大豆田とわ子 の検索結果:

2022/08/21

…のだが、この作品は「大豆田とわ子…」のような、きれいな絵(画面)とおしゃれファッションを楽しむような作品とは違う、ということは、一話で既にはっきりと提示(態度表明)されていたと思う。 このドラマではいわゆる「決まった構図」のようなカットはほとんどない。あるいは、「よいカット」という概念がこのドラマにはそもそもないとも言える。俳優の動きが中心にあって、カメラが(構図が)主張するようなカットは使わない、というのか。とはいえ、空間の演出はきわめて意識的になされているし、セットの空間…

2022/08/13

…いきなりあらわれ、『大豆田とわ子と三人の元夫』でも、六話で市川実日子の死という、それまで積み上げられたドラマの世界がいったんひっくり返されるような予想外の展開があった。『初恋の悪魔』でも、このパターンは踏襲されている。 (前回を柄本回と解釈するならば、地固めの初回、仲野回、松岡回、柄本回ときて、今回が林回で、主要人物の掘り下げが一周して、最初の段落が終わるという展開も、『カルテット』や『大豆田とわ子…』と同じだと言える。) 『カルテット』の五話で、屈辱的な仕事を経験した後に、…

2022/08/02

…ことの発覚だろう。『大豆田とわ子と三人の元夫』では、一つ目の転換点が市川実日子の死であり、二つ目の転換点がオダギリジョーと松たか子の関係の思わぬ進展(アンチ恋愛ドラマのなかの「恋愛」)ということになる。どちらのドラマでも、ドラマの序盤を観ている段階で一つ目の転換点(宮藤官九郎の登場や市川実日子の死)を予測できた人はまずいないだろう。 (転換点は、一応伏線がはられているとしても、ドラマの世界の緊密な関係の「ほぼ外部」からやってくるので、予測できない「事件」なのだ。) ある意味で…

2022/07/27

…もある。たとえば、「大豆田とわ子…」や、今やっている『初恋の悪魔』などは、密度が濃いので何話も一気に観ることはとてもできない。一話観終わる度に強い余韻が次の回に行くまでの時間を要求し、反芻を要求する。連続ドラマを観るときに、次の回まで一週間、あいだがあいているということは、一話分を受け止め、考えるための時間として丁度いいように思う。『anone』には、そこまでの密度があるわけではなかった。 一話を観た時には、視聴者の興味を引き付けるためのエグいギミックがてんこ盛りで、うわーっ…

2022/07/21

…』もそうだったし、「大豆田とわ子…」もそうだった。これ以降、どんなに大きな地殻変動があったとしても、その変動は、最初に「一話」として提示されたものの諸関係の束から導きだされるものなのだ。『初恋の悪魔』の一話もまた、原石として、そこからさまざまな読み替えへと発展し、過酷な読み替えに耐え得るだけの、複雑な稠密さをもっているように感じられた。 ●また、この作品で強く感じたのは、俳優による演技の創造性だ。俳優が、ドラマという構造体のなかのある役割を占める(演じる)ということをこえて、…

2022/07/19

…幸福、というのは、「大豆田とわ子…」もそんな感じだった。 とはいえ、「恋愛をあきらめる」ことは決して簡単なことではない、ということが、主に満島ひかりを通じて表現されている。 満島ひかりがいかに献身的に努力したとしても、松たか子が松田龍平になびくことはないし(松はきわめて動物的な人として描かれており、性的に魅了されない相手に対して情にほだされることはないだろう)、自分自身の松田への「気持ち」をないことにもできない。そして、彼女が高橋一生の気持ちに気づくことも決してないのだった。…

2022/07/17

…。今後も期待大。 「大豆田とわ子…」は、恋愛ドラマのようにみせかけて、徹底したアンチ恋愛ドラマだったが、これは、思いっきり遠回りした恋愛ドラマなのかもしれない。「大豆田…」といい、この作品といい、坂元裕二は21世紀のスクリューボールコメディをつくろうとしているのではないか。ただ、とはいえ、『カルテット』を観ていてつくづく思うが、坂元脚本ドラマの、一話だけを観て先の展開(どこへ行きつこうとしているのか)を予測するのは不可能だ。一話で出てきたフォーマット(四人で事件を解決)も、二…

2022/07/13

…れるみたいだし。 『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ているときには、「大豆田…」に集中していたので、他の坂元脚本作品を観ようと思う心の余裕がなかったのだが(単発ドラマである『スイッチ』と映画『花束みたいな恋をした』は観たが)、今はそうではないので、U-NEXTで『カルテット』の一話を観た。 まず、とてもメジャーな俳優である松たか子に、地上波ゴールデンの時間帯のドラマという枠で、こういう役を(言い方は悪いが)あてがおうとするという、その段階で大きな創造性を感じる。たんに謎めいてい…

2021-08-03

…『MIU404』や『大豆田とわ子と三人の元夫』を、可能世界を通じて倫理を問うように思考を促すドラマだと考えることができるのではないかと思った。ということで、『可能世界の哲学』の2017年改訂版を買い直したのだった。) そして、ぼくにとっての関心であるフィクションは、次のような意味でのフィクションなのだということを改めて思った。以下は、『身体(ことば)と言葉(からだ)』(山縣太一+大谷能生)から引用しつつ書いた日の日記(2019-05-30)から。括弧内は本からの引用。 《(……

2021-07-14

…恋をした』を観た。「大豆田とわ子」にハマった者としては(同じ坂元裕二脚本の近作である)この映画をスルーするわけにはいかなかった。ただ、観始めて30分くらいは、あまり良い印象はなかった。有村架純と菅田将暉は、なんとと言ったらよいのか、サブカルともオタクとも少し異なる、やや濃いめの文系ユースカルチャー全般みたいなものが好きな二人なのだが、冒頭の30分くらいで飛び交っている様々な「固有名」を聞いて、舐めてんのか、と、そういう名前さえ出しとけばお前ら食いつくんだろ、みたいな態度が透け…

2021-06-23

…なのだなと思った。「大豆田とわ子」も、友達が死ぬ話だったなあ、と。友達が死ぬ映画としてぼくがまず思うのはいまおかしんじなので、この映画にいまおかしんじが出てくる事に納得した。 (いまおかしんじと西田尚美が対になっている。いまおかしんじが「二十年後の自分(松坂桃李)」の抽象像というか、自分が二十年後にどうなっているか分からない---二十年後の自分には「モデル」がない---という茫洋さや不安定さを示すような人物だとしたら、西田尚美は、二十年後の自分の一つのあり得る具体像というか、…

2021-06-20

…(1984年)から「大豆田とわ子と三人の元夫」(2021年)まで。 (「大豆田とわ子と三人の元夫」は、非SF的なフィクションにも並行世界的な世界観が波及していることの代表的な例というだけでなく、並行世界的な世界観をもつフィクションのひとつの大きな達成であり、その可能性を示すものだと思う。) (並行世界的な世界観を人々が受け入れる素地として、物理学におけるマルチバース説の一般化があるだろうが、それだけでなく、もう一つ、1989年に出版された『探求Ⅱ』での、柄谷行人による固有名論…

2021-06-18

●すっかり「大豆田とわ子」に夢中になって放置してしまっていた『ゴジラ S.P』を最終話まで一気に観た。こちらもすばらしく面白かった。 (そもそもゴジラの存在は物理的に不可能→仮にゴジラが実在できるとすればそれはこの宇宙の物理法則の危機→ゴジラ=特異点→宇宙が破局する局面でゴジラ=特異点が現われる、という発想なのか?) 「大豆田とわ子」が並行世界的な話だとしたら、『ゴジラ S.P』は決定論的な宇宙のなかでどうやって決定論的終末を回避するのかという話だった、と思う。「未来で確定し…

2021-06-15

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、最終回。すばらしかった。ただ、最後に三人の元夫たちがひたすら松たか子を持ち上げる一連の流れ(夢のような夢)は、もう少しさらっと描かれてもよかったのではないか(ぼくはあのような場面ではひたすら気恥ずかしいので)とは思ったが、これは「好み」の問題だ(みんながシンジに向かって「おめでとう」と拍手するテレビ版「エヴァ」のラストをちょっと思い出した)。松たか子が出会い損なった三人の女性たちと邂逅する場面がちゃんとあったのは良かった。 改めて思ったのは、オ…

2021-06-13

…で保留が必要だが)『大豆田とわ子と三人の元夫』は、主要な登場人物のすべての恋愛が上手くいかないという、徹底したアンチ恋愛ドラマなのだった。松たか子も、三人の元夫も、オダギリジョーも、立ち去った三人の女たちも、岡田義徳も、浜田信也も、谷中敦も、そして市川実日子を思う松田龍平も、ことごとく、恋愛の匂いのする関係に失敗している。さらに言えば、松たか子の両親も離婚している。上手くいっているカップルは一つもない(岩松了の再婚夫婦以外は)。ヘテロ恋愛至上主義者に対する呪詛でもあるかのよう…

2021-06-10

…好きではない。だが『大豆田とわ子と三人の元夫』には、きら星のように至る所に名セリフが散りばめられている。もし、これらの名セリフを文字で読んだら(たとえば小説などに書かれていたら)、シラケてしまってそのままそっと本を閉じると思う。しかしこのドラマでは、この構成、この演出、この俳優、この演技、このタイミング、このニュアンス、で、的確に口にされることで、名セリフが「言葉」として浮くことなく、フィクションのなかで、他の諸要素と必然的な位置関係をもつことでリアリティを得ていると思う。 …

2021-06-09

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第九話。毎回すばらしいけど今回は特に良かった。小津とか成瀬とか、ほとんどそういうくらいのものを観せられている感じがする。小津や成瀬が現役だった時、彼らの映画を封切りで観に行っていた映画好きの人たちがリアルタイムで感じていたのは、このような驚きだったのではないか(テイストとしては、ホークスとかキューカーとか、あるいはルビッチみたいな感じだけど)。 様々な事柄が収まるべきところに収まる感じで、まるで最終回のような展開のなか、唯一感じた懸案事項は豊嶋…

2021-06-05

…るのか…、と)。 『大豆田とわ子と三人の元夫』でSTUTSを知った人でも聴きやすいラップ30曲(ハネムーン・マニア) https://nobutraveljp.com/stuts_30/ このドラマの挿入曲を歌うグレッチェン・パーラトの2014年のニューヨークでのライブが、すごく好きだった(アルバム買った、確か坂中さんのブログで知った)。下の動画ではハービー・ハンコックの「バタフライ」をやっている。 Gretchen Parlato - Live in NYC: BUTTER…

2021-06-02

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第八話。ずっとアンチ恋愛ドラマだったこの作品だが、ここでベタに恋愛ドラマ展開になる。これが、複数の可能性が並立するパラレルワールド的世界から、排他的な決定論的世界へと移行したということの意味なのだろう。松たか子が恋愛モードになったのは、第一話で斎藤工と出会った時以来のことだろう。恋愛モードに入るということは、排他的なモードになるということで、松田龍平が「ちょっと会えないか」と電話してきた時に、松田の様子を気にかけながらも、「二人で同じ気持ちにな…

2021-05-28

●『大豆田とわ子と三人の元夫』第七話でのオダギリジョーのセリフを書き下している人がいて、それを読んで、ちょっと思うところがあった。 オダギリジョーが言っているのは要するに、時間は過ぎ去って消えてしまうものではなく、場所のように「別のところにある」のだから、たとえば死んでしまった市川実日子と松たか子が手をつないでいた過去があるとすれば、その時間においては二人はずっと手をつないでいるのだ(そういう時間は「ある」のだ)、ということだろう。 ここでオダギリジョーが「言い落としている」…

2021-05-26

…ないか。 たとえば『大豆田とわ子と三人の元夫』で石橋静河が演じていたような人物と実際に会ったとしたら、ぼくはそのような人物の言動を理解出来ず、受け入れられず、遠ざけてしまったかもしれない。しかし、このドラマのなかで構築されている諸人物の関係、諸エピソードの連関のなかに置かれたこの人物をみることで、そのあり方に対する納得のようなものが得られ(「他者の合理性」に触れ)、なるほどこういう人なのかと思い、他人に対する見方が少し変化する。優れたフィクションは、そのようにして人の考え方や…

2021-05-25

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第七話。空野みじん子、「佳作」はリアルだが地味に辛い…。というか、地味に辛いがリアルだ。そして、インターフォンの音でいちいち気分が下がるという、この細部の表現のすごさ。 そうか。市川実日子の死の衝撃を松たか子以上に強烈にくらっているのは松田龍平なのか。一年後もまったく立ち直れていない感じ。それをさらっと不在(「また」旅行中)で暗示するという表現の洗練。そして、松田龍平の不調(立ち直れなさの理由)を理解出来るのは、松田と市川の関係を知っている松た…

2021-05-20

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第六話についてもうちょっとだけ。社員たちが総出で、必死に予算削減を検討しているのに、社長の松たか子は(事情があるとはいえ)一本の連絡を入れることすらしない。これは、社長としての責任を果たしていないと言われても仕方なしいし、社員から不信感をもたれても仕方がないことだろう。実際、事情を会社に知らせることくらいはそれほど困難なことではないだろう。でもおそらく、それらを全部分かった上で、(誕生日でもある)今夜だけは、仕事関連のアクセスのすべてを遮断して…

2021-05-19

…とできなくなる。 『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマは、そのようなことの意味を改めて考えさせられるというか、味わわせられる。視聴者を戸惑わせる展開をみせ、それにかんする説明も、衝撃を受け止める時間すら与えず、ポンと一年後へ飛ぶ。飛んだかと思うと、「一年飛ばしますよ」という情報だけ与えられて、今週終わりでスパッと切られ、つづきは一週間待ってね、となる。 (そういえば前々回で市川実日子は、最後の晩餐にはコロッケがいいと言い、松田龍平と二人でコロッケを食べていたなあ、と。) …

2021-05-14

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第五話。 この回でまずすごいと思ったのは、「気づき」という状態を発生させるための、未来へ向けた伏線ともいうべきものの機能だ。もやもやっとした予感を生成し、そのポテンシャルが上がっていき、ある時、ふっと「気づき」に至る。砂浜での足形、靴下の穴、微妙な間、靴下二足のプレゼント、微妙な間、本人を前にした「過去の状況」を整理するように振り返る対話、着信、泳ぐ視線、靴下を買って行ってあげないと…。これらの要素、状況が積み重なることで、長年気づかなかったこ…

2021-05-06

…見られます)。 ●『大豆田とわ子と三人の元夫』の第四話で、市川実日子が浜田信也と食事して楽しかったと言ってたのは実は嘘で、ばっくれていたことを松たか子が知って、その後、喫茶店でパフェを食べてる市川実日子と松たか子が対話する場面がすごかった。こんなセリフの応酬がありえるのかということにびっくりする。小津映画の野田高梧か、というくらいすごい。「人のことは言うよね」「人のことは言うよ」とか「そういう意味でいったんじゃないよ」「そういう意味で言っていいよ」とか。 ●また、ドラマ冒頭で…

2021-05-05

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第四話。こんな展開あるのか、という驚きの回。市川実日子は、誘拐される人であると同時に誘拐する人でもあった、と。また、今回はじめて松たか子の「労働」が描かれなかった。 今回の中心にいるのは市川実日子だと言えるが、松田龍平を媒介とすることによって市川実日子と石橋静河とが対比的に示されるとも言えるし、三人の元夫のなかでの松田龍平の特異性が露わになるとも言えるので、松田龍平回であるとも言える。元夫たちのなかで松田龍平のみが松たか子に対する執着をもってい…

2021-05-02

●『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマ本体には「泣く」要素はほとんどないのだが、エンディングでこの曲が流れると毎回泣きそうになってしまう。 STUTS & 松たか子 with 3exes – Presence I feat. KID FRESINO (Official Music Video) https://www.youtube.com/watch?v=IRDoeQZ12-Y 《心の中に残る後悔が/浅い眠りの中で蘇る/あの日のあなたはとても輝いて見えた/夢はもう覚めた…

2021-04-28

●『大豆田とわ子と三人の元夫』第三話、角田晃広回。おそらくこのドラマで元夫たちが離婚した松たか子にいつまでも執着するのは、彼女との過去は「良いもの」であるが、その良さは一方的に松たか子によって与えられたもので、自分はそれに対して何も返すことができていないという思いからなのではないか。前回の岡田将生は、「苺タルト」を彼女に返すことで執着から逃れられた。今回の角田晃広は「花束」を返す。過去に、松たか子が買ってきた花束を自分の母親が捨てた。その捨てられた花束を彼女に返すことになる。…

2021-04-27

…だろう。とはいえ、『大豆田とわ子と三人の元夫』を観ると、地上波のテレビでここまでできるのかという驚きがあり、『今ここにある危機とぼくの好感度について』には、地上波ではがんばってもここまでなのかという失望感がある。いや「今ここにある危機…」だって、物語-主題という意味ではある程度は先鋭的とも言えて、意義があるとは思うが…。この二つのドラマの違いは、脚本や演出の洗練度以外になにかあるのだろうか。 一つ言えるのは、「大豆田…」には、必要以上のものがたんまり入っているということはある…