2023/05/28

⚫︎一昨日の日記の写真に映っている「クレメント・グリーンバーグの美術批評―「コンセプション」について」(鈴木真紀)は、グリーンバーグの仕事や主張を知るにはとても良いテキストなのだけど(これを読めば大体分かる、と言っていいのではないか、これ以上に分かりやすくまとまった解説をぼくは日本語で読んだことがない)、このテキストをダウンロードした元の「neotrad.jp」というウェブサイトは今ではなくなってしまっているし、著者の名前「鈴木真紀」で検索しても、おそらく別人であろうと思われる人しか出てこない。ぼくもこの人がどういう人なのか知らない(おそらく東大系の人?)。

本当ならば、日本語で(カタカナで)「クレメント・グリーンバーグ」と検索したら、上位10位以内にこのテキストが表示されるくらいの環境であれば良いのだけど、そうはならないところがなかなか厳しい状況だ(現状ではネットでこのテキストは拾えない)。翻訳が出ている『グリーンバーグ批評選集』を読めばいいと言うかもしれないが、それはなかなかハードルが高い。

(そもそも『グリーンバーグ批評選集』には図版がついていないので、知識がない人には「何について」語っているのかすら分からない。美術に相当詳しい人でなければ、読んでも何を言っているのかよく分からないと思う。)

たとえば、あらゆる物事が資本主義によって呑み込まれてしまったような現在において、「アバンギャルド」はどのように可能なのか。あるいは、「アバンギャルド」などという貴族主義的で進歩主義的(で男性的)な概念は、平等と民主主義と多様性という理念によって唾棄されるべきものでしかないのか(しかし「アバンギャルド」に意味がないとすれば「芸術」に意味などあるのか)。それでもなお、この世界の中で常に発生する「新しいもの」を捉えるために「アバンギャルド」という概念に何がしかの意味が残っているとしたら、それはどのように魔改造されれば意味のある概念として使えるものになるか。芸術に、単なる「社会批評」にとどまらない(生を構成する「経験」としての)意味があるのだと主張するのであれば、これらのことを考えざるを得ないはずだし、このようなことを考えるためには、今もなおグリーンバーグのテキストには―-批判的にであれ-―参照されるべき価値がある、というか、参照せざるを得ないものがあるようにに思われる。

しかし、そこへ至る道は、ごく一部のかなりディープな人にしか開かれていないという現状が辛い。

(ちなみに上記のテキストでは、グリーンバーグにとって芸術を評価する根拠が、当初は「(メディウムの)自己批判」だったものが、ある時期以降「(作家の)コンセプション」に変わるということが書かれている。ここでコンセプションは、その作家独自のインスピレーションや構想力のようなものを指す。バーネット・ニューマンの絵は、技術的、手作業的には小学生でも描けるかもしれない。しかし、それがニューマンの絵になるためには、ニューマンが小学生につきっきりで指示を出さなければならないだろう。つまり、小学生にはニューマンの絵を自力で真似することができないし、構想することもできない。ニューマン風の絵が、ニューマンの絵になるためには、ニューマンという人の全人格が必要であるということになる。メディウムスペシフィックから属人的作家主義に近づく、という感じか。この変化は、ミニマルアートやモノクローム・ペンティングが出てきてしまったことから、それを否定しなければならないという動機によって生じた、と著者は推測している。メディウム自己批判ということを突き詰めると、そこから必然的に、ということはほぼ自動的に、ミニマルアートやモノクローム・ぺインティングが出てきてしまう。しかしその「論理的に考えれば当然こうなるよね」というオートマチックな流れに抗して、作家の「構想力」によって自力でそれとは別の道を開くという、ある意味「自由意志」的なものの働きが見られるというところに、ニューマンやルイスが優れていると評価するための根拠を置くことになるのではないか。)

(それと、カント的な「美」と「崇高」の問題もある。「崇高」でいいのならば、銀河も崇高だし、夜の高速道路も崇高だ。要するに「無限定なもの(無限定を感じさせるもの)」なら何でもありになってしまう。そして、ミニマルアートやモノクローム・ペインティングは無限定を感じさせることで崇高の効果を利用する。そうではなく、「美」は限定されたものの内側の関係によって出来ているが故に、固有の質を保つのだ、と。ニューマンの絵は、巨大であっても無限定ではない。)

⚫︎近代美術にかんしては、専門家でもなく、一般の美術ファンというのでもない、準専門家くらいの人、たとえば美大生とか、非実技系で美術を勉強している人とか、ガチめの美術ファンとか、日曜画家(死語?)とか、あるいは、美術に興味があるアニメオタクとか小説書いてる人とか、そういうくらいの感じの人に届くような言葉(そういう人にとって「使える」ような意味がある言葉)があまりに足りていないように感じる。

(一般の人向けのふわっとぼんやりした言葉はいくらでもあるし、アカデミズムはアカデミズムでそれなりの進歩があるのだろうが。)

「近代絵画(近代美術)」という問題が、既に終わった過去の問題なのだとしても、「そこで何がなされたのか(その絵が何をしているのか)」が、あまりにも蔑ろにされ、あたかも近代絵画の達成などなかったかのように物事が進行し、ただ、有名芸術家の「名前」だけが巨匠と持ち上げらられて展覧会のプロモーションとして消費されてるようにどうしても見えてしまって、辛い(心が痛い)。

「近代美術は具体的に何をしたのか」について、ふわっとした言葉でも、ガチすぎる専門的な言葉でもない、ざっくりした言葉が語られて、そこで最低限のコンセンサスが成り立つような情報の共有がなされないと、本当に先細りしかない(資本主義しか残らない)ように思う。

⚫︎そういえば、ChatGPTがあれば、グリーンバーグの主著「Art and Culture」を直接読むこともできるのだなあと思って、目次だけ訳してみたのだが、「カフカユダヤ人性」みたいな文学についてのエッセイも収録されている。肯定的なのか否定的なのか分からないが、ミルトン・エイブリーについて書いてもいるのか。エイブリーについて何を書いているのかだけでも読んでみたいかな、と思った。

2023/05/27

⚫︎下の写真は図書館で借りた本だが、今月は本を読んでいる余裕がなかったので(それは前もって分かっていたことなのだが…)、読まないでそのまま返すことになりそう。スティグレールの本はインタビューで、インタビュアーがエリー・デューリングだったから借りた。

⚫︎さしあたって読みたい本を並べてみる。

 

2023/05/26

⚫︎大変な二ヶ月もそろそろ終わろうとしている。途中で放置状態になってしまっている『Art and Objects』(グレアム・ハーマン)の続きを読み始めたいが、いったん別のモードになった頭を切り替えて、再開できる状態に持っていくためのウォーミングアップが必要だ。



2023/05/25

⚫︎『水星の魔女』、18話(プロローグを含めると19話目)。「ウテナ」の黒薔薇編みたいな懺悔室が出てきたけど(マルタンが懺悔している)、あれはなんなのだろうか。

今回は主に、地球寮の友情と結束(しかしマルタンが不安定要素)、ミオリネの決断(しかし、ほぼプロスペラに操られている)、スレッタとエアリアル(エリィ)との決別、というのが主な出来事だと思うけど、それ以外にも気になるところがちょいちょいあった。

あり得ると思っていた、スレッタ-ミオリネ-エリィの「娘たち」の連帯は、完全に分断されてしまった感じだけど、今後はどうなるのだろうか(分断されたまま、ということはないのではないか)。今のところ、まだ、プロスペラがやろうとしていることが何なのかが分かってなくて、さらに、スレッタが、ここからどう動くのかも分からない。ミオリネ-グエル連合は、完全にプロスペラに操られているが、二人がエアリアルと共に地球に降り立つことと、プロスペラの計画は何か関係があるのか。

ペイル社は、今のところ、一応、シャディクの配下にあるが、ペイル社のCEOたち、およびオリジナル・エランが、どう動くのかも分からない。

色々仄めかされてはいるが、まだまだ、どうなるか分からないところが多い。そして最も分からないのは、この後のスレッタがどうするのかということだろう。次回、スレッタがどうなっているのか、みるのが怖い。

(おそらくグラスレー寮のどこかに閉じ込められている・閉じこもっている、ニカ、エラン五号、ノレアの三人は、どうなるのだろう。ぼくはこの三人のシーン、特にエラン五号がとても好きだ。)

⚫︎ミオリネからもエアリアルからも切り離されてしまったスレッタが、しかし地球寮の友人たちと「普通の学園生活」を送っていて、やりたい事リストを次々と埋めていくというこの状態は、スレッタが本来望んでいた事であり、そして、ミオリネや(散々スレッタを操り、利用してきたにもかかわらず)プロスペラが、そうあることが彼女の幸せだと思っている状態ではある。

でもそれは、スレッタを舐めているというか、スレッタを「無垢な愛されキャラ」に留めておきたいという、ミオリネの、ある意味で「上から目線」からの考えだと言える(そもそもスレッタは、一度は「怪物化」して人を殺しているのであって、もはや無垢ではあり得ない)。スレッタはミオリネと出会ってしまったし、ミオリネはスレッタと出会ってしまった。この事実がある以上、スレッタは「無垢な愛されキャラ」に留まっていることはできなくて、スレッタ-ミオリネの対等な関係が回復されなければならないと思う。

前回ミオリネは「スレッタにはガンダムとか何にも縛られない世界で幸せになって欲しい」と言った。しかしそれに対してグエルは「そんな世界はないよ」と言う。これは、ミオリネの「上から目線」に対するグエルの批評だ。スレッタは、出自からして既に「プロスペラの陰謀」の一部であって状況に深く関与してしまっているし、(ネオリネを助けるためとはいえ)プロスペラにそそのかされて人を殺してしまっている。だからこそ、スレッタに必要なのは「楽しい学園生活」ではなく、脱プロスペラ化(脱プロスペラ的主体の確立)であり、そのためにはミオリネとの対等な関係の回復が必須であると思われる。

(これはまさにウテナとアンシーの関係で、空っぽなアンシーは、ウテナとの関係によって初めてアンシー自身であり得たのだった。ただそれが、ウテナへの依存という形をとるならば元も子もないので、二人の関係は対等でなければならなかった。)

ここで重要になるのが、スレッタのアイデンティティガンダム(エアリアル)との関係だ。つまり、脱プロスペラ=脱エアリアルなのか。それとも、スレッタとエアリアルとの密接な関係によってこそ、脱プロスペラ化とミオリネとの関係の対等化が可能になるのか。まあ「ガンダム」なのだから後者であるのだろうが。スレッタとエアリアル(エリィ)との絆が、どのような形で回復され、(おそらくそれを通じてだと思われるが)どのような形でスレッタとミオリネの絆が回復されるのかというところが、これから重要になってくるのではないか。

2023/05/24

⚫︎昨日まで三日分つづけてアップした「文房具絵画」についてちょっと解説。作品はどれも「形」としては下の四つの形だけで構成されています。二つの正方形を二つに千切ってできた四つのパターンです。単純に、色の異なる何枚かの色紙を、重ねて同時に手で千切るので、同じ形のパーツが複数できます。

 

正方形を二つの千切った形を用いるのは、二つの形が、互いを写しあう鏡像的な関係になるからです。上の形の余白(虚の部分)の形が、下の形の実の部分の形となり、二つの形は同じ輪郭線を共有します。

つまり、これらの作品は、「輪郭線」としては二つのパターンしか持たないということです。二つのメロディしか持たない曲のように、あらゆる形は、他の形の「こだま」としてあわれます。

同じキャラクター(形)が複数の場所に繰り返し出現するという意味で、過去に吉祥寺の「百年」で展示した作品の延長線上にあります。

note.com

ただ、この時の作品は「型」を使って同一のキャラクターを反復させるのですが、「文房具絵画」では、実際に同じパーツが繰り返し使われます。諸キャラクター、諸パーツの関係はフィックスされず、つくっては壊され、またつくっては壊されて、ただデータだけが残ります。

また、以前の作品は(というか、ここ十年以上のぼくの作品のほぼ全ては)、形と形は重ならず、絵の具と絵の具とは層を作らず、平面の中に分散的に配置されるのですが、「文房具絵画」では、キャラクターとキャラクター、パーツとパーツは積極的に重ねられ、層的な前後関係を作ります。それにより、同じパーツが、時には図として形を示し、時には形を後退させて色の広がりとなり、時には、形と形、色と色とのぶつかりを緩衝する媒介的な役割を負ったりします。同じキャラクター、同じパーツが、場面によって異なる役割を持ちます。

また、それぞれのパーツは、それが正方形であった名残りとして、二つ(以上)の直線の辺を持ちます。パーツは、「形(図・要素)」でありながら、それ自身がフレームであったという記憶を保持しています。

(層を重ねるのだけどレイヤーという概念とは違う、ということについて、まだ自分でも言語化できていない。)

⚫︎「百年」での展示の時のトーク

www.100hyakunen.com

2023/05/23

⚫︎一昨日からつづく、「文房具絵画」(2023年)。使用したもの。コピー用紙A4、クリアホルダー A4、いろがみ。

エプソンのスキャナーGT-S650にてスキャンする。

(糊づけなし。クリアホルダーに挟んで状態を保持し、スキャンしてデータをとった後、解体される。)

 

 

⚫︎裏。

 

 

 

 

2023/05/22

⚫︎昨日につづき「文房具絵画」(2023年)。使用したもの。コピー用紙A4、クリアホルダー A4、いろがみ。

エプソンのスキャナーGT-S650にてスキャンする。

(糊づけなし。クリアホルダーに挟んで状態を保持し、スキャンしてデータをとった後、解体される。)

 

 

 

⚫︎裏。