2019-02-19

●『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)で、アクターネットワーク理論が「科学は社会的に構築されている」と言う時、それはいわゆる「社会構築主義」とはまったく意味が違う(真逆ですらある)---「構築」という語の意味も「社会」という語の意味も違っている---と力説している部分で、註にドゥルーズの『襞』が引用されて、《例によって、何でもありという相対主義と相対性とを混同することの代償は大きい。ドゥルーズが言ったように、「相対主義が説くのは、真理が相対的であることではなく、関係が真理であることだ」》と書いてあって、おおっ、それな、と思った。

《(…)何かが「構築された」ということは、それが真実ではないことを意味していたのである。そして、そうした研究者たちは、次のような常識外れの選択をせよという奇妙な考え方をしているようであった。つまり、実在しており構築されていないか、構築された人工的なものであり、仕組まれ発明されたものであり、作り上げられた偽物であるか、のどちらかを選択しなければならないという考えだ。》

《(…それは)私たちが実験室で目撃したあらゆることにも反していた。仕組まれたものであることと客観的であることとは、切り離せないのではないか。(…)事実は事実である---つまり、正確な事実である---のは、その事実が作り上げられたからである---つまり、事実は人工的な状況から立ち現れたということだ。私たちが研究した科学者たちは、一人残らず、構築の質とデータの質との結びつきを誇りにしていた。実のところ、その結びつきの強さが、科学者であることの主たる証であった。》

《(…)「構築主義」を「社会構築主義」と混同してはならない。私たちが「ある事実が構築される」と言うときには、さまざまな事物を動員することで、堅固で客観的な実在性が報告されることを示しているにすぎない。そして、そうした事物の組み合わせはいつもうまくいくわけではない。他方で、「社会構築主義」は、この実在性を構成しているものを何らかの他の素材、つまり、社会的なものに置き換えることを意味している。実在性は「実のところ」社会的な素材で築かれるというわけだ。》

《私たちにとって、構築主義実在論の増進と同義であるにもかかわらず、社会的批判を専門とする私たちの同僚からは、ついに「科学さえでたらめである」ことを示したとして讃えられていたのだ!》

2019-02-17

ブルーノ・ガンツといえば、ぼくにとっては何よりヴェンダースの『アメリカの友人』だ。この映画の時に彼はまだ三十代なのだなあ。そして、共演していたデニス・ホッパーももうこの世にいない。

(77年の映画だけど、観たのは80年代。『パリ、テキサス』が日本で公開されたタイミングで、どこかの映画館でかかったのを観たのだと思う。ただ、だとすれば85年で、ぼくはまだ高校生で、微妙に無理がある。その1、2年後くらい---浪人中---に観たと考えるのが妥当かもしれない。でも、高校の時もけっこう東京に出て、映画を観たり本を買ったりはしていたからどうなのか。はじめて観たのが、いつ、どこでだったのかはっきりとは思い出せないが、映画館の階段の途中に貼ってあったポスターが印象的だったのを憶えている。しかし、記憶にあるこの場面は、もしかすると他の映画を観に行った時にそこに『アメリカの友人』のポスターが貼ってあったのを見た、ということかもしれない。いずれにしろ、何度も繰り返し観ている映画ではある。)

ツイッターの写真を見ると、清水さんがフィレンツェで泊まっているホテルはブルネレスキの「捨て子養育院」の真ん前みたいだ。ブルネレスキを観にまたフィレンツェに行きたい。

(パッツィ家礼拝堂は本当にすばらしかった。ただひたすら陶然とした。ぼくが行った時には工事中で、サント・スピリト聖堂のなかに入れなかったのが悔やまれる。)

https://twitter.com/omnivalence/status/1096792265517805571/photo/1

●メモ。スカートのメジャー2nd Single『君がいるなら』、やばい。

https://www.youtube.com/watch?v=8mE2_WRDXO4

●メモ。sora tob sakanaのメジャー1stアルバム「World Fragment Tour」収録「knock!knock!」MUSIC VIDEO、やばい。

https://www.youtube.com/watch?v=MyikIWSAEE4

●どこまでがインディーズでどこからがメジャーなのか、もはやよく分からないけど。

2019-02-16

中島愛「ラブリー・タイム・トラベル」を買ってしまった。

(中島愛にかんしては「マクロスFの人」くらいの認識しかなかったが、「豪の部屋」でこのアルバムの存在を知った。)

中島 愛カバーミニアルバム「ラブリー・タイム・トラベル」クロスフェード動画

https://www.youtube.com/watch?v=kCnplJGiB9o

トーフビーツ、LUCKY TAPESの高橋海、フジファブリック金澤ダイスケといった人たちが、80年代から90年代のアイドルソングをアレンジしている。選曲やアレンジャーの選出を、中高生時代に、ブックオフハードオフで80年代から90年代のアイドル曲を熱心に掘っていたという中島愛(89年生まれ)自身が行ったセルフプロデュースアルバム。中島愛トーフビーツ(90年生まれ)は同世代で、茨城と兵庫の「ブックオフ文化」がここで出会っているという感じもある。

(かつて、渋谷に多数あった輸入レコード店が文化的インフラとなって渋谷系が成立したのだとすれば、全国にある---「あった」と言うべきか---ブックオフが文化的インフラとなって成立するブックオフ系というカテゴリーがあってもいいのではないか。)

(Suchmosも同世代だが、Suchmosにはブックオフ感がない。)

(追記。同世代で「ブックオフ系」といっても、中島愛がそこで見いだしたのは80年代から90年代のアイドル曲であるとすれば、トーフビーツが見いだしたのは、70年代から90年代のいわゆる「ジャパニーズ・シティ・ポップ」であろうから、食い違いはある。このアルバムでは、「青いスタスィオン」が中島愛路線だとすれば、「真夜中のドア」はトーフビーツ路線であろう。どちらもトーフビーツがアレンジ。)

YouTubeでオリジナルを探して聴き比べるのも味わい深い。

一曲目の松田聖子カバーがけっこうインパクトが大きくて、モノマネになってしまう一歩手前で踏みとどまっている感じ---研究し尽くした上で自分のオリジナリティのありようを確保している感じ---が絶妙な松田聖子リスペクトになっている感じ。

(カバーを聴いた後で松田聖子を聴くと、松田聖子松田聖子感をよりいっそう感じられるようになる。)

「青いスタスィオン」を聴いたのは三十数年ぶりだと思うけど、けっこう憶えているものなんだな、と思った。若い頃の流行り物(おニャン子クラブ!)というのは意識しなくても記憶に残っちゃってるものなのだな、と。今だと、同時代にはあった「流行り物への反発」みたいな感情が消えているから、すんなり聴いてしまう。

Kimono Beat ‐ Seiko Matsuda(あえて、ゼロ年代バージョンで)

https://www.youtube.com/watch?v=tNEkK4OsslE

河合その子青いスタスィオン

https://www.youtube.com/watch?v=uMKtl4_apDQ

電電公社CM:安田成美/透明なオレンジ(これしか見つからなかった)

https://www.youtube.com/watch?v=4-LXrYeCnO4

今井美樹- 雨にキッスの花束を

https://www.youtube.com/watch?v=OpeA6yAboLo

CoCo - 無言のファルセット

https://www.youtube.com/watch?v=8pS7piVZ17I

MIki Matsubara - 真夜中のドア

https://www.youtube.com/watch?v=k-KAY_Glmn4

松本伊代 - 時に愛は

https://www.youtube.com/watch?v=BIIFQN4JiUs

2019-02-15

●『マルセル・デュシャンとチェス』(中尾拓哉)を読んでいたら、作品制作をやめた後のデュシャンがチェスの国際大会でしばしばフランス代表に選ばれていたと書いてあって驚いた。デュシャンが制作をやめてチェスに没頭したという話は有名だが、それをどこかで「リタイア後のおっさんが縁側で将棋を指している」みたいな感じ近いものとしてイメージしていて、いわば「チェスへの没頭」を、制作しなくなった後の「沈黙」の隠喩的表現のようなものとして捉えていたのだと反省した。デュシャンにおけるチェスを舐めていてすいません、という感じだ。

しかしそれは、ディシャンは、作品の制作することをやめて沈黙したのではなく、たんに(チェス好きの)アーティストから本格的なチェス・プレイヤーに転身したのだということも意味していて、だから、デュシャンの「沈黙」に対して何かしらの深遠な意味をみいだそうとすることそのものが間違っていた、ということにもなるのだなあと思った。デュシャンは、沈黙したのではなく(隠喩的にではなく字義通りに)チェスをしていた、と。

デュシャンの「チェス・プレイヤー」としてのキャリアは、美術史においては欄外項目である。しかし、実際にチェスをするその姿は、隠遁者のイメージにはほど遠く、「フランス・チェス連盟(FFE)」から「チェス・マスター」の称号を授けられ、チェスの国際大会でフランス代表として招聘されるなど、多くの輝かしい記録が残されている。》

2019-02-14

●『最愛の子ども』(松浦理英子)を読んだ。

作家はそれぞれが固有の「茨の道」をもっており、あるいはそれに拘束されており、作家は自らの作品において、その「茨の道」を孤独にすすんでいくものなのだなあと感じた。

そして、その「茨の道」にきちんと行き会えるかどうか、その道に沿って歩くことができるかどうかというのは、それぞれの読者の資質や才能の問題ということになるだろう。

そういう意味でぼくは、この作家のちゃんとした読者である資質を欠いているように思われる。これが固有の「茨の道」であろうという感触を得ることはできるが(その意味では十分に面白いと感じることはできるが)、その道に沿って歩きながら、その固有の風景の機微を十分に感じ取れているとは思えない。

(この小説が描き出す官能的感触に、十分に感受し共振できているとは思えない。)

たとえばぼくは、この小説を一瞬だけ横切って消えてしまう(この小説の他の部分とはあまり関わりがないようにみえる)、修学旅行を一人で過ごす誰だかも特定されない男子生徒のイメージをキーとしてこの小説の形式を分析してみたら面白いのではないかと思ってしまうのだが、でも、それはぼく自身の欲望であって、この小説(この作家)が進もうとしている「茨の道」に沿って歩くこととは違ってしまうだろう。

(読者が、作家の固有の「茨の道」と行き当たるためには、速すぎても遅すぎてもいけないし、粗すぎても細かすぎてもいけない。)

●「わたし」の視点から語られる話だからといって、必ずしも「わたし」についての語りだとはかぎらない。「わたし」という視点を通じて、「わたし」がすでに「わたしたち(複数のわたし)」として分裂してしかあり得ないというような形であらわれていることを示す、というような語りもある。逆に、「わたしたち」を通して語られる「わたし」のありようもある。それがこの小説なのではないか。ここで問題になっているのはあくまで、固有の「茨の道」としての「わたし」の姿であるように思われる。

この小説には、二つの組成のことなる「わたしたち」があるように思う。一つは、「わたしたち」としてしか語りえない、わたし以前の「わたし」の萌芽的状態であり、もう一つは、対象というよりは関係そのものを欲望する、そのような欲望の対象=関係としての「わたしたち」である。しかし後者においても、ある関係のなかにいながらも、自分がその一部である「関係」そのものを欲望するものとしてたちあがってくる一つの主体、(固有の「茨の道」としての)「わたし」(真汐)の姿が浮かびあがっており、そのような「わたし」のありようこそが、この小説では問題になっているように思われる。

この小説は、「わたしたち」のなかから「わたし」が生まれ出てくるという話であり、同時に、その「わたし」は、対象というより関係を欲望する(あるいは、関係を対象化する)ことによって主体化した「わたし」であるという話でもあると思う。そうであるような「わたし」のうちには、「わたしたち」が内包されている(つまり、わたしたち>わたし、であり、同時に、わたしたち<わたし、でもあるというように、「わたしたち」と「わたと」とは相互包摂的な関係にある)。だからこそ、そのような「わたし」は、「わたしたち」を通して語られる必要がある。「わたしたち」が語っているのは、そのような形でしか語り得ないものとしての一つの「わたし」であり、そのような形をした固有の「茨の道」のありようであるように思われる。

未分化な異なる資質たちによって構成される曖昧な塊としての「わたしたち」のなかに、ある個別的な関係が「図」として生まれ(つまり、曖昧な塊があって、そのなかからやや分離された、語られる対象としての対象=関係が生じ)、その関係の(繰り返し語られることによる)進展のなかから、ひとつの固有の「わたし」という「茨の道」が出現する。しかしこれはたんに、曖昧な塊→個別の関係→固有の「わたし」、という継起的な進展の過程というよりも、「わたしたち」のなかから「わたし」が分離するという過程であると同時に、「わたしたち」はすでに「わたし」たちであって、「わたし」であるものから遡行的に導かれた「わたしたち」の塊だということでもある。

そのような意味では、「わたしたち」によって語られる「わたし」の話であるだけでなく、「わたし」の解析を通じて遡行的に組み立てられる「わたしたち」の話であるのかもしれない。このように、相反する反転的な要素が一致している点が、この小説の形式的達成だとも考えられる。だとすればこの小説は、一つの固有の「茨の道」を示すと同時に他方で、、一般性をもつ架空のおとぎ話としてもあると言えるかもしれない。

2019-02-13

●紋切り型ではあるが、真善美という古典的な価値の三幅対(三権分立)を考える。これらは、それぞれの領域が自律してあるというより、それぞれの価値の領域の独自性はボロメオの輪のように相互依存している、と考えられる。

たとえば美は、「善にも真にも還元されないもの」として捉えられるとき、その独自性がはじめて明らかになる、と考えるとする(善でも真でもないが、美であるものがある、と)。同様に、善は、真にも美にも還元されないものがある(真でも美でもないが、善であるものがある)というとき、真は、善にも美にも還元されないものがある(善でも美でもないが、真であるものがある)というとき、その独自の領域が確保される、としてみる。

しかし、(神のすでにいない)科学と資本主義の時代である現在では、この三権分立の力のバランスは壊れていて、成り立たっていないと言うべきだろう。科学と資本主義は「真」という価値の絶対性を主張する。真という価値こそが圧倒的に強く、善や美は真に従属するものでしかなくなる。

善も美も、どちらも真によって導かれる。あるいは、真と矛盾するならば、善や美は実現されない(それは偽であり、諦めざるを得ない)、ということになる。真と矛盾しない限りにおいてのみ、真との調停によってのみ、善や美はその(限定的な)存在の可能性を許される。

真こそが、実在(リアル)への通路なのであって、善や美は、せいぜいが、人間的領域にあるもの、人間的な価値(「世界そのもの」ではなく、人間にとって価値のあるもの)にしか過ぎない、ということになる。これが現在を生きる我々の常識的な感覚であろう。

しかしそうではなく、善や美もまた、真と同等の権利をもつ(互いに他には還元不能な)「実在」への通路である、とは言えないだろうか。(神のいない現代において)そう言い得るとすれば、どのような考えがあり得るのか。