⚫︎『からだの錯覚』(小鷹研理)をようやく読み始めた。半分くらい(第三章まで、追記、四章まででした)読んだ。読み始めてすぐ、アラカワ/ギンズによるヘレン・ケラーへの関心を思い出した。生まれて間もなく(生後19ヶ月くらいで)、視覚と聴覚を失ったヘレン・ケラーが、自身の内的な身体像をどのように構築していくのかを想像することから、共同的に探究し得る新たな身体像を模索する。『ヘレン・ケラーまたは荒川修作』という本を持っているが、とても読みにくい本で、最初の方を少し読んだだけで、ずっと放置したままだ。放置したままだが、常に本棚の目立つ場所にありその存在を強く主張している。
アラカワ/ギンズについて考える時、小鷹さんの研究がとても参考になるというか、力になるように思うのだが、小鷹さんの研究にとって、アラカワ/ギンズの仕事は、何かしらの意味があるものであり得るだろうか。
⚫︎視覚的な錯視がそれほど面白くなく、それは単に知覚の構造的なバグの現れであり、我々が囚われている運命論的な知覚の「檻」のように感じられてしまうのに対して、「からだの錯覚」が重要なのは、それが身体の別の状態への再編の可能性と密接iに関わるからで、(小鷹さんがそう思っているかどうかは分からないが)それはさらに身体の経験によって構成される時空構造の再編にまでつながると期待されるからだ。例えば、ぼくは下の図を見てとても興奮した。
「BACK HAND LOCK HELPER」という、背面で離れてあるはずの左右の手が接触しているように感じるという錯覚なのだが、この錯覚がもたらす、身体像や空間の歪みのありかだが、体験者によってこんなにも多様であることが上の図で示されている。ここに、新たな時空の再編成の可能性が感じられる。
⚫︎著者が、自分の研究にとって決定的だったとする「即席ラバーハンド錯覚」で、体験者は左右の手を交差させている。また、セルフタッチ錯覚においては「触る手」に対して「触られる手」の可動性が低いと書かれるのだが、左右の手を交差することで同等くらいの可動性が得られるようになるとされる。ぼく個人の体感として、手の左右交差はそれだけでかなり身体の固有感覚をヤバい感じで揺るがす。例えば横向きに眠っていて目覚めた時に、左右の腕が絡んでいたりすると、それだけで自分の腕の所有感も主体感も危うい感じになる。少しの間、自分の手の動かし方が分からなくなるくらいに混乱する(この感じは、金縛りにちょっと似ている)。自分の手が半分、自分ではなくなっていてとても不気味だ。
⚫︎「伸びる」と「縮む」が反転可能であるというのも面白い。下の「足伸び錯覚」をぼくは体験したことがある。この本を読むまで気づかなかったが、確かに、普通に考えると、この装置だと「足が縮む」錯覚でないと、内的感覚と視覚像との関係が整合的ではないことになる。しかし実際にぼくは「足が伸びる」感覚を得た。
《著者は、伸張反射と呼ばれる神経系の機構に注目します。伸張反射とは、簡単にいうと、外側から筋肉を引き伸ばしたり収縮しようとする力が働くと、それを相殺しようとする逆側の力が神経系のレベルで発生し、全体として均衡を図ろうとする機構です。このような機構を前提とすると、逆位相の足伸び錯覚の中で「伸びゆく足」のイメージと同期しているのは、外力(収縮)ではなく、この内的な補償作用(伸長)の方なのだ、という説明が可能となります。》
《つまり「伸ばす」と「縮む」は、同じ一つの現象の表と裏の関係にあり、視覚情報に誘導されるかたちで、前景化される筋運動の方向が決定するのです。》
⚫︎交差や反転が「わたしのからだ」にもたらす変調の予兆…。
⚫︎《「からだ」は常に単一であろうとします》。なぜ、「わたし」が常に(二つや三つではなく)一つであり、「わたしのからだ」も一つなのか。これはぼくがとても小さい時から感じている根本的な疑問であり、逆に言えば、ぼくはずっと、この事実にどうにかして抗えないかと考えてきた。だが、この問いはおそらく逆転していて、「わたしという存在」がこのようにあるということが「一」という概念を可能にしていて、それを基礎として、二つ、三つと数えられる「数」という概念が成立している。あるいは、「わたし」が常に一つであるということが、「ここ」という概念を支えていて、「ここ」と「そこ」という空間の原器を可能にしている。
例えば「輪廻」という概念は「わたしの単一性」を揺るがさない。「わたし=ここ」の位置が頻繁に移動しても「ここ」という概念はそのものは維持される。「わたし」がいくつアバターを持っていたとしても、その都度「ここ」が移動するだけで、「ここ」は「ここ」のままである。「ここ」が何処であろうと「こことそこ」という構造は維持されたままだ。しかし、からだの錯覚や幽体離脱という出来事は、そのような「わたし」や「ここ」のあり方を揺るがし、「わたし」と「ここ」との癒着を揺るがすがゆえに、「わたしのからだ」のみならず「時空の構造」を再編成を促し得る。
しかし「わたしのからだ=時空構造」の再編成は、「今、このようにしてあるわたし」の構造の崩壊でもあり、だからこそ、ヤバいし、気持ち悪いし、怖い。
⚫︎おそらく荒川修作なら、この恐怖の先にはノスタルジーがある、というのではないか。
(関係ないが、この本で紹介されるラマチャンドランの「共感覚者の存在を証明する実験」のなんとエレガントなことか…。)
⚫︎(追記)ぼくが、小鷹さんの「からだの錯覚」、あるいは「幽体離脱」に(勝手に)見出しているのは、「わたし」というものを、一神教的・神経症的なものでもなく、輪廻的・多形倒錯的なものでもなく、それらとは別のかたちとして再編するための可能性なのだと思う。ここでいう、「一神教的わたし」「多形倒錯的わたし」という「わたし」像は、主に樫村晴香の議論に依っている。
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