●最近、吉本隆明をいろいろ読み返していて、『共同幻想論』の「他界論」を読んでいて、けいそうビブリオフィルで連載していた「虚構世界はなぜ必要か?」の最初にあったモチーフを思い出した。
それは、現在、語られている物語が、その基盤としている世界設定において「あの世」を(「あの世」と「この世」の関係を)どのような形象として描きだしているのかということを分析したことから始まったのだった。そして、現在の物語における「あの世」の形象が、(たとえば---作品として非常に優れたものだとは思うが---『進撃の巨人』のような)物語においてさえ非常に強い力をもつ「現実主義」(「現実」の強要)に対して、どのように抗することが出来ているのか(し得るのか)を考えたい、というのが、最初のモチーフだった。
(「ポストトゥルース」と言われるような「偽の現実」が力をもつのも、強い「現実主義」の一つの現われだと思う。しかし多様にあり得る「偽の現実」ではなく、唯一と思われている「この世(この現実)」と拮抗する強さをもった別の「あの世(≒フィクション)」が問題なのだった。)
そしてそれは、連載をつづけるうち、結果として、リテラルな意味での「あの世」から変化していき、現実が「別様であり得るあり方」を示す、「反実仮想的」現実を示すことが(反実仮想的現実そのものというより、その「余地」があること、その余地を可能にする領域があることを示すこと、ぶっちゃければ、世界の「地」が変わり得ることを示すことが)フィクションの意味であるというような結論に辿り着いたのだった。でもそれは、本質的には別のことではないと思われる。
●以下、『共同幻想論』の「他界論」からメモ的な引用。
《社会的な共同利害とまったくつながっていない共同幻想はかんがえられるだろうか? 共同幻想の〈彼岸〉にまたひとつの共同幻想をおもい描くことができるだろうか? 》
《こう問うことは、自己幻想や対幻想のなかに〈侵入〉してくる共同幻想はどういう構造かと問うことと同義である。ちょっとかんがえると、こういう問いは架空な無意味なもので、妄想的にさえみえるかもしれない。だがいぜん切実な問いかけをふくんでいる。》
《いうまでもなく共同幻想の〈彼岸〉に想定される共同幻想は、たとえひとびとがそういう呼びかたをこのまなくても〈他界〉の問題である。そして〈他界〉の問題は個々の人間にとっては、自己幻想か、あるいは〈性〉としての対幻想のなかに繰り込まれた共同幻想の問題となってあらわれるほかない。しかしここに前提がはいる。〈他界〉が想定されるには、かならず幻想的にか生理的にか、あるいは思想的にか〈死〉の関門をとおらなければならないことである。だから現代的な〈他界〉にふみこむばあいでさえ、まず〈死〉の関門をくぐりぬけるほかないのである。》
《人間はいうまでもなく、じぶんの〈死〉を心的にじぶんで体験することはできない。そうだとすると、かれが〈死〉を心的に体験できるのは〈他者〉の生理的な死を死の体験として了解したときである。しかし、このばあいでも〈他者〉の〈死〉をじぶんの〈死〉のように切実に体験はできないだろう。》
《(…)ハイデガーの考察のうち、ここで拾いあげたいのとおもうのは、〈死〉が人間にとって心的に〈作為〉された幻想であり、心的に〈経験〉された幻想ではないということだけである。そしてこのばあい〈作為〉の構造と水準は、共同幻想そのものの内部にあるとかんがえられる。》
《〈死〉は生理的には、いつも個体の〈死〉としてしかあらわれない。戦争や突発時で、人間が大量に同時に死んでも、生理的に限定してかんがえるかぎり、多数の個体が同時に死ぬということである。しかし、人間は知人や近親の〈死〉に際会して悲しんだり、じぶんの〈死〉を想像して怖れたり不安になったりできるように〈死〉は人間にとって心の問題としてあらわれる。人間の生理的な〈死〉が、人間にとって心の悲嘆や怖れや不安としてあらわれるとすれば、このばあい〈死〉は個体の心の自己体験の水準にはなく、想像され作為された心の体験の水準になければならない。そしてこのばあい想像や作為の構造は、共同幻想からやってくるのである。》
《人間にとって〈死〉に特異さがあるとすれば、生理的にいつも個体の〈死〉としてしかあらわれないのに、心的にはいつも関係についての幻想の〈死〉としてしかあらわれない点にもとめられる。もちろんじぶんの〈死〉についての怖れや不安でさえも、じぶんのじぶんにたいする関係の幻想としてあらわれるのだ。》
《人間はじぶんの〈死〉についても他者の〈死〉についてもとうてい、じぶんのことみたいに切実に、心に構成できないのだ。そのことの不可能さの根源をたずねれば〈死〉では人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想から〈浸蝕〉されるからだという点にもとめられる。ここまできて、わたしたちは人間の〈死〉とはなにかを心的に規定してみせることができる。人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に〈浸蝕〉された状態を〈死〉と呼ぶというふうに。〈死〉の様式が文化空間のひとつの儀式となってあらわれるのはそのためである。》