●『死なないために』(アラカワ+ギンズ)をずいぶん久しぶりに通してじっくりと読んだ。この本の日本語版が出たのが88年で、おそらくぼくはその年に買った。それから24年経った。その間に四回の引っ越しをしたのだが、それでもまだその時の本が手元にある。この本を買った21歳の自分は、45歳になってもまだ、しつこく読み返しては考え込んでいるとは思いもしなかったかもしれない。しつこくしたかいがあってか、21歳の時よりはずいぶんとこの本に近づけたように思う。この本は、「死なない」というよりむしろ「生まれる」ということについて書かれているように感じる。何かが生まれるというのはどういうことなのか。「生まれる」ことが何度も反復されるというのはどういうことか。その、反復される「生まれる」ことが次第に凝集して群れとなり、それが「何か」の上に「落ち着く」ことで「ある持続」を得る(場所を得る---私化する)というのはどういうことか。
●この日記で何度か、パースペクティブと世界観の違いのようなことを書いた。アラカワ+ギンズにおいて問題となっているのは、ほとんど常に、世界観ではなくてパースペクティブであり、その発生の現場だと思う。ブランク、切り閉じ、場所の虚構など概念は、そのような場の動きをとらえるために使われる。それはつまり、「意味」が問題なのではなく、その意味が生まれてくる母体であり、意味の身体ともいえる「意味のメカニズム」が問題なのだ、ということだろう。意味の身体の解明は、分析、記述、であるより、エクササイズという形になる。
(後のアラカワ+ギンズにおいて大きく浮上する「共同体」の問題もまた、世界観を媒介とすることのない、「パースペクティブの発生の場」に着目することによって可能になる共同体であろう。そのようなことは確かに、いま、ここで、すぐに実現可能なものではないかもしれない。それが可能だとしても、五百年後とか五千年後とかの話かもしれない。しかし、五年後に実現可能なことを考えるのが「現実的」で、五千年後に実現可能なことを考えるのは現実的ではないなどと、何故言えるのか。五千年後の「現実(の可能性)」について考えるのは、充分に現実的なことではないか。哲学とか芸術とか---おそらく本来は科学も---五千年後の可能性までもを考えて「現在」において行動するということでもあるのではないか。これは別に現在の否定---逃避---ではないはず。)
●アラカワの発言は、意味というレベルでは、あるいは世界観としてみれば、支離滅裂に聞こえることもあるかもしれない。しかし、パースペクティブが発生する現場を捉えようとする思考としてみるならば、驚くほど首尾一貫しており、厳密でもある。
●『死なないために』は言葉によって書かれている。そこでは、「何が言われているのか」と同時に、それを「言う(行う)」ためにどのような言語-身体が必要であるのかということが問題となる。そのために言語(語彙・文法)そのものを鋳直す必要がある。ある文が「意味」としては無意味(無価値)であるとしても、その文を読むときに行われる演算作業そのものに「意味」が生じる(あるいは、意味が絡みとられる)。言語という身体のエクササイズがあり、エクササイズをするという行為を通しての言語の変形がある。そしてその「変形される」という動きのなかに、パースペクティブの発生現場で動いているであろうなにものかが宿される。
●たとえば、つぎに引用する文から意味を読み取ろうとするならば、この文には何の価値もないということになる。せいぜい、ナンセンス(意味の否定)という意味を読み取るか、悪ふざけや、知的であるように見せかける虚栄心を読み取るくらいしかできないだろう。しかしそれは、読む者が意味にとらわれているからに過ぎない。そこで何が行われているのか、どのような演算過程が駆動するのか、が、問題となっている。
When ≪always and not≫ signifies something ≪the signified or if≫ belongs to the zero set ! Have we met before ?
●ゼロ・セットとは零点集合のことらしい。ウィキペディアによると、「零点」とは、≪ある関数 f によって、0 に移される点、すなわち f(z) = 0 を満たす z ≫のことで、零点集合は、≪関数 f(z) の零点全体のなす集合 {z | f(z) = 0} のこと≫。
三浦雅士の訳では以下のようになっている。
≪つねにそしてない≫が何かを意味するとき、≪意味されたものあるいはもしも≫はゼロ・セットに属する ! こんなこと以前にもあったでしょう ?