2021-09-15

●おそらく、『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)に原言及する人のほとんどが次の部分を引用するだろうが(だから出来ればこの部分の引用は避けたいのだがそうもいかない)、夫と共にパナマに着いたコパーフィールド夫人はホテルの部屋で次のように考える。

《「さて」と彼女はつぶやいた。「信仰を持っていた時代には、ひとはどこに移り住もうとも、神とともにあった。ひとびとは神を抱いてジャングルを抜け、北極圏を渡った。神は遍くひとびとを知ろしめし、ひとびとはすべて同胞だった。今では、どこに移り住もうと抱いていくものなど何もなくなってしまった。わたしに言わせれば、昔のひとはカンガルーのようなものだったのよ。でも、どうしてだか、ここには、わたしに何かを思い出させてくれるひとがいるような気がする......この奇妙な土地に安らぎの場所を見つけなければならないわ」》

《「思い出」と、彼女はつぶやいた。 「子供の頃からずっと、わたしは物事にまつわる思い出を愛してきたわ。でも、夫は思い出などなしに生きていける男なのよ」彼のことを思うと鋭い痛みを覚えた。彼女にとっては最愛の存在だった。 彼のほうは、未知のものに出会うたびに、それがたとえようもない喜びとなったが、彼女には、すでに古い夢のように馴染んでいるもの以外は、すべて途方もないものと映った。》

コパーフィールド夫人にとって、信仰の不在(という、いまここにある「恐怖」)を埋めてくれるものが《思い出》であるのだろう。底の抜けた世界では、わざわざ未知のものを求めなくても、あらゆるものごとがあまりにも未知であり底が知れない恐怖となりえる。そんな世界に「底(基底)」を与えてくれるのが《すでに古い夢のように馴染んでいるもの》なのだろう。だが彼女は、未知の土地であるパナマ(コロン)で、「思い出」とは異なる形で「底を与えてくれるもの」に出会う。

●次の引用は、コパーフィールド夫妻が、はじめて二人でコロンの街を散策していて、コパーフィールド夫人が、なにかしらのサービスをするらしい黒人女性のサービスを、夫と別れて受けようとする場面。彼女がはじめて「コロンの女たち」の一人に触れる場面で、なにもはじまらないうちにあっけなく途切れるのだが、それも含めて、とても印象深くて魅力的な場面。

《ふたりはさらに歩いて別な通りへと入った。太陽が沈みかけていたが、大気はそよとも動かず熱気が和らぐことはない。通りにはバルコニーもない平屋の小さな家ばかりが軒を連ねていた。どの戸口の前にも必ずひとりは女が坐っていた。 コパーフィールド夫人は一つの家の窓に近づいて中を覗き込んだ。 大きなダブルベッドが部屋をすっかり占領していた。ひどく凹凸になったマットレスの上にレースの上掛けが広げられている。ラヴェンダー色の紗のランプシェードの下から電球がベッドの上にけばけばしい光を投げかけ、〈パナマ・シティ〉と形押しのついた扇が枕の上に広げたまま置いてあった。

家の前に坐っていた女はすでに盛りはすぎていた。椅子に腰を掛け、膝の上に肘をついている。 コパーフィールド夫人の方に向けた顔を見ると、西インド諸島の出身らしい。平らな胸、ごつごつした体つき、肩と腕は筋肉質だった。面長の不機嫌な顔にも首の一部にも明るい色の白粉が丹念に塗られていたが、胸と両腕からは浅黒い肌が覗いていた。 舞台衣裳のようなラヴェンダー色の紗のドレスがコパーフィールド夫人の目を楽しませた。女の髪には灰色の筋が目立っていた。

コパーフィールド夫妻の視線に気づくと、その黒人女はこちらを向いて立ち上がり、ドレスの皺を伸ばした。 立ち上がると女は巨人のように大きく見えた。

「ねえ、ふたりで一ドルにしとくわ、どう、寄っていかない?」 女が声をかけた。

「一ドル」 と夫人は 鸚返しに言った。》

《夫の姿を見送ると、コパーフィールド夫人は言った。

「束縛されないのって、いいわね。あなたのお部屋に行きましょう。 窓から中が見えたけど、素敵だった……」

まだ言い終わらないうちに、女は彼女を両手で中に押しやった。床には敷物もなく、壁はむきだしのままだった。飾りになるものといえば、先ほど窓から見えたラヴェンダー色のランプシェードだけだった。ふたりはベッドに腰をおろした。

「あっちの隅に小さい蓄音器があったんだけどねぇ」 女は言った。 「船に乗ってたひとが貸してくれたの。でも、そのひとの友達が来て持ってったわ」

「ティ、タタ、ティ、タタ」と女は口ずさみながらしばらく床を題で打ち鳴らしていたが、コパーフィールド夫人の両手を取って彼女をベッドから立ち上がらせた。

「さあ、ハニー」彼女は夫人を抱きしめた。「あんたって、すごく華奢で可愛いひとね。 こんなにきれいなのに、きっと淋しいんだわ」 コパーフィールド夫人は女の胸に顔を埋めた。 舞台衣裳のような秒のドレスの匂いが、学生時代に初めて演じたお芝居の役を思い出させた。微笑んで黒人女を見上げると、女はこのうえなく優しい表情を浮かべていた。

「午後はいつも何をするの?」 彼女は尋ねた。

「トランプしたり、映画に行ったりね.....」

コパーフィールド夫人は彼女から身を離して、二、三歩後ずさりした。頬が燃えるように赤くなっていた。ふたりは外を行くひとの気配に耳をすませた。窓の外でひとびとが何を話しているかまで聞きとれるようだった。黒人女は眉をひそめ、深い物思いに沈んでいるようだった。

「時は金なりなのよ、ハニー」 彼女は夫人に言った。 「あんたは若いから、まだわかんないだろうけど」

コパーフィールド夫人は頭を振った。 急に悲しくなって、黒人女を見つめた。「喉が渇いたわ」と、夫人は言った。その時、突然男の声が聞こえてきた。

「こんなに早く戻ってくるとは思わなかっただろう、ええ、ポディ?」すると女たちの笑い声がけたたましく響いた。黒人女の目が生き生きと輝きだした。

「一ドルちょうだい。早く、一ドルよ!」 彼女は興奮して金切り声で叫んだ。「あんたの時間はもう終わりよ!」コパーフィールド夫人が急いて一ドルを渡すと、黒人女は通りに飛び出していった。夫人は彼女の後を追った。》

(ここでコロンの黒人女性は、「アメリカ人」から金をせしめるためにサービスしているのだし、コパーフィールド夫人が魅了されているものにはあきらかにオリエンタリズムが含まれているのだが、とはいえ、それが「男」の予期せぬ帰還によって中断されるなど、オリエンタリズムに還元されない要素もあり、さらに、オリエンタリズム的なものの誘惑によってであっても、夫から離れられ、夫とは別の官能的な関係性への可能性が開かれ、それが「夫の傍ら」とは別の居場所を求める探求への道を開いたことが重要だ、とは言えるのではないか。その可能性が、相手側の「男」の帰還---男女カップルの強さ---によって中断するというのは皮肉なことだが。)

(この後、コパーフィールド夫人が出会うパシィフィカは、金づるである男と付き合っているだけでなく、その他にメイヤーという船乗りの「思い人」がいる。コパーフィールド夫人が求めるのは、男性との間に強い愛情関係を持っている、あるいは持ち得る女性との関係、と言えるのかもしれない。金づるである兵士との関係だけしか持たないペギーに、彼女は好感をもたない。)

2021-09-14

●『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)の二人の主人公、ミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人は、第一部のパーティーの場面と、ラスト(第三部)のレストランの場面で、二度だけ会う。第一部のパーティーの場面で、ゲーリングは夫人に、前の晩に見た解体中の建物の話をする。

《ゆうべは街に住んでいる姉のソフィのところに泊まったの。それで、今朝はソフィの家でコーヒーを飲みながら、窓の真ん前に立っていたの。 今、隣の建物を壊しているところなのよ。 アパートでも建てるんじゃないかしら。 今朝はそれほど風が強くなかったけれど、雨が降ったり止んだりしていたわ。 窓の向かいはすでに壊されていて、わたしのいるところから建物の内部が見えたの。 部屋のなかにはまだところどころ家具が据え付けたままになっていた。 わたしは立ったまま、雨が壁紙に染みをつけていくのを見ていたわ。 花模様の壁紙にはすでに黒っぽく染みがついていたけど、 それが少しずつ広がっていくの》。

《そのようすを見ているうちにしまいに悲しくなってきて、その場を離れようとした時だったわ。その時、男のひとがひとり部屋に入ってきたの。落ち着いた足取りでベッドまで来ると、ベッドカバーをはずして畳むと腕に抱えたわ。あれは間違いなくそのひとの持ち物ね。 荷造りしていなかったものを取りに戻ったのよ。それからしばらくの間、部屋の中をあてもなく歩き回っていたけど、最後に部屋の隅まで行って肘を張って中庭を見おろしているの。こうしていると、あのときよりもっとはっきり、あのひとの姿が目に見えるようだわ。きっと芸術家なのよ。彼がそうしてじっと立ってるのを見ているうちに、わたし、だんだん怖くなってきたの。まるで悪夢の場面を見ているみたいだった》。

この話を聞いたコパーフィールド夫人の反応。

《「飛び下りたの、そのひと?」 コパーフィールド夫人が興奮して訊いた。

「いいえ。ただしばらくの間、興味深そうな好奇の表情を浮かべて中庭を見おろして立っていたわ」

「びっくりしたわ、ゲーリングさん」夫人は言った。「興味はすごくそそられたのよ。それは本当よ。ても、怖くて縮みあがりそうだった。とてもじゃないけど、これ以上、こんな話をおもしろがって聞く気にはなれないわ」》

解体中の建物と、そこに佇む一人の男。小説の初期段階で主人公たちに共有されるエピソードだが、このエピソードのもつ意味が、二人にとって異なっているように思う。ミス・ゲーリングにとってこのイメージは、自分が進んでいく方向を示す指針のようなものとしてある。だが、コパーフィールド夫人にとってこのイメージは、恐ろしい「世界の現状」であり、彼女はその恐怖から逃れて自分を保護してくれるような、壊れていない家を求めている。ミス・ゲーリングには、そこにいる男が、興味深い世界を観察する《芸術家》に見えるが、コパーフィールド夫人には、今にもそこから飛びおりて身を破滅させてしまいそうな危機にある人物のように感じられる。

コパーフィールド夫人には、尊敬すべき夫がいて、彼女はその夫を愛している。しかしそれでも、彼女にとって世界は壊れていて、恐怖はいまここに潜在してあり、その破れを埋めてくれる環境を探している。対してミス・ゲーリングは一人であるが、なぜか彼女のまわりには自然と人が集まってきて、家族的な環境が(それを望んだわけでもないのに)形作られる。彼女はその環境に愛着を持つが、その愛着を振り切って「恐怖」を感じるものの方へ移動していく。

●ミス・ゲーリングは、豪華な邸宅を売って、みすぼらしい島の小屋に移住する。彼女はその環境について次のように話す。この小説のミス・ゲーリングのパート(第三部)は、ほとんどがここで話されている範囲内での出来事だ。

《「島なんです」ミス・ゲーリングは言った。 「フェリーで行けばそれほど遠くないところよ。 子供の頃に行ったのを覚えてるけど、いつも本当に嫌だったわ。森や野原を歩いていると本土のにかわ工場の臭いが漂ってきて。島の一方の端は人口の多いところだけど、そこのお店ではろくな品物が手に入りません。そこを離れるともっと荒涼とした場所で、 時代からも取り残された感じがするの。そうは言っても、小さな列車がフェリーと頻繁に接続していて、島の反対側にも出られるわ。上陸するとすぐに、ひと気のない頑固な雰囲気の小さな町はあるけれど、ちょっと怖い感じがするかもしれない。向こう岸の陸地も島と同じようにみすぼらしくて、何にも保護してくれるものがない感じだから」》

《「たぶん島にもいろいろといいところがあるんでしょう。きっと僕たちを失望させるより、驚かせたほうがいいとお思いなんだ」

「今のところ、いいところは何も見つかっていないけど」 ミス・ゲーリングは言った。 「それじゃ、あなたもわたしたちといっしょにいらっしゃる?」》

2021-09-13

●『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)では、基本としてミス・ゲーリングかコパーフィールド夫人に寄り添っている。つまり、ほとんどの場面でこの二人のうちのどちらかが存在している。ただ、語りの視点が二人から外れる場面もあって、一つが(コパーフィールド夫人のパートで)、クウィル夫人がトービーという男とホテル・ワシントンを訪れ、クウィル夫人が置き去りにされる場面。トービーはクウィル夫人を丸め込んで仕事と資金を調達しようと接近するが、夫人に財産がないことを知って置き去りにする。もう一つが(ミス・ゲーリングのパートで)、アンディが自分のアパートの部屋で三人の経営者と会って商談しようとする場面。アンディは三人に対して投資を申し出るが相手にされない。どちらもお金にまつわる話で、クウィル夫人もアンディも侮辱され、屈辱を味わうことになる。

ただ、この二つの場面は、突飛で新鮮な展開を見せるこの小説のなかでは「普通」の感じで、つまり、場面としていまひとつおもしろくない。アンディの投資話は短くてさっと終わるし、ちょっとカフカっぽい感触もあるのでつまらなくはないのだが、クウィル夫人とトービーの会話は、読んでいて「ここ、いつまでつづくのかなあ」と思ってしまうこの小説で唯一の場面だ。ならば、この二つの場面はなぜ必要なのだろうか。

この二つの場面からミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人が外されているのは、彼女たちには十分な財産があり、彼女たちがお金の話で困ったり、屈辱を味わうことになったりすることは考えられないからだろう。逆からみれば、この二つの場面が必要だったのは、この小説で描かれる「ふたりの真面目な女性」たちは、どちらもお金に困ることのない、特権的な立場にいる人物であるということを読者が「忘れないように」するためだろうと考えられる。普通の人はお金で困るのだが、彼女たちはそうではない人々なのだ。さらにいえば、彼女たちの階級の通常の生活であれば、深くかかわらないような人たちと、意識的、積極的にかかわろうとしているのだ、ということを示してもいるだろう。彼女たちは自ら救済や幸福の探求のために、出発点からとても遠くまで進んでいるのだ、と。

ホテルでの飲食代を未払いのままトービーに置き去りにされた(持ち合わせの少ない)クウィル夫人の困難は、コパーフィールド夫人によって難なく解決される。コパーフィールド夫人にとってその程度のお金は何のこともない。また、アンディが堕落した生活を立て直そうと努力をはじめ、お金のことを真剣に考えるようになると、ミス・ゲーリングは彼への興味を失う。金のことを考える男など彼女にとってはつまらない存在なのだ。彼女たちに、既成の価値や習慣に捕らわれない「探求」が可能なのは、経済力によって既成の価値や習慣の縛りから逃れられているからでもある。

だから、読者(ぼく)に、クウィル夫人から金を巻き上げようとするトービーの場面や、資本家と交渉して利益を得ようとするアンディの場面が、ほかと比べて精彩を欠くように感じられるのは、読者(ぼく)もまた、ミス・ゲーリングやコパーフィールド夫人と同じような価値観で(同じような立ち位置で、あたかもお金のことなど考えなくてよい存在であるかのようにして)この小説を読んでいて、トービーや立ち直ろうとするアンディを「凡庸な人物」だと感じるからだろう。実際、特にトービーは本当につまらない人物なのだ(つまり、トービー的な卑小さを魅力的に造形することはうまくいっていない)。だが、この世界の現実には、トービーのような人物で溢れている。そして、トービーにはトービー的であるしかない事情がある。

コパーフィールド夫人は、同志のように感じていたクウィル夫人が、飲食代を立て替えてもらったくらいのことで卑屈になり、自分に余所余所しく接することに失望する。彼女には、たかだか少額のお金のことで卑屈になってしまう人のことが理解できない。また、ミス・ゲーリングは自ら進んで貧しくみすぼらしい生活を送っているが、自分の意志でそうしているのであって、お金に困ることはない。だから、資本家たちからまともに扱われなかったアンディの屈辱は理解できない。ミス・ゲーリングがベンから「娼婦」だと決めつけられても侮辱と感じず、むしろその「決めつけ方」に好意すら感じるのは、彼女は自分の意志(彼女を導く「法」)以外の理由で娼婦になることはない(経済的な理由で娼婦であることを強いられることはない)からだろう。

だから、二人の女性が存在しない二つの場面が示しているのは「階級差」であるだろう。それは、彼女たちがそのような階級の壁を越えて行動しているということであり、しかし同時に、そうだとしても、そこに階級差は依然として存在しているということでもある。アンディの荒んだアパートにいるミス・ゲーリングや、娼婦たちの集うホテルのバーにいるコパーフィールド夫人は、あきらかに異質な、浮いた存在である。アンディのアパートに一瞬だけ姿をみせたミス・ゲーリングを見た三人の資本家たちは、「この場」にそぐわない女性が現れたことに困惑し、アンディも「資本家たちの困惑」を当然だと感じて恥のような感情をもつ。

コパーフィールド夫人がパシフィカに強く惹かれるのは、彼女が階級差を認識しながらも、それによって卑屈になることがない希有な人物であるということも理由の一つだろう。娼婦でもあるパシフィカは、同性愛の甘美な経験を語るコパーフィールド夫人に、非難するようなニュアンスを含まず、たんに事実を指摘するように次のように言う。《女の子たちのなかにはもうひとを愛することのできない娘だっているんだもの。お金のことしか頭にないのよ。あなたはあまりお金のことは考えないでしょう?》。

2021-09-12

●『ふたりの真面目な女性』(ジェイン・ボウルズ)。ふたりの女性、ミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人。ゲーリングは「救済」を求め、コパーフィールド夫人は「幸福」を求めて、それぞれ安定したブルジョア的生活から外れていく。ゲーリングは超越的な啓示に従って恐怖の方へ向かっていく。コパーフィールド夫人は、超越性の不成立(神の不在)からくる「恐怖」から逃れるために安息と堕落の方へと向かっていく。ゲーリングは、自分に恐怖を与えるような男性の方へと向かっていき、危険な匂いのする男性からより危険な別の男性へと渡り歩き、コパーフィールド夫人は、自分を保護してくれるような女性たちの環境へ、そして特定の女性への依存の方に向かっていく。

この小説は、居場所としての家や部屋にまつわる小説でもある。ゲーリングは、郊外の立派な邸宅から、島のみすぼらしい小屋へ住処を移し、またそこから、本土にあるアンディの荒れ果てたアパートに移動する。ゲーリングがアンディと出会ったバーで、少女バーニーは通い慣れたそのバーを《古くからの友達》のような場所であり《家みたいなもの》だとして特別な愛着を示す。だがゲーリングは、そのような親しさや愛着を否定するように、慣れ親しんだ場所や人から離れること、移動をつづけることを自らに課しているかのようだ。

一方、コパーフィールド夫人からは、そのような慣れ親しんだ場所が奪われており(彼女は夫に連れられてパナマへの長い旅行の最中である)、居場所の不在に悩まされている。彼女の行動は、(夫が未知のものとの出会いを求めているのとは逆に)自分を保護してくれるような「親しい場所」を求めるという動機に基づいているようにみえる。コパーフィールド夫人は、滞在するためのホテルの雰囲気に対するこだわりを示し、ゲーリングとの会話に出てきた「解体途中の家」の話に強い恐怖を感じる。

多くの場合、ゲーリングが(既に持っていて)拒否するものを、コパーフィールド夫人は求めているようだ。コパーフィールド夫人が探し求めてようやくパシフィカという相手を見つけ、彼女への依存を深めていくのに対して、ゲーリングの元にはギャメロンという相手が自分の方から訪れてくれるし、後にはそのギャメロンとの関係を捨ててでも移動をつづける。ゲーリングは宗教的な人物であり、超越的な「法」のようなものが存在し、彼女は「~したい」ではなく「~しなければならない」という基準で行動するが、コパーフィールド夫人は超越的な審級(神)が不在の世界の「恐怖」のなかを生きている。コパーフィールド夫人は夫を愛している(そして夫は差別的な言動を許さないような立派な人物だ)が、同時に、夫といるとどうしても「夫に支配されている」と感じてしまい、苦痛でもある。ゲーリングは、超越的な「法」に支配されていることをポジティブに捉えていて、それが自分を《聖人に近づ》けていると考える。

ゲーリングが従う「法」の内実はよくわからないのだが、積極的に「恐怖」を感じるものの方へ向かっていっているように思われる。一方、コパーフィールド夫人は「恐怖」から逃れようと行動する。だがここで、ゲーリングが積極的に対峙する「恐怖」と、コパーフィールド夫人が逃れようとする「恐怖」とは、その質や内実が異なっているように思われる。

ゲーリングの行動は、自己否定を肯定することを旨とするように見え、彼女は自分に危害を加えそうな雰囲気をもつ男性や、現在の自分のあり方を否定するような態度をとる男性に惹かれていく傾向にある。彼女の「恐怖」はそのような者たちに触れることからくる。たとえば、アーノルドの父は作中で最も「嫌な奴」として書かれているように思われるし、初登場から印象が悪く、嫌な感じでゲーリングに絡んでくるのだが、ゲーリングはそんなアーノルドの父に対して初対面からずっと一貫して好意的で同情的である。また、後に生活をともにするアンディだが、バーで初対面時には、バーニーの服装の乱れにあからさまに性的興奮を示しているようなやばい奴だとゲーリングは感じている。最後に登場する男性ベンも、《マンモスのように巨躯》だとされ、ゲーリングを娼婦だと決めつけて譲らない。《一、二度彼の顔を盗み見ただけだったが、その恐ろしさに、彼女は二日間、それ以外ほとんど何も考えられなかった》。ゲーリングは、より強く「現状の自分」を否定し、より強く危険を匂わせるものの方へ向かうようなのだ。

一方、コパーフィールド夫人が惹かれていく女性たちは、パシフィカもクウィル夫人も、夫人が嫌うペギーでさえ、ふつうに魅力的に描かれている。コパーフィールド夫人は「恐怖」から逃れるために、彼女たちの集うホテル・デ・ラス・パルマスにやってくる。しかしこの「恐怖」は、彼女に直接的な危害を与えるものに対する恐怖ではない。超越的な審級を信じることのできない世界で、親しみを感じられない未知のものに触れる時に発生する、茫洋とした「恐怖」であるようだ。夫のコパーフィールドは彼女の恐怖について、《はじめて感じた痛みをそれが磁石でもあるかのように胸に抱いて持ち運んでいる》として、《最初の恐怖から最初の希望へと逃れようと》する行為を繰り返しているとする。そして、そうではなく《次の悲劇を戦う舞台》へ進むべきだと手紙に書く。だがコパーフィールド夫人は、そのような夫から離れ、娼婦たちの集う女たちの環境へと身を寄せる。そして、朝の海で、自分の存在のすべてをパシフィカに預けるような体験から、深い充足感と高揚を得て、パシフィカにより一層強く惹かれるようになる。

この、分身のようであり対照的でもある「ふたりの真面目な女性」は、小説の最後の場面で会い、互いに相手に対して否定的な感情をもつ。互いに好意を抱いていた相手だったが、失望を感じる。かつてゲーリングを崇拝していたコパーフィールド夫人だが、今ではパシフィカに夢中でゲーリングにはあまり関心がないようだ。そして、小説の最後の部分の、あまりにそっけない無関心が、かえって印象深いものとして残る。

《「確実にわたしは聖人に近づいていっている」と、ミス・ゲーリングは考えていた。「でも、自分にも見えない自分が、コパーフィールド夫人のようにすごい勢いで罪を重ねていく、ということがあるのではないかしら?」ミス・ゲーリングは、その可能性を少なからず興味深いが、さして重大ではない事柄だと考えた。》

「救済」と「幸福」とは、互いに無関心なまますれ違う。ミス・ゲーリングとコパーフィールド夫人とは、まさにどちらも相手に対して《自分にも見えない自分》という関係にあると思われるが、自分の分身に対するびっくりするほどの「関心の薄さ」が示されて終わるのがとても面白い。

2021-09-11

●ときどき、悪夢のスパイラル的連鎖に陥ってしまうことがある。口にするのも恥ずかしような幸福な夢だったものが、ある一点で雲行きが怪しくなり、一気に悪夢へと転がり落ちる。悪い予感に導かれるように、夢は嫌な方へ嫌な方へと向かって突き進む。あまりの恐怖に目が覚める。暑いのに悪寒で震ている。しばらくして落ち着いてからまた眠るのだが、再び悪夢にみまわれる。悪夢から逃れるように目を覚ます。そういうことが何度も繰り返される。

悪夢から逃れるには目を覚ますしかない。考えると恐怖で身がすくむのだが、もし、事故や病気などで長い昏睡状態になった時に悪夢の連鎖に陥ってしまったらどんなに恐ろしいだろうか。身体的な不調は夢を悪い方へと導くだろうし、目覚めるという逃げ道へは簡単には至ることができない。

2021-09-10

●9月30日までの限定公開のYouTube動画で、絵恋ちゃん(「ちゃん」まで含めて固有名)のライブ映像(はじめから終わりまで、まるまる)をはじめて観た。

【期間限定公開】絵恋ちゃんバースデーライブ2019『生まれてきたのが気まずい』

https://www.youtube.com/watch?v=8elDrjBfkCM&t=1023s

絵恋ちゃんは、ぼくが知る限りでアイドルのなかでもっともおもしろい人の一人だとずっと思っていた。ただどうしても、曲がいまひとつ好みではないとも思っていた。だが、ライブのパフォーマンスがとてもすばらしかったので、「曲の好みでなさ」が大きく後退した(あまり気にならなくなった)。

地下アイドルであることの良さを最大限に発揮したライブパフォーマンスで、それはつまり、観客の数や会場の規模が大きくなった場合にはこの「良さ」の多くが消えてしまうだろうということだ。だが逆からいえば、地下アイドルという規模でなくては経験できないもの(小さな規模だからこそ実現される貴重なもの)がここにはあるということだろう。

●昔からブルーハーツを素直には受け入れられない。今では、昔、嫌いだった時とは違って、そこにかけがえのない良さがあるということは(ある程度は)理解できていると思う。ただ、ぼくのなかではブルーハーツは素直には響かない。しかし、あきらかにブルーハーツのパロディである「就職しないとナイト」には大きく揺さぶられる。それには、アイドルという存在のもつ媒介性が大きくかかわっていると思う。

就職しないとナイト (絵恋ちゃん)

https://www.youtube.com/watch?v=-pctduU0XPE

この曲は、この曲で歌われているような人々の心の声を、アイドルが代弁して歌っているのではない。アイドルは、彼らを上から見下し、罵倒するような位置に立って歌っている。しかしここにあるのはガチな罵倒ではなく、罵倒や見下しは(親愛の情のようなものをこめて)「演じられた」ものだ。アイドルとオタク(仮に、この曲で歌われているような人たちとする)との間には、穏やかな、ヌルいとさえ言っていいような共犯関係があることが「信仰」されている。アイドルはオタクを傷つけないし、オタクもアイドルを傷つけない(と、信じ得る空気が存在しているという仮定が前提とされる)。その上で、アイドルはあくまでも「上」に存在し、下々のオタクを罵倒し、踏みつけるサディスティックな女王なる(とはいえ、アイドル自身がヴァルネラブルな存在であることも明らかだ)。

演じられた空間で、アイドルはオタクたちに共感しているのではなく、上から目線で「お前たちはドブネズミ以下だ」と「客観的な事実」を突きつける役回りにある。オタクたちは、アイドルが告げる残酷な真実を自虐的に受け入れる。それはたとえ「残酷な事実」だとしても、アイドルという女神から与えられた神託であり、そうである限りその事実を喜びとして受け入れることができる(残酷な現実を耐え得るものとする)。だからこれは、革命の歌でもプロテストの歌でもなく、現状肯定の歌であり、残酷な現実を受け入た上て、その場所で生きるための歌だ。

ただ、これらはすべて演じられているのだし、演じられていると「自覚」されたものである。アイドルは、パフォーマンスの質によってオタクを魅了しつつ、この祝祭がフィクションであり偽物であることを随所に匂わせる。アイドルのパフォーマンスそのものが、高度に偽物性を帯びたものだ。アイドルは女神ではなく、アイドルとオタクとの共犯関係の了解のなかで「女神の役を演じる」者だということがその両者に前提として了解されている(そのことはアイドルのアイドル性を少しも毀損しない、それは共犯関係であってメタアイドル的なアイドル批判ではない)。そんななかで「お前たちはドブネズミ以下だ」という宣言は、この偽物の祝祭の外からやってくる、現実的で社会的な評価であろう。その評価は、この「偽物の祝祭」が終わった後に、オタクやアイドルを待ち受けているものだ(アイドルもまた「地下アイドル」でしかない)。

この祝祭が偽物であり、(アイドルとオタクの間に確かにあると幻想されている)共犯関係によってその幻が実現しているに過ぎないのだとしても、それによって発生する「楽しさ」が十分に強いものであり、そこにあると幻想される共犯関係のありようが、現実の社会的な関係よりもリアルでずっと貴重なものだと信じられるのであれば、その外にある現実からやってくる「お前たちはドブネズミ以下だ」とする評価を「客観的事実」として受け入れながらも、そのように評価する「現実の(社会の)評価基準」そのものを信用ならない、とるに足らないものだと「評価」し返すことができる。評価は甘んじて受けるが、それはたかだか社会的な評価でしかない、と、思い返す力となる。

ライブ会場で発生する充実した「楽しさ」の質が、「現実の評価基準」を相対化し得るほどの強さをもった時、つかの間だけ虚実は反転する。それは現実を変えないが、「現実の評価基準」への追随や盲従を抑制するだろう。ドブネズミ以下だという評価を受け入れたとしても、それによって自分を責めたり、傷つけたりする必要はない、と。客観的事実の受け入れと、現実的な評価基準の相対化とが同時に起きる時、その間にあるわずかな隙間に、社会的客観性とは別の、非社会的で現実的な(虚構的な、ではない)生の場があることを知ることになる。

(これはあくまで、「非社会的な現実の生」であって、現在の社会では我々はドブネズミ以下とされるが、本来あるべき社会では優れた存在として処遇されるはずだ、という政治的幻想へ向かうものではない。)

自虐しつつも、自分を貶める社会的な基準をも同時に貶める。フロイト的なヒューモアに通じるこの感覚は、「就職しないとナイト」の《運に才能ありません》のところの「ありません」というシャウト(演じられた偽のシャウト)が見事に表現していると思う。偽物であるからこそ、こそにかけがえの無さが宿る。

ただこの時、ドブネズミ以下でしかない「わたしたち」が、(とても強力に作用する)社会的な基準を貶めることのできる根拠は、(普遍的な理念や超越的な信仰ではなく)いまここで発生している楽しさであり、その楽しさを支えている、小さくて壊れやすい共犯関係(の幻想)でしかないので、それはとても危ういものだ。そもそもドブネズミ以下であることを受け入れた以上、垂直的(超越的)は信仰は望めない。

とはいえ、というか、だからこそ、ドブネズミ以下である「わたしたち」がこの現世を生きるためにその「危ういもの」が必要であれば、その「小さなもの」の維持のための努力やメンテナンスはとても貴重でかけがえのない仕事だろうと思う。

(おそらく、この貴重なものは、ある程度以上大きくなると、社会的なものに巻き取られてアジール性を失い、壊れてしまう。その、非社会的な小さなものは、「社会の中」で実現され、維持されなければならない。小さいものを小さいままで---拡大もさせず、消滅もさせずに---維持するのはとても難しい。)

2021-09-09

●いまさらだが、ようやくスマホにかえた。ガラケーのサービスが来年の三月で終わってしまうことと、ずっと使ってたガラケーが物理的に崩壊しつつあって、これはさすがに限界だと思ったため。周辺の細かいところから部品や塗装が剥落しはじめ、いまや本体全体としてもその形を危うくもかろうじて保てているという風情で、外に持ち歩くことはかなり前からできなくなっている(最近、写真を撮っていないのはそのためだ)。ずっと部屋の中で充電器に差されっぱなしで、メールを受信できる家電となっていた(ガラケー以外に携帯できる時計を持っていないので、ずっと外では時計なしだった)。

契約を続行すれば初期費用なしで使える機種で、スマホとしてはローエンドのものと言えると思うが、ちょっといじってみて驚いたのが、音声認識の精度の高さだ。話したことがほぼ正確に、そのままテキスト化される。カメラによるテキストのスキャンも正確で、本をカメラで撮るとそのままテキスト化される。ずっとガラケーだったので、浦島太郎的に当たり前のことで驚いているだけかもしれないが、音声認識、画像認識、そして(スマホなしでも知っていたが)自動翻訳の精度の向上の速さは驚くべきものがあると思った。

(ただ、ジェイン・ボウルズの「ジェ」が、いろんな言い方でやってみても、どうしても「ゼ」と認識されてしまう。ぼくの発音の問題かもしれないが。さらにしつこく繰り返していると「ゼイン」から「全員」になり、果てには「ジェインボウルズ」が「レインボーローズ」と変換された。何度も同じ音が入力されるのは、発話者が満足していないということだと認識するのだろうが、その反省による改良の結果、さらに要求から離れていてくということが起こる。これは人間間でも起こることかもしれない。ジェイムス・ジョイスの「ジェ」はいけるので、固有名の聞き取りは有名度に左右されるのだろう。これは人間の認識も同じだ。)

(カメラは、好みからするとレンズが---標準でも---広角すぎて、しかも、広角、標準、二倍、五倍と、四種類しかなく、なめらかにズームできないので、フレーミングがかなり不自由だ。前のガラケーカメラはなめらかにズームできたのだったが。二倍、五倍はデジタルズームなので絵が粗くなる。画質はガラケーよりも断然よいといえるが、これではどう使ったらいいのかと戸惑う感じだ。)