2017-12-01から1ヶ月間の記事一覧

●『皆さま、ごきげんよう』(オタール・イオセリアーニ)を、DVDで観ていた。二度目。バカみたいな言い方だけど、なんと不思議なものなのだろうか。風刺や批評や告発などではなく、アイロニーでもニヒリズムでもペシミズムでもなく、苛烈でかつノンシャランス…

●『宝石の国』と『少女終末旅行』の最終話をhuluで観た。 『宝石の国』は、技術的には画期的で、素晴らしく美しいと思うのだけど、世界設定の説明がそのまま物語になっているような単調さを感じて、どうも乗れなかったのだけど、後半になって、主人公のフォ…

●持っているはずのなかなか本が見つからない問題は深刻だ。マイケル・ポランニーの本を探していて、どうしても見つけられず、図書館で借りてしまおうと検索したけど、市立図書館にも県立図書館にもなくて、さらに本の山の奥を探っているうち、なぜか気が付い…

●アニメ版『虐殺器官』をDVDで観た。伊藤計劃アニメ化三部作のなかでは一番面白かった(というか、他の二作の出来が悪すぎた)。原作と異なるラストについても、アニメ版はアニメ版として完結しているし、原作を読んでいる人には「余韻を残す」感じになってい…

●メモ。『来るべき内部観測』(松野孝一郎)「量子論からの決定性」では、非生命的な物質(ここでは光子)において、すでに「一人称行為体」としての振る舞いの端緒がみられると書かれている。 《遠くの星を発したもともと一個の光子が途中で二手に分かれる分岐…

●引用、メモ。『来るべき内部観測』(松野孝一郎)「量子論からの決定性」より。 《「現象は確率的である」という命題を是認し、主語の「現象」、述語の「確率的である」のいずれにも量化を認めるなら、その命題は二階述語論理に従うことになる。しかし、この…

●今更気づいたのかと言われるかもしれないが、相対論における観測者と、量子論における観測者とでは、「観測者」といっても根本的に異なるのだなと気づいた。相対論(特殊相対性理論)における観測者というのは、たんに起点となる視点であり、その位置(座標系)…

●(20日の日記からのつづき)。内部観測というのは、外部観測可能な「記号(と、その向こう側に現われ、または隠れる「対象」)」を世界の地のなかから浮かび上がらせる「解釈項」であると言えて、そう考えることによって、内部観測と、パースの記号過程の三項図…

●べクション、ベクショニズム、8B33、もはや何と呼んだらいいのか分からない会の会合、および忘年会。今年は、かなり様々なことがあったし、来年はここでやっていることを徐々に表に出していく感じになると思う。 ●西川さんから「古谷さんは絵を描く以外に何…

●ステム・メタフィジック研究会の忘年会。翌日に用事があったので、朝までコースではなく終電で帰った。 モダンとポストモダンとの間に大きな切断線があると考える人と、モダン-ポストモダンを連続的なもの(段階的な展開)だと考える人との間に、「現在」にか…

●おお、『ヴィレッジ・オン・ザ・ヴィレッジ』がフランス(パリ日本文化会館)で上映される、と。 https://www.mcjp.fr/fr/agenda/nouvelles-trajectoires_1/village-on-the-village ●今日はDVDで『宗方姉妹』を観ていた(松竹の映画ではないのでhuluのラインナ…

●『福岡伸一、西田哲学を読む』では、エントロピーの増大という物理法則に対して、生命が「先回りして」分解を行い、それによって「時間を稼ぐ」(未来から過去への流れを可能にする)ことによって秩序の維持(先回りして壊すことで自らを更新する)を可能にし、…

●以下はたんなる思い付き。昨日の日記で書いた、否定的な他者を介する原初的サディズムを、ポストモダンぽく「否定神学的システム」と言い換えることができるし、ならば原初的マゾヒズムは「郵便的主体的システム」と言い換えることができるかもしれない。た…

●『いきものとなまものの哲学』の「他者をとりこむ〈わたし〉」の節で郡司ペギオ幸夫は、ドゥルーズの『マゾッホとサド』に言及して、サディズムとマゾヒズムとを対称的だとする常識は間違い(偽の双対図式)で、両者の間には断絶があり、通約不可能でさえある…

●法事。祖母の三回忌、祖父の二十七回忌。朝方の夢に、おじいちゃんとおばあちゃんが出てきた気がする。夢の詳細は憶えていない。 ●これ、行きたかった。「関西大学東西学術研究会 第17回研究例会〈身体論研究班〉映画『For Example』をめぐって」(@東洋大学…

●まったく余裕のない一週間だったけど、とにかく、やるべきことを締め切り以内に終えることはできた。 ●『福岡伸一、西田哲学を読む』で池田善昭は、西田の「逆限定」を樹木と年輪、その環境という例で説明する。 《環境と樹木という主体の両方の立場を考え…

●うーん、どうにも余裕がなくてユーロスペースの『やがて水に歸る』(榎戸耕史)、観に行けなかった…。そのうち、横浜辺りで上映されればいいのだけど。 https://yagatemizu.wixsite.com/home ●おそらく、的確なまとめなのだろう。「日本は「格差社会」になった…

●自分が書く文章は、起承転結の「転」の部分が弱いということは自覚している。そして、最近気づいたのだけど、起承転結というのは「物語」の「形式」なのではなく、思考の過程そのものなのではないか。要するに、何かを考える、あるいは、何かを作り出すとい…

●もう、今週はほんとうにいっぱいいっぱいだ。 ●長い原稿を書くときはいつも、一万数千字もつづくような文章を自分が書くなんていうことが本当にできるのだろうかという不安でいっぱいになる。過去に何度も書いているはずなのに、その時にどうやってそんなこ…

●長めの原稿と、もう一つたいへんに手の掛かる用事を抱えていて、そのどちらもが今週末が締め切りなので、今週は、二つのまったく頭の使い方の違うものを同時進行しなければならなくて、(こんな時でも、というか、こんな時だからなおさら、ぼくは睡眠時間が…

●『福岡伸一、西田哲学を読む』(福岡伸一・池田善昭)をなんとなくパラパラ読んでいたのだけど、意外にもという言い方はたいへん失礼であるけど、本当に意外にも大変に刺激的だ。 以下は、福岡伸一のテキストからの引用。時間をエントロピーの増大として説明…

●吉本隆明は『ハイ・イメージ論』の「連結論」で、昨日の日記で引用した「柳田国男論」にも書かれていることと同じようなことを、現代的な視点から書いている。二つの仕事はほぼ同時期のものなので当然とも言えるが、重複しているということは、吉本の関心が…

●「柳田国男論」で吉本隆明は、柳田の「旅人」としての視線を、風景の変化を(時間的に)鳥瞰し記録する機能をもつものとして書いている。 《ひとつの村里や町の内部に住み着いていても、人事の気配と一緒に変化してゆく景観は、いったん変わってしまうと、す…

●ユーロスペースでやっている『やがて水に歸る』(榎戸耕史)、すごく観たいのだけど、15日までか…。いろいろ上手く事が運べば、なんとか最終日に観にいけるかもしれない、という感じだけど、難しい。 https://yagatemizu.wixsite.com/home ●シンギュラリティ…

●『ハイ・イメージ論』(吉本隆明)は臨死体験の話からはじまる。たとえば、仮死状態から帰還した人は、病室のベッドに横たわっている自分を救護しようとしている医師や看護師たちという「自分自身を含めた像」を、病室の天井の辺りから視ていて、その時の看護…

●最近、吉本隆明をいろいろ読み返していて、『共同幻想論』の「他界論」を読んでいて、けいそうビブリオフィルで連載していた「虚構世界はなぜ必要か?」の最初にあったモチーフを思い出した。 それは、現在、語られている物語が、その基盤としている世界設定…

●吉本隆明の柳田国男論が読みたくて図書館にまで行ったのだけど、市内の図書館にはなかった。確か、昔、大和書房から出ていた「全集撰」のなかに入っていたのと、あと「柳田国男論集成」という本も出ていて、そこに入っていたはずなのだが、どちらもなかった…

●おお、持田先生の新著が出ている。しかもセザンヌ論だ。持田季未子『セザンヌの地質学』。 http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3097 「先生」と言っても、学生時代に「文学」とか「記号論」とかの授業を座学で受けていただけだが。ぼくは、出身大…

●たまたま興味深い記事をみかけた。「野中郁次郎氏が明かす「知識創造がうまくいく組織」に共通する特徴」(ダイアモンドオンライン)。 http://diamond.jp/articles/-/141090 《組織的に知識を生み出すためのSECIモデルには、「共同化(Socialization)」「表…

●十一月に撮った写真、その二。