2019-10-19

●お知らせ。「樫村晴香 ソロトーク vol.2(聞き手 保坂和志・山本浩貴)」があります。

樫村晴香ソロトークをもう一度だけやります。今回は、私と山本さんからの質問に樫村さんが答える時間を30分くらいみて、樫村さんの語り90分・質疑応答30分、という配分を考えています。》(保坂和志)

【日時】114 16:00~18:0018:00~20:00まで懇親会予定)

【場所】RYOZAN PARK巣鴨(グランド東邦ビル)地下 東京都豊島区巣鴨1-9-1 巣鴨駅南口から徒歩3分)

【金額】3,000円(懇親会参加費は別途1,000円)

【予約フォーム】

https://www.quartet-online.net/ticket/hosakakashimuraharuka2

【お問い合わせ】hosakakazushi.official@gmail.com

●15日の日記で『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(山田陽一)という本を引用したのだが、その引用部分に名前があったヴィージェイ・アイヤーという人は、《インド系アメリカ人のジャズピアニストであり、音楽認知に関する研究で博士号を取得》していると説明されていた。

検索してみたら有名な人みたいで、けっこう動画があった。いかにも現代ジャズという感じで(と、それ以上の解像度のことはぼくには何も言えないけど)、とてもかっこいい。

Vijay Iyer Trio: NPR Music Tiny Desk Concert

https://www.youtube.com/watch?v=SiDBiIsFiqU

Vijay Iyer Trio - Human Nature

https://www.youtube.com/watch?v=BXAMHE3i1q0

For Amiri Baraka / Combat Breathing - Vijay Iyer Trio - Live from Here

https://www.youtube.com/watch?v=UHaQs1voD98

●『リズムから考えるJ-POP史』(imdkm)という本を読んでいるのだが、そこに、宇多田ヒカルの『初恋』というアルバムにクリス・デイヴが参加しているということが書いてあった。

《『初恋』においてこうしたリズムにまつわる意欲的な試みが展開されたのは、演奏で参加したミュージシャン、とりわけクリス・デイヴの貢献が大きい。》

宇多田 彼と相性が良かった理由は、アカデミックな感覚で「何分の何というリズムでここを捉えて計算すると理解できる」ってしてくれたところ。違う二つのタイムシグニクチャーを鳴らして、どこかで融合して一緒にするというのが得意で、トリッキーなことでもできちゃう人だから。私のわけわかんないデモも、物理的にも感覚的にも理解してくれて、混乱なくやってくれたのがありがたかったな。》

《クリス・デイヴは現代のジャズにおいて最も重要なドラマーのひとりとされ、ジャズピアニストのロバート・グラスパーとの競演で知られるほか、自身のリーダー作も評価が高い。アデルやエド・シーランといったポップアクトから、2000年代以降のRBやネオソウルのグルーヴ感を規定したと言ってよい大御所、ディアンジェロのバックも務める。》

《前掲の宇多田の発言にもある通り、クリス・デイヴはクセのある宇多田のリズム感覚をスマートにバンド演奏へと落とし込んだ。それは単に生バンドのえもいわれぬグルーヴ感や質感を楽曲にもたらしたのみならず、宇多田のリズム感覚をより先鋭化させることにもつながったはずだ。》

●それで、久しぶりにクリス・デイヴの動画を観た(聴いた)のだが、やはり超かっこいい(という以外に具体的なことは何も言えないのだが)

Chris Dave and The Drumhedz - Jazz en Tete 2012

https://www.youtube.com/watch?v=NHyR_tPh_cs

 

2019-10-18

WINKが「500miles」のカヴァーをしていたなんて知らなかった。

WINK相田翔子鈴木早智子) 背中まで500マイル

https://www.youtube.com/watch?v=wgOwqtKPWgQ

●「500miles」をカヴァーしたWINKの曲のカヴァー。もともと、この動画を見つけたことで、WINKが「500miles」をカヴァーしていることを知った。

背中まで500マイル_Wink_カバー_さよならさんかく

   https://www.youtube.com/watch?v=SPMuDHj85nY

●話はちょっとずれるが、WINK系のカヴァーといえば、元WINK鈴木早智子の「雨音はショパンの調べ」のカヴァーが意外によかった。

鈴木早智子 - 雨音はショパンの調べ

https://www.youtube.com/watch?v=TlfzrDCEVA8

●ぼくが「500miles」という曲を知ったのは、細野晴臣忌野清志郎坂本冬美によるユニット、HISによってだった。「500マイル」が収録されたHISのアルバム「日本の人」が出たのは1991年。WINKの「背中まで500マイル」が収録されたシングル「悲しい熱帯魚」は1989年発売だから、WINKの方が先だ。

HIS 500マイル」

https://www.youtube.com/watch?v=K02Lh6RUjT8

●「500miles」をつくったヘイディ・ウェストによる演奏。

Hedy West- 500 miles

https://www.youtube.com/watch?v=neVpZBX1Clc

●演奏者によって少しずつ感じが変わっていって、ピーター・ポール&マリーくらいになると、ぼくなどがイメージするこの曲に近くなる、ということか。

Joan Baez ~ 500 Miles

https://www.youtube.com/watch?v=B_K6z3HiRAs

500 miles - Peter, Paul and Mary

https://www.youtube.com/watch?v=ADN1lLEp3H0

 

 

2019-10-15

●引用、メモ。グルーヴについて。『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』(山田陽一)、第二章「グルーヴィーな身体」より。

●グルーヴ、ゲシュタルト、パルス。

(ヴィージェイ・)アイヤーによると、グルーヴにもとづく音楽の特徴は、規則的で、実質的には等間隔で生じるパルスにある。いいかえるならば、グルーヴとは、音楽的なパフォーマンスにおいて規則的なパルスの知覚を生みだす音楽的要素ということになる。そして、この規則的なパルスは、グルーヴのコンテクストにおいてしばしば数ミリセカンドのレベルで微妙に変化させられる。アイヤーはその変化を「マイクロタイミング microtiming」とよび、そうした微細な尺度でのリズムの表出の仕方が、音楽にとって、たとえば音質や音高や音の大きさと同じくらい重要なパラメーターになると指摘する》。

《アイヤーが示しているのが、非常に高い技量をもつジャズ・ドラマーが裏拍を打奏したとき、それをふくむパルスが、しばしば微妙な偏りあるいは非対称性を示すという事実である。つまり、バスドラムが強拍を正確に打奏した場合、次につづくスネアドラムの裏拍は、バスドラムによる二つの連続するパルスのあいだの中間点よりごくわずかに「遅く」演奏されることが非常に多いというのである。(…)熟達したミュージシャンや聴き手であれば、そうした微妙な遅れをともなうドラム演奏について、「リラックスしている」とか「ゆったりした」など---つまりグルーヴィーだ---と肯定的な評価をあたえるという》。

《かれ(タイガー・ロホルト)によると、音楽のニュアンスとは、表現上の微妙なヴァリエーションとも言い換えることができ、音楽作品にではなく、パフォーマンスに属する特性である。たとえば、同じA音としてカテゴライズされる二つの音高のうち、一方が他方よりも高い(とはいえ、A#音とカテゴライズされるほど高くはない)場合、また同じ八分音符と分類される二つの音価のうち、一方が他方より長く持続する(とはいえ四分音符と分類されるほど長くはない)場合、そして、多くの種類があるが、そのすべてを適切に区別することのできないギターの歪んだ音質などが、音楽のニュアンスの例である。》

《この音楽のニュアンスこそ、グルーヴ現象の基礎になっているとロホルトは指摘する。つまり、グルーヴは、マイクロタイミングというニュアンスに基礎をおく「知覚のゲシュタルト」であり、それは、ある特定のやり方でニュアンスを知覚する経験のなかで生じる。(…)グルーヴが音楽経験のなかで実感されるためには、音楽のニュアンスの知覚経験---それもある決まったやり方で、つまり、グルーヴを引き起こすものとしてニュアンスを聴くこと---が何よりも必要とされているのである》。

《ロホルトによると、ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥー」には二種類の録音があり、両者は演奏のタイミングのニュアンスに大きな違いがあるという。最初の録音では、リンゴ・スターがドラムを叩き、二回目はアンディ・ホワイトが担当した。この曲のリズム・パターンは「ターン・タッタ・ターン・タッタ」という四拍子のスウィング・リズムにもとづいているが、リンゴの演奏ではほぼ常に、二拍目と四拍目の連続する八分音符(「タッタ」:正確には真ん中が八分休符となる三連符)のうち、(休符のあとの)二番目の八分音符がわずかに遅めに打奏され、ホワイトの演奏では逆に、同じ音符がわずかに早めに叩かれている。》

《ロホルトは、両者の違いがもつ音楽的意味が、いずれもリズムを「もたれかかった」ように感じさせる点にあると指摘する。リンゴが二つ目の八分音符をほんの少し遅めに演奏すると、リズムが後ろにもたれかかって引っ張られるように感じられるし、ホワイトが同じ音符をほんの少しは早めに叩くと、前にもたれかかって押されるように感じられる。(…)ロホルトは、こうした「もたれかかりの感覚」を理解する必要があり、そのためには、ドラマーたちの打奏タイミングのニュアンスを適切に知覚するやりかたを理解しなければならないと主張する》。

《スウィング・グルーヴの経験における二番目の八分音符の働きかたは微妙であるとはいえ、その位置はリズム全体に影響をおよぼす。(…)ロホルトは、両義的な知覚刺激の例は、ゲシュタルト現象それ自体であり、そのなかの両義的な要素だと指摘する。》

《両義的な解釈を許すゲシュタルトにおいては、二つの解釈の両方を同時に知覚することはできない。たとえば、見方によってアヒルに見えたりウサギに見えたりする「アヒル/ウサギ」の知覚のゲシュタルトにおいては、アヒルとウサギを同時に見ることはできない(…)「アヒル/ウサギ」の場合、注意をウサギの耳の部分に向け、それをウサギの耳として見るとき、アヒルの知覚への移動は妨げられる。(…)ゲシュタルトの移動が生じるためには、ウサギの一部が注意の対象であってはならず、ある意味で、ウサギのイメージは知覚の背後に退かなければならない。》

(…)ゲシュタルトの移動が生じるために、ウサギのイメージが背景に退かなければならないのと同様に、グルーヴの「もたれかかり」というゲシュタルトが知覚されるためには、二番目の八分音符は背景に退かなければならない。逆にいうと、二番目の八分音符に注意を向け、それを八分音符として聴くことは、もたれかかったグルーヴを知覚するのを妨げる。》

《ロホルトが主張しているもう一つの特定の知覚の仕方は、八分音符をパルスと関連づけて聴くことに関わっている。スウィング・リズムのパルスがもつ規則性は、それがずっと続くだろうという期待を生む。もし注意をあの八分音符だけに向けたなら、それはただ早いと聞こえるか遅いと聞こえるか、あるいは間違っていると聞こえたり、拍子はずれに聞こえたりするにすぎない。だがその八分音符を、パルスとの関係において「反響するreverberating」もの---すなわち不確かで曖昧で、それがパルスに影響をおよぼす場合にのみ経験のなかに存在するもの---として知覚するならば、パルスへの期待(すなわち規則的なタイミングへの期待)にたいして押したり引いたりするという特性、いいかえるならば一種の不均衡や緊張が生じる。もたれかかったグルーヴが経験のなかにあらわれるのは、まさにこのときである。つまりスウィング・グルーヴは、パルスの規則性によって引き起こされた期待を、八分音符が妨害することで生じる緊張の結果なのである》。

●共有されたずれのフィーリング、演奏のゲシュタルト的全体性、

《イギリスの音楽学者マーク・ドフマンは、比較的最近の議論のなかで、グルーヴをミュージシャンによって「共有されたタイミングの身体的経験」として捉えようとしている。かれによると、グルーヴは基本的にミュージシャンたちの身体の「あいだ」で生じるものであり、その意味で、それは相関的な身体現象である》。

《グルーヴは音楽的時間の共有に関わっているが、ある音楽をグルーヴィーだと感じるためには、演奏者のタイミングが完全に一致したり、メトロノームのように等時間隔的である必要はない。演奏者たちはよく、グルーヴを伸縮性のある経験と感じており、重要なのは、演奏者のあいだで深い協調感覚が生じるために、この時間の伸び縮み、すなわちタイミングの微妙なずれにたいするフィーリングが共有されることなのである。》

(…)従来の考えかたによると、グルーヴはリズム・セクションに固有のものであり、グルーヴという「地」のうえでソリストが「図」を演奏するという捉え方であった。だが、ドフマンによると、今日のジャズ演奏において、演奏者間の相互作用のありかたは、地と図というはっきりした対比を否定している。つまり、ソリストは主導権を保ってはいるが、現在の演奏におけるリズム・セクションとソリストの関係は、地と図モデルが示す状態よりもはるかに微妙で複雑である。また、グルーヴしているバンドの音楽は、ひとつのゲシュタルト的全体として経験される。グルーヴの産出においては、ベースとドラムが中心として注目されるかもしれないが、この全体的な音楽経験からソリストの演奏やベーシストの演奏だけを取り出すことはできない。グルーヴとは、集団的で間主観的な発現特性なのである》。

 

2019-10-14

RYOZAN PARK巣鴨で、台風で延期になっていた、保坂和志「小説的思考塾 vol.6」。今回のテーマは「樫村晴香の思考」。以下に書くことは、保坂さんが喋ったことの要約とかではないです。

保坂さんは「樫村の思考では、世界を問うことのなかに、世界を問うている自分が常に含まれている」というようなことを言っていた。この前の樫村さんのソロトークでは、メタフィジック(世界とは何か?)オントロジー(~とは何かと問うということそれ自体---問うこととして生じているこの私---とは何なのか?)へと折り返していく、その「折り返しが生じる瞬間」(その時にやってくる嫌な感情)ということについて繰り返し語られていた。

(おそらくこの「折り返す瞬間」は、ニーチェの元に、月夜と蜘蛛の巣と悪魔と共に訪れた永劫回帰の経験とつながっていると思われる。)

たとえば、歴史的にはブッダの時代に「折り返し」が生じていた、と。ブッダには、多くの人を殺した過去をもつ元盗賊である弟子アングリマーラがいた。そしてブッダは、彼のことを、病人の前で、彼は生まれてこの方一度たりとも悪に手を染めたことがない、最も強く善を目指してきた者だ、だから彼はあなたを救うだろう、と紹介する(というか、アングリマーラ自身にそう言わせる)。これに対してアングリマーラははげしく狼狽する。

樫村さんによれば、このブッダの言葉によってアングリマーラは動揺し、彼の頭はフル回転の状態にならざるを得なくなる。そうすると、その状態は相手にも伝わるし、アングリマーラの罪悪感や、それを克服しようという感情も伝わる。そういう状態にすることでアングリマーラのあらゆること---存在---が相手に伝わっていく。ブッダにおいてはそのような状態を生むものが「言葉」なのだ、と。そのような言葉は、世界を分節化しようとする形而上学ではなく、存在論と言えるものだ、と。ブッダはそのように言葉を使うことをはじめた一人だろう、と。

もともとアングリマーラは真理を究めたいと思っていた。そのためには、ありとあらゆる悪を行うことで徹底的な悪をなせば真理に到達するのではないかと考え、盗賊をし、人を殺していた。つまり「世界(真理)とは何か?」という問いをもちそれを探求する者であった。だからこそブッダと出会って彼に転移し、弟子となった。そのような(形而上学的な)アングリマーラに対して、ブッダはまさに存在論的転回を起こさせる。

ここで言われているのはおそらく、形而上学に対する存在論の優位というようなことではなく、「世界とは何か?」という問いが「~とは何かと問うこととは何か?」へと反転する瞬間に起きている「何か」を指し示すことであろう。たとえば樫村さんがモロッコで海を見ていて、波の波動をほとんど完璧に予測できると感じた時、波の波動を「予測している私」もまた(決定論的で予測し得る)世界=波の一部に含まれていると感じること、その瞬間。それを樫村さん風に言えば、「世界(真理)とは何か?」という問いの答えが、「(それを問うている)この私というものは存在しない」という嫌な感触として世界から返ってくる、という経験だということになろう。その時に存在に関する定的な何かが開かれる、と。

おそらく保坂さんにおいては、この感覚は幾分かマイルドな形で現れているのではないか。樫村さんは保坂さんに、「ふつうペットは自己像の反映だが、保坂の場合、猫が世界の基盤として機能している」と言われたそうだ。それはつまり、ニーチェにおいて(月や蜘蛛と共に)悪魔としてあらわれるもの、樫村さんにおいて波の波動としてあらわれるものが、保坂さんにおいては猫としてあらわれるということだ、と考えていいのだろうか。

「世界とは何か?」という問いが、「~とは何か?(世界の内側で)問うということは何なのか?」という問いへと、つまり形而上学存在論へと折り返してくる時、そこに、悪魔や永劫回帰でも、「私は存在しない」という嫌な感じでもなく、「猫」があらわれるというのはどういうことなのだろうか。保坂さんにとっては、猫がいるから、春・夏・秋・冬があり、喜び・怒り・悲しみがあるのだという。「世界とは何か?」が「~とは何か?と問うている私は何か?」へと折り返ることで、(ニーチェや樫村さんにおいて)存在の怪異と共に行動や能動の不能姓が立ち上がるその場所に、愛情を注ぎ奉仕すべきものとしての猫があらわれる時、(これも樫村さんが言っていた)再度選択する行為としての「愛」という出来事が生じているのかもしれない。

遺伝的、動物的、あるいは個人の資質として、ほとんど自動的に決定される「好ましい」という感情があり、それに対して、その決定論的な感情を、意思として改めて引き受け直すということとして「愛」という問題がある、と樫村さんは言っていた。猫という動物の形態や動き、生態などのありようが、とりわけ強く、人に存在論的な問いを誘発する、ということがあるのかもしれないし、個人的資質としても保坂さんはその傾向が強いのかもしれない。だがそれだけでなく、その感情を「愛」として意思をもって再度引き受けることで、猫に対する愛情と奉仕のために行われる具体的な行為が発動されることになる、のではないか。そして、猫への愛情や奉仕のための行為を基盤として、日常や世界への見方が組み立てられ直す時、形而上学から存在論へと折り返してくる地点の近傍に留まりながらも、存在というものの怪異の前にただ立ち尽くすのではなく、生活が可能な能動性が再び定立されるのではないか。

保坂さんの小説において、日常的で鷹揚なトーンが維持されたままで、存在論的な問いを立ち上げることが可能になっているのは、そうしたことがあるからなのかもしれないと思った。

トークのレジュメというか、ハンドアウトに引用されていた中井久夫の言葉が、鋭くも容赦なくて、気になったので調べてみたら、『アリアドネからの糸』という本に収録されている「創造と癒しの序説---創作の生理学に向けて」というテキストだった。ハンドアウトに引用こされていたのは以下の文章。

《創作の全過程は精神分裂病の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。この危機の時期にもっとも危険なのは、広義の権力欲(キリスト教にいう傲慢)である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。 逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない人、持ちつづけえない人は、この時期を通り抜けることができない。》

持っている本をみてみると、この部分の直前には次のようにも書かれている。

()もっとも危険なのは広義の権力欲である。これをもっとも警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるならば、すべては空しくなるだけでなく、精神病の危機が待ち構えている(「権力欲なくして妄想なし」とは私の定式である)。》

中井久夫はこのテキストで、創作行為に必須なのは「文体」の獲得であり、それは、「発達性」をもつ大脳よりも、「錬磨」される小脳に刻みつけられることの問題が重要である、みたいなことを書いている。

(…)非常におおまかにいって、大脳皮質は感覚と知覚とに開かれ、認知から経験を経て行動に向かう。それは両側に開かれたシステムであり、たえず外部(および内部発生)の擾乱に曝され、それを濾過し、構成し、再構成し、外部に応答し、その結果をふたたび自らの上にこうむらなければならない。そのために大脳皮質の構成原理は差異性優位である。これに対して小脳(の新皮質)は外界に対して閉ざされ、言語に対しても閉ざされている、盲目的なシステムであり、もっとも「共感しにくい中枢神経部分」である(皮質下の諸システムは身体に開かれ、身体を媒介として接近し「共感」することができる)。》

(…)私の中枢神経系のイマージュは、大脳を馬とし、皮質下とその相互の代表象である身体とに馭者として小脳が打ち乗っている図である。小脳は発達ではなく「錬磨」されるのではあるまいか。(…)おそらく、大脳が創造(最広義である)とそれにともなう擾乱と浪費とを、小脳は熟練と安定と経済とを代表するシステムではあるまいか。では小脳は保守的であって、創造とは無関係であるか。一般に、あるシステムに外力が加わった時にはそれを打ち消す力がシステム内に生じる。これは物理化学の初歩的法則である。大脳皮質に外力が加わった時にこれを熟練によって「消化」し、経済的・効率的とすることによって、システムの変化を円滑かつ無害にしているといえまいか。この私だけの「脳神話」はともかく、創造が癒しになるためには、熟練によって釣り合わされることが望ましい。》

●そして、いわゆる「作家」に対して手厳しいというか、容赦ない感じ。

《一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となるよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。

一般に四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には、読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。》

●さらに容赦ないと思うのは、この「四つの軌道」でもっとも高く評価されているのが「沈黙」であるということだ。たとえば、普通はポジティブに評価されるであろう「絶えざる実験」ですら、以下のように書かれる。

(…)マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験をすることを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。》

《第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。》

 

2019-10-13

●もはや、『台風クラブ』がリアルではない時代になってしまったのだなあと思った。『台風クラブ』において台風は、少年や少女たちの感情の爆発的な発露と同期するような、死への予感を含む祝祭感をもった「適度なカタストロフ」であると思うのだが、今では台風は、人間の感情と同期してその比喩となるような規模を越えてしまって、リアルに世界の崩壊と結びつきかねない恐怖の対象となってしまった。豪雨と強風が高揚感をもたらさない。台風は、少年や少女の感情よりも、ゴジラのような存在に近いものになってしまった。

(台風クラブ』のリアリティの低下の主な原因は、世界的な気象の変化---人新世---にあると思うのだが、それだけでなく、「破壊()への衝動」的なものが、たとえば「死に至る生の高揚」と表現されるような豊かさや厚みを失ってしまっているということもあるように思う。現代における「破壊への衝動」は、ひたすら薄っぺらで無内容で自動的で不気味なものとして出現していると感じられる。たとえば、いくらでも湧いて出る不毛で執拗なクソリプやクソコメント、秩序を崩壊のみを目的とする炎上マーケティングのようなものとして。)