2022/09/28

Netflixで『罪の声』(土井裕秦)を観た。野木亜紀子脚本ということで観たのだが、なんというのか、脚本をそのまま、可もなく不可もなく、ぬるっと映像化した、という印象の映画だった(同じ土井裕秦監督でも、『花束みたいな恋をした』はそんな感じはなかったのだが)。たとえば、小栗旬の衣装が、「映画やテレビに出てくる新聞記者の紋切型」そのもので、おそらくそれなりに潤沢な予算の映画だと思われ、決して安っぽいというわけではなく、ちゃんとしているといえばちゃんとしているのだが、だからこそなお、一層、工夫がなく見えてしまう。そして、お話そのものも、そんなに面白くもなかった(オリジナル脚本ではなく原作モノなのだな…)。

フィクションと現実の距離感がよく分からない感じだった。明らかに、グリコ森永事件を参照していて、実際、「キツネ目の男」の似顔絵などは、現実のグリコ森永事件と同じものが使われている。なのに、映画では、ギンガ萬堂事件となっているし、犯人グループは「かい人21面相」ではなく「くら魔天狗」となっている。事件そのものは、現実がほぼそのまま引用される。そして、フィクションでは犯人グループも特定される。ここで、現実の事件と、フィクションの犯人たちとの間の繋がりに、どの程度の現実的根拠があるのかがよく分からない。つまり、現実の事件を取材して、そこから全くのフィクションとして犯人像を作り上げたのか、そうではなく、取材を続ける中で、ある程度までは犯人像が見えてきていて、しかし確証までは得られなかったので、フィクションという形にしたのかが、よく分からない。

なぜ、そこが気になるのかというと、グリコ森永事件の顛末から、着地点として全共闘(世代)批判みたいなところに繋がっていくのだが、この繋がりにどの程度の根拠があるのか、この作品からだけでは判断できないからだ。もしこれが、全くのフィクションなのだとしたら、グリコ森永事件を全共闘と繋げるのは、恣意的すぎるように思われる。あなたたちは、社会正義だと言いながら、子供たちの未来を奪っているのですよ、という、割と強い否定的な主張が含まれているのだから、そこまで強く言うには、それなりの根拠が必要ではないかと思うのだが、その(現実的な)根拠が、あるのかないのかが、まず分からない。

犯人グループは一枚岩ではなく、異なった目的や出自の人たちの寄せ集め的な集団であったということになっている(社会変革の思想を持った人は、その一部でしかない)。それなのに、物語の最後には、宇崎竜童と梶芽衣子という、二人の全共闘世代の人物が、まるで事件そのものを代表するかのように(あるいは逆に、劇場型犯罪としてのグリコ森永事件こそが、反体制的運動の行き着く先であり、新左翼的運動を代表しているかのように)、小栗旬星野源から、強い調子で責められる。「あなたたちのやったことで社会が少しでも良くなりましたか」と小栗旬は宇崎竜童を強く問い詰めるのだが、この「やったこと」とは、グリコ森永事件そのものであると同時に、その向こうにある社会変革への運動(そして思想)を指しているように聞こえる。しかし、ここで小栗旬にそこまで言う権利があるのだろうか、と思ってしまう(「声の罪」を負わされてしまった子供たちが不幸になったというのは、あくまでフィクション上の話であるはずだし)。

別に、全共闘(世代)批判をやりたいのなら、ちゃんとやればいいと思うのだが、グリコ森永事件を題材としたフィクションの「オチ」のような場所にそれを置くことに、どのくらいの正当性があるのだろうかと疑問を感じてしまったのだ。

(新聞社の文化部にはやる気のない記者がいる、という紋切型も、「社会」に対して「文化」を下にみている感じで嫌だった。)

Wikipediaには、《この事件の犯人については、 「北朝鮮工作員」、「大阪ニセ夜間金庫事件の犯人」、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元あるいは現職警察官、「元左翼活動家」、各種の陰謀説など多くの説があり、未だに議論は尽きていない》と書かれている。そして、この物語では、犯人は、総会屋、株価操作を狙った仕手グループ、元警察官、元左翼活動家、そしてそれらのハブとなるヤクザなどからなるの合同チームとして描かれている。なのになぜか、元左翼活動家だけが、その子供の世代である二人の主役から強く責められ、その場面が映画のクライマックスとなってしまう。

星野源が、自意識以前であるような子供の頃に、全く自覚のないまま重大な犯罪に加担させられてしまって、大人になってそれを知ってしまった時に、そのことを自分なりにどう決着をつけるのかという、その問題だけに集中するような話だったら、興味深いものになったかもしれないと思う。そこから始まった話のはずなのに、こっちの視点がどんどん弱くなってしまう。余命幾許もない母(梶芽衣子)を責めるだけでは、この問題は決着しないと思う。

事件に加担させられた三人の子供たちのうち、星野源以外の二人はとても不幸な人生を強いられる。現在まで幸せに暮らしてきた星野源は、そのことでさらに罪悪感を強くする。だが、この「他の二人は不幸だった」というフィクション上の操作は、単に劇的な効果のためのものでしかなく、「意識以前の罪への加担」という主題をぼやけさせてしまったように思われる。他の二人は、単に「悪い大人(悪い親、悪い関係)」のせいで不幸になったのであって、つまり「事件への加担」そのものよりも「生育環境」が問題であって、「意識以前の罪への加担」への罪悪感という、星野源が抱える問題とは「別の問題」として考えなければならないことではないかと思う。

あるいは、「意識以前の罪への加担」という問題と、「悪い大人たちの関係の中に生まれてしまった子供」という問題の、二つの問題を同時に走らせるような物語であのかもしれない。しかしそうだとしても、その二つをもっときちんと切り分けて示す必要があったのではないか。現在幸福である星野源の問題は、ある意味で抽象的なものであり(抽象的だからといって切実ではないということにはならない)、それに対して、実際に不幸や貧困の只中にいる人は、全く質の異なる問題に直面している。

そして、そうだとしても、それが全共闘への批判に繋がっていく必然性は見えない。

2022/09/27

●『初恋の悪魔』について少しモヤモヤするのは、多くの人が林遣都松岡茉優の演技力、満島ひかりの存在感などを褒め称え、セリフとして語られた多くの美しい言葉に共感したりしているのだが(それらはもちろん称賛されるべきものだが)、でもむしろ、このドラマに「メッセージ」があるとすれば、例えは、冤罪にされ最初の殺人の犯人にされてしまったホームレスの人や、三番目の殺人の容疑者とされた嫌われ者のインフルエンサーや、あるいは菅生新樹たち四人に最初に殺されてしまった少年とか、そのような、多くを語られることのない、その存在が顧みられることの少ないような人のことをこそ、その存在を意識すべきだし、その孤独に思いを馳せるべきだ、ということだと思うのだけど(林遣都=鹿浜鈴之介が素晴らしいのは、そのような多くの人物の反響を自らのうちに響かせていることによる倫理性をもつからだろう)、実際には、多くの人が、前景にあって見え易い、容姿の優れた、あるいは高感度の高い人物や、呑み込みやすい綺麗な言葉にばかり反応してしまうということだ。

(何かが図としてフォーカスされれば、それ以外の何かが地の一部となって背景へと後退する。これはどうしようもないことだ。しかしこのとき、背景へ後退した何かにも、前景でフォーカスされている何かと同等の内実があることを、意識・配慮しなければならない。それを、前景となった何かのうちから、遠い響きとして聞き取らなければならない。そのこと―そのような倫理性―をこそ、このドラマは語っているのではないかと思う。)

2022/09/26

●ほとんど気に掛けることもないまま通り過ぎた過去の些細な断片が、ものすごい生々しさで回帰してきて圧倒される、という経験をした。下の動画を観たのだ。

(もう十年以上か、下手をするともっと長いこと観ていないはずなのに、「サザエさん」のBGMが無意識にこんなに深く刷り込まれていたのか思って恐ろしくなった。)

サザエさんのBGMをひたすら演奏して解説します!【112曲】 - YouTube

2022/09/25

●『初恋の悪魔』、最終話。いい最終回だった。連続ドラマの最終回というものの「完璧な解」の一つなのではないか。ぼくが観ている限りにおいてだが、坂元裕二作品でも最高の最終回ではないかと思う。最後の最後まで緩むことなく攻めていて(どこまでも次々とネタが投入される)、それでいてピタッときれいに着地している。

(『カルテット』も「大豆田…」も、最終話では、きれいに着地するためにやや「置きにいく」感があったけど、『初恋の悪魔』では、最後の最後まで押し切っている感じ。『モザイク・ジャパン』の最終話も素晴らしかったが、こちらは、最終話に至るまでの流れに、少し信用しきれない不安があった。)

●これは、良くも悪くもということだと思うけど、テレビの連続ドラマというものの新しい地平を開いてしまった感じがある。単純に「密度」ということだけをみても、週一回放映されるドラマとしては異様な密度で、それを実例として示してしまったのだ。変な例えだが、バイト先で、どう考えても時給と釣り合わないようなすごい働きをしてしまう人が一人いると、その人を標準とするとまではいかないとしても、全ての人がその人の働きと比べられてしまう。そういうことが起こってしまっている。密度に差がありすぎて、他のドラマがスカスカに見えてしまう(そのテンプレの「段取り」かったるい、みたいに感じてしまう)。

●ドラマ全体を通して面白かったのは、最後の方にチョロッと出てきた奴が真犯人という、ミステリとしては禁じ手をあえてやっているところ。途中の段階で、誰がどのように知恵を絞って考察しても、決して犯人を当てられない。なぜなら犯人は「まだ存在していない」から。「最後にチョロッと出てきた奴が真犯人」でいいならば、途中の段階で何をしても大丈夫。好き放題やった、その諸条件に合わせて事後的に(適当に)犯人像を作って、最後にチョロッと物語に絡ませればいい、ということになってしまう。謎解きミステリとしては全く不誠実でフェアではない。こういうことをあえてやるのは、作品自体が「これはミステリではない(謎解きに大した意味はない)」と宣言しているということだろう。

(坂元裕二の脚本は、「多くの伏線が埋め込まれている」と考えるより「多くのミスリードへ誘う細部が含まれている」と考える方がいいのではないかと思った。たとえば、フックとなるような細部が100あるとして、そのうちで伏線として使用される―回収される―のは20くらいで、残りの80くらいは、結果としてミスリードを誘う細部となるという感じ。つまり、重要な問題は「謎」にはない、徴候が必ずしも「謎の解」へと収束しない、ということ。)

●最終話で一番すごいと思ったシーンは、林遣都伊藤英明が対峙する緊迫した場面で、それを遮るように伊藤英明スマホからLINEの通知音が途切れなく聞こえるところ。ドラマ全体のクライマックスとも言えるようなこんな緊迫した場面に「笑い」を入れてくるのか(しかも、相当しつこい「笑い」だ)、とびっくりする。観ているこちらの感情も分裂するというか、どういう気持ちで観たらいいのか分からなくなる。「緊迫」と「笑い」という相入れないものが、混じりあわないまま同居するという、この作品を象徴するような場面だが、こんな場面は映画とかでも観たことがない(右目と左目が分裂するゴダールの3D映画くらいか)。そしてこの「笑い」のしつこさがそのまま、菅生新樹の狂気の表現でもある。この場面を演出した水田伸生は、脚本を読んだ時には本当にこれを成立させられるのかと頭を抱えたのではないか。

(観る側の緊張を高めてくるような緊迫した場面に、その緊張を弛緩させるような笑いの要素が同時に走っているので、息を吸っていいのか吐いていいのか分からないような感じで、うっ、うっ、うっ、となってしまう。)

緊張(緊迫)と弛緩を、「緊張→弛緩」というリズムとして用いるのではなく、両方同時にはしらせる。あるいは、ものすごく細かいリズムでくるくる反転(逆転)させる。ドラマの終盤ではしばしばそういうことが起こっているが、その頂点のような場面だと思う。

●菅生新樹たちに最初に殺されてしまった少年は、少年時代の林遣都と通じるところのある(つまり同類であるような)少年だっただろう。どちらもサラッと流すように描かれるが、林の少年時代の描写のエグさと、(伊藤英明の声によって語られる)菅生新樹の語りの無自覚な残酷さから、集団というものに対する坂元裕二の嫌悪が感じられる。少年時代の林は、同調圧力によって(精神的に)殺されてしまってもおかしくなかった。だが同時に林は、五話の山口果林と通じ合うものがあり、周囲や社会を恨んで理不尽に人を傷つけてしまうような人になったかもしれない可能性も持つ。おそらく林は、自身がそのどちらの可能性も有していることに自覚的であろう。自分自身の危うさ(そうであり得たが、たまたまそうはならなかったにすぎない)に対する自覚が、彼の他者への、倫理的で抑制的な態度を作っているようにみえる。

しかしそのような林が、最終話においてそこを踏み越えようとする(まず柄本佑が踏み越えようとし、次に安田顕が踏み越えようとした一線を、最後に、その二人を抑制しようとした林が、自ら踏み越えようとする)。自ら悪魔となって悪魔を殺すという決断をする。彼が自ら悪魔とならずに踏み留まったのは、被害者となった彼の友人たち(特に松岡茉優)が「たまたま」死んでいなかったからだ。ここでも林は、そうであり得たが、たまたまそうならなかった、のだ(この点については『MIU404』の綾野剛と同じだ)。しかしそのことは、彼が「悪魔」となった世界も十分にあり得たということを示している(しかし、菅生を刺そうとする林には明らかな「ためらい」が見て取れるので、もしかすると友人たちが死んでいたとしても殺さなかったかもしれない)。

●一話から最後までずっと一貫して、林遣都の家のリビングの窓は開いていて、カーテンが常にうっすら揺れている(だからこのドラマは、夏から秋にかけてが舞台でなければならなかった)。これは、満島ひかりの「風の強い夜が好き」というセリフと繋がっていて、つまり林遣都満島ひかりと共通するような性質を持った「外を吹く風と親しい」人物であることの徴しであり(林の場合は「微風」であるが)、だからこそ松岡茉優の第二人格が彼に惹かれる、ということなのだが、その、常にカーテンに隠されていた「開かれた窓」が、最後の最後になって林遣都松岡茉優を繋ぐゲートになる(ここを潜った先は半ば夢の世界)、というのは、いかにも洒落ていると思った。

(満島ひかりは、目を閉じた松岡茉優に―つまり、実際は松岡1である人物を松岡2と見立てて―語りかける。満島の前に松岡2は現れない。ならば、林遣都の前にも、実際の松岡2は現れない、と考えられる。だから二人の場面は夢だと考えるのがいいと思う。しかしそれを逆から考え、満島の主観の中には確かに松岡2が現れたのだ、とするならば、林の前にも、松岡2が確かに現れたのだと言える。これは、「わたしの心の中には今も松岡2がいる」というのとはちょっと違う。心の中にではなく、実際に目の前に―たとえ、それが夢やまぼろしや単なるイメージであったとしても―現れることが重要なのだ。)

ただ、林遣都が街中で松岡茉優を見かける場面があるが、この時の松岡は、明らかに松岡1ではないように見えた(表情や歩き方が違う)。ここで林が隠れなければ、松岡2に会えたのかもしれない。ただしその場合、(仮に夢だとしても)二人の素晴らしい別れの場面はなかっただろう。

(追記。これを経験した本人=鹿浜鈴之介にとっても、夢とも現実とも決定できないような出来事として描かれている、ということだと思う。たとえ現実だとしても夢としか思えない、たとえ夢だとしても現実としか思えない、そのような―生活の流れからはみ出した―経験として、この夜の散歩の場面は造られている。)

●最後まで観ても、このドラマで最も印象的だったのは、松岡茉優佐久間由衣の撃たれた場所が全く同じだということと、ゴマシオ頭だった伊藤英明の髪が、八話でいきなり黒く染められていたことだ。この二つの点において、驚くべき作品だと思う。

(この細部の「意味」は作中では全く語られないが、こんなことが偶然に起こるはずはなく、意図的になされた「表現」であるはず。)

●唯一の不満は、佐久間由衣をイマイチ生かしきれていない感があること。『カルテット』の吉岡里帆並みの活躍を期待していたのだが…(ぼくの頭のなかでは、『カルテット』の主役は吉岡里帆だ)。

林遣都と仲野太賀と松岡茉優が、林の家のリビングで、テレビニュースをタブレットで観ている場面があるが、これは、さんざん「視聴率が低い」と言われ続けたことへの皮肉なのではないか。林遣都の家にも、仲野太賀の部屋にも、そしておそらく松岡茉優の部屋にも、テレビはなかった(そういえば安田顕は、わざわざ銀幕スクリーンにプロジェクターで投射させてテレビニュースを観ていた)。

●追記。高度な完結性を持つ『初恋の悪魔』に続編もスピンオフもあり得ないと思うのだが、一つ気になるのが、7話に出てきた、三つ目の殺人事件の容疑者に仕立て上げられてしまった大学生インフルエンサーの女性(あかせあかり)だ。彼女の孤独を、坂元裕二だったらどう描くのかを、ちょっとみてみたい感じはある。事件とは関係ないところを、サラッと短めで、主役の四人は出たとしても背景を通り過ぎるくらいの感じで。

2022/09/24

●一昨日からのつづき。引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第六章「創造する知性---経糸の時間と横糸の時間」より。想起に関して。

●想起・エピソード想起(6) ステップ(三)「イメージの現実化」/凡庸化(想起の素材はタイプ的イメージである)(体験を一回的たらしめているのは必ずしもその「内容」ではない)

《(…)想起の最終段階で、記憶が姿を現してくる場面である。絞り込めるところまで絞り込んだところで、待ち受けていると、ある場面は突然に、別な場面は徐々に、記憶がイメージとして像を結ぶ。》

《(…)このステップは、選択された記憶の面全体(特定の仕方で方向づけられた)が現在平面に向かって垂直方向に「並進」することと説明される。(…)そして、この過程で、個人的なディテールを備えた記憶は「凝縮」し、「凡庸化」していくとされる。》

《(…)「並進」「前進」、そして記憶全体の「凝縮」まではいい。作業のためにいったん弛緩させた記憶の領野を、想起が終わったらまた閉じ直す必要があるからである。》

《解釈者を悩ませてきたのは、「エピソード想起」の最終局面に、どうして「凡庸化」が入ってくるのかという点である。(…)エピソード記憶が現実化したいのは、トークン的な個別体験である。せっかく(一)と(二)のプロセスで目的のトークン的出来事(に近いもの)を割出しても、最終段階でこの「凡庸化」がはいってしまえば水の泡ではないか(…)。》

《(…)想定される誤った解釈を避けておこう。この現実化のプロセスのことを、「記憶が次第に知覚化・イメージへと変化すること」と解釈することは厳密には誤りである。》

《(…)「知覚と記憶の間には程度の差異ではなく本性の差異がある」(…)「純粋記憶」は、知覚的・感覚的精彩を帯びた「想起イメージ」に「なり」などしない。純粋記憶は(…)、それ自体がイメージへと「変身」するようなものではないのだ。》

《(…)そこで代わりに持ち出すのが、「示唆/被示唆」関係である。「ある感覚の記憶とは、その感覚を示唆することができるものである。(…)」(…)。ベルクソンは、この「示唆原因(…)」というモデルを採用し、変身説を退ける。》

《(…)純粋記憶は、私たちが最終的に手にする想起イメージに対して、何らかの意味で原因として関与している。変身と示唆の違いは、それがどのような種類の原因であるかという点にある。》

《(…)「示唆原因」を用いた立場においては、純粋記憶はあくまで「調理」の際の参照元でしかなく、「素材」にならない。つまり、記憶の現実化とは、純粋記憶を参照しつつ、手持ちのイメージ素材から想起イメージを「構成する」ことを指す。ベルクソンが採用しているこちらを「模倣説」と呼ぶのがいいだろう。》

《(…)トークン的な想起イメージもまた、その「素材」はタイプ的イメージでありうるという点だ。そして「模倣説」とは、タイプ的イメージから試行錯誤的「構成」を試みる以外に、ターゲットとするトークン的記憶に接近する手立てはない、というものである。》

《(…)それ(想起イメージ)を一回的なものたらしめているのは、あくまでもそれがまとっている「時間的色合いとニュアンス」(…)であり、3章で見たように、その正体は背景的な記憶の全体である。だから、体験を一回的たらしめているのは、必ずしもその体験の「内容」ではないのだ。》

《(…)それ(純粋記憶)は具体的な像ではなく、それは「どんな」体験だったかという印象・雰囲気しか示さない。だからもし、純粋記憶から想起イメージを復元しようとするなら(…)イメージの素材が要る。これを提供できるのは、運動回路による非プロセスのタイプ的イメージしかない。》

《記憶がただ「こんな感じだった」と示唆するものを、イメージ側は模倣し実演する。》

《重要なことは、想起を通じて、凝縮と運動、体験質とイメージのどちらかが一方的に主導権を握るという関係にない、という点である。そうした「折り合い」を通じたすり合わせ・落としどころの模索が、記憶の時間的内部(…)のおかげで成り立つのである。》

《ちょうど「持続」の時間的内部がそうであったように、「記憶」の時間的内部においても、垂直的相互作用(その内実は示唆と模倣の繊細なすり合わせだ)が想起という営みを可能にしている。》

《(…)ベルクソンは、「自ら含む以上のものを自分から引き出す力」(…)として精神を定義する(…)。》

●注意的再認と想起

《これほど違う二つの仕組み(注意的再認・想起)だが、両者が決して断絶しものでないことを、ベルクソンは見抜いている。想起に意味記憶(タイプ的イメージ)は不可欠であるし、意味記憶の探索に想起が役立つことも多々ある(…)。そして当の意味記憶自体が、エピソード記憶の重合でできているのだ。》

●探索的認知(再認と想起は食い込み合う)

《「注意」とは何か。ベルクソンがその名で呼んでいる現象は、(…)〈観察を通じて、対象のディテールが増え、対象の置かれている文脈が多様化すること〉である。そこで本書では、これを「探索的認知」と呼びかえる。》

《(…)ベルクソンはこのことを、注意的再認の発展編として論じている。そこでは記憶と運動のフィードバックループが肝となる。「注意的再認」は、二重に拡張可能な余地を持つものであった(4章)。第一に、対象の特徴検出(運動図式)の解像度を上げる余地があり、第二に、それに応じて投射するイメージ記憶の情報量を上げる余地がある。投射によって新たな特徴検出の発見が可能になるから、この探索的認知の「回路(…)」は自己触媒的に回る。》

ベルクソンが『物質と記憶』(…)に描いている図に即して説明しよう。》

(上の図は『世界は時間でできている』よりスキャンしました。)

《(Oは対象そのものとされる)B、C、Dが投射されるイメージであることについては、解釈上の揺れはない。解釈に余地が残るのは、それ以外の記号の指示対象である。私の解釈では、Aが示すのはクオリアマップ(再認に先立つ感覚質の配置のこと。4章)であり、B`、C`、D`が表すのは運動図式が模倣する対象側の特徴量である。Aに対応するA`がないのは、Aが運動図式発動「以前」であるのと整合的である。》

《(…)注意的再認が発動すると、まず運動図式が、対象のB`に相当する特徴を運動的に模倣する。その結果、膨張した記憶のなかから一部の関連する記憶群が前景化される。それがBである。(…)普通は、これで注意的再認はおしまいだ。》

《だが、私たちはときに立ち止まる。漠とした予感かもしれない。ちょっとした気まぐれかもしれない。自動的に繰り出された運動図式とはまた別の角度から、別の線で、対象を描き直してみる。脳内運動が変われば、記憶の回転も変わる。しかしいつもは拾わない運動的輪郭だ。イメージは普段より膨張したところからその素材を探し直さなければならないだろう。こうして出てくるのがCだ。》

《興味深いのは、こうやってより大きな円環を注意が描くとき、そこで取り出されるイメージが、「あるときは知覚対象そのものの細部であるが、あるときは知覚対象をより明晰にしてくれる周囲の随伴物のほうの細部である」(…)と言われている点だ。もはや対象Oではなく、別な対象Pのディテールを思い浮かべるとなると、再認と想起の線引きは微妙になってくる。このようにして再認と想起は、互いのプロセスに食い込み合っている。》

●「それ」が私のなかに何か探すべきものがあることを教えてくれる

《(『試論』からの引用)わたしはバラの匂いを嗅ぐ。すると、たちまち幼児期の漠然とした思い出(…)が記憶に立ち戻ってくる。しかし、実を言うと、これらの思い出はバラの花によって喚起されたのでは決してない。私は匂いそのもののうちにこれらの思い出を嗅ぐのである。》

《「匂いのうちに思い出を嗅ぐ」という表現は、理論を知らない人の目には、何か詩的なレトリックを弄しているように見えるかもしれないが、そうではない。「匂い」は知覚であり、「嗅ぐ」は知覚動詞である。つまり、これは記憶が知覚に入り込む場面(注意的再認)の話をしているのである。》

《後で思い出されることになる「幼児期」のエピソード記憶が、初めのバラの匂いの知覚のうちに、タイプ的イメージという形で先回りして忍び込んでいる。つまり、この引用には、再認と想起という形で、同じ記憶が二度登場しており、想起を導いたのが、実は再認に忍び込んだ当の個人的記憶自身である次第が語られているのである。》

《(…)おやと立ち止まり、「注意」するなどということを始めたのは、もうすでにその記憶を、知覚のなかに察知していたから、それの潜伏的介入・示唆を受けていたからではないか(ナンダッケコレ感)。》

《(…)目の前にある「それ」が、私のなかに何か探すべきものがあることを教えてくれる。ではその「それ」とは何か。知覚のなかには、重ね合わされたかたちで大量の記憶が入り込んでいる。その数だけ、私たちには探索的想起への通路が開いていることになるだろう---私たちがほとんど常にそれらの扉に気づかないとしても。》

●すべての記憶は既にここにある/記憶と運動の隔たり

《すべての記憶は、常に、もうここにある。それは前景化されたイメージのなかに紛れ込んでいるか、そうでなければ、人格質というバックグラウンド的な質のうちに溶け込んでいる。いずれにせよ、その記憶を取り出すために、どこか特別に場所に探しに出向いていく必要はない。凝縮された記憶を緩め、必要な回転を施し、違う折り目で折り畳む。ダメなら一からやり直す。》

《確かに、記憶と運動のあいだには、乗り越えなければならない様々な隔たりがある。記憶からの介入が潜伏的で間接的なものにとどまるのはそのためだ。そもそも翻訳できないものの翻訳を無理強いしているようなところがある。》

2022/09/23

●昨日からのつづき。引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第六章「創造する知性---経糸の時間と横糸の時間」より。イメージと想起に関して。

●イメージ(1) イメージは自明ではない

《目をひらけば目の前に様々な事物が、色や形、テクスチャを備えた「イメージ」として現れる。この当たり前は、生物知覚一般にとって決して当たり前ではない。対象を弁別して、その場で適切な行動を繰り出すためだけならば、このように内的イメージを描写するというプロセスは、端的にコストの無駄だからである。》

《(「注意的再認」において)(…)対象が「何であるのか」の「同定」を果たした上で、さらに、実際に「非観察領域」(現象面)への「イメージ描出」が実装される(…)。そこで利用される「イメージ」はどのようにして作られるのか。》

●イメージ(2) 身体(運動記憶)は、知覚(外界)に対しても記憶(純粋記憶)に対しても等しく「選別する」という働きをもつ/イメージ(タイプ的イメージ)の起源は身体である

《身体に備わる運動記憶が、知覚を定義するという鏡映説については、5章で詳しく見た。何を知覚するかの「選別」、そしてどう分類するかの「タイプ化」は、システムの「中心」となる身体がどのような運動記憶のセットを備えているかを反映する。できあがった水路の地形そのものによって非プロセス的な仕方で外部の一群の物理状態は「重ね合わされ」、行動によって意味づけられた一つの「類似」、つまりタイプ的知覚を形作る。これが「一般概念」の生物学的起源であることも指摘しておいた。》

《同じ仕組みがターゲットを外界から記憶に切り替えることで得られるのが私たちの一般観念、タイプ的イメージに他ならない。ベルクソンは、経験の「重ね合わせ」に基づくこうした概念と、「抽象」に基づく概念とを区別している。》

《例えば、「ラーメン」について、「哲学」について、「フランス」について、人はそれぞれ一定のイメージというものを持っている。これは、あくまで個人的経験に基づいた一般概念・意味であって、公共の辞書に記載されている中立的な定義に必ずしも一致するものではない。そのため、中立的な響きのある「一般観念」より「タイプ的イメージ」と呼んでいる。》

《(…)この「重ね合わせ」は、5章で見た通り、感覚質や人格における「凝縮」と、重要な点で異なる。凝縮は全て時間的に連続した一時期の凝縮であった。それに対して、重ね合わせの場合には、素材がタイプ的に選別されて折り畳まれている。ここに運動記憶が関わっているわけだ。そして現に、注意的再認で投射に用いられるイメージは、運動図式が説別すると説明されていた。》

《(…)『物質と記憶』でも、「身体の役割」は、知覚に対しても記憶に対しても、等しく「選別」であるとされていた。》

《私たちの身体---これは運動記憶の集合体だ---は、物質世界のなかから有用な知覚を絞り込み、記憶全体のなかから有用な記憶を絞り込む。その点で、外界と過去に対して、対称的な役割を果たしているといえる。(…)第一に、運動記憶によるタイプ化は、知覚と記憶の双方に有用なものの選別・絞り込みという同じ役割をしていること。第二に、選別の元となる全体については、知覚の場合は階層1の物質である一方、記憶の場合は階層3が含む無数の体験質(純粋記憶)であること(…)。第三に、鏡映は出来上がった水路の効果であるため、再認で用いられるタイプ的イメージもまたタイプ的知覚と同様、非プロセス的に切り出されるものであること(…)。》

●イメージ(3) 選別、タイプ化は「中和」による

《そればかりではない。(…)記憶の選別とタイプ化が、「中和」によって、しかも運動記憶と自発的記憶の二つの記憶の掛け合わせによる「中和」によって説明されているのである。》

《(『時間観念の歴史』からの引用)(…)心理的な生の特定の部分だけが私に現れるという事態が生じているのは、二つの全体的記憶力が組み合わさった作用によって(…)、殆どすべてが消え去りいくつかのごくわずかな部分だけが現れるからなのです。そこにはより単純な要素の複合、ほとんどすべての中和(…)があり、その結果、有用な部分、効力を持つ部分だけが現れるのです。》

●イメージ(4) トークン的な「記憶」は、運動記憶による「重ね合わせ」によって(脱個人化・凡庸化して)タイプ的イメージとなる

《階層3に保存される体験の記憶は、凝縮されつつも識別可能性を維持している。つまり、そのままではトークン的であり、タイプ的ではない。》

ベルクソンは、私たちが想像や夢で用いるイメージは、こうしたトークン的な記憶を加工して作られると考えている。その際に、個別的特徴の「丸め込み」が必要となる。》

《(『時間観念の歴史』からの引用)単なるは記憶は混ざり合い、大量の類似した、しかし個人的な記憶が、互いに重なり合い、互いに干渉し合うことで、脱個人化して没個人的な記憶になります。》

《私たちは、3章で、凝縮の「内容成分」と「ニュアンス成分」を区別した。前者は、凝縮が含む諸項自体の質成分であり、後者は「実現された関係構造」に基づく質成分である。それゆえ重ね合わせにおける凡庸化はこれら二つの成分それぞれを「平均化」する。つまりイメージはただ内容的に凡庸化するだけでなく、「いつ・どこ」の特定性も失うことになる。こうして、純粋記憶を素材に、タイプ的イメージは構成される。》

《(…)想像、想起、夢などのイメージ能力において汎用アイテムとして用いられるこれらのイメージが、元を辿ればすべてトークン的な体験でできていることが、私たちの探索的で創造的な知性の基礎条件をなしている。中和はいつでも脱中和されることができ、一つのタイプはそれが擁する数多の識別可能性をいくらでも展開させる用意があるからである。》

●想起・エピソード想起(1) 過去はそのままの姿で保存されるのではない

《(…)ベルクソンは過去が「そのままの姿で」(=変形なしに)保存されるとは述べていない。維持されるのは識別可能性---他のどの体験とも違うあのときのライブ---であり、構造は、保存される際に凝縮を被る。従来は現働的な知覚と潜在的な記憶という対比を用いて解釈されてきた論点ではあるが、私はこれに「識別可能性空間の変形」というモデルを与えた。(…)その保存はオリジナルの体験に伴う「実現された構造」を質次元に繰り込むことで果たされている。》

●想起・エピソード想起(2) 想起のプロセス(七つの特徴)

《(ア)(…)一体「何が」問題なのかも分かっていない状態であるが、(…)「それ」に関連する記憶が自分のなかにあることを察知している。「ナンダッケコレ」感(…)。》

《(イ)(…)想起に先んじていわば「想起の見積もり」を取っている作業(…)「エピソード的既知感(…)」(…)。》

《(一)(…)「現在の相互作用から離脱する」という一種の態度変更(…)。》

《(二)記憶全域から、特定の領域へと手探りで絞り込む。》

《(三)想起イメージの現実化。》

《(ウ)(…)イメージの現実化を進めていっても途上で頓挫する場合がある。「咽まででかかっている」(…)現象(…)。》

《(エ)想起してみた結果を、自分で照合できる。(…)間違いは分かるが正解はわからない。「コレジャナイ感」(…)。》

《(…)リストを眺めれば、記憶はずっと「不可視なままそこに居合わせて(…)」(…)いる、という非常に特殊なあり方を示すことがわかる。そこで、私たちとしては、記憶のこのような特殊な振る舞いを総称するのに、「潜伏的介入」を用いることにしよう。》

《(…)現実化された想起イメージとは、知覚における流れ体験同様、〈構造と現象質の双方をそなえた未完了的あり方〉における記憶、つまりは過去の出来事をありありと再体験している状態の記憶のことを指す。私たちが想起体験に特有なものとして味わうあの「思い出しているという感じ(想起感)」としての過去性は、このフェーズに由来する。」》

●想起・エピソード想起(3) ステップ(一)「現在からの離脱」について

《(…)ベルクソンは、記憶へのアクセスが生命にとって諸刃の剣であることを至る所で強調している。(…)生命現象とは、本来的には環境との相互作用を基盤とするものであり、そこに帰着することのない「夢想」に耽ることは、そうした「世界への接地」を危機に晒すものとなりうる。記憶の切符は心の病に通じている。》

《(…)ベルクソンでは、「生への注意(…)」がこの門番の役目を果たし、覚醒中の記憶へのアクセス権限を握っている。逆に、身体の「感覚-運動的平衡」(…)が崩れることで、生への注意が「弛緩(…)」すると、記憶は制御を失い、放埓な発現が引き起こされる。睡眠時の夢や、空想、走馬灯、デジャヴュ、さらには統合失調症における幻覚(…)もまた、こうした条件から説明される。》

《(注意的再認とは異なり「エピソード想起」は)「似たような出来事」ではなく、「一回だけ起きたあの特定の出来事」を再現するという、極度に有用性の限られた操作である。そうした操作は、本来は「覚醒」の裏であるところの「弛緩」を(目覚めていながら)意図的に発動させるという、いわば自然の裏をかく極めてトリッキーな技能なのである(…)。》

《想起の第一ステップ「現在からの離脱」はそれを示している。弛緩は、それまで緊縮していた記憶の自然な「膨張(…)」を引き起こす(…)。想起とは、通常は気が散ったり集中力が切れたりしたときに意図せず起こってしまう弛緩・膨張を、意図の制御化で、つまりわざと引き起こすことである。》

《(…)そうした弛緩状態に記憶全体を持ち込んで初めて、そのなかから有用な記憶を絞り込み、選択的に現実化するということも可能になるというわけである。》

《(…)MTS解釈では、これを、階層1と階層2のあいだにあった時間的内部が階層2と階層3のあいだに移行することとして解釈できる。》

《記憶探索のターゲット(目的のトークン的記憶=体験質)は、現在においては潰れているこの人格質のなかにある。ただし、階層2と階層3のスケールギャップ(=記憶の数)は八-一〇桁ほどもある。私たちの限られた識別可能性リソースを、現在を維持したまま記憶探索に割くことはできない。「現在の手を止める」ことは、階層1と階層2のあいだの時間的内部を閉じる方向に働く。意識が上の階層に移行すれば、身体が環境との間でなしうることは自動的・機械的な所作でしかなくなる。(…)現在の「律速」を解く---文字通り「リズム」を変える---ことで、記憶に臨む体制が整えられると想定される。》

●想起・エピソード想起(4) ステップ(二)「手探りの絞り込み」/記憶は全体が連帯して動く

《(…)これは記憶の「方向づけ(…)」、「自転運動(…)」といった言葉で説明されている。「これによって記憶力は現在の状況へと方向づけられ(…)、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける」(…)。(…)「自転」に含まれる「回転(…)」という言葉は、続く第三ステップの「並進(…)」と対になる、(化学や数学などでも用いられる)一般的な用語である。並進とは、ひとまとまりの全体が位置移動することを意味するのに対して、回転とは、全体のなかでの諸要素の相対的な変転を意味する。》

ベルクソンは、記憶は常に全体が連帯して動くと考えているので、有用な部分だけが意識にあらわれる場合でも、それは記憶全体から文字通り「切り離される」わけではなく、あくまでも「前景化」しているだけ(残りが背景に回り込んでいる)と考えている。これが回転に相当する(…)。》

《(…)私たちは想起のたびに、様々な基準のもとで、諸記憶をリアルタイムで編成し、そこから適切な粒度で記憶を取り出してくると主張している。逆円錐図の各断面は、それぞれ別な仕方で---別なタイプ化・時間割り・粒度で---編成された記憶全体を表している。》

●想起・エピソード想起(5) ステップ(二)「手探りの絞り込み」/類似=内容と、近接=時間の掛け合わせ

《(…)内容に基づく記憶探索の場合(類似連合)には、脳側がとる状態をキーにすることで、関連する記憶(内容成分)が鏡映を介してタイプ的に選別される。例えばいつかのカレーランチを思い出したければ、カレーランチ時の脳状態がその絞り込みキーとして役に立つ。(…)日々繰り返し用いる概念であれば、水路はしっかり掘られているためタイプ的イメージの切り出しは非プロセス的に果たされるが(…)、エピソード想起の場合には事情が異なる。最終的な想起対象がタイプではなくトークンだからである。(…)そこでどうしても「プロセス」(の時間)が必要になる。それが続く「現実化」の過程である。》

《時期に基づく記憶探索の場合(近接連合)には、頼りにするのは記憶のニュアンス成分、「時間的色合い」である。そして、内容と時期の二つの基準は多くの場合組み合わさって現れるだろう。「去年ごろに」「田中氏と」「夜に」食べた「カレー」といった具合である。適切なタイプ化のキーと時間的色合いの掛け合わせによって、目的の記憶を囲い込む(前景化するように回転させる)。》

(つづく)

2022/09/22

●引用、メモ。『世界は時間でできている』(平井靖史)、第六章「創造する知性---経糸の時間と横糸の時間」より。今日は「意識」についての部分。

●意識とは

《「意識」とは言わずと知れた多義語である。そこで、それらの意味を簡単に以下のように整理しておこう。(…)赤という色クオリアや、ドンという音クオリアが狭義の「感覚クオリア」である。他方で、イメージや概念などの高次の心的要素を含む主観の領域全体が備える現象的なあり方を広義のクオリアとした。本書では、狭義を「感覚質」、広義を「心」または「人格」と表記してきた。さしあたり「意識」という語についても、同じくこの二つを下限と上限として設定しよう。》

《一般的用法においては、その他にも、「意識」の語には以下のような様々な意味の広がりがある。現在の経験全体のなかで、特定の一部が顕著なものとして浮かび上がる「気づき」。お目当てのお店を探している場合のようにこちらから特定の一部を浮かび上がらせる「注意」。睡眠や昏睡ではなく「覚醒」していること。自らの心的状態についての「メタ認知」。能動的自発行為を起動する「意思」。自分のなした行動の説明原理としての「意図」など。》

ベルクソンの概念マップのなかでは、2章でフィーチャーした「流れ意識」(持続)が中心的位置を占める。これは、現在の窓に対応し、未完了相、つまりは進行形で体験していることのライブ感という、この階層固有の時間特性に起因する意識であると説明した。感覚質はその構成的単位をなし、想起されていない記憶は人格質として現在の場を背景的に修飾する。気づきや注意は注意的再認論に組み込まれており、同じく流れの場で展開されている。》

《(…)クオリアや意識といったものを、ちゃんと自然現象の仲間にカウントしよう。これがベルクソンの「拡張された自然主義の戦略である(…)。》

●意識の遅延テーゼ

《(…)ベルクソンが着目したのが時間スケールだった。(…)一種のスケールメリットの産物として心を説明する。〈意識は、相互作用の遅延=時間スケールの拡張からもたらされる〉---これがベルクソンの意識の遅延テーゼである。》

《(…)一日一〇〇〇円を使い切るというルールのもとでは、五万円の商品は永遠に買えない---魔法でも使わない限り。ところが、三か月で九万円を使い切るというルールなら、五万円の商品は買える。一日一〇〇〇円でも三か月九万円でも収支のトータルは同じである。後者がどこかでお金を無から湧き出させたわけではない。(…)ただ、時間を使ったのである。》

《(…)物質は、時間に対して微分的に振る舞う(原因にほんの僅かでも変化があればそれに応じて結果も直ちに変化する)という意味で、この宇宙の時間の下限を定義している。》

《(…)例えば私たち人間の視覚にとっては二〇ミリ秒が下限の「瞬間」である。(…)つまり、物質にしてみればとっくの昔に過去になっていたようなものを捨て去ることなく搔き集めることで、私たちの「一瞬」はできている。意識をつくる素材とは、それら物質の大量の過去のことである。これを元手(素材)として、識別可能性空間の変形(という調理法)が質(クオリア)をもたらす。》

●意識の減算テーゼ

《(…)同じことを、運動記憶の観点から見直してみる。》

《「意識の減算テーゼ」がそれである。ベルクソンは、「物質そのものと、われわれが物質についてもつ意識的知覚との間にある隔たり」は「減少の道」(…)で乗り越えられると述べている。》

《(『物質と記憶』から引用…)知覚とは、その物質のうちでわれわれのさまざまな欲求に関係するところだけを分離ないし「分別」することにほかならないからだ。だが、物質のこうした知覚と物質そのもののあいだにあるのは、単に程度の差異であって、本性の差異ではない。》

《意識というものは、物質について何か上乗せで追加されたものではなく、むしろそこから引き算で取り出されるものである》。

《この減算テーゼは、(…)単独では決して説明になっていない点にくれぐれも注意すべきである。》

《(…)一般に、何かのうち一部だけを隔絶させたからと言って、その隔絶させた何かが質的に変容したりしない。一〇〇匹の仔豚の群れから五匹を切り離してロッジに連れてきても、仔豚は仔豚のままだ。》

《この命題は、時間次元の観点を補わなければ、理解可能な主張にならない。空間からタダで消え去るものなどないからである。減った分は、「もう遂行し終わった」か「まだ遂行中」なだけである。つまり、時間方向に逃げている。その意味で、減算の正体は遅延なのだ。》

《三か月で九万円使うルールで五万円の商品を買う場合、一日でみると一〇〇〇円使い切っていないことになるのと同じである。》

《(物質システムにおいては)極めてミクロな時間スケールのなかで作用と反作用を繰り返す回路として宇宙を覆っている。》

《(生物システム・運動記憶という回路を通すと遅延が生じるので)一部の作用だけが開始されたのに終わっていない。反作用が閉じていない。つまり、物質の時間窓で切ると、収支の採算が取れていない状態が見かけ上成立する。「減じている」ように見えるわけだ。》

創発の脱中和モデル

《世界のなかの相互作用は、単に時間軸だけでは説明できない。一セットの作用と反作用の時間的遅延だけを見ていれば、別な相互作用との「横のつながり」が見落とされるからである。》

《したがって、減算説と遅延説の掛け合わせから得られる、より完全な描像はこうなる。物質システムは時間的に潰れた瞬間的相互作用の総体である。そこでは常に相互作用は一つの瞬間の中で中和、相殺されている。意識とは、そこから一部のローカルな相互作用が遅延することにより、この中和・相殺が解除されることの効果である、と。》

《私たち人間は、何か新しいものを生じさせようと思えば、そこにそれを「外から追加」しなければならないと、半ば自動的に考えてしまう。これ「足し算」の論理と呼ぼう。(…)ところが、人間のものづくりのロジックと、自然のそれは、実は逆向きでさえありうる。》

《自然が逆の歩み、つまり「引き算」の歩みで産出を行う例として、ベルクソンが引き合いに出すのは、---絵の具の混色ではなく---「光の混色」の事例である。ご存じの通り、無色の太陽光から青色を描き出すには、何かを付け加えるのではなく、他の波長域の光をカットするだけでいい。(…)初めの太陽光が無色であるのは「色が足りない」からではなく、むしろ「すべてが揃っている」ために互いを打ち消し合い、「中和」しあうためだ。》

ベルクソンは、まさに、物質と意識の関係をこれになぞらえて考えている。すると、こうなる。物質は、意識の素材を欠いているために意識を持たないのではない。むしろ持ちすぎて飽和している、まさにそのせいで互いに相殺され、無意識となっているわけだ。だから、無意識である物質から意識を取り出すためには、余計なものを減算できさえすればよい。》

《(…)ベルクソンがここで提案しているのは、全体が持たない性質を部分が持つという「逆・全体論」なのである。どうしてそんな逆転が可能か。時間をみているからである。》

●物質=中和された意識/中和=遅延ゼロ/遅延と時間的内部

《(『物質と記憶』からの引用)物質とは、そこで全てが均衡し、相殺し合い、中和し合っている一つの意識のようなものである。》

《(『物質と記憶』からの引用)もともと無い意識(…)と、無化された意識(…)は、どちらの意識もゼロであることに変わりない。しかし、前者のゼロが何もないことを表現しているのに対して、後者のゼロは、逆向きで同量のものが相殺し中和し合っていることを表現している。》

《(…)中和ということで実際に考えられているのは、作用が反作用によって相殺されることである。》

《(…)ベルクソンは、この中和という現象において、空間的な「相互作用のタイトな連携を、時間的な「遅延ゼロ」という相の下で捉えているのである。つまり、ある相互作用が直ちに別のそれへと遅滞なく「継続される(…)」ことを、言い換えれば「抵抗も減衰もなく通過する(…)」ことを、中和の状態と考えているのである。》

《(…)時間軸方向に遅延が入らないことが、作用と反作用が(時間的に)相殺され、打ち消され、中和しあっていると表現されているのだ。この中和・相殺によって消されているのは、ベルクソンの意味での時間、つまり持続なのである。》

ベルクソンは、中和である「通過」との対比で、一部の作用を「とどまる(…)」ようにさせると述べている(未完了相の作用が「潜在的」と呼ばれている)。システムは、一部の作用について、反作用までの時間を稼いでいる。読み取ってほしいのは、ここで、こうむった作用全体のなかから、「ただちに反作用へと継続されるもの=通過」と、「ペンディング状態に持ち込んでとどめるもの=遅延」との篩い分け・選別が、時間方向になされるという点だ。「通過していく際に引きとめ(…)たもの」(…)が意識の素材となる。なぜ「意識」か。それは、この遅延差が「時間的内部」(2章)を開くからである。》

《意識とは(…)物質だけからできている。》

●意識は消える/時間的内部は閉じられる

《(…)こうして確保された意識も、反復によって閉じる---それが運動記憶の定めだからである。どんな高度な複合運動も、マスターしてしまえば無意識の自動性に陥る。どんな運動も、それ自体反復を通じて回路形成が果たされてしまえば、上位と下位階層の縦の相互作用は終わり、その場としての時間的内部は閉じ、時間は未完了相からアオリスト相へと立ち戻るからである。これをベルクソンは、習慣は完成と共に「時間の外に出る」(…)と表現していた。》

《(…)後天的に新たな運動メカニズム(手続き型記憶)を学習・獲得する生物で考える。新しい技能を習得するために、反復練習をする。始めのうち、様々な要素的運動はギクシャクしており、遅延もバラバラで、互いの連携もうまく取れていない。このバラツキこそが、減算×遅延として最大の脱中和が発揮されている状態であるはずだ。これに対し、目的の運動が一度習得されてしまえば、「すっかり準備済みの返答があるせいで、質問が無用となる」(…)。つまり、行為は無意識化する。やる前から答えが決まっているとき、時間は創発の仕事を果たさない。》

《「物質から、まず無意識的な知覚ができ、その回路にあとから意識が宿る」のではない。意識は空間ではなく時間の、時間的内部の住人なのであり、それは形成途上の未完了相にだけ現れて完成と共に居場所を失う。こうして、意識を欠いた手続き型の知覚と記憶が、主人を失っても働き続けるロボットのようにいつまでも居残るわけである。》

●しかし、なお残る意識(アドリブ的調整と、上位階層への模索)

《(…)なぜ私たちは今なお意識を保ち続けられているのか(…)》

《二つのことが指摘できる一つ目は、事実上の制約からくる消極的な理由である。つまり、マクロには「一つの運動」と言われるものも、実地運用においては、複数のミクロな運動のアドリブ的な調整を要求する。》

《運動モジュール同士を相互に調整し、うまく折り合いをつけなければ、一つの生物としてまとまった行動はとれない。(…)さらに、環境の違いもある。同じ「逃げる」でも、状況はいつも異なるだろう。(…)様々な状況のなかで、生物は「逃げる」という「一つの行動」を繰り返す。こうしたマクロな感覚-運動経路内部の「折り合い」的調整に注目する視点を、ゴトフリー=スミスに倣って、「行動-調整観(…)」と呼ぶのは適切だろう。ベルクソンはこう述べている。「行動同士を組み合わせて複雑化させ、それらを争わせることが、囚われの身の意識にとってはおそらく、みずからを解放する唯一の可能な手段である」(…)。》

《二つ目は、より積極的な方向性である。つまり、階層構造をさらに上がることで新たな質次元を開拓するのである。限られたリソースをいつまでも基礎的な運動に費やしていては、よりマクロで複雑な運動は果たせない。「歩く」や「つま先で立つ」といった(それ自体物質に対してはすでに十分巨視的な)「運動の諸要素をすでに習慣として持っていなくては、ワルツのような複雑な運動習慣を身につけることはできない」(…)。》

《(…)私たちが意識を失わないでいられるのは、完了してしまった無意識を組織し大規模展開させることで、「時間の閉じ」を延期しえている限りにおいてなのである。》

(つづく)