●『幽霊の真理』の最後の最後の方で、それまで徹底して抽象的なことしか語らなかったアラカワが突然、自分の子供の頃の話をはじめ、それがあまりに強烈な経験なので驚くとともに、ああ、これがアラカワなのかと納得もする。
(この経験はあまりに強すぎて現実とは思えないくらいだ。いや、経験という地平では現実も妄想も同じもので、違いはないのだろう、というか、人は妄想において何かを現実的に経験する、のかもしれない。)
アラカワの作品が(それを作品と呼ぶのは適当でないかもしれないが)、具体的なイメージや、テクスチャーの味わいのようなものに無関心(無頓着)であることや、あるいは、アラカワが《制度のなかでわかりあっているだけ》というような文化的な営みとしての芸術を過剰なくらい強く否定するのも、その主張に非常に強い規則や倫理(〜すべき)が伴うのも、アラカワが問題にしているのが「それ」であるためなのかと思った。
いや、「それ」などとトラウマを確定して、すべてをそこに収斂してしまうようなこと(アラカワをその経験と結びつけて固有名化してしまうこと)は危険なのだけど、少なくともアラカワのもとに降りてきた「それ」と拮抗するものをつくることで、その謎を解く、あるいは呪いを解くというモチーフによって動かされていたということはあるだろうと思う。
(このことに関して、ヴィトゲンシュタイン哲学探究』の「感覚日記」の部分が何か示唆を与えてくれることを期待してページをめくってみたのだが、期待したようなことは書かれていなかった。)
(内的な強度を、完全に意識的、人工的に、双子として、エクステンションとして、環境として作り直すということが「死なない」ことと繋がるという特異な理屈は、「そこ」から出て来たのか、と納得してしまうことはとても危険なのだが……)
通常、人間は《制度のなかでわかりあっているだけ》という状態を「社会」としてつくり出して、その中に住んでいるのだと思う(複数の制度があって、絶えず抗争したり行き違ったり、生まれたり消えたりしているとはいえ)。しかし、アラカワには、人間が住む(棲む)場所がそのようなものであることが耐えられなかったのではないか。だから、そのようなものとはまったく別の共同性をつくることが必要だったのではないだろうか。
というか、「それをつくろうとする仕事」のなかでしか生きられなかったのではないか。