2026/10/18

⚫︎Dance Base  Yokohamaで、Dr. Holiday Laboratory +吉田雅史『skit』。桜木町から歩いて行った。まず、音が耳に来るのではなく、低音で体がずっと細かく振動しているのを感じつつ2時間半過ごすことが稀なのでそれが楽しかった。

⚫︎ダンサーがダンスする、ラッパーがフローする、ボーカリストが歌を歌う、俳優が演技をする。これらはみんな、自分の身体を使って何かしているのだが、ダンサーが自分の体を使って自分としてダンスするのに対し、俳優は自分の体を使って他人として何かをしたり喋ったりする。ボーカリストはいつも自分自身のことを歌う歌を歌っているわけではない。で、ラッパーのリリックは常に自分のことを語っているのだろうか。ヒップホップは常に私小説なのか。詳しくはないが、ぼんやりしたイメージとしてはラップは自分語りであることが多いような感じがする。社会批判的なことを語っても自分目線からであることが多いように思う。

演劇を観ることに対する「慣れなさ」がある。ぼくは人と話すときにも人の目を見て話せないダメ人間なので、生身の人間の身体を凝視することにためらいがあり、目の前で演じる人を観る時には遠慮と気後れと気まずさを感じる。映画は映像なので、遠慮と気後れと気まずさはなく凝視できるが、そこに窃視的であることへの後ろめたさはある。人の身体が、その人としてのあり方の表現とは別の、抽象的な、あるいは虚構的な表現となる時に、「わたし」は、通常の他者に対する(常識的・儀礼的・倫理的な)距離感を破ってその身体の現れを見ることになるのだが、たとえば、上演が終わって帰ろうとする時に、直前まで舞台上で演じていた俳優が客に挨拶したり雑談していたりする時、直前まで抽象的な表現性としてあった身体が、通常の他者としてそこにいることに対して、混乱と気恥ずかしさを感じて戸惑ってしまう。

(だが、この「慣れなさ」こそが、少なくともぼくにとっては演劇というジャンルの非常に重要な要素だ。)

(映画の場合、映画に出ている人に実際に会ったとしても、映画の中の人とその人とは存在の位相が違うように感じられて混乱はあまりないが、演劇だと、本当にその人がそこにいるので戸惑う。)

こういう経験は実際にはないので推測するしかないが、目の前でバリバリにパフォーマンスしていたラッパーの人と、その後に「素」の状態で会ったり話したりしたとしても、上演後の俳優と会うような混乱はあまりないように思われる。それは、ラッパーのラップにおいて表現化されるのは、声であり、言葉であり、リズムや抑揚であり、音楽であり、身振りであって、「身体そのもの(あるいは「身体丸ごと」)」ではないからなのではないか。表現の素材が、「(共有化され、文化となった)身振り」であることと「身体丸ごと」であることの違い。

(つまり、ラッパーは、身体としてはその人であるままに、声と身振りとを表現化する、ということだろうか。)

では、ダンサーはどうなのか。ダンスにおいても、身体丸ごとが表現化される。だがダンスの場合、演技(演劇)よりも表現化の抽象度が高く、それによって「その人そのもの」と「表現」との切り離され具合が高いので、戸惑いの感じはそこまでではないように思う。

(とはいえ、ダンスと演技との表現化の抽象度に違いは、度合いの問題であって、根本的な違いではないだろうと思う。)

あるいはまったく逆に、その人自身とダンスと間に乖離がまったくなく、その人自身がそのままダンスであり、日常の仕草とダンスとが切り分けられない、ということもあるかもしれない。いわゆるパフォーマーとしてのダンサーではなく、普通にクラブのフロアで踊っている人などはそうなのかもしれない。

(ボーカリストの場合は、その声、あるいは歌が表現化されるのであって、身体のパフォーマンスそのものを見るのではない。あるいは、その人の「身体丸ごと」が「声」として表現化される、というべきなのか。)

⚫︎俳優は、「他人の役」を、「自分の身体丸ごと」によって表現する。対してラッパーは、「自分のこと(このわたしの生)」を、「(リズムや抑揚を含めた)言葉」と「身振り」によって表現する。と、とりあえず単純化してみる。俳優にとって、表現の内容は「他者(あるいは「共同化されたもの」)」で、表現の素材は「このわたし(の身体)」であり、ラッパーは逆に、表現の内容が「このわたし(の生)」であり、表現の素材が「共同化されたもの(言葉・ラッパー的身振り)」である、と言える。このようなまとめかたは、かなり強引かつ危険だが、とりあえず仮にこのように置いておく。

このように考えるならば、『skit』が演劇とヒップホップとの交差配列によって組み立てられているということが見えてくるように思う。演劇的な虚構性の立ち上げ(たとえば、リサーチをもとに組み立てられたダイアローグ、ラッパーからサンプリングされた身振り)を、(おそらく、作・演出の山本ジャスティン伊等自身の)私小説的な生々しさ(本人によるリリックとフロー)が食い破り、しかしまた、その生々しさは、演劇的な虚構性のあり方によって相対化される(役を演じ、表現を成り立たせているのは「別つ」の俳優たちであり、テキストは書かれたものである)。

交換不可能な「このわたしの生」は、その当事者である「ナマの身体」によって、「身振り」と同様にそれ自体は交換可能な共同性を持つリリック(言葉)とフロー(リズム)により表現される(作・演出家自身による自分語り的パフォーマンス)。その内容は生々しく重いものだが、表現化によってそれは、別の交換不可能な「このわたしの身体」としての俳優のもとにも着床され得るものとなる。「このわたしの身体」である俳優は、それを他者(役柄)として虚構化して立ち上げるが、しかしそれとは別に俳優自身の「このわたしの身体」でもあり続ける。ここでは、交換可能(共同化可能)なものと、交換不可能なもの(この身体・この生)とが、互いにその一部を交換しあっているかのような感覚があるように思った。

もう一つ重要なのが音楽だろう。会場に入った瞬間(開場された瞬間)から吉田雅史のDJによる音楽が流れており(そしてフロアではすでに踊っている人がいる)、DJは上演の最中も、その後も、ほぼ途切れることなくずっと続いている。開場から上演まで一時間の時間があり(そして上演後も約一時間DJは続き)、その間人々は、踊ったり、酒を飲んだり、踊らないにしてもリズムに乗って体を動かしたり、思い思いにしている。俳優も作・演出家もその中にいるし、DJは上演前も、上演中も、上演後もずっとDJをしている。そのような中で、同じフロア、同じ高さの床面で、ふっと上演が立ち上がる。幼稚園で、それぞれ思い思いに遊んでいる園児たちに、「はーい、みんな聞いて、これから先生たちが人形劇を始めますよー」みたいな感じだ(人形劇が終わったら、またそれぞれの遊びに戻る)。

人々に何かしら共有されたミッションが課せられるわけではなく、皆、それぞれに過ごしているだけだが、それでも同じスペースの中で同じ音楽に貫かれていることによる「場の温まり」のようなものがある。上演の冒頭で俳優が観客に、自分に合わせてハミングすることを要求するのだが、ほとんどの観客が躊躇なくすんなりそれを受け入れていた。それは、パフォーマーと観客の間のコールアンドレスポンスというよりも閾の低いものであるような感じ。そのような場が上演前の一時間によって形作られていたということだろう。冒頭は、俳優が観客に語りかける調子で始まるが、これはもちろん実際に「そこ」にいる人に語りかけているのではなく、テキストにあらかじめ書かれているからそうしているのだが、しかし、それでも本当に「そこ」にいる人に話しかけているかのような空気になっていた(おそらく、テキストを離れて実際に話しかけたりしていた場面もあったのではないか、と思う)。

ある形(ある感触)の上演を成立させるための「場」を作るところから始めているような感じがあった。

(上演後に俳優たちは、観客がまだそこにいて踊ったりしているのに、かまわずその同じ場で打ち上げを始めたりしていた。だからそれは、共有されていると同時に、それぞれが好き勝手にしている感じの場でもある。)

 

2026/10/17

⚫︎実家の柿がずいぶん熟してきた。

(採れるやつは採っているが、届かないところは採れないし、採り過ぎても食べきれない、鳥のために残しているにしては多すぎる。)

追記。食べきれないので干し柿を作った。カゴは、梅を干す(梅干しを作る)ときに使うやつ。

 

2026/10/16

⚫︎イーロン・マスクという人物に共感できるところはまったくないと言ってもいい。しかし、いまや、スペースXとテスラのみが、(AI以外では)我々が見失ってしまった「人類の未来の夢」を形にして見せてくれている、という感じがあることも否定できない。

それは、20世紀に夢見られた、過ぎ去った、アナクロニックな「未来(21世紀)の夢」に過ぎず、そんなものに囚われている限り資本主義の沼から抜けられないという意見もあると思う。とはいえ、20世紀生まれの20世紀育ちとしては、こういう技術にときめいてしまう自分を抑えきれない。

(一体、何の役に立つのかわからない、ほぼ、何の役にも立たないようにも見える技術だが、それこそが萌えポイントだ。)

(イーロン・マスクはきっと『マッハGoGoGo』とか観てると思う。)

・The Ramp | Roadster

https://www.youtube.com/watch?v=7p5LxFdc-Qg

・The Kickflip | Roadster

https://www.youtube.com/watch?v=r5vsHHPVhJg

スペースXの、発射したロケットをキャッチするやつ。2年前だが、これ初めて観たときも、おおおーっ、と、ときめいた(こちらはとても役に立つ技術だが、「役に立つ」からときめくわけではない)。

・SpaceX Makes History Catching Rocket on Landing

https://www.youtube.com/watch?v=RYUr-5PYA7s

2026/10/15

⚫︎Netflixで『ポリティカルパン』、第2話。おお、これは冴えている時の野木亜紀子だ。

1話の出だしの段階ではあまりに遠くにあった「国会議員になる」という目標が、2話のうちにあっさり選挙で勝って実現してしまう。この、2話の一話分に盛り込まれたアイデアとエピソードで、昔のドラマだったら5、6話くらい引っ張ったのではないかという圧縮ぶり。圧縮すれば良いということではないが、野木亜紀子における展開の速さは、次々と新たな視点を追加することによって、静的に固定化しがちな「関係の図式」を常に動かし、関係の多視点的な複雑さを作り出していくことに貢献する。

⚫︎早速、1話にあった、「父から息子への正統な継承」VS「放蕩娘と女盗賊による擬似的シスターフッド」という構図はグスグスになる。けっきょくは互いを思い合う兄妹関係が前景化したり、その上でのわちゃわちゃの(微笑ましいとも言える)兄妹喧嘩があったり、兄には兄として「父と息子の対立」があったり、父から息子への継承があるだけでなく祖母から孫娘への継承があることがわかったり、二項対立ではなく地味な第三の候補の地味だが独自の存在感が示されたりと、物事を単純に図式化して捉えることはできず、さまざまな力の複雑な引っ張り合いであることが示される。

石原さとみ(女盗賊)と河合優実(放蕩娘)との関係が純粋な協力関係ではなく、騙す(利用する)騙される(利用される)という関係であるのと同様に、寛一郎(息子)と草刈正雄(父)との関係も、けっきょくは利用される / 利用する関係でしかない。ただしここでも、二者関係があるだけではない。石原さとみ(女盗賊)と河合優実(放蕩娘)の関係には、第三項として宮本エリアナ(ガチ友人)の介入が予想されるし、寛一郎(息子)と草刈正雄(父)との関係にも、第三項として高橋一生(選挙参謀で、官僚出身の参議院議員)の介入が予想される。河合優実のガチ友人である宮本エリアナが、石原さとみの「策略」に対してどのような態度を取るのか未知数だし、表面的には与党の議員であり草刈正雄(元首相)の側近であるという立場をわきまえたクールな行動をとるものの、忸怩たる思いを隠しきれない高橋一生がどう動くのかということも不確定な要素だ。

(高橋一生が「参議院」議員であるという設定に、おお、芸が細かい、と思う。)

寛一郎と河合優実との選挙戦では、我々は心情的に河合を(良いものとして)応援してしまいがちだが、そして河合が勝ったことにより溜飲を下げてしまいがちだが、しかしこれはどちらも背後に黒幕のいる騙し合いであり、たとえば、選挙戦の最中に挫けそうになる河合優実に対して、石原さとみがとても感動的なセリフで叱咤激励するのだが、そのセリフに思わず感動しそうになりながら、いやいや、そもそも石原さとみは河合優実を騙していて、彼女にここで戦意喪失されると自分の「狙い」が達成できないから「いかにもそれらしいこと」を口先で言っているだけなのだと思い直す。ここで野木亜紀子は、我々(視聴者、そして有権者)が「それらしい言葉」にいとも簡単に騙されてしまうことを皮肉りつつ警鐘を鳴らしている(「お前らチョロすぎるだろ」と)。寛一郎と河合優実との戦いにおいて、別に河合優実が正しいわけでも新しいわけでもない。ただ、石原さとみ+河合優実の側の知恵(悪巧み)と機転が一枚上手だったということでしかない。

(正しい志を、正統なやり方で通そうとしたのは「地味な第三の候補」であるが、彼は落選する。視聴者は、本来ならは彼こそを応援すべきなのだ。野木亜紀子は、そのことをちゃんと示している。エンタメをエンタメとして成り立たせつつ、同時にエンタメ批判をしている。この複雑な「味わい」。)

ただしこの時に石原が河合に言う「あなたは依然として持てる者であり続け、何も失っていない」という言葉は真実であり、この事実があるからこそ、石原は河合を「騙す」ことに躊躇を持たない(それらしく言ってみればここには「階級闘争」がある)。そしてだからこそ、この言葉が河合に刺さったのだろう。逆に言えば、河合の「志」がガチであり、彼女が捨て身の行動に出ることがあれば、二人の関係は揺らがざるをえなくなり、騙す / 騙されるという関係は変質することになる(場合によっては決裂もありえる)。どうなるにしろ、二人の関係が騙す / 騙されるのまま固定されるということはないだろう。

(とはいえ、河合優実のもつ「志」の正しさは、石原さとみにはないものであり、それもやっぱり血筋からくるものなのでは ? 、というツッコミはありえる。この二人は根本的に異質な存在であり、常識的に考えれば相容れない立場にある。そのような二人の関係が、どのような過程を経てどうなるのか、というのがこのドラマのポイントだろう。)

⚫︎「外れた宝くじ」と「紙幣」とが、オブジェクトとしてはほぼ同質のものでありながら、それが持つ(効く)社会的な意味・価値がまるで違うということを生かした皮肉めいた伏線とか、普通に見事だなあと思う。

⚫︎如月弥生という石原さとみの役名(本名とは思えないが)は、如月ハニー(キューティーハニー)から来てるのか。

⚫︎それにしても、父親が元首相で、父の地盤をそのまま受け継ぐ政治家(彼は落選しても比例復活するのだ)の役に、三國連太郎の孫、佐藤浩市の息子である寛一郎を配役するという、この微妙な(人の悪い、と言っていいと思う)捻りというかアイロニーの感じ…(これがたまたまってことはありえないと思うけど)。

⚫︎一方に『ヤニねこ』があり、他方に『ポリティカルパン』があると考えれば、決して単純ではない複雑な含みをもつものとしての日本のエンタメは、まだまだ死んでないという希望が持てる。

2026/10/14

⚫︎ジョン・ロールズが考えた有名な思考実験に「無知のヴェール」というのがある。社会のシステムや制度について考えるとき、我々は、未だ生まれていない状態を仮想して考えるべきだとする。つまり、これから自分が、どのような時代のどのような国や地域、どのような性別、どのような親や家族、どのような価値観を持つ共同体、どのような能力や健康状態で、この世に産まれるのか知らない状態であると仮定して、そのような立場から考えるべきだというものだ。

地球上の人間の数が約80億人だとして、1日に3ドル以下の生活費で暮らしている最貧困層が一割弱くらいいて、また、先進国の中流程度の生活ができている人の割合もまた、一割強くらいだと言われている。最貧困とは言えないまでも、「貧しい」と表現される生活をしている人は36億人くらいいて、最貧困の人と合わせると80億人の人間のうちの半数以上はかなり貧しい(とても困難な)生活を強いられている。

「わたし」が、これから生まれようとする魂だとすると、半分以上の確率で貧しい地域や親の元に生まれ、まあまあそれなりの経済状況の元に生まれられる確率は十分の一程度に過ぎない。これはあくまで経済的な指標だけを考えてのことで、いわゆる「親ガチャ」の指標はこれだけではなく、(親だけでなく、自分の能力や健康、国や時代の状況も考えれば)総合的にみて、そこそこ悪くない状況下に生まれられる確率はさらに低くなるだろう。

(この考えにはちょっと輪廻転生的な感覚があるが、この場合、現世で徳を積むことに意味がなくて、生まれるたびにその都度、純粋なガチャを回すことになる。)

そのように考え、どのような状況下で生まれたとしても人はできうる限り平等であるべきだと考えるなら、最も困難な状況で生まれた人の状況を改善することを最優先に考えて社会を設計すべきだという結論になるというのが、(リベラリズムの代表的な哲学者である)ロールズの主張だ。

で、何が言いたいかというと、このロールズの「無知のヴェール」を実感できるゲームがあり、それも、ただそのようなゲームがあるというだけでなく、それが今、すごく流行っているという話を、VECTIONの会議で聞いた。これはかなり凄いことなのではないか。

(ロールズをコンセプトにしたゲームが流行っているという話題ではなく、こんなゲームが流行っているという話から、「これってロールズの無知のヴェールじゃない ? 」「おお、そういえば…」という話になった。おそらく作った人もロールズを意図しているわけではないと思われる。)

(追記。これは、異世界転生ではなく、この世界の「別の場所」に転生するということだ。)

《『80億分の1』は、統計データに基づいた人生シミュレーションゲームである。プレイヤーは世界のどこかの誰かとして、生を受けることになる。どこの国で生まれるかはわからず、どんな家庭の子となるかもわからない。そうした未知の要素は統計データに基づいてランダムに決定される。進路選択や就職、病気や事故、学校でのいじめ、家族の死など、さまざまなことを体験しながら、もう1人の自分の人生を見つめるのだ。》

《ゲームを開始する際には、生まれる世界と、生まれる国の決め方、ひとつの人生の長さを選択する。設定に基づいて人生がスタートすることになるが、世界のどこで生まれるかや、両親がどんな人か、家庭の裕福さなどはいっさい選ぶことができない。こうした要素は統計データに基づいて運任せで決まるのだ。》

automaton-media.com

歴史を学ばなくても、世界情勢のニュースに敏感にならなくても、政治に興味を持たなくても(排外主義的カルトにハマってしまっている人でも)、このゲームをやるだけで、多くの人の意識が自ずと変わってくるということもあるのではないかと思う。

あと、もう一つすごいのは、このゲームは、Jin Hwi-eusという人が一人で、AIを使うことで、アイデアを思いついてから、作って、リリースするまで4時間くらいでやってしまったというところだ。AIに否定的な人も、AIなど大したことないという人も、このことの凄さととんでもなさとを実感してほしいと思う。

1in8b.life

2026/10/13

⚫︎(ちょっとだけ、一昨日の補足)リミナルスペースにはオリジナルな場所がない。たとえば、バックルームの発端となった写真は、2002年の6月12日にウィスコンシン州オシュコシュにある改装工事中の家具店で撮影されたことが特定されている。しかし、この場所がバックルームのオリジナルだとは言えない。バックルームの起源は、あくまで2019年5月12日に4chanに投稿された「写真」と「キャプション(テキスト)」だろう。

廃墟好きの人も、工場萌えの人も、現実的には多くの場合、動画(映像)や写真付きの記事などによってその場所を経験するだろう。ただし、廃墟や工場は、実際にある特定の場所に存在していて(少なくとも過去のある時期には存在していて)、現実にある(あった)その場所こそがオリジナルであり、普段は動画でしか観ない人でも、可能であれば、その場所にまで足を運んで場所を実体験したいと思っているだろう。そこまで思わないとしても、その場所に足を運んで得られるものこそが一次的な体験であり、動画や記事による体験は二次的なものだという認識があるだろう。

しかし、バックルームが存在する場所は、画像(画像+テキスト)の場所であり、動画やゲームの場所であって、ウィスコンシン州オシュコシュの家具店ではない。リミナルスペースとは、二次体験こそが一次体験であるような場所だ。

ただ、リミナルスペースは「実体験」できないかというと、そうでもない。この日記に以前書いたことがあるが、都内でトークイベントに聴衆として参加し、打ち上げも出たので帰りが遅くなり、終電か、その一本前の電車にぎりぎり間に合う感じで東京駅に着いたら、何かの影響で電車が止まっていたということがあった。1時間くらいは止まっていて、その間に、ぼくが使う以外の路線はすべて終電が出てしまって、ただ、ぼくのいるホームと電車の中にポツポツりと人がいるだけの状態になった。まだ当分電車は動きそうになく、トイレに行きたくなったので車両からホームに出て階段を下った。すると、いつもは大勢の人でごった返している、東京駅のホームとホームを繋ぐ通路に、人がまったくいなかった。そんなことは初めてだったし、初めて経験するような不思議な感覚を持った。

現実としてのリミナルスペースは、「どこ」といった特定のアドレスがあり、そこに行きさえすれば常にある(あるいは、かつてあった)というものではなくて、何かしらのエラーによって現実空間の中に開かれた空隙のような場所として現れる。実在するが、「いつ」「どこ」といった位置情報によってではアクセスできないという意味では異界のようにある(東京駅で夜勤する職員にとってそこは日常の職場でしかないだろう)。

たとえば、アニメとその聖地のように、フィクション(アニメ)こそが一次体験であり、現実の場所が二次体験であるという場合(アニメ『ヤニねこ』の聖地は神奈川県相模原市である、というような)とも、少し違うように思われる。アニメの場合、アニメ(フィクション)が主であって、第⚪︎話でヤニねこがタバコを吸っていた喫煙所に現実空間上で対応するのはこの喫煙所だ、という形で現実空間が異化される(ただの喫煙所が聖地になる)。だがリミナルスペースの場合、フィクション(動画やゲーム)も、現実(人のいない東京駅)も、どちらも等しく、いわば二次的体験であって(つまりオリジナルではなくて)、そこではない(「どこ」とは指定できない)どこかを表現しているように思われる。

2026/10/12

⚫︎Netflixで『ポリティカルパン』1話を観た。野木亜紀子の新作。前作『ちょっとだけエスパー』は微妙というかいまひとつ冴えていなかった。そしてこのベタなタイトルに、「政治の金を盗む」というキャッチコピーときて、どうなんだろうという不安がまずあった。そしてフジテレビ制作。もともとドラマが弱い印象があるが、その上に、今の弱ったフジテレビにまともなドラマを作る力があるのだろうかという不安もある。

ぼくはもともと、演者が政治家に扮して風刺めいたことを言うみたいな左翼笑い的なコントが嫌いだし、安易な社会派ドラマ(ぱっと思いつく具体例としては『今ここにある危機とぼくの好感度について』みたいなやつ)も嫌いなので、ベタすぎるほどベタな社会派風タイトルにやや引く感じではあるが、とはいえ、野木亜紀子の脚本は常に社会派だとも言えるし、それが「安易な社会派」だったことは(ぼくが知っている限りでは)一度もないので、むしろ中途半端なSFよりはいいのかもしれないという思いもあった。

ドラマの冒頭、日本の衰退と若者の貧困を嘆く場面の前に、高級住宅地での金持ちのお年寄りの孤独死の場面を持ってくるこの感じ、(良くも悪くも、と言えるのかもしれないが)このバランスが、野木亜紀子の決して「安易」に流れない感覚で、それが始まりから出ていることで、ああ、きっと大丈夫だろうという気持ちになる。

(ちょくちょく小金を盗みに入っている大邸宅の、一人暮らしのお婆さんが亡くなっているのを見つけてしまい、その遺体の元に朝まで寄り添って悼むという冒頭の一つのエピソードだけで、主役の「泥棒」の性質をかなり明確に印象付けていて、見事なオープニングだと思う。多額のタンス預金を、バレないようにちょっとずつちょろまかしていたというセコさも含めて。)

ただ、お話としては、良く言えば王道、悪く言えば紋切り型のエンタメの構図だ。一方に、父から息子への、権力・権威の正統な継承があり、しかし他方に、それを撹乱する、放蕩娘と出自の怪しい女怪盗という非正統的な擬似シスターフッド的ペアが生まれて動き出す(「擬似」なのは女怪盗が放蕩娘を利用しようとしているから)。背景としては、現代のリアルな日本の現状があって、それに対する(正義に基づいた風刺というより)毒を効かせた皮肉が強めのスパイスのようにありつつも、お話の根幹はベタなエンタメ的構えだ。

(フェミニズムと社会批評を通過した『キャッツ・アイ』みたいな感じ ? )

土台に、現代的な政治風刺を置いて(様々な時事ネタ的社会問題を悪ノリ的にてんこ盛りにしている感さえある)、その上に、父から息子への権力移譲に対する女盗賊と放蕩娘による叛乱をのせるという、ベタな上にベタを重ねたような構図だが、野木亜紀子の脚本において、このようなわかりやすい(体制対反体制みたいな)構図がずっと維持されるとは思えないので、この構図にどこまで複雑な(つまり変態的な)ひねりやねじりが加えられ、どのような意外な展開をみせていくのか、ということを期待しながら続きを観たい。

(ぼくにとって野木亜紀子は、ドラマというより「形」がおもしいと思う作家で、このドラマではどんな「形」を見せてくれるのかという楽しみが、まずある。)

(この手の物語は、叛乱側にはユニークな登場人物がいっぱいいるが、権威・政治家側の人物が紋切り型ばかりということがよくあるが、そうならないことを期待したい。)

真面目なモードではなく、基本的に悪ノリと悪ふざけの調子であるところがいいと思うが(レゴブロックで作ったような国会議事堂とか)、そこにけっこう強めの「毒」を効かせているのが面白いというのが、まずは1話めの感想。