⚫︎昔、出口裕弘という人がいた。フランス文学者で、バタイユとかシオランの翻訳をしている。太宰治や坂口安吾、三島由紀夫について書いた本もある。で、この人は小説も書いていた。
20歳前後くらいの時に、文芸誌に載っていたこの人の小説をいくつか読んだ記憶がある。『都市とエロス』という吉本隆明との対談本があり、それを読んでこの人の小説に興味を持ったのだったか、それとは関係なく、文芸誌に載っていたからただなんとなく読んだのだったのか。わりと好きだった、という覚えがある。エロい幻想小説、くらいの感じでしか憶えていないが。
ふと、出口裕弘の小説ってどんな感じだったかなあ、と思い、マーケットプレイスをのぞいてみるとかなり安価で手に入るようなので買ってみた。『ろまねすく』、福武書店から1990年に出ている本で、1988年から89年に「海燕」に掲載された短編3篇が収録されている。
この本の最初にある「後宮譚」をまず読んだのだが(というか、まだこれしか読んでいないが)、これが予想外に面白かった。ちょっとびっくりするくらいよかった。内容はといえば、オヤジの、とてオヤジくさい(シス男性的な)性的妄想、妄執が、ただひたすら垂れ流されているだけ、とも言える。人によっては(特に最近の若い人は)「ただただ気持ち悪いだけ」と感じて受け付けないかもしれない。ひたすら作者自身の性的幻想のみに準拠しただけの、他者のいないマスターベーション小説と言えるかもしれない。他人の性癖を覗き見ているような、このような小説がなぜこんなに面白いのか。
それはこれが、ただ、夢の論理、欲望の論理のみに従って書かれていて、中途半端なもっともらしさや、言い訳めいた取り繕い、意味ありげな仄めかしなどが、ほとんど感じられないからだと思う。自分の欲望、自分の持つ幻想を高い精度で探ることへの希求以外のもの、外的な指標や根拠などに頼ることなく、小説の持続・展開を成立させている。内的要素・内的必然性のみ、それももっともらしい「自我の葛藤」みたいなものではなく、ただのエロ妄想のリアルな手触り以外に、この小説が「このような形」で成立している根拠がない。逆にいえば、それだけで小説の持続を維持できるほどの、欲望の(幻想の)強さと密度とリアリティが漲っている。だからこそ、必ずしも作者と「同じ趣味」を持っているわけではないぼくが読んでも、一つ一つのイメージとその展開に説得力を感じるし、何よりも「面白い」と感じる。
(最初から最後まで一貫して、物語の論理による整形に絡めとられることなく、夢のリアリティの生々しさが貫かれている。)
(ある種の「懐かしさ」とともに読むしかないという側面も、つまり「古さ」を感じざるを得ないという側面も、もちろんあるのだが。)
この小説が優れていると主張しようとするのならば、エロ妄想のイメージそのものの充実・リアリティと、(「物語」による捕捉から逃れ続ける)展開のリズムと運動性、以外に褒めるところがない(「要約」してしまえば類型的な妄想に過ぎないかもしれないこの小説から内容的な「意義」や「意味」のようなものは何も見出せない)。まったく戦略的ではない、自分を大きく見せようとする下心がない、野放図で無防備という意味で、とても素朴な小説であると言えるのかもしれない。
(野放図で無防備でいられるのは、彼が「男性」だからだというツッコミは、あり得るだろう。)
文芸誌の世界の中でこのような小説が許されていた時代があったのだなあ、と思う。これが許されていた理由の一つに、あくまで「学者の手すさび」として書かれた小説であるという位置付けがあったからかもしれない。決して「ガチ小説家が心血を注いで書いたもの」ではなく、あくまで「学者が余儀として書いたもの」だ、という「言い訳」によって「このような自由」が許されていたのかもしれない(文人画のようなものとして)。実際、当時からこれがメインストリームだったというとはなかったと思う(当時のぼくの観測・認識においては)。出口裕弘が芥川賞の候補作に選ばれるというようなことはない、ということが前提としてあった上での「この自由」なのだろう。文芸誌の片隅に、しかし独自の存在感を放ちつつ、アジール的にあった、という感じ。「メインストリームであること」や「芥川賞の可能性の圏内にいること」などより、「この自由」の方がずっと貴重であることは明らかだと思うけど。
(ただこれは「立派な学者」だからこそ「手すさび」が許されるという「権威主義」でもあり、当時はまだ権威主義が十分に機能していたことの効能であるのだが。)
(性的な妄想・幻想のあり方が、蛭子能収の初期作品にちょっと似ている。)
(他の作品もこれと同じくらい面白いかどうかは、まだわからない。)

