2019-09-18

(昨日からのつづき)「悟り」という概念は、「わたしが悟る」というのではないにしても、少なくとも「悟り」が「わたしにおいて」現れる、あるいは「わたしのところに」生じるのでなければならない。だから、悟りを願う者は、たったひとりのこのわたしとして、この世の無常と向き合う必要がある。禅宗の影響を受けた人たちが独居することを求め、そのための草庵を必要とし、あるいはそこまでいかなくても、一時ひとりになれる場所として(「市中の山居」として)邸内に草庵を必要としたということは納得できる。そこは、社会的、経済的、血縁的な諸関係を一時的にでも切断して、悟りを求める孤独な「わたし」として、単独的に世の無常と向き合うことを可能にするための場所であっただろう。だから、たとえそこに親しい誰かを招いたとしても、その親しさは社会的関係性とは異なる、個と個の関係としての親しさであることになるだろう。

このようなものとして成立していた草庵が、「一座建立」ではなくあくまで「一期一会」を主張した利休の茶室成立へと至る下地として必要であったということには説得力があるように思われる。だが、利休は「一人茶室」という方向へは行かなかった。

●以下、『藤森照信の茶室学』より引用。

(…)待庵の二畳は、主・客の二人を前提としていたが、どうしてもっと踏み込んで一人用にまで突き進まなかったのか。畳二枚であれば、一人で煮炊きし寝ることもできる。》

(…)同時代の丿貫は、米を炊いた鍋の底についたオコゲをかき落としてから湯を沸かして茶を点て、その一人茶ぶりに利休は引かれて、訪れている。先に、珠光のわび茶について、その先には岩の上で一人茶を飲む道があり得たと述べたが、丿貫はその境地に近づいていた。そもそも堺の茶室の手本になった西行や長明や兼好の草庵は、独居だった。》

《一人は個人を、二人は個人と個人の関係を、三人は社会関係を意味するとするなら、なぜ利休の茶室は、一人用の一畳台目でも三人用の三畳でもなく二畳なのか。その二人がなぜ自分と秀吉だったのか。利休のわび茶は秀吉を必要としていたのではないか。》

《発端はやはり信長の堺攻めだったにちがいない。利休の茶の拠りどころだった堺を力で押しつぶし、金で名物道具を買いあさった。》

《年譜を見ると、永禄一一年(一五六八)九月、信長が京に入り、一〇月、堺に失銭二万貫を課し、結局、翌年一月、堺は全面降伏しているが、一〇、一一、一二、一月の四ヶ月間に、堺ではさまざまな意見が出て、内訌が生まれ、策略が交わされたはずだが、四六歳の茶好きの納屋衆も態度を迫られたにちがいない。そしてこの冬、利休は逼塞したという。》

《信長の下に就くことを決めた堺と堺の茶界の大勢に抗し、隠居して一人茶の方向に進むかいっそ禅門に入るか、どっちの可能性も利休にはあった。にもかかわらず信長の茶頭の一人に上がったのは、心に期するところがあったにちがいない。でも、信長は、すでに述べたように茶の内容にも茶室にもまるで関心を示さなかった。》

《信長が倒れ、茶好きの秀吉が登場したとき、利休は勝負に出た。道具でも軸でもなく茶室を土俵に選んだのは、これもすでにふれたように安土城体験だったと思われる。》

《極小茶室は信長を相手にするときだけ作ったことが分かっている。山崎の待庵を皮切りに、秀吉が安土城に負けまいと築いた大坂城聚楽第に一つずつ作った。》

《もし極小茶室が中から外の庭を見ることのできるオープンな作りだったら、都の力と贅のただ中で鄙びた風光を楽しむ亭(あずまや)の一種と見なせるが、しかし極小茶室から外を眺めることはできない。茶室において障子は決して開けないし、もし開けても視線の高さをはずして作ってあるから外は見えない。》

《小さな入り口からもぐり込む閉じた空間は壺中天にちがいない。壺中天は、小さくともその中にこの世とは別のもう一つの宇宙がすっぽり入っている。壺中天としての極小茶室。》

《でも、普通イメージされる壺中天の別世界性とはちがう。ただ別世界を作りたいなら草庵茶室と共鳴する郊外の田園風景の中に作ればいいのに、どうしてわざわざ大坂城聚楽第でなければならなかったのか。》

《ゴムマリに小さな穴を開け、そこからズルズルと中を引き出すとまたマリに戻るが、しかし同じではなく、内と外が反転している。ゴム膜が反転することによって以前の外部がマリの内側に入り込んでいる。》

《この反転の空間的面白さを作品としてはじめて試みたのは赤瀬川原平で、一九六三年、「宇宙のカンヅメ」を発表した。》

《普通の壷中天ではなく、反転によって外側のすべてが中に封じ込まれた壷。この反転を可能にするのは、穴が小さいこと、中が閉じていること。そしてもう一つ、反転が意味を持つのは、外が真空状態ではなく物や力や富といった世俗があふれていること。》

《反転は、利休一人では外が真空状態と同じで意味を持たず、秀吉という物と力と富の所有者が小さな穴を通して入ってきてくれないと反転の秘儀は成立しない。入ってくれば、世俗の物と力と富が茶室という茅屋の内に封じ込められ、極小が極大を含み、極小の中に極大もまたあることになる。》

《反転現象は、待庵以前から堺のわび茶の領分では実現していた。都市の外の田園の中にもともとの草庵はあり、それを小さな庭を付けて都市の中枢部に持ち込んだのが紹鴎の四畳半の草庵茶室だった。》

《堺では、町の中に外の田園と草庵が反転して入り込み、利休の極小茶室では、大坂城聚楽第が、さらに秀吉という存在も反転して呑み込まれていた。》

 

2019-09-17

●引用、メモ。『藤森照信の茶室学』より。

禅宗の影響からくる「草庵」---俗を捨てて悟りを求める人が、都を離れて山里に“独居”するため建物---としてあったものが、トポロジカルなねじれによって、「堺」という商業都市の内側に(いわば「内にある外」として)再帰的に組み込まれる。町屋の裏庭に「市中の山居」としての(「内にある外」である)草庵が結ばれるようになる。外が内へと畳み込まれ、内が外へと開き出される。このようなトポロジー的ねじれ---反転---によって生まれた「市中の山居」としての草庵の成立が、(利休による)茶室という特異な空間が生まれるための下地としてあった、と。おもしろい。

《日本の建築の長い流れの中に短い安土桃山時代を置くと、まず信長により国籍不明の天守閣が突発的に出現したこと、次に秀吉の聚楽第で書院造りがピークに達したこと、そして利休の茶室が生まれたこと、この三つをもたらした時代といっていいだろう。》

(…)困惑の理由は利休の茶室で、どうして、和漢洋混在の天衝く建物と豪華絢爛の大建築と並んで、広さ畳二枚のような建物が登場するのか。利休は、社会的には信長と秀吉の茶頭として和漢洋混在と豪華絢爛の中心にいながら、なぜあのような美学を生み出したのか。》

《この時代は今から思うと不思議な時代で、内戦の最中なのに国際関係は充実し、中国、朝鮮、東南アジアとの貿易、交流に加え、地球の反対側からやってきた東回りのポルトガルと西回りのスペイン、さらにはイギリス、オランダなど西洋諸国と貿易し、人と文化の交流を果たす。内戦の最中なのに、国内経済はにわかに盛り上がり、それに国際貿易が加勢し、そうした富の力を背景に芸術と文化の領分も煮えたぎり、沸騰する。》

《やがて利休によって完成される草庵茶室の元をたどると、鎌倉時代の草庵に行きつく。都を離れ、草深い中に作る極小住宅のことを庵といい、中でも草を結んで建てたような貧相極まりないのを草庵と呼ぶ。草庵には“世捨て人”が独居した。力と財と名と色のこの世を捨て、出家し、仏教の僧として独居することが多かったのは、インドにはじまった仏教には伝統の神道などとちがい“悟り”の考え方があったからだ。》

禅宗鎌倉時代に日本に入り、草庵独居の思想と文化がはじまる。先駆者は西行北面の武士として朝廷に仕えた後、この世の無常を感じ、出家し、自分の得た境地を多く歌に詠んだ。「寂しさに耐えたる人のまたもあれな 庵並べむ冬の山里」。(…)この歌には二つの含意が隠されている。》

《一つは、最初から平気で一人で生きられるような人と庵を並べたいわけではない。多勢と共に生きることの楽しみと喜びを経験しながら、しかしそれを捨て、一人で生きる覚悟を得た者とならば庵を並べよう。もう一つも論理は変わらず、この世への欲望のもともと薄い人が欲望を捨てても悟りとはいえず、力、財、名、色からなるこの世界を欲望全開にして生きた者のみが、世を捨てて冬の山里の庵に入ると悟ることができる。》

《草庵での超俗とは、俗の世を存分に生きる力とその体験を前提としながら俗を抜けて別の場に移ることを意味する。(…)社会的に見れば、別の場とは俗の世の対極に位置し、俗の世を批判し相対化する作用を果たす。》

《利休の活動に先立つ頃、草庵は多く都の郊外に結ばれ、隠居した僧や文化人や裕福な町人などが独居していた。忘れてはならないのは、都との距離で、もちろん都のにぎわいは届かないものの、山の奥までは入り込まず、たとえば都の周辺の寺の裏山などの夜になると都の明かりが遠くに望まれるような距離を保っていた。対極としての緊張感が感じ取れるような距離。》

(…)どうして、中世初頭の京に源を発する草庵と茶の二つ流れは、中世から近世への端境に、ほかならぬ堺で合体したんだろう。》

《都の灯がほのかに見える辺りに立地していた世捨て人独居のための草庵は、やがて、都市の充実、過密化のなかで、都市の中心部に住まう裕福な商人が、自分の住まいの一画にも求めるようになる。人工物としての都市が、都市の中に草庵の“草”を求めた。具体的には、通りに面して軒を連ねる町屋の裏には必ず通風、採光、作業のための空き地が取られているが、その空き地に植物を植え石を並べて小さな庭を作り、庭の隅に草庵を結ぶ。一人になりたいときや親しい友人が訪れたときは、そこに入ってひとときを過ごす。(…)経済的にも文化的にも恵まれた「市中の隠」が営んだこうした庵のことを「市中の山居」とか「市井の山居」と呼んだ。》

《激しい都市化は、(堺が)商業都市だったことによる。京のような都は政治都市であり、庭付きの大きな宮殿とか政庁とか、大きな行列が通り国の威風を見せる大通りや広場などを不可欠とするが、逆に商業都市は、ヴェネチアアムステルダム、ニューヨーク、上海などの世界の国際貿易都市を思い浮かべれば分かるように、必要最低限の公共面積のほかはすべて店と倉庫と住まいに当てようする。いきおい、過密化は避けられない。》

《富と建築のギュウ詰め状態が、それまでの草庵にはなかった市中の山居をもたらしたのだった。》

《海外の国際貿易都市でも自然を求める気持ちは強く、そこここに緑が取り込まれているが、市中の山居はそれとはちがう。緑と一緒に草庵が持ち込まれたことに注目してほしい。緑だけなら通風と日照のためのただの裏庭にすぎないが、草庵の投入によって、その一画は通りに面した母屋同様、小なりといえ一軒の家が入ったことになり、ただの小さな裏庭が、本来の草庵の周りに広がるはずの森や緑や水といった屋外の自然と通底することになる。都市の外に広がる大きな自然が、草庵を一つの穴として市中へなだれ込む。》

 

2019-09-16

RYOZAN PARK巣鴨樫村晴香単独トークイベント。現場ではいっさいメモをとらずにひたすら聞いていたので、以下は、記憶を頼りに、ぼくの解釈を交えて書いたもの(正確な、ちゃんとした記録は、おそらくそのうち発表されるでしょう)

●一番偉い哲学者というのは存在しない、ということが言われた。人によって、土地によって様々なやり方で考えられ、そのどれもが強い部分もあり、弱い部分もある。微積分的に考える哲学者もいるし、トポロジカルに考える哲学者もいる。それらを「一番偉い哲学者」として統合することはできない。

●樫村さんの話は、常に具体的な情景、あるいは場面と結びついているように思われる。それは、樫村さん自身によってこの世界のどこかで経験された情景であったり、誰かの著作物や作品のなかにあらわれる場面であったりする。

この場合、具体的な情景(場面)とは何か。まず、とても強い印象を人に与える場面があり、その描写がある。その印象的な描写は、連続的に、そのような情景にかんする(非常に精密で高い解像度を感じさせる)分析・分節へと移行していく。その分析・分節は、その情景にかんする分節化でありながら、抽象度を増していくことで、その限定を越えて、この世界、この宇宙がどのようにあるのかという、そのあり方を示すものとなっていく。しかしここで、具体的な情景が世界を説明するモデルとなるのではなく、情景についての分節化がそのままこの宇宙についての分析と重なってしまうというように、「具体的情景の分節」と「この宇宙への問い」との間にフラクタル的な関係が成り立つような形になっている。

ある特定の情景への分節が、そのまま「この宇宙はどうなっているのか」という問いとフラクタル的に重ね合わされ、情景の描写がそのまま「この宇宙とは何か」という問いとなる。そして、この二つ(描写と分節、情景と世界)がぴったりと重なった時、一つの大きな反転が起こる。「この宇宙とは何か」「この世界はどうなっているのか」という問いが、それを「問うている何か」「何かを問うということそのもの」への問いへと逆流する。「そもそもそれを問うているものはなになのか」「それを問う者とは何なのか」「それを問うものとして発生しているこのこれ---わたし---とは何か」という形で、問いが発生している場所としての「わたし」の方へと、「この情景の印象の強さ」と「世界への問いの重さ」としてあった力と強さが、「問うことへの問い」として、そのまま「わたし」の方へとのしかかってくる。その強烈な逆流による圧迫が起こる場こそが「人間」という「存在」が生じている場所ではないか。

(世界の説明からオントロジーへの反転。)

この反転によって生起する気持ち悪さ、いやな感じ、あるいは恐怖。樫村さんはおそらくこの感じを、ニーチェにおいて繰り返しあらわれる「悪魔」や、月の光や蜘蛛の巣とともにやってくる永劫回帰への認識(繰り返し何度もやってくるものを、何度も忘れ、何度も思い出す)に近いものとして捉えているのではないか。

チュニジアの海岸で海を見ている。フランスやギリシアから海を見ていると、太陽が海の方向にあるので、風景は強烈な色彩としてやってくる。しかし、アフリカの側から海を見ていると、太陽は背後にあって海に射しているので、海は光というより波のさざめきでとしてあり、波動としてはっきりと見えてくる。海水は透明で、海の底の地形も見える。それらが明確に見えるので、海をずっと見ていると、次の波がどのような形を描き、砂浜のどこまで届くのかを正確に予測できるようになってくる。

波は予測した通りにやってきて、予測した通りの形を描き、予測した通りに引いていく。この状態をしばらく経験していると、現在の状態は過去の状態によって完全に決まっており、未来の状態もまた、現在の状態によって完全に決まっているという、「ラプラスの魔」のような決定論が強く想起される。想起されるというか、そのような世界のなかにあることが強く(逃れようもなく)実感される、ということだろう。そしてさらに、その「すべてが決定されている(決定されているすべて)」の中に、今、それを見ている自分も含まれているということが認識される。認識というか、今見ている風景が---ほかのようにではなく---そのようにしか見えないのと同じくらいの確実さで、そのような実感が強要される、という感じではないか。

「あらかじめすべてが決まっている」この宇宙のなかに、「すべてが決まっている」という強烈な実感をもってしまう自分が含まれている。あらかじめすべてが決まっている以上、この実感は強いられたものであり、逃れようもないが、しかしそのような実感が生まれてしまうことの奇妙さ、そのような実感「として」存在してしまっていることの不可解や腑に落ちなさ、そしてそのような実感が---とこかから?風景から?---やってきてしまうことに対する「いやな感じ」。

この「いやな感じ」こそが、ニーチェ永劫回帰に通じるものであり、また、「~とは何か」という問いを立ててしまう(問いを立てざるをえない)存在として、「問うことの元基」としてある人間という奇妙な存在の怪異を感じるほかないのではないか。

(この話を聞きながら、樫村さんの楳図かずお論のとこを想起した。というか、この話を聞いて、楳図論というのはそういうことだったのかと納得できた気がした。)

●この話と、ラカンの海に浮かんだ鰯缶の輝きの話(「見えているもの」そのものが防衛である)や、「オイディプス王」の話(「真理」は目からではなく耳からやってくる)は、やや次元を異にしていると思われる。これらは、存在の元基としての永劫回帰の次元よりは、既に幾分か人間が「人」の形へと構成され、世界が「世界」として構成された---あるいは、されつつある---次元の出来事であるように思われる。

(ラカンと「オイディプス」については、もっとじっくりと詳細な話をしてもらえると大変にうれしい、という願いをもっています。)

ブッダアングリマーラアングリマーラ99人もの人を殺し、その99本の指をつなげて首にかけていたような人物。ブッダアングリマーラに会いに行く。アングリマーラブッダを殺そうとするが、ブッダはゆっくりと身をかわすだけなのに、アングリマーラは決してブッダに追いつくことができない。二人の時間が異なっている。

アングリマーラブッダの弟子となる。ブッダアングリマーラに、重篤な病人に向かって、「私は、この世のどのような悪にも染まっていない、その徳によってあなたは救われるだろう」と言うように命じた、と。

現在の日本の知的な環境では(というか、たんにぼくの興味の範囲では、ということか)、仏教について考えようとする時、参照するのは龍樹であり「華厳経」であることが多いように思われるが、樫村さんは、もっと初期の、ブッダの仏教がおもしろいと言っていた。

●『饗宴』のアガトンについて。アガトンは、美しく、穏やかで、博識で聡明であるが、欲望がない。あるいは、「問うことの元基」としての「いやな感じ」をもたないだろう。樫村さんは、人工知能をそのようなものとして捉えているようだ。そして、将来はそのような---アガトンのような---存在によってあらゆることがらは解析され、実行されるだろう、と。ただ、この部分については時間が押しており、駆け足に語られたもので(ぼくは『饗宴』を読んでいないということもあり)、細かいニュアンスまでは読みとれなかった。

(復習として『饗宴』は読まないと……)

 

2019-09-15

NHKのドラマ(といっても、ぼくはU-NEXTの配信で観ていたのだが)『だから私は推しました』を、最後まで観た。

いわゆる「地下アイドル」を題材としたドラマで(オタク気質というわけではない普通のOLが、ちょっとした偶然から地下アイドルにハマってしまう話)、ドラマとしてすばらしく面白いというほどではないのだけど、細かいところまで丁寧に取材が行き届いていて、そのレベルでとても感心させられてしまった。

紋切り型、無知からの思い込み、偏見といったものが、それらをかわすようにして丁寧に避けられて、作られている。普通のOLが主人公であり、オタク向けにつくられているドラマではない(基本的に、地下アイドルになど興味がないであろう視聴者に向けたつくりになっている)のだが、おそらく、けっこうディープなオタクが観ても、それほど違和感はないのではないか。

(ぼくはネットの情報しか知らない「にわか」で、地下アイドルにそんなに詳しいわけではないので、深いオタクの人に意見を聞いてみたいのだが。)

それだけと言えばそれだけのことなのだが、的確な取材に基づく思い込みや偏見の解除というのは、それだけでとても重要なことなのではないかと思う。地下アイドルという文化にかんする偏見を避けて通りながら、決して、それを手放しに肯定しているというわけでもなく、危ういところは危ういものとして描いているところも、バランスがとれていると思う。

(アイドルだってオタクだって、別に普通の人だよね、というスタンスでつくられている。)

地上波のドラマなので、そこまで深い掘り下げがあるということではないし、きれいな絵や話にしすぎていると思うところもないではない---必ずしもリアリズムではない---が、無駄な偏見をあおるような紋切り型を安易に使わないということを徹底する、というところは実現されていると思う。

(たとえばNetflixで配信されている「TOKYO IDOLS」というドキュメンタリーはその逆で、ドキュメンタリーでありながら、制作者たちがあらかじめ持っている思い込みのようなイメージが、取材対象にそのまま押しつけられている---あらかじめ持っているイメージに沿ったところだけを適当に切り取っている---としか思えない、雑につくられた作品だと思う。「文化人」たちによって添えられたコメントもけっこう恥ずかしい。)

テレビ(地上波で放送されるテレビドラマ)という環境のなかで製作されたことを考えれば、これはかなり大したことなのではないかと思う。現代の日本でも、時代は確実に進歩していると思えるところも、多少はあると思えると、うれしい。

 

2019-09-13

●引用、メモ。「桂---その両義的な空間」(磯崎新)より。

《桂は、中央に位置する書院の他に庭園内に数件の茶邸がある。庭園も場所によって手法の異なるものが組み合わさっている。構成する建築のタイプが多様であるが、同時に、それがかなりの期間にわたって、異なった人物の手によって段階的につくられたため、当然、ちがったデザイン手法が混在し、複合している。しかも桂が造営された寛永(一六二四~四三)は、日本の建築史上でも希有なほどに、そのデザインがドラスティックな変化を遂げた時期であったので、その変化した前後の手法が、当然のことながら全域にまぎれこみ、ちりばめられている。時間的にも空間的にも、幾重にも重層している、といわねばなるまい。》

《興味深いことに、桂は、四半世紀のあいだにわたって、その時代の転換がおこなわれるような重要な地点に、建築家たちの意識のなかに、姿を変えながら立ち現れている。ブルーノ・タウトの桂評価を演出した建築家たちにとって、桂は近代主義を保守的民族主義による圧殺から回避する重要な梃であった。そして堀口捨己にとっては、近代的なものと民族的なもの、西欧的なものと日本的なもの、といった相容れない要因の相互に架橋する論理が例証できる舞台であった。また丹下建三には、桂が、縄文的なものと弥生的なものが激突する、創造の契機を内包した戦場のようであっただろう。しかし、いずれの場合も、同じ桂であった。ということは、彼らの組み立てた読解装置が、それぞれの時代の文脈のなかにあって異なった作動をしたための結果である。》

《一七世紀の初頭は、住宅建築において、二つの形式が重なり合った時期である。ひとつは書院造りで、中世以来、主として武家、寺院の住居形式として発達した。もうひとつは数寄屋造りで、庶民住居、草庵風茶席などの非格式的な住居に用いられていく形式である。前者は、中世の大工がもっていた木割り体系を展開させ、大棟梁による組織的な建設を背景に、雄渾で、武家の好みに適合する、格式的な様式で、西欧のクラシック・オーダーを厳密に使用する方式に比較できる。後者はそれにたいして、施主の直接的な好みを反映させる中世的な、施主と大工の関係を保持し、自在なアドリブを重視したフリースタイル・クラシズムともいうべき方式で、一七世紀以降、急速に町屋、武家の別業などに用いられるようになった。》

《桂はこの二つの形式が重なり合う時期に建造された。主要建物は書院という名称をもっている。そしてその平面形は明らかに書院造りに近い形式をとっているのだが、その木割りは、近世的な方法として確立した大棟梁のものでなく、むしろ立面や装飾は数寄屋造りの面影が濃厚である。微妙に両方の性格をもっていて、いずれとも断定しがたい。》

《ここで共通している視点は、桂が、文化的系譜、建築様式、政治的引力、階層的関係、そのいずれにおいても明快な判定を下すことが不可能なほどに複合した関係性のなかに絡めこまれていることを指摘することである。それを、併存とみるか、拮抗とみるか、妥協とみるか、融合とみるか、統合とみるかは、それぞれの言説の意図するところによって異なる。だが、いずれにも共通するのは、桂が、内側に矛盾し対立する要因をかかえこみ、それが幾重もの意味を発信している事実である。それを、桂がもつ両義性といっていいだろう。》

 

2019-09-12

●「時間的形態としての都市」(エリー・デューリング)は、「東京とは何か」という問いから始まっている。ここにはいくつもの非常に魅力的な分析がある。「同時性」を、各瞬間における物の空間的な配置として考えるのではなく、異なる流れ(リズム)が時間のなかで共にあるという形で考える(膜としての時間)べきだという時間論的な主張も、東京という都市の具体的な考察を通じて、そこから導かれるようになっている。

たとえば、東京の「明確な形をもたない」という性質(マスタープランの欠如、中心/周縁の不在、「全体」を見渡すことの不可能性)について、それをたんに混沌として捉えるべきではないとされる。

(…)芦原は、日本の都市建築は近くから考察されるために作られており、いくつかのヨーロッパの都市のように壮大な遠近法や全体の構成に合わせて遠くから考察されるべきものではないことを強調しています。要するに、都会の空間が視覚的に見て無秩序に感じられるのは、位置の取り方や視線の向け方が悪いせいだ、ということです。外的膜や全体的図式の形式的統一性を捉えようとしても、見えなくなったり、影に隠れたりする空間に突き当たります。完成した構図を探しても、見つかるのは部分的な完成ばかり。それゆえ東京の「隠された秩序」を捉えるには、形態についての私たちの概念それ自体を変化させる必要があるのです。》

(…)東京の形態は全体(le tout)、あるいは諸全体(les touts)の中に求めるべきではありません。それは諸部分の中に、すなわち諸部分を分節化するある特定の様式の中に求めるべきなのです。(…)それは生成のうちにある形態であり、常にその一部分が潜在的かつ未完成なのです。》

《しかし私はここで、急いでひとつの保留を表明しておきたいと思います。(…)形態と全体性の概念を非固定化したからといって、全体化の問題が片付いて完全にローカル性に専念できるわけではない、ということです。全体的なものは消えはしません。不完全な形態という観念、そしてこの観念が一見含意しているローカル性の促進が示しているのは、全体的なものに復帰するための他の道を見つけなければならないということにすぎません。》

●このような問題意識が、東京という都市空間の問題と哲学的な問題(複数の異なる流れを束ねるものとしての「同時性」の問題)とを関係づける。ここでエリー・デューリングは二つの問題を結び付けるためにパラドックスという方法をもってくる。

《そこで私は東京という形態の特徴について誰もが知っている考察を積み重ねるのではなく、まずはこの問いにひとつ目の理論的定式化を与えておこうと思います。私はそれをパラドックスという形で定式化し、その支えとして具体的な例、それも大げさなくらい具体的な例の数々を使います。》

《第一のパラドックス:東京は本質的に小さい。(…)私はついさっき、東京は計り知れないほど巨大だといいました。(…)しかし私たちは感じています、東京は小さい、と。(…)東京はパリよりもはるかに広大で、当然京都よりも大きい。しかし東京は言うなれば質的に小さいのです。》

(…)まず、東京の巨大さそれ自体が、そこにひどく異質なスケールが共存しているという事実と相まって、ただ対照の法則によって小さく見せる効果を高めていることはあきらかです。新宿で窓ガラスから光を放つ高層ビルのすぐ近くに、「ゴールデン街」のいかがわしい小地区にある居酒屋が人でごった返している。マッチ箱の形をした木製の小屋は比較すると実際よりもさらに小さく、ちっぽけで、細く見えます(…)。これはミニチュアです。小さな庭や、高架下の小さなレストラン、その他にも無数の東京の側面にも同じことが言えるでしょう。しかし純粋に相対的なこの側面以上に私が面白いと思うのは、私が引用した部分でバルトが捉えていた、言うなれば絶対的な小ささです。Small Tokyoという冊子の中で、ジュリアン・ウォーラルはダーコ・ラドウィックのチームと協力していますが、彼は東京が「高解像度」の都市だという言葉で、これをうまく説明しています。これは新世代テレビのスクリーンについて言う時と同じ意味です。東京にいると、頻繁に最低単位であるドットのスケールまで落ちるのだという考えです。(…)これは量的な小ささや、相対的あるいは絶対的な大きさに由来するものではなく、(…)次第に減少する都市の織り目の部分の中で、ドット単位に至るまでのあらゆる解像度でスケールの多様性を再発見する可能性に由来するものなのです。》

《「ゴールデン街」の小さな居酒屋が、高層ビルの足下にひしめいている。しかしそれぞれの居酒屋に入ってみると、さらに驚くべきものに出会います。ごく小さな酒の容器の隣に巨大な酒瓶が置かれているかと思えば、ポケットサイズの水族館や日本庭園が二つの石の間に配置されており、近くにある御苑や、地区にある「ポケットパーク」を思い起こさせる、等々。》

《すでに見えてきているのは、フラクタル構造のようなもの、あるいはモナド的な、ライプニッツにおける魚の住む池のようなものです。それぞれの魚は体液を有しており、その一滴一滴がまた池である、というように無限に続くのです。》

《東京は真のライプニッツ主義者のように無限の解像度を持つわけではありません(…)が、その解像度はこの観点からすると遙かに同質的で目の粗いロサンゼルスよりもずっと高いのです。そしてこの考えは、東京の形は近くから見ないと明らかにならないという芦原の発想に一致します。形は全体ではなく、部分の中にあるのです。形は不完全であると同時に近似的であり、近接的、すなわち近接性や親密性の価値と結びつくものでもあります。》

●このようにして、いくつかのパラドックスを示すことによって、哲学的な(一昨日の日記で引用した)「同時性」の概念へと徐々に迫っていく。そして、「同時性」の概念を一通り説明した後に、このような(同時性にまつわる)探求が向かうべき先を指し示すものとして、昨日の日記で引用した「日本庭園」についての部分が述べられる。さらに、この論考で述べられた様々なことが、S-Houseについての考察へとぐぐっと集約されて終わる。エリー・デューリングがどれだけS-Houseを高く評価しているかがうかがえる。

S-Houseは同時の形態に関する実験という観点から、とりわけ私の興味を引きます。なぜならS-Houseは体系的な仕方で、二つの原理、透明性の原理と分離の原理を作動させているからです。透明性の原理は視界を最大限に解放し、それぞれの部屋から他のほぼ全ての部屋に視線が届くようにします。しかしそれと同時に、分離の原理は視覚的空間と、家への訪問者の現実的あるいは潜在的移動と結びついいた運動感覚の間を断ち切っています。というのも通路が一見してそう思えるよりも長く、複雑になっているからです。目は手や足より速いのです。直接見ることのできるある地点に到達するためには、まっすく数歩進めば済むと思いきや、実は入り組んだ道のりであることがわかります。階段を通って回り道をし、障害物をさけるなどをする必要があるのです。この分離やずれは、この家に住む哲学者清水の言葉によると、二カ所性の感覚(ソファに座ったまま、水を飲むために台所へ向かう)や、幽体離脱に近い感覚(体はベッドに寝たままで、心は夜中に通りをさまよっている)を誘発します。私もこの家を訪問して、この構造が持つ、方向を見失わせる力を感じることができました。透明性の原理と組み合わせることで、分離の原理は柄沢の言う構造の不透明化に到達しています。ここで奥の逆説的経験、すなわち谷崎や槇、あるいはオーギュスタン・ベルクが賛美した、陰と深い親密さの経験について話すこともできるでしょうが、この経験はここにおいて、完全に透明性の要素の中で展開しているのです。空間は透明性と不透明性を結びあわせます。空間はそうして、へーゲル(あるいはエルンスト・ブロッホ)だったら同時的なものと非同時的なものとの同時性とでも言ったであろうものを完成させます。》