⚫︎下高井戸シネマで『いもの国風土記』(黒川幸則・井上文香)を観た。川口市領家にある鋳物工場、不二工業に関するドキュメンタリー。第一部水の刻、第二部火の刻。第三部以降も製作される予定のようだ。
特集<DIGにわのすなば>『いもの国風土記』予告篇@下高井戸シネマ 2024/7/21 - YouTube
実は事前にウェブで観せてもらっていて、パンフレットにコメントを書いている。コメントは以下。
《鋳物工場では、宇宙と社会と人情が重なり合う。この宇宙の物理法則とそこから導かれる技術、製品を必要としその生産体制の維持が要請される社会、そして、そこにかかわる人々の生や感情の質感、関係のありよう。
それらが交錯する場所に、歴史がきざまれ、風景が生まれ、記憶が形成され、そして、そのただなかから人の生の「かたち」が出来する。
本来は、我々が生きているすべての場面で、宇宙と社会と人情の不可分な重なり合いが成立しているはずだ。モノとその生産過程を記録するこの映画のうちに、我々はそのような事実を改めて発見することになる。》
⚫︎この映画は2022年に公開された劇映画『にわのすなば』と深い関係がある。『いもの国風土記』は、共同監督の一人、井上文香が幼い頃の実家での体験を描いた絵本『青の時間』が元になっている。その実家というのが不二工業と隣接しており、不二工業が大家であった。井上の実家も工場で、一階が作業場で、その上に住居があって、子供の頃のそこでの記憶を描いたのが『青の時間』だ。もう一人の監督である黒川幸則が絵本に興味を持って、舞台となった井上の実家を訪ねた時に、大家である不二工業に挨拶に行ったことが、この映画が始まるきっかけだったようだ。映画の撮影のために不二工業に通ううちに、黒川が川口市領家という土地に惹かれるようになり、この場所でフィクション映画を撮りたいと思うようになってできたのが『にわのすなば』だ、と。タイトルにある「すなば」は鋳物工場にある鋳型を作る砂を指しているのだろう。『にわのすなば』でも不二工業は、「ショボいフェス」が行われ、主人公の友人キタガワが激しいダンスを踊る場所として登場している。『いもの国風土記』で聞くことのできる幾つかのエピソードは、フィクションへと転移し、形を変えて『にわのすなば』に現れている。不二工業のある川口市両家は、『にわのすなば』では架空の土地「十函」へと位相を変える。
⚫︎第一部水の刻では、不二工業の4代目社長、入野純一と妻紀衣子に、黒川と井上がインタビューする音声と、入野家のアルバムやホームムービー、不二工業の記録写真、工場の様子などの映像で構成される(地元の神楽の映像や井上の絵なども挿入される)。系統立てたインタビューというより、アルバムをめくりながら雑談的に話を聞くみたいな感じで、あちこちに話題がとびながら、代々の入野家の人々や工場の来歴、領家という土地についての話が聞かれる(映画はアルバムが開かれるところから始まる)。インタビュアーもインタビュイーも画面には映らない。
工場に集まる猫の話から始まり、鋳物工場の鋳型のための多量の鋳砂が「猫のトイレ」となってしまうというエピソードが語られる(また、冒頭近くの小学校の映像は、自然と『にわのすなば』の記憶と繋がる)。人物としては主に、現社長の父と祖母について詳しく語られる。父は、工場の火花で片目を失うが、サングラスをトレードマークとし、地域の活動に積極的に参加した。祖母は、思ったことがすべて口から出るようなきっぷのよい人物で、親分気質でいつも周りに人が集まった。父や祖母についての語りは、父を語る現社長自身、夫の祖母について語る社長の妻自身の人物像も、語られた人物以上に強く浮かび上がらせる。語りのなかに、近所に住んでいた井上の記憶も自然と混じってくる。
社長の母とウマの合わなかった社長の妻は、仲良くしていた祖母とのちょっとした喧嘩がきっかけで家出をし、それによって「工場一家との別居」を手に入れ、工場の切り盛りから解放される(職人さんたちのお昼を作ったりしなくてもよくなる)。それでも「おばあちゃん」とは仲がよかった妻は、子供を連れて頻杯に工場一家を訪れる。おそらく、そのような場面を撮ったのであろうホームムービーが再構成されて映画の一部となる。このホームムービーによって立ち上がる「過去の一場面」の鮮やかさ。あるいは、モノクロ写真の持つ過去の時間の喚起力。アルバムに冷凍保存された過去が、外から人がやってきたことがきっかけで開かれ、そこにある写真と、写真についての語り(語り合い)によって解凍され、構成し直されて、過去が現在時のなかに混じり込んでいく。人物についての語りはそのまま工場の歴史と重なり、土地の来歴とも重なる。映画の編集によってそれが工場の現在、土地の現在のなかに差し込まれる。
祖父は最初は祖母の姉と結婚したが、すぐに亡くなってしまったので妹である祖母が再婚の相手として浮上する。東京見物だと騙されて上京した祖母は、そのまま見ず知らずの男と結婚させられる。工場の前の一本道を何度も行き来するように狭い範囲の時間を何層も折りたたむこの映画が、このエピソードによってより広い歴史的パースペクティブに一瞬だけリンクする。
第一部のナラティブから、ぼくはとても強く「小説」を感じた。家族に関する語り方が小説的な感じ。
⚫︎第二部火の刻。第一部は、現社長の父の丁寧な手仕事によるアルバムというモノが撮影対象としてあって、そこからさまざまな過去へのアクセスが開いていく感じだだった。第二部では主な撮影対象がアルバムから現在の工場へ移行する。過去のモノクロ写真なども登場するが、それは家族の過去ではなく、工場や職人たちの過去を表す。第二部は工場と職人たちのパートだ。第一部では「語る人(社長、妻、黒川、井上)の現在」は画面に現れなかったが、第二部では工場でスケッチする井上の姿がチラチラと捉えられるようになる。また、被写体でもある職人の語りも加わり、声と画面の行き来が生まれる。
まず爆音。ウェブで観た時と劇場との最も大きな違いは音の凄まじさだった。さまざまな種類の音が一塊となってうわっと押し寄せてくる。そして驚いたのは、スズメなどの小鳥の鳴き声が、工場が発する爆音や大型車両の走行音と拮抗するくらい強いことだ。そして、さまざまなモノたち。工場には、何に使うのか、何のためにあるのか分からない物も含め、さまざまな形、さまざまな質感を持ったモノが溢れている。まずは、カメラによって撮影されたそれらをみているだけで楽しい。
第二部では、さまざまな要素がごちゃ混ぜに語られる。物たちの形やテククスチャーへの注目、鋳物の製作過程、不二工業の歴史、川口市の鋳物工場の歴史、不二工業の経済的な存立基盤、昔の職人たちの様子(給料体系からいじめまで)、今いる職人たちの様子(役割や位置付けから人間関係や性格まで)、職人たちのアルコール事情(工場長は毎日飲んでいる)、工場に植えられた植物たち(職人たちのために食べられるものが多い)、洗濯物、落書き、絵を描く人、神楽、絵画…。さまざまな要素が、行ったり来たり、重なったり離れたりしながら映画が進んでいく。鋳物の製作過程も、順番通り、手順通りの語られるのではなく、他の要素との関係で、行きつ、戻りつしながら、語られる。
また、鋳物の製作過程一つとっても一枚岩ではない。そこには、先代から受け継いだ大規模な設備、人間関係と職人の組織化(誰が誰の弟子だとか、誰は技術はあるが人の上に立つタイプではない、誰は優しいが仕事ができないなど)、社会的な経済基盤(技術的に難易度が高い製品を作っているから工場が経済的に成り立っている)、信仰(火入れの日には必ずお参りする)、物理法則(鉄の溶解温度、炉の耐熱性の維持など)等々が、重なり、折り畳まれることで「製作技術」は成立している。製品の生産体制と技術は、次元の異なる複数の要素の複合によって初めて成り立つ。親から受け継いだ設備だけでも、物理法則や工学的な知識だけでも、技術を持った職人たちの連携関係だけでも、社会的な需要や取引先との信頼関係だけでも、製品は出来上がらない。それぞれ個別にある要素が、一つのアレンジメントとして組み合わされ、それが維持されることで、製品とそのクオリティが実現される。この映画では、一つ一つの要素を取り出して検討するのではなく、さまざまな要素の「配置」を、映像と音声と言語による「配置」によって語ろうとしているように思われる。
それと、この映画には、過去からの来歴を含む「鋳物工場」という現実的なアレンジメントだけでなく、そこに神楽と絵画という、二つの虚構の次元(層)が重ねられている。神楽は、歴史的に積み重ねられ、共同化した人々の記憶として、絵画は、それを描く人の個人的な記憶と密接に繋がるものとして、鋳物工場というアレンジメントのありようを別の角度から映し出し、それと交錯している。