2023/06/06

⚫︎U-NEXTで、『たわわな気持ち 全部やっちゃおう』(古澤健)を観た。面白かった。おそらく、今、ピンク映画を作るということはどういうことなのか、それに意味があるとしたら何処にあるのか、ということを真剣に考えた末に、こうなったのだろうと思われる。性教育映画のようなピンク映画。またそれ以上に、監督自身が出演していることに、大きな意味がある作品だと思う。

(かつて、エロ媒体は、アングラカルチャーやサブカルチャーにとって重要な媒体だった。しかし、現在ではそうではない。そうではないとして、それでもエロ媒体で表現するのだとすれば、それをすることは何によって正当化されるのか。さらに、現在では、過去には肯定的なものとして認められたアングラカルチャーの伝統的なあり方を、批判的な検討抜きで、そのまま引き継ぐことは許されることではないという意識もあるのではないか。)

これはまず一義的には女性たちの物語だろう(松本菜奈美・あけみみう)。しかし次に、というか同時に、その物語を語る者の存在が意識される。つまり、ピンク映画を作っている男性の監督は、どのような位置から彼女たちを撮影し、彼女たちの物語を語っているのかという問題意識がある。監督自身が演じている男が、この映画を撮影し、この物語を語っている監督の鏡像として、映画の中に埋め込まれている。

監督である古澤健が演じる男が、「店長」という設定で、風俗店でセクハラプレイをする場面が、この映画の中頃にドカンと据えられている。風俗店でイメージプレイを行う男性は、その場では「映画監督」とほぼ同様であるような権力的ポジションにある。つまりその姿が映画監督と相似のものでもあることを嫌でも意識させられる。

(あけみみうは、「わたしは自分の体が恥ずかしいものじゃないと知っている、でも、あなたの彼氏はね…」と言って、自分の体を「恥ずかしいもの」として扱う男のプレイについて語り出す。)

この場面は二重の意味を持つ。一つは、映画の外で映画を制御している監督の像が映画内に反映されている「監督という存在の鏡像」としての意味。もう一つは、女性(松本菜奈美)が、自分が交際している男が「どんな(下らない)男」であるのかを、他者(あけみみう)の視点を通すことで客観的に捉え直すための場面という意味。

一つ目の意味では、男は場を取り仕切る王者の位置にあるが、二つ目の意味では、男の欲望が極めて卑小であることが示され、その卑小さが、事後的に、その欲望の対象となった女たちの掌の上で、露わにされ、客観的に、そして共同的に、吟味されている。つまり、この一つの場面の持つ二つの意味によって、映画が捉えるものが「撮影対象」から「監督(カメラの後ろにいる者)」の方へと切り返されたという出来事が示されている。

古澤健によって演じられる男性像は、おそらく脚本のレベルでは、交際相手の女性の自己肯定感を削ぐアウトな男性の典型例くらいの感じだろう。このレベルでは、「意識の高い」ピンク映画だというくらいのことかもしれない。

しかしそれを監督自身が演じることで別の意味が生じる。男の性的消費の対象である(あるいは、映画の撮影対象である)風俗の女性(あけみみう)が、男のセクハラ的プレイについて語り出し、さらに、男が彼女の向けるカメラの撮影対象となることで、本来カメラの後ろで撮影されるものを制御している監督が、カメラの前でその身体や欲望まで含めて露わにされ、吟味されるというような逆転した状況が出現する。これは単に、虚構の次元で「女たちの協力によって男女の力関係が逆転した」というだけのことではないだろう。自作自演とは異なる位相がここでは現れている。自分が自分を演出しているという位置から、自分が彼女(たち)の視線によって吟味されているという位置に変化している。

(最初は、風俗の女性が「語る」ことで、次にその女性がカメラを持って映画を作り始めることで、男性は二重に、場を支配する権力の座から剥落し、吟味の対象になる。)

そのような意味で、この映画は、「監督」がカメラの後ろに居続けることが許されていいのかという、映画における根本的な倫理を問うているようでもある(川瀬陽太もまたダメ男性であるが、監督ではなく俳優=撮影対象であるという意味で、どちらかというと女たちに近い位置にあるのだろう)。

(古澤健の過去作品で『パンツの名』を思い出した。あの、なんともいやーな感じの男、というか、あのカップルの関係性。)