2023/11/03

⚫︎アラカワ+ギンズから再検討する「近代絵画」ということを考えられないだろうか。これはまだ思いつきのレベルだが。セゾン現代美術館の「意味のメカニズム」展はとうとう行けなかったが、その罪滅ぼしであるかのように、1988年の「意味のメカニズム」展の図録や、そのほかアラカワ+ギンズの画集(という言い方は適当ではないが)や、リプロポートから出ていた日本語訳『死なないために』などを検討している。

「意味のメカニズム」の最初のチャプター「主観性の中性化」の五枚目のパネルにティントレットの絵が引用されている。今までぼくは、ここで引用される絵がティントレットの「この作品」である必然性は特になく、「古典的ルネサンスの絵画」という、歴史的、価値的な位置付けを持つ絵画群の中から、たまたま任意にこれが選ばれたのだろうというくらいに考えていた。しかし、この絵、ティントレットの「スザンナと長老たち」の詳細な画像をネットで検索して改めて観てみたら、このパネルには他ならぬ「この絵」こそが必要だったのではないか、というか、むしろ「この絵」を観たことが、アラカワ+ギンズに、この五枚目のパネルを作らせたのではないかと思うようになった。ぼくは、無意識のうちにアラカワが絵画には関心が薄いのではないかと思い込み、舐めていたのではないか。

「スザンナと長老たち」は旧約聖書の挿話に基づいている。人妻であるスザンナが入浴しているところに、二人のユダヤ教の長老がやってきて関係を迫る。しかしスザンナは拒否する。腹を立てた長老たちは、スザンナが若い男と姦通しているという虚偽の話でスザンナを訴えるが、嘘がバレて二人の長老が死刑になる。この題材はレンブラントルーベンスをはじめ多くの画家によって描かれ、多くの場合、裸で入浴中のスザンナを男たちが覗き見しているか、男たちが裸の女性に対して乱暴に何かを無理強いしているような場面として描かれている。画面からは性的な含意が見てとられ、男たちの身体は、邪な欲望や暴力的な仕草によって貫かれているように見えるし、女性の身体は、男たちの欲望に晒されて怯えているか、逆に、むしろエロティックに誘惑的であるかのように描かれる。どちらにしても、男性も女性も「性的なもの」によって身体が(あるいは身体の「意味」が)統合されているように見える。

ティントレットの作品もまた、女性が入浴しているところを、垣根の向こうから二人の男性が覗き見しているという場面として描かれている。しかしこの絵からは性的な匂いがほとんどしない。女性の身体は、男性の欲望に対して無関心に存在しているようで、怯えてもいないし、誘惑的でもない。まるで自分自身に対してさえ無関心であるかのように存在しているように見える。男性もまた、暴力的でもないし、邪な欲望に駆られているようにも見えない。画面奥の男性は、スザンナの方を見ていないでぼんやりと自分の足元を見ているようだし、画面手前でかがみ込むような無理な姿勢で覗いている男性は、構図や画面上の位置の効果もあって、ただただ窮屈そうな印象しかない(二人の男の頭部は、長方形をしている垣根の対角線上の位置にある)。スザンナの視線は、画面手前で覗き込んでいる男性を見ているようにも、鏡に映る自分を見ているようにも、また、どこでもない宙空を見ているようでもある。

この絵を引用したアラカワ+ギンズの「主観性の中性化」の五枚目のパネルには、たとえば次のような言葉(観者への指示)が書かれている。《できるだけ長く1本の指を強く冷やし、別の1本を強く熱しつづける》。つまりここでは、「一」として制御されている「わたし(の身体)」を、多くの出来事の並立へと分散(中性化)させるためのレッスンが試みられている。

そしてティントレットの絵が示された上で、《スザンナは自分自身を中性化する》と書かれる。それに次いで、「鏡の中で」「足を水につけて」「自分の足に触って」「腕と足の間に衣をおいて」「体の角度で」「感触の異なる様々なものの上に坐って」「持ち物(くし、真珠など)をあたりに広げて」「髪をいくつもに編み分けて」「両手に同じブレスレッドをして」「音を聴きながら」と、この絵画において、彼女が彼女自身を中性化している具体的な様が列挙される。

さらに、《老人たちはそれぞれ自分たちを中性化する》と書かれ、今度は老人たちの中性化が挙げられる。「スザンナを見ないことによって」「立っている男は木(フェンス ? )に触っていることで」「もう一人は衣を摑み、頭と腕以外の身体をすっかり隠していることで」「彼らは何も見えないような角度をお互いに取ることでお互いを中性化する ? 」と。

ここに書かれていることは、「わたしの一つの身体」と思い込まれているものを、複数の外部との接触面や複数の局面や様態へと解体して分散し、並列化して捉えるための具体例(具体的な指示)であるが、しかしそれは同時に、この、ティントレットの「スザンナと長老たち」という絵で起きている出来事の、とても鋭敏かつ的確な描写でもある。この絵は、まさにアラカワ+ギンズが指示しているように描かれているし、この絵の人物たちは、それを実践している。つまり、アラカワ+ギンズは「この絵」の特異なあり方を認めて「この絵のようにお前たちも実践してみろ」と言って提示しているのだと考えられる。

(さらに《上にあげたリストの他にも、もっと多くの中性化がこの絵でおこっているはずである》とも書かれる。つまり、この絵をもっとよく観ろ、この絵をよく観ることがそのまま「中性化のレッスン」なのだ、と言っていると読める。)。

そして、この絵において「中性化」されている「主観性」とは何より「性的なもの(あるいは、性的なものの権力関係の配置)」だ。「性的なもの配置」の中性化のレッスンを提示するためには、このパネルで引用される絵はティントレットの「この作品」である必然性があった。