2019-05-18

●お知らせ。来月ですが、68()巣鴨で、上妻世海さんに対話の相手をしていただいて、『虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察』の刊行記念のトークを行います。

虚構と制作 〜「虚構世界はなぜ必要か?」刊行記念イベント〜

https://www.facebook.com/events/600519313800983/

『虚構世界はなぜ必要か?』が刊行されてもう五ヶ月たとうとしていますし、前に一度、京都でイベントをしてもいますが、東京でも行うことになりました。

場所は、巣鴨駅から徒歩3分のRYOZAN PARK 巣鴨。時間は、15時から17(18時までその場で懇親会)。料金は2000円です。

以下は、「トーク概要」。

《フィクションについて考えることは、夢をみることに、あるいは夢について考えることに似ています。そして、現実主義者は、そのようなことには意味がないし下らない、あるいは、無責任で害悪でさえあると言うでしょう。それに対しわたしたちは、そのような現実主義の態度こそがわたしたちの現実を堅く貧しくしているのだと反論することはできるのでしょうか。》(「虚構世界はなぜ必要か?)

この本はアニメを題材としたものですが、ここで考えようとしたのは、人にとっての共同的な「物語(虚構)」の抜き差しならない不可避性と必然性ということでした。そして、今後わたしが考えようとしているのは、そのようなフィクションの限界地点、つまり、フィクションがそこから立ち上がり、またそのただなかへと消えていくような地点についてです。

今回は、〈私〉と〈私でないもの〉の狭間で身体が組み換えられる「制作的空間」へスリリングに踏み込んでゆく『制作へ』を書かれた上妻世海さんに対話の相手をお願いしました。上妻さんがこの本をどう読んだかという話を通じて、上妻さんの力をお借りして、この本の限界の向こう側にまで広がっていく話になればと思います。

古谷利裕

●今日、そこで。

 

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2019-05-17

●『さらざんまい』、第六話をU-NEXTで。

●尻子玉というのは、他から個を隔てている「秘密」を守る殻であると同時に、他者や世界とのつながりを保証する媒体でもあるという意味で、両義的なオブジェクトであるようだ。

「欲望」というのはそもそもそういうものだと言える。「欲望とは他者の欲望である」という手垢のついた言い方もあるが、そういう言い方をしなくても、欲望が個として閉じているとしても、そもそも欲望があるからこそ、他者や世界への興味が開かれる、という素朴な意味で、欲望は閉じてもいるし、開いてもいる。

●地上にそびえるスカイツリーに対して、地下深くに掘られて潜行するカワウソ帝国のアジトがある、というトポロジカルな反転的対称性がある。また、隅田川を挟んで、墨田区側に「今ある」塔であるスカイツリーに対して、浅草側に「かつてあった」塔である凌雲閣という反転的対称性がある。凸と凹という反転的対称性と、存在(今ある)と非在(今はない)という反転的対称性。『さらざんまい』の世界は、このように反転的対称性の重なりとしてできている。

●その一方、「思い」の方向の一方通行性というか、非対称性というのがある。たとえば 一稀は、春河に対して一方的に「うしろめたさ」を負っている。また、燕太は一稀に対して一方的に「強い好意」をもっているし、悠は兄()に対して一方的に「強い憧憬のようなもの」を抱いている。また、これまで対称的な二人組と思われた 玲央と真武の間にも、一稀→春河、燕太→一稀、悠→誓と同様の一方通行性(玲央→真武)があることが匂わされた。玲央にとって真武は、なにかしらの意味での特別な「思いの対象」であるようだ。

●第六話では、一稀の春河に対する一方的な「うしろめたさ」があるのと同時に、春河の一稀に対する一方的な「うしろめたさ」もあるのだということが明らかになり、この二つの非対称性の間に繋がりがみいだされる。

しかしこの繋がりは、 一稀と春河との二項の間での双方向性(対称性)として実現するのではない。一稀の捨てたミサンガを春河が拾い、それが燕太を通じて再び一稀のもとに戻ってくる、というような、別の経路を通じて繋がりが実現される。二項関係においては、一稀→春河であるか、春河→一稀である、というように、「思い」は常に一方方向にしか流れない(二つの流れは重ならない)。ケッピ、燕太、悠といった、二項関係には含まれない別のアクターによって媒介される(パス回しされる)迂回路を通ってはじめて、食い違うそれぞれ個別の「思い」が双方向化する。ミサンガが、燕太を通じて一稀に戻ってくることで「春河→一稀」の通路が開け、ケッピが、悠から燕太にパスされ、燕太から一稀にパスされることで「一稀→春河」の通路が開かれて、それによって「思い」の循環が生じる。

●決裂寸前の危機にあった一稀と春河との二項の関係が、その関係の外部にある第三者的なアクター(ケッピ、燕太、悠)の媒介によって回復される。おそらくこれが第六話において起こっていることだと思われる。そしてここで媒介となるアクターたちもまた、純粋な媒介ではなく、それぞれ個別の「思いの一方通行性」を抱えた存在でもある。

(玲央と真武のような、二項で相互補完的に完結しているように見える二人でさえ、その関係は自己完結的ではあり得ない。)

●第六話でもう一つ触れられているのが、「尻子玉」を失うと、あらゆる「関係」から脱落してしまって、存在しないことになってしまう、ということだ。あらゆる「関係」から脱落することで、「(今は存在しないが)かつては存在した」という事実まで失ってしまうのだ、と。

これは「ピングドラム」から引き継がれる重要な主題だが、ここで、あらゆる関係から脱去する「何者とも出会わないオブジェクト」の存在について考えるハーマンを思い出さないでいるのは難しい。しかしここで問題になっているのは、「何者とも出会わないオブジェクト」そのものというより、存在と非存在の境界、関係と非関係の境界にあるもののことであり、ある対象が、そのどちらにも転び得る状態にあるということの方であると思われる。

さらに言えば、存在と非存在、関係と非関係を、図と地のようなものとして考えるということではないか。

 

2019-05-16

●余裕がないなか「いかれころ」(三国美千子)を改めて読み返した。たいへん面白かった。掲載されている「新潮」の表紙に180枚と書いてあるのをみて「そんなに短かったのか」と驚いた。みっしりと濃厚に中身が詰まっているから、それなりのボリュームの小説を読んだような感じがしていたから。

やはりこの小説は、四歳の女の子の視点から語られるというところが大きいと感じた。彼女は直前まではものごころがついていなかったはずで、つまりは、彼女自身がそのまま「その土地(その土地の関係)の無意識」として存在していたはずだ。そして「ものごころがつく」というのは、世界(土地・関係)から、それを背景として「わたし」が浮かび上がるということであるはずだから、「わたし(ものごころ)」自体がひとつの(背景=土地・関係への)「違和感」であるはずだろう。

(ものごころがつく、というのは、それまで一体化していた地=世界から、図=わたしが分離するということだろう。)

視点人物である奈々子は、「土地の無意識」から、それへの違和感として「土地の自意識」として目覚める(ものごころが芽生える)。だからこの小説は、ある土地の関係やありようを一人の四歳の少女のという特定の視点から切り取ったというものではなく、「ある土地の自意識」としての「少女の視点」が立ち上がった、その視点の立ち上がり(視点の生成)そのものがが刻まれていると言えるのではないか。いまにも崩壊しつつあるが、それでもなんとか保たれている、ある土地(世界)があり、その土地のなかの人間関係がある。崩壊しつつある「その土地の自意識」として、(多数あり得る視点の一つとして)少女の「ものごころ」が生まれる。

ただ、この小説にあるのは、土地の自意識(違和感)としての少女の視点(ものごころ)の生成だけではなく、それを支え、補強するものとして、既に自律的な視点を確立した、少女の未来からの視点もある。どちらかというと、この未来からの視点こそが、小説を小説たらしめ、小説という形式を支えていると思われる。しかしだとしても、この小説の「核」としてあるものは、「視点の生成」の方にあるように思われる。

 

2019-05-15

●三国美千子「いかれころ」(「新潮」201811月号)が三島賞を受賞した。すばらしい。これはたいへんすばらしい小説なので、この機会に多くの人に読まれることになればいいと思う。

過去にこの日記に書いた「いかれころ」の感想。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181008

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181009

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20181010

読んでいて強く感じるのは、おそらくこの作家は、天性の「小説が書ける(書けちゃう)人」なのではないか、ということだ(地肩がとても強いピッチャー、みたいな意味で)。それは、文体や文章という以上に、場面の作り方がめちゃくちゃ上手い、という感じ。そして、大きな小説を書ける、大きな作家になることのできる可能性をもっているのではないかとも思う。ここで「大きな小説」とは、「物語の構えが大きい(大きな物語)」という意味ではなく、たとえば、『明暗』とか『細雪』とか『枯木灘』とかみたいな、描かれている範囲や出来事は決して大きくないけど、そこに含まれているものがとても大きい、というような意味で。

 

2019-05-13

●今、利部志穂さんの展示が行われている。しかも、横浜だから割と近い。だが、時間的にも、頭の中的にも余裕がなく、観に行けるかどうか微妙だ。とても観たいのだが…。展示期間の最後の方になんとか時間を作れるか、作れないか、というところか。

 利部志穂個展「Piazza del Paradiso」アズマテイプロジェクト

http://www.junazumatei.net/pg113.html

●利部さんの作品をはじめて観たときは衝撃的に面白いと思った。もう十二年も前、2007年のことだった。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20070317

●それから、2013年のアーティストファイルでの作品はすばらしかった。

《作品があって観客がそれを観るのではなく、作品の一部と観客の一部とが連結することで作品が作動し、作品の作動によって「観客」を形作っていた諸関係が切断され、バラバラになった観客がバラバラに作動する作品の諸要素のなかを循環し、バラされた観客はそのなかでまた勝手に切り離されたり、繋ぎ合わされたりする。だから、作品を通過した観客はまるで合い挽き肉のような、半分別物が混ざった再編成体になっているだろう。》

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20130311

2011年の、府中市美術館で行われた公開制作については、東京新聞にレビューを書いた。

https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kokai/kokaiitiran/kagabu.html

東京新聞201117日づけ、夕刊。

府中市美術館にはアーティストの制作の過程を見せるという企画があり、現在、81年生まれの注目の作家、利部志穂の制作が見られる。制作は公開制作室で二月二十七日まで断続的に行われ、完成された作品は三月九日まで展示される。

利部の作品には様々な素材が使われる。建築廃材や解体された電気製品、針金、鉄柱、木切れ、枯れた植物、布、合板、電球や蛍光灯、等々。生活のなかで集められたそれらが、日常的な意味や機能から切り離され、解体された上で、意外な物同士が組み合わせられる。未知の文法で組み立てられた物体は、例えば「スフィンクス」や「ウナギイヌ」のようにユニークで、詩的な韻律や飛躍を持ち、単体でもオブジェや彫刻として鑑賞に耐える。しかし利部の真のユニークさは、それらの個物たちが独自の世界を形作るように展示空間内で互いに緊密に関係づけられて置かれる点にある。

だがそれは、あらかじめ作者が持つイメージを表現するために素材を構成するというのとは違うようだ。雑多とも言える素材の一つ一つを吟味し、一見、何の関係もないように見える物たちから、見慣れた秩序に覆い隠されて見えない別の関係性を丁寧に探り出し、パズルのピースを並べるように手さぐりで繋げてゆく過程を経ることで、その結果として浮かび上がる世界の姿なのだ。素材と素材の関係が探られて一つのピースが作られ、さらに、ピースとピース、ピースと空間の関係が探究される。あるいは逆に、空間から素材同士の関係が規定される。その結果作品には、一望ではとても読み切ることのできない複雑な関係のネットワークが張り巡らされる。

このことは、制作過程を見ているとよく分かる。作家は、集中して作業をしているかと思うととつぜん中断し、別の作業をし始めてしまう。一つの遊びにすぐ飽きて他へ目移りする子供のように散漫にも見える。しかし、散らかった細部の間にふと関係が見出されると、その瞬間、劇的に秩序が立ち上がり、空間が動く。おそらくこの発見の積み重ねが制作なのだ。

鑑賞する側も同様で、細部のユニークさに導かれるうちに、ふいに、埋め込まれた意外な関係に気付かされる。この手さぐりと気付きの楽しさが魅力だ。》