太、寺西涼)は、「前編」の取材終了、そして『禁忌アーカイブ』放送の一年後から始まる(フィクション世界でも前編である『禁忌アーカイブ』が放送(発表)されているということが前提とされる、登場人物たちの行動に『禁忌アーカイブ』を観たという事実が織り込まれている)。『禁忌アーカイブ』は、いわゆる「心霊映像」をフェイクとして作っている集団があるという話だった。前編では、カリスマ的な指導者に導かれているその集団が「フェイク心霊映像」を作ることで「呪い」を作り出そうとしていた。いわば、人智を超えた「呪い」や「霊」があるから「心霊映像」が生まれるという因果を逆転させ、フェイク「心霊映像」から人工的に「呪い」を立ち上げようとしているのだった。
(そのような作品を作ることによって、「実話風」ホラーのナチュラリズムを批判しているとも読める。)
後半では、そのカリスマを継承する息子が出てくる。息子もまた、父と同じくフェイク心霊動画を作るのだが、父の作った動画を「面白くない」と言い、父に批判的である。(前編に直接登場するわけではないが)父の、いかにもカリスマ然とした姿に対して、息子は、取材者側が逆に警戒してしまうくらいに物腰が柔らかい。動画の制作集団である「御幸の会」も、カリスマに心酔する人々の集まりから、互助会的な緩やかな集まりに変わっているようだ。つまり、後編は前編に対する批判的検討のような立ち位置にある。
父が、他者に対する強い恨みや憎しみから生まれる「呪い」を強く、実体的なものとして考えていたのに対し、息子は、人々の心の揺らぎや、それに端を発する噂のネットワークなどによって「呪い(のような効果)」が結果として生じるのだ、と、比較的穏当な考えを持っている。息子は、呪物の「呪物としての力」ではなく、呪物を「呪物だと信じる人の心」の作用を重くみている。実体としての「呪い」を信じないがゆえに、息子は、動画の作り込み対して、(人の心を動かすために)より厳しく、より細かく、要求を出していく。
とはいえ、どちらにしても、「呪い」を作り出し、それを世の中に拡散させようという意図(明確な悪意)を持って活動していることに変わりはない。それに対して「取材者側」は「呪い」などというものは存在しないのだ、ということを証明するために、この『禁忌アーカイブ』という番組を作って放送するのだ、と言うのだった(ディレクター役の、ずっと声だけの出演だった金子鈴幸が最後に姿を現してそう言う)。自分たちは、そうとは知らないうちに「御幸の会」の企みに加担してしまっていた。だから改めてそれを強く否定しなければならない、その責任があるのだ、と。まさかの、ホラー心霊番組が、自分自身を否定して終わるのだ。ここまででもアイロニカルでちょっと面白い。
ただし、それだけで終わるほどことは簡単ではない。『禁忌アーカイブ』では、いわゆるフッテージ的な断片的心霊映像がちょこちょこインサートされる。それは最初は、廃墟に置かれていた出所不明の謎映像という扱いだったが、すぐにそれらは皆「御幸の会」によって「制作された」もの(フェイク心霊動画)であることが明かされる。「後編」では、その撮影現場やロケハンするさままでが明らかにされる(息子がディレクターのように出演者たちに細かな指示を与えていたりする)。すべてネタバラシされ、そこには謎もなければ呪いの要素もない。そのことを示すためにこそ『禁忌アーカイブ』は作られたのだ、というのが「フィクション上」の制作の理由だった。にもかかわらず、その(まったく「根拠」を欠いている)フェイク心霊動画はかなり「怖い」のだ。
フェイクドキュメンタリーの「ドキュメンタリー」の部分は明らかにフェイクなのだが(これを本当にドキュメンタリーだと信じる人はいないだろう)、フェイク心霊動画はフェイクだとわかっていても、なおリアルに「怖い」、のだ。たとえば「前編」には、大勢の人たちが仏壇を叩いて破壊する場面がある。これは実際には「どこかの家」の仏壇ではなく、店から買ってきた誰のものでもない新品の仏壇(=工業製品)を壊しているに過ぎないのだろうが、それでもぼくはそれをみて、自分が出演者だったら嫌だろうなあと思ってしまう。つまり、すべてが明らかにされて透明であったとしても、そこに「呪い」の萌芽のようなものは生じてしまう。フェイクであることが明らかにされたフェイク心霊動画にも、一抹の「霊」が宿ってしまう。透明化によって「霊」や「呪い」を否定し切ることはできない。
このような事実を、直ちに肯定する(「御幸の会」の態度)のでも、直ちに否定する(フィクション上での「取材者側」の態度)のでもなく、このような事実(「呪い」や「霊」が根拠と関係なく立ち上がってしまうということ)について、そのありさまが詳細に検討される必要がある。おそらくそれが、(フィクション上の「取材者」たちの意図とは別の)作品としての『禁忌アーカイブ』が示していることだ。
(だからこそ、フィクションでしかない「ホラー」について考えることに意味がある。)