2024/03/11

⚫︎スーパーデラックスで『フリータイム』(チェルフィッチュ)を観たのは16年前の3月だったが、今でも憶えているが、会場に入って舞台上の美術を見た時に嫌な感じがした。中途半端に状況を(舞台がファミレスであることを)説明していて、中途半端にオブジェとして自己主張していて、これからここで演劇を始めるのに邪魔にしかならないように思えた。しかし、始まってみれば、この舞台美術があったからこそ、この作品はこうなったという、この作品の固有性を決定するような、作品そのものと不可分であるような装置だった。まさに「これからここで演劇をするのに邪魔にしかならないような装置」が、この作品をこのようなものにしていると思った。

この作品を特徴づけるような(ぐるぐる円を描いている)前屈の姿勢も、セリフとも物語内容とも無関係に、俳優たちが常に足元を気にしているというか、地上20センチくらいの高さが常に意識されている(無意識に意識されているかのように意識されている、常にその高さを足が弄んでいる)感じも、このような装置との相互作用の中でしか出こないだろう。演劇を観ていて、こんなに足元に注目することも、そうそうない。「その空間」の中でこそ立ち上がる演劇というのがあるのだなあと思い知らされた。

(作・演出の岡田利規は、この装置をどのように発注したのか気になる。こういう装置が出てきたから、このような演出になったのか、あるいは、初めから地上20センチくらいの高さ/低さが意識されるような装置を作るように要求していたのだろうか。)

chelfitsch.net

2024/03/10

⚫︎とても久しぶりにチェルフィッチュ『フリータイム』のDVDを観た。やはりこれはとても素晴らしい。2008年なのか…。六本木のスーパーデラックスがなくなったのがいつだったのかももう憶えていない。『王国(あるいはその家について)』に出ている人がいて、随分と若い。

(日記を読んであの日のことを思い出す。)

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2024/03/09

⚫︎『不適切にもほどがある ! 』、七話。今回は、現代のドラマ視聴者ディスみたいになっている。ディスというか、「たまたま六話とか七話だけ観たとして、それが好きだったら、ぼくにとってそれは好きなドラマです」と言う岡田将生の「いい奴っぷり(好感度)」によって(つまり、河合優美が「今、ここ」にいる経緯を問うことなく、それを謎として保留したまま、現状そのものを楽しみ、それ以上追求しないという態度によって)、伏線回収とか、細かい考察とかばかりしている現代視聴者の在り方(そして、そのような視聴者を前提として作られるドラマのあり方)に疑問を呈しているという感じ。それってあまりにも「狭い」ものの見方ではないか、と。そもそも、「終わり」が決まっていて、そこから逆算されるような物語ばかりが高く評価されるのはおかしいということが、「終わりが決まっている」阿部サダヲという存在を通して強く示されている。とはいえ、この『不適切にもほどがある !』というドラマがそもそも、最後にどこに落ち着くのか、どんなどんでん返しがあって、どのように伏線が回収されるのかとということにかんする「意外なオチ」を強く期待させるような作りになっている上に、伏線回収を求めるような現代視聴者の「反応」をあらかじめ織り込んでいるような作りであもあるので、一周回って、自虐的自己言及にもなっているという、複雑な在り方をしている。この絶妙なアイロニーの感覚が、このドラマの基調としてあるように思う。

(ぼくは、クドカンのドラマでは『マンハッタン・ラブストーリー』が好きなのだが、それにちょっと近い展開になってきているようにも思う。)

⚫︎ムッチ先輩の眉毛、これは『フリクリ』なのか。このドラマのムッチ先輩やエモケン先生が素晴らしいのは、人物造形としては明らかに「紋切り型」そのまんまのキャラでありつつ、紋切り型を越えた、あまりに自由な動き方をするところだ。登場人物たちはみんな、ムッチ先輩が「中卒のヤンキー」だからといって舐めている。しかしそんな中、ムッチ先輩は誰にも予想できないような飛び抜けた動き方をする。前回は、阿部サダヲと吉田羊がしんみりと「余命」についての秘密を語り合っている場にちゃっかり居合わせてしまうのだし、今回も、適当に誤魔化せるだろうとたかをくくってタイムマシンの仕組みを教えると、ちゃんと未来にいけてしまう。みんな、ムッチ先輩は馬鹿だから簡単に騙せると思っているが、蛙化現象にかんしても、タイムマシンにかんしても、誤魔化せると思ってもまったく誤魔化されていないばかりか、一回り上の行動を見せる。

エモケン先生にしても、時代遅れになった過去の業績によって今なお傲慢であるという、残念なウラシマタロウ的ベテランの紋切り型のように登場しつつ(それだけだったら単純な老害ディスにしかならない)、実は阿部サダヲとも気の合う気のいいおっちゃんであり、エゴサの結果でわかりやすく心が折れてしまうような弱いメンタルであり、傲慢なようでいて実は裏ですごく努力していたり(傲慢なように見せて実は久々の新作にすごく気合を入れている)、など、紋切り型からどんどんズレていく、このズレる動きそのものがギャグとなっている。このドラマでは単純な善/悪のようなものは存在せず、あらゆるものが様々な側面を持つということが、複雑に屈曲したアイロニーによって示されている。

⚫︎ちょっと前までは、素人感、手作り感に溢れるプールイYouTubeチャンネルに出ていたファーストサマーウイカが、今では、地上波の、こんな立派なドラマに出ているのだなあと、しみじみする。

⚫︎二十歳前後の時に『赤ちゃん教育』に出会って以来、というか、小学生の時に『マカロニほうれん荘』に出会って以来というべきかもしれないが、超絶的なコメディに目がないのだが、今のクドカンはコメディライターとして冴えまくっているなあと思う。

2024/03/08

⚫︎『マカロニほうれん荘』に衝撃を受けた派だったぼくは、『Dr.スランプ』が登場した時に、それまでとは異質な、何か決定的に新しいものが現れたという驚きを感じるとともに、その世界にどこか馴染めない感じがして、それが「少年マンガ」から離れるきっかけとなった(13歳くらいだったから年齢的にもそういう歳だったと思う)。『Dr.スランプ』の一巻は買ったと思うけど、それ以外の鳥山明には縁がなかった。今に至るまで、『ドラゴンボール』にはほんの少しも触れたことがない。思えば、鳥山明とは決定的にすれ違った人生だ。三、四年遅く生まれていたら、『ドラゴンボール』もすんなり受け入れていたかもしれない。まさに縁がなかった。

2024/03/07

⚫︎スライドを作っているだけで1日が終わっていく。

⚫︎この講義、すごく聞きに行きたいが、自分のイベントの前日なので、作業的にも体力的にも難しい…。

(「PARA4階+ズーム配信」とあるが、配信のみでもいいのだろうか。)

playsandwork.base.shop

2024/03/06

⚫︎連続講座の第一回である前回のマティスピカソ回は、スライドが200枚ちょっとで三時間くらいだったが、今回は、桂離宮の庭園にかんするスライドだけで250枚くらいになった。

(今のところ、論文「透明性―虚と実」の解説→論文外の具体例の提示→セザンヌの作品の分析→小津安二郎成瀬巳喜男の特定場面の空間分析と比較→桂離宮庭園回遊について、という流れで――これらすべてに関連がある――スライドが約400枚になっているが、これでも、やろうと考えていることのまだ半分くらい。)

(追記。スライドをパラパラまんがみたいに使っているところがあるので枚数が増えてしまっているということでもある。)

とはいえ、桂離宮については、(柄沢さんへの恩返しという意味でも)ちゃんと考えないといけないとずっと思っていたので、この講座を機会にして、その第一歩に手をつけることができた感じ。

(追記。桂離宮は、庭園だけでなく、書院群の建築の外観も超絶的に美しくて、おそらく内部空間も面白いに違いないと思うのだが、一般の人=ぼくでは、中には入れてもらない。)

(追記。書院群の中で最初に建てられたのは古書院だけで、後に、二代トシタダ婚礼の時に中書院が、ゴミズノオ上皇が来訪する時に楽器の間と新御殿が、増築によってその都度付け足された。おそらく庭園も同様で、最初から統一されたプランがあったわけではなく、付け足して、付け足して造られ、結果として、あんな奇妙な空間ができたのだと思う。)

2024/03/05

⚫︎23日にある連続講座二回目のスライドを作っているが、昨日の日記に書いた桂離宮にかんするところだけでスライドが200枚を超えてしまった。ほとんどのスライドが画像のみで、パッと見せてサクサク進んでいくはずだけど、それでも桂離宮への言及だけで一時間くらいはかかってしまうかもしれない。でも、桂離宮はそれくらい重要。

桂離宮の庭園を歩く時、先頭にガイドの人がいて、最後尾には監視の人がいて、その間に挟まってゾロゾロと団体で歩くので、自分のペースで歩くことはまったくできないのだが、その回遊時間がだいたい一時間弱なので、実際に歩くのと同じくらいの時間をかけて擬似体験してもらうというのもいいかもしれない。

まだまだ手直しするが、とりあえず最後まで通してスライドを作ったことで、自分なりにかなり濃い桂離宮追体験ができた。今回見ていくのは、建築の細部とかではなく、あくまでも空間の経験についてで、たとえば、なんとか様式のなんとか屋根が使われている、とか、そういうことではない(そういうことは、ほぼ知らない)。