⚫︎Dance Base Yokohamaで、Dr. Holiday Laboratory +吉田雅史『skit』。桜木町から歩いて行った。まず、音が耳に来るのではなく、低音で体がずっと細かく振動しているのを感じつつ2時間半過ごすことが稀なのでそれが楽しかった。
⚫︎ダンサーがダンスする、ラッパーがフローする、ボーカリストが歌を歌う、俳優が演技をする。これらはみんな、自分の身体を使って何かしているのだが、ダンサーが自分の体を使って自分としてダンスするのに対し、俳優は自分の体を使って他人として何かをしたり喋ったりする。ボーカリストはいつも自分自身のことを歌う歌を歌っているわけではない。で、ラッパーのリリックは常に自分のことを語っているのだろうか。ヒップホップは常に私小説なのか。詳しくはないが、ぼんやりしたイメージとしてはラップは自分語りであることが多いような感じがする。社会批判的なことを語っても自分目線からであることが多いように思う。
演劇を観ることに対する「慣れなさ」がある。ぼくは人と話すときにも人の目を見て話せないダメ人間なので、生身の人間の身体を凝視することにためらいがあり、目の前で演じる人を観る時には遠慮と気後れと気まずさを感じる。映画は映像なので、遠慮と気後れと気まずさはなく凝視できるが、そこに窃視的であることへの後ろめたさはある。人の身体が、その人としてのあり方の表現とは別の、抽象的な、あるいは虚構的な表現となる時に、「わたし」は、通常の他者に対する(常識的・儀礼的・倫理的な)距離感を破ってその身体の現れを見ることになるのだが、たとえば、上演が終わって帰ろうとする時に、直前まで舞台上で演じていた俳優が客に挨拶したり雑談していたりする時、直前まで抽象的な表現性としてあった身体が、通常の他者としてそこにいることに対して、混乱と気恥ずかしさを感じて戸惑ってしまう。
(だが、この「慣れなさ」こそが、少なくともぼくにとっては演劇というジャンルの非常に重要な要素だ。)
(映画の場合、映画に出ている人に実際に会ったとしても、映画の中の人とその人とは存在の位相が違うように感じられて混乱はあまりないが、演劇だと、本当にその人がそこにいるので戸惑う。)
こういう経験は実際にはないので推測するしかないが、目の前でバリバリにパフォーマンスしていたラッパーの人と、その後に「素」の状態で会ったり話したりしたとしても、上演後の俳優と会うような混乱はあまりないように思われる。それは、ラッパーのラップにおいて表現化されるのは、声であり、言葉であり、リズムや抑揚であり、音楽であり、身振りであって、「身体そのもの(あるいは「身体丸ごと」)」ではないからなのではないか。表現の素材が、「(共有化され、文化となった)身振り」であることと「身体丸ごと」であることの違い。
(つまり、ラッパーは、身体としてはその人であるままに、声と身振りとを表現化する、ということだろうか。)
では、ダンサーはどうなのか。ダンスにおいても、身体丸ごとが表現化される。だがダンスの場合、演技(演劇)よりも表現化の抽象度が高く、それによって「その人そのもの」と「表現」との切り離され具合が高いので、戸惑いの感じはそこまでではないように思う。
(とはいえ、ダンスと演技との表現化の抽象度に違いは、度合いの問題であって、根本的な違いではないだろうと思う。)
あるいはまったく逆に、その人自身とダンスと間に乖離がまったくなく、その人自身がそのままダンスであり、日常の仕草とダンスとが切り分けられない、ということもあるかもしれない。いわゆるパフォーマーとしてのダンサーではなく、普通にクラブのフロアで踊っている人などはそうなのかもしれない。
(ボーカリストの場合は、その声、あるいは歌が表現化されるのであって、身体のパフォーマンスそのものを見るのではない。あるいは、その人の「身体丸ごと」が「声」として表現化される、というべきなのか。)
⚫︎俳優は、「他人の役」を、「自分の身体丸ごと」によって表現する。対してラッパーは、「自分のこと(このわたしの生)」を、「(リズムや抑揚を含めた)言葉」と「身振り」によって表現する。と、とりあえず単純化してみる。俳優にとって、表現の内容は「他者(あるいは「共同化されたもの」)」で、表現の素材は「このわたし(の身体)」であり、ラッパーは逆に、表現の内容が「このわたし(の生)」であり、表現の素材が「共同化されたもの(言葉・ラッパー的身振り)」である、と言える。このようなまとめかたは、かなり強引かつ危険だが、とりあえず仮にこのように置いておく。
このように考えるならば、『skit』が演劇とヒップホップとの交差配列によって組み立てられているということが見えてくるように思う。演劇的な虚構性の立ち上げ(たとえば、リサーチをもとに組み立てられたダイアローグ、ラッパーからサンプリングされた身振り)を、(おそらく、作・演出の山本ジャスティン伊等自身の)私小説的な生々しさ(本人によるリリックとフロー)が食い破り、しかしまた、その生々しさは、演劇的な虚構性のあり方によって相対化される(役を演じ、表現を成り立たせているのは「別つ」の俳優たちであり、テキストは書かれたものである)。
交換不可能な「このわたしの生」は、その当事者である「ナマの身体」によって、「身振り」と同様にそれ自体は交換可能な共同性を持つリリック(言葉)とフロー(リズム)により表現される(作・演出家自身による自分語り的パフォーマンス)。その内容は生々しく重いものだが、表現化によってそれは、別の交換不可能な「このわたしの身体」としての俳優のもとにも着床され得るものとなる。「このわたしの身体」である俳優は、それを他者(役柄)として虚構化して立ち上げるが、しかしそれとは別に俳優自身の「このわたしの身体」でもあり続ける。ここでは、交換可能(共同化可能)なものと、交換不可能なもの(この身体・この生)とが、互いにその一部を交換しあっているかのような感覚があるように思った。
もう一つ重要なのが音楽だろう。会場に入った瞬間(開場された瞬間)から吉田雅史のDJによる音楽が流れており(そしてフロアではすでに踊っている人がいる)、DJは上演の最中も、その後も、ほぼ途切れることなくずっと続いている。開場から上演まで一時間の時間があり(そして上演後も約一時間DJは続き)、その間人々は、踊ったり、酒を飲んだり、踊らないにしてもリズムに乗って体を動かしたり、思い思いにしている。俳優も作・演出家もその中にいるし、DJは上演前も、上演中も、上演後もずっとDJをしている。そのような中で、同じフロア、同じ高さの床面で、ふっと上演が立ち上がる。幼稚園で、それぞれ思い思いに遊んでいる園児たちに、「はーい、みんな聞いて、これから先生たちが人形劇を始めますよー」みたいな感じだ(人形劇が終わったら、またそれぞれの遊びに戻る)。
人々に何かしら共有されたミッションが課せられるわけではなく、皆、それぞれに過ごしているだけだが、それでも同じスペースの中で同じ音楽に貫かれていることによる「場の温まり」のようなものがある。上演の冒頭で俳優が観客に、自分に合わせてハミングすることを要求するのだが、ほとんどの観客が躊躇なくすんなりそれを受け入れていた。それは、パフォーマーと観客の間のコールアンドレスポンスというよりも閾の低いものであるような感じ。そのような場が上演前の一時間によって形作られていたということだろう。冒頭は、俳優が観客に語りかける調子で始まるが、これはもちろん実際に「そこ」にいる人に語りかけているのではなく、テキストにあらかじめ書かれているからそうしているのだが、しかし、それでも本当に「そこ」にいる人に話しかけているかのような空気になっていた(おそらく、テキストを離れて実際に話しかけたりしていた場面もあったのではないか、と思う)。
ある形(ある感触)の上演を成立させるための「場」を作るところから始めているような感じがあった。
(上演後に俳優たちは、観客がまだそこにいて踊ったりしているのに、かまわずその同じ場で打ち上げを始めたりしていた。だからそれは、共有されていると同時に、それぞれが好き勝手にしている感じの場でもある。)


