●身体は、ディシプリン(規律訓練)によって生まれる。ディシプリンがなければ身体はない。身体が規制されるのではなく、規制が身体となる。ディシプリンという言葉が強すぎるなら、それを習慣、あるいは作法やリズムと言い換えてもよいかもしれない。
例えば、正座をする身体は、正座というディシプリンによって生まれる。正座という習慣、あるいは作法、技法が、正座する身体をつくりだす。正座という習慣以前に、正座する身体(あるいは正座しない自然な身体)はない。そして、正座をする身体によって可能になる、何かしらの意味(精神?)が、おそらくある。
このような身体の生成そのものと、例えば、正座が出来ることが強要される社会的権力関係が存在すること、あるいは、正座が出来る/出来ないによって、何かの適合/不適合が判定されてしまう権力の場が存在してしまうこととは、別の問題として考えるべきだろう。ある身体の生成それ自体(それによって生じる意味-経験)と、それ(その作法、その身体)が固定的な権力関係においてどのような位置に配置されてしまうのかという問題を一緒にすべきではないと思う。正座によって得られる何かと、正座を強要する権力(正座がまさに「正しさ」を判定するものとして機能してしまう磁場)が強制する何かとを混同すべきではないと思う。
●ここには微妙な二つの問題が絡まっている。
まず一つは、一方に正座という高度に制御された(あるいは正統とされる)ディシプリン(身体)があり、もう一方に、より制御のゆるい、ディシプリンのない、自然に近い(オルタナティブな)「うんこ坐り」がある、という構図は間違っているということ。前者が作法であるのと同じくらいに、後者は別の作法であり、別のディシプリン(身体)である。その意味で両者は同値である。それは、身体とはある抑圧(あるいは様々な抑圧の複合形のバリエーション)のことであって、自然な、ナマの身体などありえないということ。野生の熊は、彼が生息する山という環境によって厳しくディシプリンされている。生活習慣病の身体は、その患者が暮らす環境にディシプリンされたものだ。
もう一つは、正座、あるいはうんこ坐りという「一つの身体」がある作法によって生成するということそのものと、正座、あるいはうんこ坐りという身体的形象が、ある集団のなかでの適合と不適合とを峻別する「しるし」として機能してしまうということ(その集団が、社会的にマジョリティであろうとマイノリティであろうと、どちらも自らのアイデンティティ維持のための排他的指標を「身体的特徴」としてしまうこと)とは、別のこととして考えるべきだということ。ある身体の生成の現場そのものと、その結果を排他的なしるしとして配分する、ある政治的権力的な力の場が形作られてしまうこととを、とりあえず分けて考えるべきだということ。
あらゆる物事を政治が汚染してしまうのだとしても、あらゆるものごとが政治に還元されるというわけではない。この微妙な違いははてしなく重要だ。政治(人間関係)とは無関係な、ある身体の生成の現場がある。
●だから身体の生成の場そのものを問題化することを「美的」という領域に囲い込むのは間違っている。もっと言えば、メジャーな身体に抗する多様なオルタナティブな身体を肯定するというような「政治闘争」のあり様は、政治と生成の間違った混同なのではないか。
例えば、訓練されたダンサーの代わりに訓練されていない人物によってダンスを組み立てるという行為は、規制の価値基準を前提とした安易な文脈ずらしでしかなく、それがある異化効果を観る者に与えたとしても、新たなディシプリン−身体の生成に向かっていないという意味で不毛だと思う。それよりも、右利きの人が左手で字を書いてみるという日常的な行為の方がずっと創造的だ。その行為が創造的なのは、左手で書かれた字に普段とは違う目新しさがあるから(という目に見える効果-結果)にあるのではなく、その行為が別の身体の生成の足掛かりとなる可能性(こちらは目に見えないし、意識にさえ登らないかもしれない)があるからだ。
●効果-結果を問題とする限り、「既にあるもの」の把捉から逃れられないと思う。
●いわゆる「ヘタウマ」は、「上手い」が(あるいは「上手い/下手」の識別指標が)既に安定的に成立していることを前提する。しかし実は、「上手い」はその都度その都度で改めて成立し直すという過程の持続としてしか存続できない。上手い(を成立されるディシプリン)の存続はきわめて不安定である(だからこそ「権威主義」がそれを補強する)。既に「上手い/下手」が成立している時点から遡行的にオルタナティブを提示するのではなく、未だ「上手い」が成立していない、もしかしたら「上手い」が成立しないかもしれない(よって、今までとは異なる「上手い/下手」の配置が創造されるかもしれない余地のある)、「上手い」生成の過程のなかにある身体を考える。
●身体は、毒(敵)であるかもしれないものを摂取しなければ栄養が得られない(自己保存できない)組織であるという意味で、排他的でありつつその排他性はあらかじめ破られている。あるいは、身体は常に、「〜である」と「〜する」とを混同することによって存続(存在=行為)可能となる。だから固着(〜である)がそのまま変化(〜する)となる。そのような、その都度の生成(創造)として、身体を考える。