2026/01/11

⚫︎ツタヤディスカスで『ヘリウッド』(長嶺高文)のDVDをレンタルできることを知った(まだ手元に届いてもいないが)。作品としての良し悪しを超えて、ぼくに深く刻まれてしまっている映画で、しかし公開時(1982年)に一度観て以来、観ることができていない。

『ヘリウッド』は、1980年に『ツィゴイネルワイゼン』を製作して注目されたシネマプラセットという制作会社の作った、『ツィゴイネルワイゼン』(80年)、『陽炎座』(81年)に続く三作目の映画で、前の二作と同様にドーム型テントで上映された。ただ、今では、遠藤賢司が主演していた(いや、主演は羽仁未央か…)という以外のことで、この映画に興味を持つ人はほとんどいないかもしれない。

一体、どこでその情報を仕入れたのかは憶えていないけど、82年に神奈川の田舎の高校生だったぼくは、『ヘリウッド』を観るために、遠路、原宿(確か、当時、桑沢デザイン研究所の前にあった駐車場のような空き地に、シネマプラセットのドーム=テントが設営されていた)まで出掛けて行ったのだった。その後、同じ高校で一学年上の女の子が撮った八ミリ映画を観る機会があって、その映画がほとんど『ヘリウッド』のそのまんまのパクりの部分があって、こんなに近くに、自分と同じように、あんなマイナーな映画をわざわざ遠くまで観に行った(そして少なからずハマった)人がいたんだ、と驚き、妙にうれしくなった記憶がある。

それは大林宣彦の(『ハウス』よりはむしろ)『ねらわれた学園』(81年)の雰囲気(あの不思議な豪華キャストとか)に近いものがある。マイナーなものたちが雑居する、得体の知れない(そして、ユルい)複合体のような感じは、80年代も中盤に入ると、オタクとかサブカルとかアートとか 、あるいは細分化された「何とかカルト」みたいな感じや、それらと明確に分離されるシネフィル系とかにそれぞれ分かれ、整理されて、棲み分けられてしまうのだけど。この(本来、相容れないかもしれない者同士の)不思議な雑居は、ある意味、情報の流通量の少なさによって可能になっている部分もあったのではないか。そしてその後の分離は、情報量の増加による必然なのかもしれない、とも思う。》(2006年の日記)

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しかし何といっても、ぼくは、80年代初めにシネマプラセットで製作された、長嶺高文・監督の『ヘリウッド』という映画を思い出した。この映画で篠原勝之演じる植物学者は、和室の中央に畠をつくり、そこに肥をまいたりしていた。随分前に観た映画なので記憶に自信がないのだけど、確かこの植物学者も、植物の恋愛についての論文を書いていたように思う。宇宙からやってきた悪者がマッドサイエンティストを従え、牧師と愛欲の日々を送る美少年を誘拐してきて、彼の腸に種を植え込むことで植物人間にしようとする。悲しみにくれる牧師をみて、美少年を救出しようと決意する女子高校性3人組。スカトロ、ソドミイ、フリーク、等々、悪趣味とチープさとでドロドロの(決して出来のいいとはいえない)この映画を、明朗な空のようだ、とか評されたりする尾崎翠と併置すると、尾崎フリークは怒り狂うかもしれないけど、徹底して『絵空事』にこだわり、絵空事を緻密に組み立てることで、何かを表現しようとするという姿勢は近いものがあると思うし、それに、尾崎的透明感と、悪趣味ドロドロって、感性として近いというか、けっこう紙一重なんじゃないだろうか。》(2000年の日記)

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⚫︎ツィゴイネルワイゼン』は、作品として素晴らしいというだけでなく、その上映・配給の形態が話題になり注目された。プロデューサーの荒戸源次郎は天象儀館という劇団を主催しており、劇団では(唐十郎状況劇場と同様に)テントを建てて劇場として公演を行っていた。おそらくそのノウハウを使って、空き地にドーム型のテントを建てて、そこを映画館として映画を上映した。それにより、制作会社である独立プロダクションが、配給と上映までも自前で行うということができた。これは映画の流通の革命のような大きな出来事だろう。

劇場を持たなくても、空き地にテントを立てれば自前で上映できる。このやり方で『ツィゴイネルワイゼン』は、東京タワーの足元にある駐車場に建てられたドーム型テントで22週も続けて上映され、単館上映の映画としては異例の10万人の観客を動員したと言われる(お客さんが来る限り劇場のスケジュールに依存せずに上映を続けられる)。映画そのものと同時に、このこと自体が話題になり、さらにお客さんを呼んだ。1980年に、ドーム型テントの映画館は新しい都市風俗のような感じでもあった。で、このことを伝える深夜のテレビの情報番組などを観た中学生のぼくは、(映画の予告から感じられる奇妙な感覚に加えて)その「すごいことが起こっている」感に心を踊らされていたのだろうと思う。

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⚫︎ただし、この「すごいこと」は、広がらなかったし、続かなかった。シネマプラセット以外の独立プロダクションがこのやり方を踏襲することはなかった(ぼくが知らないだけであったのかもしれないが、大きな広がりをみせることはなかった)し、シネマプラセットもこのやり方を、『ツィゴイネルワイゼン』(80年)、『陽炎座』(81年)、『ヘリウッド』(82年)、『時の娘』(83年)の四本だけでやめてしまう。テント型劇場は思いのほかコストがかかるのか、あるいは、「業界からの締め付け」のようなものがあったのか、部外者なので理由はわからないが。

80年の段階では、まだ中学生だったので(心を踊らせるばかりで)東京まで映画を観に行くのは、経済な意味も含めてハードルが高かった。だけど、82年には高校生になっていたので観に行けるようになった。で、それで観たのが『ヘリウッド』だった。上映のあった場所は、渋谷駅から公園通りを原宿の方向へずっとずっと行った先の方、というイメージが記憶に残っているだけだが。ぼくにとってこの映画は、このような背景事情まで含まれたものとして刻まれてしまっている。

長嶺高文監督は、2014年に60歳で亡くなっている。)

⚫︎これだ、この映像 ! 。

遠藤賢司 - 通好みロック

https://www.youtube.com/watch?v=Ug0ghbbbUas

2026/01/10

⚫︎『ふれる。』をU-NEXTで。監督・長井龍雪、脚本・岡田麿里、キャラデザと作画監督田中将賀のトリオによる新作が2024年に公開されていたということを今まで知らなかった。15日に東京科学大学(ほぼ旧東工大)で『心が叫びたがってるんだ。』について深掘りする講義をするので、これは観ておかないわけにはいかないと思って観たが、本当にこの三人の作品なのか疑ってしまうくらいに「ありきたり」な感じの作品だった。

秩父三部作のユニークさ、また、2023年に公開された、岡田麿里が監督・脚本の『アリスとテレスのまぼろし工場』の、岡田麿里特有のアクの強さを濃縮した超濃厚さに比べ、なんともあっけないというか、スルッと、さらっと、通り抜けられてしまって、引っかかるものがない。

長井龍雪の演出はそれなりにステイリッシュでかっこいいが、だからこそなおさら、するするっと通り抜けられてしまう感じ。)

確かに、うまく言葉が出てこない(口よりも先に手が出てしまう乱暴者の問題児である)、故に内側に「どろどろ」が溜まってしまう主人公の「秋」が、どのようにしてコミュニケーションの手段を獲得するかというような主題については「心が…」と通じるものはあるが、主題の展開としても、あるいはたんに「物語としての展開の面白さ」とか「アイデアの面白さ」という点からしても、あまりにあっさりしていて「工夫がない」ように感じられてしまった。

(秋、優太、諒という三人の人物の葛藤の物語が収束した後、今度は(「人間」ではない・超自然的な生き物である)「ふれる」の方が臍を曲げてしまうというか、「ふれる」の孤独が改めて問題になるところが、「視点」としてちょっと面白いとは言えるが、でも、それを主眼としたいなら、このような「物語」の組み立ては違うんじゃないかなあ、と思ってしまった。その視点の面白みがうまく物語に組み込まれていない、というか。それに何より、映画の時間の多くを占めている、秋、優太、諒の友情と葛藤の物語が「ありきたり」であると感じられてしまうところが、うーん、という感じだった。)

(「ふれる」は、人と人との関係を「媒介」し「調整する(フィルターをかける)」ことによってしか自らを主張できない生き物として設定されている。そういう徹底して受動的な「生き物」を中心とした物語を作るというアイデアは、考えてみればけっこう面白いことであるようにも思われてくる。でも、そうだとしたら「こういう物語」じゃないのではないか、と思う。)

2026/01/09

⚫︎神奈川大学みなとみらいキャンパス米田吉盛記念ホールで『いもの国風土記』(井上文香・黒川幸則)、第一部から第三部を観た(第三部は初公開)。このような映画でネタバレというのは変な話だが、この映画の第一部と第二部を観ている人で、第三部を前情報なしで新鮮な驚きと共に観たい人は以下の文章は読まない方がいいかもしれない(と、一応ことわっておきます)。

www.kanagawa-u.ac.jp

⚫︎もし、この映画が黒川さんの単独監督作だったら第三部がこのようなスタイルになることはなかっただろうと思うし、また、今後の黒川さんが単独でこのようなスタイルの映画を作ることも、おそらくないのではないかと思う。つまりここでは一回限りの「出来事」が生じていて、それが井上さんとの共同監督であることによって起こった、共同作品であることの意味だろう。第一部と第二部は、共作とはいえ(映画作りの専門家である)黒川さんのスタイルが濃く出ていると思われるが、第三部ではまさに「井上+黒川」のスタイルが出現したのだと考えられる。

この映画は、井上文香さんが自分の子供の頃の記憶に基づいて作った絵本ZINE『青の時代』が元になっていると聞く。絵本をきっかけに黒川さんが舞台となった川口市領家を訪れ、その土地を気に入ったことから始まった、と。しかし、にもかかわらずこの映画の一部と二部には『青の時代』の舞台になった井上さんが子供の頃に住んでいたという工場の建物はあまり出てこない。その代わり、その工場の大家さんだった、すぐ隣の敷地にある不二工業という鋳物工場を中心としたドキュメンタリーになっている。井上さんの父親は、その不二工業の所有する土地を借りて(鋳物工場ではなく)精密機械の部品を作る工場をやっていた。『青の時代』はそこでの記憶について描かれている。その建物は、鋳物のための「木型」を製作する工場が閉鎖するというので、そこの「工具と職人とを丸ごと不二工業が引き継いだ」という木型を製作する工房となった姿として、第二部で少し映し出されるばかりだ。その、木型工房となっている建物の入り口のガラスを不二工業の職人さんが誤って割ってしまうというところで、第二部が終わる。

しかし、このような事実関係は第三部を見ることで初めてわかる。第一部と第二部は事情を説明しない。なぜ舞台が川口市領家であるのか、なぜ鋳物工場なのか、なぜ他の工場ではなく不二工業なのか、についての説明はなく、いきなり「不二工業」が取り上げられる。取材する男女の声と、取材を受ける男女の声が聞こえてくるサウンドトラックの言葉から、取材する女性が、子供の頃にその工場のすぐ近所に住んでいたらしいということはわかるが、それ以上の説明はないまま映画は進行する。木型工房として映し出される場所が、取材者の女性(井上文香)がかつて住んでいた場所だということも、一部と二部では語られない(無茶苦茶カンのいい人なら「察する」かもしれないが)。一部と二部とは、そのようなスタイルが貫かれている。

第一部と第二部は説明しない。映像と音声によって提示される出来事が、声を伴う言葉によって語られるエピソードが、断片的に、矢継ぎ早に生起し、折り広げられ折り畳まれていく。立ち上がる出来事やエピソードは時系列に沿うのでもなく、因果的な関係が線や流れを追うのでもない。第一部では主に鋳物工場を支えた三代の女性たちが語られるが、日常のおしゃべりのように話があちこちに飛ぶし、第二部では鋳物を作るための工程が若干説明されるが、それも工程順(時系列順)ではなくバラバラに提示されるので、すべてを記憶していて後から頭の中で再構成でもしない限り「鋳物の作られ方」がわかるわけでもない。特に第二部では、人の喋る声と工場の作業による爆音や鳥や風の音が同等に扱われるため、しばしば人が何をいっているのかよく聞こえない。なんとか聞こえてくる言葉の端々から「こんな感じのこと」を話しているかな、となんとなく察することができるくらいだ。時間順でも因果関連でもなく、大きな流れの文脈に配置されていない一つ一つの出来事やエピソードを繋いでいくことで生まれる流れに対し、その都度その固有の感触に触れていくように観るしかない。そこから感じ取ることのできるのは、因果的な物語であるよりは、その場に生起しているであろう空気や熱気や匂いのようなものであり、人々の関係の雰囲気のようなものであり、それはある時代、ある場所、ある家族から発せられる(具体的であり抽象的でもある)空気や匂い、ざわめきの感触であろう。これはある意味で頑固なシネマのリアリズム主義者である黒川さんのスタイルと言えるだろう(質疑応答ではジガ・ヴェルトフとかジャン・ヴィゴという名前が出ていた)。

⚫︎しかし第三部が始まるといきなりフレームが開放的になって(青い空 ! )、そしてBGMが流れている(それも、明らかにBGM的なBGMだ)。その時点で、え、音楽、まじか、となる。これは何か根本的に「(一部、二部とは)違うもの」が始まるのだな、と察せられる。それでも序盤は、第一部、第二部との関連(不二工業の人たちとの関連)がみられるのだが、話の展開も次第にそこからかけ離れたものになっていく。第三部のタイトルは「青の時代」で、ここでようやく井上さんの絵本ZINEとの関連が深くなっていくのかと思いきや、始まってすぐに、この建物は火事で焼けてしまいました、となる。

ただぼくはその事実を知っていた。2022年の『にわのすなば』公開時に黒川さんから、この映画と同じ川口の領家でドキュメンタリーを撮っているのだが、コロナで撮影が中断している間に撮影しようと思っていた建物が(本格的な撮影を始めるより前に)火事で焼けてしまったと聞いた。だからドキュメンタリーとして「青の時間」を撮ることはできないだろう、と。一部、二部にその建物があまり出てこなかったのも、たんに撮っていなかったからだろう。それで第三部は、井上さんの子供の頃の記憶ではなく、井上さんの父親と母親の過去と現在を映し出すという流れになっていく。

だがそのスタイルは不二工業(入野家)の来歴を語るやり方とはまったく異なる。一部、二部ではインタビューに答える不二工業の社長と妻の語りが映画を先導し、二部ではそこに職人たちの声も混じるが、それらは短く切り刻まれてモンタージュされている。声の主体である社長夫妻の姿は、引用される家族アルバムや家族ムービーに映り込んでいる以外は現れない(取材時に撮られた映像はない)。対して三部では井上さんの父や母の姿や語りが映像としてじっくりと捉えられており、特に父の語る姿と声が映画の基調となっている。一部、二部の背景事情も含め、父や母の来歴がある程度の因果連関が追える程度に語られるし、精密機械関連の専門用語などは字幕で説明されたりする。二部にも鋳物を作る過程を述べる字幕はあるが、それは映画の語り(エクリチュール)の一部をなすものだ。対して三部の字幕は「説明」のためのものだ。開放的なフレームと背景音楽と説明字幕。これだけでこれまでの黒川作品を追ってきた人にとってはかなりの驚きだろう。

工場の種類も、比較的大きなものを作る鋳物工場から、小さな精密機械の部品を作る工場へと移行する。語られる内容も、酒を飲んで工場に来る人がいる、給料が入ると来なくなる人がいる、給料日にすべてギャンブルで使い切ってしまう人がいる、など、二部では職人のキャラクターを示す豪快なエピソードが多いが、三部では、(細かな文言は覚えていないが)やると決めて本当の本気になったら実現できる、といった、強い意志と自分の技術や業績に対する自負を熱く語る職人のストイックな側面が前面に出ている。女性たち(妻)の話も、一部で語られる、騙されて東京に連れてこられて結婚させられた、昼間から焼肉を食べビールを飲んでいた、という昭和の豪快(?)なエピソードに対して、三部の井上さんの母は、詩の同人誌に参加していた、そこで「夫の作る機械が戦争に加担してしまうことを危惧する詩」を書いていたなど、なんというかインテリっぽい。一部、二部は(アルバムの写真や家族ムービーをのぞいて)取材者と取材対象という距離で撮られた画像で構成されるが、三部の(すべてではないが)多くの部分は、父と娘、母と娘という関係の中で撮られた映像からなり、「ある家族」ではなく「私の家族」として、内輪に踏み込んでいく感覚が強く出ている。

語る父は、一つは民俗学者の取材に答えるという公的な姿であり、もう一つは、長年の習慣である散歩に娘が同行するという形で撮られた私的な姿であるという、二つの姿があり、後者によって『にわのすなば』にもつながる「散歩映画」という側面が追加される。一部、二部では(洪水のエピソードなどもあるが)主に工場とその周辺だけが対象であったが、川口という街をもう少し広いスパンで見ることにもなる。一部、二部との最も大きな違いは、一部、二部には(鋳物)工場という具体的な場所があり、そこにはさまざまな物があり、鋳物を生産するという行為が行われているが(故に、そこに視点が定められるが)、三部ではもはや(精密機械)工場はないという点だ。そこで、一方では「人(=プライベートな関係)」にぐっと寄っていき、もう一方では散歩を通じて「街」へと視線が拡散していく(青い空、川、鳩のいる「別の」鋳物工場、公園…)。この違いが根本的に異なるスタイルを要請したのではないか。

第三部は、比較的受け入れやすい物語の枠に沿って進行する。しかしそうだとしても、父や母の存在が物語の中に回収されるのではない。特に、父の声、父の語り、父のしぐさ、父の身体は、物語の流れを経たのちに、改めてそこには収まらない他者として再発見されているように思われた。実際、(精密機械の用語についての説明的字幕があっても)話し続ける父が何を言っているのか、本当のところよくわからない。ただそこに、ひたすら歩き、ひたすら熱く語る人がいる、ということが伝わる。

⚫︎映画の中の「絵」の扱いについて。絵の使い方で、絵を描いた井上さんと、「映画の人」である黒川さん、そして編集を担当した人との間でちょっとした対立があったという話が、質疑応答の時に出た。「映画の人」の方が、絵を絵として大切に扱い、じっくり丁寧に見せようとするのだが、絵を描いた人である井上さんは「それは違う」と主張した、と。ぼくも一応画家として、井上さんのいうことがわかると思った。

映画として撮影された途端に、絵は、映画の視点と映画の時間に組み込まれてしまって、それはもはや元の「絵」とは別物になる。だからむしろ、映画の都合で使ってもらった方が、その絵の良さがかえって生きるように、ぼくも思う。ストローブ=ユイレによる「正しい絵画の撮り方」よりも、ゴダールの「いい加減な絵画の引用」の方が、かえって「絵の良さ」が出ているように思われる。ストローブ=ユイレの映画がダメだということではないが。

(それは、ゴダールが引用するのが主にマネ的な絵画であってセザンヌ的な絵画ではないということにもよるのだが。セザンヌ的な絵画はどうやっても映画に撮りようがないと思う。)

2026/01/08

⚫︎ドラマ『ひらやすみ』をU-NEXTで。ちょっとだけ観ようと思ったら10話まで観てしまった。

⚫︎このドラマを観たすべての人が思うと思うけど、まず森七菜すげー、と思った。最初に登場する場面で、岡山天音から「美大合格おめでとう」と言われて「美大なんてフリーター製造工場とか言われてますけどね」とかいう返しをするところのぎょどり具合がまるで宇多田ヒカルのモノマネをするミラクルひかる(喩えが古い ? )のようで一発で目が奪われる。その後はそこまで極端な感じではなく、デフォルメされたキャラとリアリティとの間のちょうどいい塩梅のところへ常に落とし込んでくる感じで、しかも後ろ姿を一目見るだけで「なつみ」そのものとして現れている。

演技は常に演出と共にあって演出と切り離せないし、一人の俳優の演技は他の俳優との関係の中で成り立つので、「森七菜の演技」だけを切り離して賞賛するのは間違っていると思うが、それでも「森七菜すげー」と思わずにはいられないくらい際立っている。

⚫︎原作は読んだことないが、ネットで検索して見られる「原作の絵柄」による主人公のヒロトの姿には「30歳」というリアリティはあまり感じられない。十代でも通じるような絵柄で30歳という設定になっている。しかし実写でドラマ化すると実年齢が30歳に近い俳優が演じることになる。この話では主人公が「30歳でこの感じ」というのが重要で、30歳という年齢は、どんなにのんびりした人でも「あー、俺ももう30か」と無理矢理に思わされてしまうような、俺もちゃんとしなきゃとかの圧を自分自身に対してかけてしまうような(圧を感じないでいることが困難であるような)、罠であり呪いのような年齢で、しかしこの主人公は、30歳にもかかわらず「30歳の呪い」とまったく無縁であるというところが重要だろう。だからこの役は、ちゃんと30歳に見える人が演じた上で、役として成り立つことが必要で、その意味で岡山天音は、若いとはいえさすがに20歳そこそことは違うよね、という風にちゃんと見えて、しかもそのまま「こんな感じ」が成り立っている。このリアリティが実写が実写であることの強さだと思う。

⚫︎この話は「悪い人がまったく出てこない」話ではあるが、しかし「嫌な奴」を否定的媒介として使ってしまっているという点が、たとえば『ぼくたちん家』よりも弱いところだと思う。森七菜と光蔦なづなが仲良くなるための「否定的媒介」として「大学のいけすかない同級生」が利用されてしまっている。そして、10話までの段階で、だが、このいけすかない同級生は「否定的媒介(いけすかない人たち)」という以上の役割は与えられていない。こういうドラマの作りはやや安易だと思える。『ぼくたちん家』がすごいのは、このような否定的媒介を一切使わずに(序盤の光石研がややそんな感じではあったが)、一時間ドラマ10話分の話を成立させたところにあると思う。

⚫︎岡山天音吉岡里帆が距離を縮める10話は傑作と言ってもいい出来だと思うが、それでも、「吉岡里帆の実家の猫」が、ただ死ぬためだけにドラマに登場しているような感じがちょっとあって、これもまた「否定的媒介」のやや安易な使用のように思えなくもない。これはほぼ言い掛かりのようなものかもしれないが。

⚫︎あと、岡山天音の友人役の吉村界人の独特のクセのある感じが素晴らしい。

⚫︎8話で、森七菜と光蔦なづながお互いを描きあう場面があるが、美大生、しかも絵画科だったらもうちょっと(というか、かなりもっと)絵が上手いと思うのだが。それじゃあ美大には入れないよ、というような垢抜けない絵なのだ。森七菜が描いている漫画の絵はちゃんとしているのに。ドラマとか映画とか、美術(絵画)にかんしてこういうところで手を抜きがちだよなあと、いつも思う(世の中の「絵画」への関心度の低さを反映しているのだろうと思えて悲しい)。

2026/01/07

⚫︎最近では新作の映画の公開を待ち遠しく思うということがほとんどなくなってしまったが(逆に、観たいと思っていた映画なのに気がついたら公開が終わっていたということが多い)、四年間待たされた『閃光のハサウェイ』の二作目が今月末から公開されることには珍しくちょっとドキドキしている。でも、地元のシネコンでもちゃんと公開されるんだろうかと心配になって(地元のシネコンだと自転車で行ける)、シネコンのサイトで今後の上映予定作品を見ていたら、『万事快調(オール・グリーンズ)』が映画化されていることを知って、おおっ、と声が出た。

田舎の冴えない女子高生が学校の屋上で大麻を栽培する話。エンタメ系の小説を読むことはほとんどないのだが、たまたま気まぐれで読んで、とても良い小説だった。良い映画になってるといいけど、ありふれた、いかにもな青春モノみたいな作りになっていると台無しという可能性も低くはない。監督は知らない名前だ。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

・本予告『万事快調〈オール・グリーンズ〉』1.16 FRI 未来を力づくで切り開け!不適切な青春が始まる!(YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=N9DQYSy2uLI&t=60s

⚫︎閃光のハサウェイ』の原作小説は(上巻が出たのは1989年だ)、ちょっと前までは、マーケットプレイスで上中下3巻セットで1000円くらいで買えたのに、今見ると2000円以上になっている。公開直前だからか。映画が完結するまで原作は読まないでおこうと思っているが、おそらく完結編になると思われる次の作品はまたさらに四年後かもしれない。

(世界の情勢を見ていると、四年後にまだ日本が存在しているのだろうかと不安になるが。)

・1月30日公開│『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』本予告(YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=_mZod4M6nDQ

⚫︎七草粥、といっても、大根の葉と小松菜と、あと適当に青いものいくつかを入れただけだが。

2026/01/06

⚫︎『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』が素晴らしいのは、最後の最後はなぜか唐突に「いい話」風に落とすのだが、その直前までは、とにかく酷い酷い酷い世界の中で、どんなに状況が酷くなっても、徹底して不謹慎にふざけ倒しているところだろうと思う。それに比べると、『岸辺のベストアルバム!!』も『愛について語るときは静かにしてくれ』も、面白くなくはないのだけど、どこか途中のところで堪えきれなくなってシリアスモードになり、真面目くさった顔つきになってしまう。その方がわかりやすい(受け入れられやすい)のかもしれないが、その分、作品としては弱くなっていると、ぼくは思う。

(真面目な顔つきと本当に真面目なのは違うと思う。本当に真面目なのは最後までふざけ倒すことだと、ぼくは思う。)

(『岸辺のベストアルバム!!』のシリアスモードはゼロ年代批評の反復を超えるものではなかったし、『愛について語るときは静かにしてくれ』のシリアスモードでの戦争の描き方も納得できるものではなかった。)

⚫︎『何を見ても何かを思い出すと思う』(2021年)もU-NEXTで観た。複雑な時空操作が際立っているが、内容としては、30歳を手前にした、下北沢周辺に生息する人々のリアルな青春群像みたいな感じで、「いい話」ではあるし好きな作品ではあるが、そんなに刺激的というわけではない。ここから『われらの狂気…』へと至る間に、大きな飛躍があったということなのか。

⚫︎おそらくコンプソンズでは、まず基礎に徹底した「内輪のリアリズム」があり、それをどのようにして「リアリズム(あるあるネタ的なリアリズム)」から飛翔させるのかということが問題になるのではないか(『われらの狂気…』では、それが「どんな酷い状況でも内輪ノリで徹底してふざけ倒す」ことだった)。そのとき、飛翔を生じさせるために「内輪」を無理やりに「外向き」にしようとすると(「フィクションは暴力を食い止め得るか」とか「戦時における責任ある決断とは ? 」とかいう問題が「外」から持ち込まれて)、真面目くさったシリアスモードという罠に落ちるのではないかと思った。

2026/01/05

⚫︎U-NEXTで、コンプソンズ『われらの狂気を生き延びる道を教えてください』(2022年)。

この日記で色々批判的なことを書いているのに、結局コンプソンズ大好きじゃん、自分、という感じで、またまたコンプソンズ公演の映像を観た。で、驚いた。これはもう最初から最後までずっと素晴らしかった。すごい傑作だと思う。しかしこの傑作は、現代の日本の空気を浴び、首都圏近傍に住み、かつ、ある種の文化圏に親しんでいる人たちのみが受信可能(享受可能)な電波から成り立つ、徹底してニッチでドメスティックな種類の傑作だろう。

(U-NEXTの紹介文に《ラーメン屋を営む元アイドル》と書かれていて、あまりにニッチな時事ネタ過ぎて「狙いすぎ」なのではないかと観る前は不信感の方が強かったが、それどころではなく、コロナ禍、地下アイドル、反ワク、陰謀論サブカルチャー、反社と半グレ、排外主義、クマ被害、女性支援NPO、芸能界の闇、そして小劇場演劇…、と、ニッチで危なくて不謹慎なネタのてんこ盛りだった。)

最高の内輪ノリと内輪ネタの数々。だがそれは、ブラックに、アイロニカルに、容赦無く内輪を弄りまくり弄り倒す、というような内輪ノリだ。一方で「にわか」臭さのない本格的な「内輪」感があり、同時に容赦無く「内輪」を相対化して弄り倒すブラックな視点もある。自己批判でも、自虐でもない、自分弄りと自己に向けられたアイロニーが徹底された末に遠くから自己肯定が僅かにほの見える、というような内輪ノリ。どこまでもクールで、ある意味冷笑的な知性が、内輪ノリと同居して展開されることで、抜き差しならない、のっぴきならない認識と狂気じみた感情にまで至る。こんな作品の在り方が可能なのか、という驚き。

(これまで観た二つの作品、『岸辺のベストアルバム』と『愛について語るときには静かにしてくれ』では、露悪的なまでの内輪ノリのパートと、その内輪ノリの相対化するパートという、ある意味わかりやすい二部構成になっていたが、この作品では、どの瞬間にも、その二つの矛盾するベクトルが同時に働いているという感じ。)

とても素晴らしいと思うのだが、この素晴らしさがわかる人は初めから限定されてしまっているという、この「ものすごい勿体ない」感じ。ただ、ぼくにとっては奇跡のように素晴らしい。まるでホークスの『赤ちゃん教育』のように素晴らしいが、それとは違ってわかる人はローカルに限定される。「社会派」なのだが、決して広く社会に浸透することのない、マイナーでしかあり得ない「社会派」(客席100席以内の「社会派」)。

演劇としての劇作とパフォーマンスの高度な洗練と、ロフト系イベントの(外には漏らさない、SNSにも書き込まないという前提で可能になる)「ここだけの話」の(サブカル的な)悪ノリ的内輪感とが悪魔合体をしている。

あまりに素晴らしいので多くの人に推薦しまくりたいのだけど、たとえばアイドル(地下アイドル)界隈の(2022年当時の)細かい事件や事情に詳しくない人には「? ? ? 」の連続でピンとこないかもしれないし、サブカル的な現代風俗に興味のない人にとっても「? ? ?」でしかないかもしれない。それでもまったく話の展開や面白さがわからないということはないだろうが、「何が」「どう」面白いのかについて、多くのネタやニュアンスを拾えないだろう。それだとこの作品が実現している「アイロニーの絶妙な匙加減」を汲み取ることが困難ではないか。何もそこまで細かいネタを拾って需要者の幅を狭く限定することないのにとも思うが、その「細かさ」の選択がマニアックで素晴らしく、しかし同時に、「そのようにマニアックであること」に対する冷めた態度と自己ツッコミに満ちてもいる。

頭が良くて口の悪い奴が親しい友人たちについて毒を吐きまくる。それは決してたんなる「悪口」ではなく、親しいからこそ可能になる容赦ない批評であり、そこに手加減も忖度もない、そのことこそが親愛の印である、というような感じ。でもこの感じは、親しい友人たちの間(内輪)でしか伝わらないよね、赤の他人が聞いたら感じの悪いただの酷い悪口だよね、というようなもの。その内輪感が、選民主義的でエリート気取りで気に食わない、というのが、現代文化の支配的な感覚だろう。もっと平たく、民主的に、そして優しく、異文化に対しても開かれてあれ、と。それはその通りだし、それに対する否定の感情はないが、でも、それによって、高度な知性と上品さが「口の悪さ」と同居することで初めて可能になる痛烈な「毒」のようなものが、現在の文化・芸術からは失われてしまっているというのも事実で、そのような中、この作品のなんと貴重な(希少な)ことだろうか。。

この作品は、果敢にも、時代の風潮に逆らって高密度に凝縮された「毒」を放ちまくる。自身が強力な「毒」そのものであることによって「現代という毒」を相殺する解毒剤であり得るような何か、なのだと思う。

(そもそもぼくは配信の映像で観てしまっているわけだが、この作品は本来「コンプソンズのファン」である「目の前にいる客」だけにこっそりと向けられた贅沢な秘密の毒電波のようなものかもしれない。)

⚫︎世界があまりに酷くなると、心ある人は、自ら進んで過剰に「真面目である」ことが強いられるようになる(「自ら進んで強いられる」というこの感じ)。だがそのこと自体がひどく息苦しい(ただでさえ「世界の酷さ」に憤ったり心痛めたりしているのに)。すると、息苦しさに耐えかね、キレて、自ら進んでクソになる人も増える。自らクソに塗れることの享楽というのが確実にあるから。クソの享楽の魅惑に闇堕ちすることなく、踏みとどまるためにも「良質の毒の味(毒の享楽)」に触れている必要がある。だが「良質の毒」を生み出せる知性を持つ人は限られている。

(「良質の毒」とは「クソ=低質な毒」に陥るのをギリギリ、キワキワの線で逃れるバランス感覚を持った毒=享楽のこと。)

⚫︎追記。この日記を書き終わってから、タイトルで検索して発見したのだが、2022年の公演時のアフタートークのゲストが、吉田豪佐々木敦いとうせいこう、となっていた。ここに吉田豪が入っていることが、この作品の「内輪」感がちゃんと本物であることを示しているだろう。しかも、今の吉田豪ではなく、2022年の吉田豪なのだから、最もディープに地下アイドル界隈とかかわっていた時期だ。おそらく地下アイドル界隈に最も詳しい人であったこの時期の吉田豪に、アイドルネタの演劇を堂々と観せられるという、それがもう「にわか仕立て」ではないことの証だろう。

⚫︎さらに追記。遅れて思い出したのだが、吉田豪は、たんに「日本で一番地下アイドルに詳しい人」というだけでなく、この作品の主題(の一つ)である「元アイドルのラーメン店主」の件(事件)に、かなり深いかかわりのある人でもあった。そういう人をちゃんと呼んで劇を観せるという態度は、これもまたちゃんとしているなあと思う。