●お知らせ。「文學界」五月号に、『ポルト・リガトの館』(横尾忠則)の書評(「見えるもの」の過剰と不実)を書いています。一見、素朴な幻想小説にみえて、そこには収まらない不思議な小説でした。横尾忠則の絵を観る時に感じる、重力が信用出来なくなる感じが、小説にも出ててるところも面白い。
でも、横尾さんの小説は面白いけど、自分の書評はなんか冴えねえなあ、と、印刷された雑誌で読んで感じてしまった。ぼくには、原稿用紙六枚分くらいの長さの文章を書くのがとても難しい。どうしても、ほどほどに収める感じになってしまう。それは、小さいサイズの絵を描く時に、どうしてもフレームの拘束を強く感じてしまうことに似ている。もっと面白いことを書いたつもりだったのに(書きたかったのに)、フレームを気にし過ぎて線が死んでいた、みたいな感じ。小説の面白さについて書くつもりだったのに、「書評」という枠組みに絡め取られてしまった感じというのか。
最初に、長さを気にしないで書きたいことをダーッと、例えば二十枚分くらい書いてしまって、それから、六枚分を抽出するとか、そのくらいやらないとダメなのかもしれない。あるいは、二枚分くらいの文章をたくさん書いてみて、それをいろいろ組み合わせてみるとか。
いや、そういうことではないのか。そう考えることこそが「六枚」というフレームに拘束されているということで、枚数とか形式とかの問題ではなく、徹底的に「読むこと(読んだこと、受け取ったこと)」を尊重しろ、ということなのか。六枚の構成なんてどうでもいいし、書評という枠組みなんてどうでもよくて、その本から何を読み取ったのか、そのなかに何が見えたのか、そこで何を経験したのか、ということが重要で、それがちゃんと書けているのかということこそが問題なのだ。そこからはじまって、はじめて、そのためにどうするのか、ちゃんとそうなっているのか、という話になるのだ。それは、事前に「こうすればよい」という何かがあるのではなくて、その都度その都度、改めて考えて、やってみるしかない。
●「新潮」五月号に、大和田俊之さんが『人はある日とつぜん小説家になる』の書評を書いて下さっています。とても丁寧に、正面から、きちんと読んで下さっているので、普通にうれしかった(「素直にうれしい」と書くより「普通にうれしい」と書いた方がニュアンスが正確な気がする、いや、「普通に読んで下さっていてうれしかった」が圧縮されているのか)。
●昨日につづいて一日じゅう喫茶店。昼から五時間くらい、一度部屋に戻って少し寝て、また夜三時間くらい粘って、ポン・ジュノについての原稿は最後まで行った。この二日間、興奮のなかで書いていた。それが少しでも反映されたものであってくれればいいと思う。一晩寝て頭を冷やして、明日、昼間のうちにもう一度読んで確認したい。まだ推敲するけど、今の時点では28枚分くらい。何かを書くには、やはりこのくらいの長さは欲しいと思ってしまう。