吉本隆明柳田国男論が読みたくて図書館にまで行ったのだけど、市内の図書館にはなかった。確か、昔、大和書房から出ていた「全集撰」のなかに入っていたのと、あと「柳田国男論集成」という本も出ていて、そこに入っていたはずなのだが、どちらもなかった。
せっかく図書館まで行ったので、島尾敏雄「夢の中での日常」を読んできた。面白かった。これは本当に「夢」だな、と思った。夢を忠実に再現してい(夢を記述している)のではなく、夢というものと相同の感触を言葉の流れとして再構築している感じ。小説=夢というのを実現している。小島信夫「馬」を連想しもするけど、「馬」のような有無を言わせぬ強さはなく、しかしその分、こちらの方が(ある種の甘さも含めて)「夢」のあり様に忠実というか、「夢」感がすごい。
ただ、最後に体の裏表がひっくり返るのは、小説=夢というより、小説が夢から飛躍する瞬間というか、小説が夢を追い抜こうとする感じで、ひたすら夢に忠実だった記述が最後に跳躍していて、おおっという感じ。
吉本隆明が、この小説に《言葉が意味の流れを弱めてまでも像をよびおこす》言葉=概念からのオルト位置と、そのオルト位置から反対側への跳躍、《視覚器官を媒介せずにつくられた像》《文学作品の言葉にとって至上の位置》としてのオルト-パラ位置を見出すのも納得できる。
●『ハイ・イメージ論Ⅱ』では、「夢の中での日常」を分析した「パラ・イメージ論」につづき、宮沢賢治の作品を取り上げる。そこでは、文字で書かれる物語の記述が、「物語の会話」「物語の地(ナレーション)」「内的な独り言」という三つの層に分けられる。そして、「内的な独り言」という層は、物語が語られるものではなく、文字で書かれるものとなることによって生まれたのだ、と。しかし、この作者の書くものには、そのうちのどの層にも属さない「独り言の単位に近づいた物語の会話」という、層から分離した記述があり、それが「オルト-位置」に当たる記述だとする。
《(…)本来ならば内的独りごとにひとしい話しかけの言葉を、会話の方へ引き上げて(メタ-位置からオルト-位置へ移行させて)いる》、と。このような位置が生じることは、《作者のなかで、文字による記述の世界が、音がなくても緘黙の世界とはちがうし、会話のように音声のある言葉の世界ともまったくちがうことが、自在に認知できているのを意味している》ということだ、と。
《物語はたくさんの人物、情景、場面の組み合わせで綴られる織物ではない。》《文字によって出会うことになった言葉のたくさんの準位と段階と形態のさまざまな状態で、つくりだされる差異の構築なのだ。これがこの作者の文学(芸術)理念だといってよい》。
そしてこのオルト-位置(からオルト-パラ位置への飛躍)という概念は、普遍喩という概念へと発展していく。これは、「夢の中での日常」のラストについて、《視覚器官を媒介せずにつくられた像》であり、それが《文学作品の言葉にとって至上の位置》であると書つけていることとも繋がる。
《文学作品が、言葉でつくられたじぶんの運命をうけいれながら、しかも運命の雰囲気を忘れるのはどこからさきだろうか? ここで問うてみたいのはそれだ。わたしたちの理解の仕方では、そこから普遍的な喩のすがたがあらわれる。かりにこれを文字による記述の第三の段階と呼ぶとすれば、この段階へきてはじめて文学作品はじぶんの運命の、じぶんじしんへの影響を忘れさる。》
《(メタにメタを重ねるような)この二重性はどんなに重ねても、それだけでは文学作品の運命が複雑になるだけなのだ。だが第三の段階になるとちがう。作品の運命はとおざかり、ただ作品の無意識のなかにしまいこまれる。それと同時に作品はじぶんじしんの運命にたいする他者の表現をうみだすといっていい。わたしたちが普遍的な喩とみなすものは、いずれにしてもこの他者の表現をさすし、またこの運命にたいする他者の表現から普遍的な喩はつくられるといっていい。》