2019-02-14

●『最愛の子ども』(松浦理英子)を読んだ。

作家はそれぞれが固有の「茨の道」をもっており、あるいはそれに拘束されており、作家は自らの作品において、その「茨の道」を孤独にすすんでいくものなのだなあと感じた。

そして、その「茨の道」にきちんと行き会えるかどうか、その道に沿って歩くことができるかどうかというのは、それぞれの読者の資質や才能の問題ということになるだろう。

そういう意味でぼくは、この作家のちゃんとした読者である資質を欠いているように思われる。これが固有の「茨の道」であろうという感触を得ることはできるが(その意味では十分に面白いと感じることはできるが)、その道に沿って歩きながら、その固有の風景の機微を十分に感じ取れているとは思えない。

(この小説が描き出す官能的感触に、十分に感受し共振できているとは思えない。)

たとえばぼくは、この小説を一瞬だけ横切って消えてしまう(この小説の他の部分とはあまり関わりがないようにみえる)、修学旅行を一人で過ごす誰だかも特定されない男子生徒のイメージをキーとしてこの小説の形式を分析してみたら面白いのではないかと思ってしまうのだが、でも、それはぼく自身の欲望であって、この小説(この作家)が進もうとしている「茨の道」に沿って歩くこととは違ってしまうだろう。

(読者が、作家の固有の「茨の道」と行き当たるためには、速すぎても遅すぎてもいけないし、粗すぎても細かすぎてもいけない。)

●「わたし」の視点から語られる話だからといって、必ずしも「わたし」についての語りだとはかぎらない。「わたし」という視点を通じて、「わたし」がすでに「わたしたち(複数のわたし)」として分裂してしかあり得ないというような形であらわれていることを示す、というような語りもある。逆に、「わたしたち」を通して語られる「わたし」のありようもある。それがこの小説なのではないか。ここで問題になっているのはあくまで、固有の「茨の道」としての「わたし」の姿であるように思われる。

この小説には、二つの組成のことなる「わたしたち」があるように思う。一つは、「わたしたち」としてしか語りえない、わたし以前の「わたし」の萌芽的状態であり、もう一つは、対象というよりは関係そのものを欲望する、そのような欲望の対象=関係としての「わたしたち」である。しかし後者においても、ある関係のなかにいながらも、自分がその一部である「関係」そのものを欲望するものとしてたちあがってくる一つの主体、(固有の「茨の道」としての)「わたし」(真汐)の姿が浮かびあがっており、そのような「わたし」のありようこそが、この小説では問題になっているように思われる。

この小説は、「わたしたち」のなかから「わたし」が生まれ出てくるという話であり、同時に、その「わたし」は、対象というより関係を欲望する(あるいは、関係を対象化する)ことによって主体化した「わたし」であるという話でもあると思う。そうであるような「わたし」のうちには、「わたしたち」が内包されている(つまり、わたしたち>わたし、であり、同時に、わたしたち<わたし、でもあるというように、「わたしたち」と「わたと」とは相互包摂的な関係にある)。だからこそ、そのような「わたし」は、「わたしたち」を通して語られる必要がある。「わたしたち」が語っているのは、そのような形でしか語り得ないものとしての一つの「わたし」であり、そのような形をした固有の「茨の道」のありようであるように思われる。

未分化な異なる資質たちによって構成される曖昧な塊としての「わたしたち」のなかに、ある個別的な関係が「図」として生まれ(つまり、曖昧な塊があって、そのなかからやや分離された、語られる対象としての対象=関係が生じ)、その関係の(繰り返し語られることによる)進展のなかから、ひとつの固有の「わたし」という「茨の道」が出現する。しかしこれはたんに、曖昧な塊→個別の関係→固有の「わたし」、という継起的な進展の過程というよりも、「わたしたち」のなかから「わたし」が分離するという過程であると同時に、「わたしたち」はすでに「わたし」たちであって、「わたし」であるものから遡行的に導かれた「わたしたち」の塊だということでもある。

そのような意味では、「わたしたち」によって語られる「わたし」の話であるだけでなく、「わたし」の解析を通じて遡行的に組み立てられる「わたしたち」の話であるのかもしれない。このように、相反する反転的な要素が一致している点が、この小説の形式的達成だとも考えられる。だとすればこの小説は、一つの固有の「茨の道」を示すと同時に他方で、、一般性をもつ架空のおとぎ話としてもあると言えるかもしれない。

2019-02-13

●紋切り型ではあるが、真善美という古典的な価値の三幅対(三権分立)を考える。これらは、それぞれの領域が自律してあるというより、それぞれの価値の領域の独自性はボロメオの輪のように相互依存している、と考えられる。

たとえば美は、「善にも真にも還元されないもの」として捉えられるとき、その独自性がはじめて明らかになる、と考えるとする(善でも真でもないが、美であるものがある、と)。同様に、善は、真にも美にも還元されないものがある(真でも美でもないが、善であるものがある)というとき、真は、善にも美にも還元されないものがある(善でも美でもないが、真であるものがある)というとき、その独自の領域が確保される、としてみる。

しかし、(神のすでにいない)科学と資本主義の時代である現在では、この三権分立の力のバランスは壊れていて、成り立たっていないと言うべきだろう。科学と資本主義は「真」という価値の絶対性を主張する。真という価値こそが圧倒的に強く、善や美は真に従属するものでしかなくなる。

善も美も、どちらも真によって導かれる。あるいは、真と矛盾するならば、善や美は実現されない(それは偽であり、諦めざるを得ない)、ということになる。真と矛盾しない限りにおいてのみ、真との調停によってのみ、善や美はその(限定的な)存在の可能性を許される。

真こそが、実在(リアル)への通路なのであって、善や美は、せいぜいが、人間的領域にあるもの、人間的な価値(「世界そのもの」ではなく、人間にとって価値のあるもの)にしか過ぎない、ということになる。これが現在を生きる我々の常識的な感覚であろう。

しかしそうではなく、善や美もまた、真と同等の権利をもつ(互いに他には還元不能な)「実在」への通路である、とは言えないだろうか。(神のいない現代において)そう言い得るとすれば、どのような考えがあり得るのか。

2019-02-12

●続き。引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。

●モノの活動が可視化される状況のリスト(これはまさに「物語の作り方」みたいな感じだ)。

《(…)社会的という語を、新たな連関が作られているときにしか見えない流動的なものとして新たに定義すること》。

《(…)行為に与しているモノの存在を明らかにするためには、モノを報告に入れる必要がある。他のエージェントに対して目に見える影響を及ぼさないのであれば、そのモノは観察者にいかなるデータも与えない。モノは黙ったままであり、もはやアクターではない。》

《(…)モノの場合は、どんなに重要であろうと、効率的であろうと、中心的であろうと、必要であろうと、得てして、すぐに背景に退き、データの流れを止めてしまう---そして、その重要性が高まるほど、早く姿を消してしまう。このことが意味するのは、モノが作用を止めるということではなく、その作用の様態がもはや目にみえるかたちで普通の社会的な紐帯と結びつけられないということである。というのも、社会的な紐帯が頼りにしているのは、通常の社会的な力とは違っているからこそ選ばれる力であるからだ。(…)モノは束の間にのみ、相互につながることができるようにみえる。》

《(…)〈モノが話をする〉ようにするために、つまり、モノに、自分自身の記述を生み出させ、他のもの---人間や非人間---にさせていることのスクリプトを生み出させるために、具体的な策を練らなければならない。》

《第一の解法は、職人の作業場、技術者の設計室、科学者の実験室、マーケティング担当者の事前調査、ユーザーの自宅、そして、数々の社会技術に関する論争に見られるイノベーションを研究することである。こうした場では、モノは、会合、計画、見取り図、規則、試行を通じて明らかに複合的な生を得ている。(…)イノベーションや論争の場では、モノが、すぐに不可視の非社会的な中間項になってしまうことなく、報告の対象となる分散的、可視的な媒介子として、他の場より長く維持されうるという点で、どこよりも恵まれた場の一つとなる。》

《第二に、どれほど日常的で、伝統的で、何も言われないものであろうとも、道具や機器は、隔たりがあるために扱い方がわからないユーザーがアプローチするときには、当たり前のものでなくなる---たとえば、考古学の場合に見られるような時間的な隔たり、民族学の場合に見られるような空間的な隔たり、技術習得の場合に見られるような技能の隔たりがある場合を考えてほしい。(…)少なくとも分析する者にとっては、イノベーションと同じ新奇な状況を生み出してくれる。つまり、見知らぬ道具、外来の道具、古めかしい道具、謎めいた道具が、いつものやり方に不意に入り込んでくるのだ。》

《第三の種類の機会は、事故や故障やストライキによって生まれるものである。そこでは、まったく表に出てこなかった中間項が、突如として、一人前の媒介子になる。そして、ちょっと前には完全に自動的、自律的に見え、人間のエージェントがまったくいなかったモノですら、今や、重装備で死のもの狂いに動く大勢の人間に取り囲まれる。(…)ANTにとっては幸いなことに、「リスクのある」モノが近年になって増えていることで、そうしたモノが他のアクターを駄目にしてしまうときにしていることを、聞いて、見て、感じる機会が増えてきた。》

《第四に、モノがすっかり後景に退いてしまったときには、アーカイブ、文書記録、回顧録、博物館の収蔵品などを用いて、モノに光を当て直すことができ、そして、歴史家の説明を通して、機械や装備や道具が生まれた重大局面をいつでも人工的に作り出すことができる---ただし、他の機会よりは難しい。(…)今日に至るまで、技術史は、社会史や文化史の物語られ方をいつだって覆してきたはずだ。》

《最後に、最終手段として、フィクションを頼みにすることで---仮想の歴史、思考実験、「サイエンティフィクション」〔SF〕を用いることによって---今日の堅固なモノを、流動的な状態にするこができ、人間との結びつきが少なくとも想像可能になる。》

●不毛な二分法、不十分な議論。

《(…)自転車が大きな石にぶつかるとき、社会的なものはなにもない。しかし、自転車に乗る者が「停止」標識を守らないときには、社会的である。新しい電話機の配電盤が設置されるとき、社会的なものは何もない。しかし、電話機の色が議論されるときには、デザイナーが言うように、その種の選択には「人間的な側面」があるので、社会的になる。ハンマーが釘をたたくとき、社会的なものは何もない。しかし、ハンマーの像が鎌の像と交わると、「象徴秩序」に入るので、社会的領域に移行する。このように、あらゆるモノが二手に分かれ、科学者と技術者は、そのもっとも大きな部分---効果、因果、物質面でのつながり---を受け持ち、その残りくずが「社会的」次元ないし「人間的」側面の専門家に残される。》

《(…)私たちの行為の進行に与する何百万もの参与子が、以下三つ---三つしかない---の存在の様態を通して社会的な紐帯に加わるしかないというのであれば、到底信じられない。つまり、マルクス流の唯物論に見られるように社会諸関係を「規定」する「物質的下部構造」として加わるか、ピエール・プルデューの批判社会学に見られるように社会的な区別立て(ディスタンクシオン)を「反映」しているだけの「鏡」として加わるか、アーヴィング・ゴフマンの相互作用論敵な説明に見られるように人間の社会的アクターが主要な役を演じる舞台の背景として加わるか、の三つである。当然、こうしたかたちで集合体にモノを参入させることはどれも間違っていないが、しかし、こうしたやり方は、集合体を作り上げる紐帯の束を粗くパッケージ化しているにすぎない。いずれのやり方も、人間と非人間の数々の絡み合いを記述するには不十分なのだ。》

2019-02-11

●引用、メモ。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)から。

●権力や不平等は結果であって原因ではない。

《「ANTは権力や支配をどこにやってしまったのか」と詰問する人がいるかもしれない。しかし、私たちは、そうした非対称性を説明したいと望んでいるからこそ、非対称という語をただ繰り返して満足したくはないのである(…)。ここでも、原因と結果を混同したくないし、説明する側と説明される側とを混同したくない。したがって、とりわけ重要になるのが、こう主張することである。権力は、社会と同じく、あるプロセスの最終結果なのであって、おのずから説明をもたらしてくれる貯水池、備蓄庫、資本なのではない。権力や支配は、生み出され、作り上げられ、組み立てられなければならないものだ。》

《いわく、社会は不平等であり階層的である。いわく、社会は一部の人びとを不当に抑えつけている。いわく、社会にはすべて慣性がある。支配されることで身体や精神が押しつぶされると述べることと、以上の階層、非対称、慣性、権力、残虐な仕打ちが社会的なものでできていると結論することは、まったく別の話である。(…)はなはだしい資源の非対称性があるからといって、それが非対称的な社会的関係によって生み出されていることにはならない。資源の非対称性があることは、真逆の結論をもたらす---不平等な関係が生み出されざるをえないとすれば、それは社会的なアクター以外のアクターが関与していることの証左である。》

●権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない

《(…)社会的というのは、ある特定の領域の呼び名にされており、わら、泥、糸、木、鋼などのような一種類の材料の呼び名にされている。だいたいの場合、何かしら想像上のスーパーマーケットに入って、「社会的な紐帯」が詰め込まれた棚を指させるし、別の通路には、「物質的」「生物学的」「精神的」「経済的」な結びつきが取りそろえられている。ANTの場合、もうすでにおわかりのように、社会的という語に違った定義を与えている。つまり、実在する領域や特定の対象を指し示すものではなく、むしろ、移動、転置、変換、翻訳、編入の呼び名なのである。事物同士のつながりは、通常の意味での社会的なものであるとはまったく認識できず、事物が配置し直される一時に限って社会的なものと認識できる。(…)ANTにとって、社会的という語は、それまで「連関していなかった」力同士の束の間の連関を指すものなのである。》

《社会的な力という概念を解体して、束の間の相互作用ないし新たな連関で置き換えることには、大きな利点がある。それは、社会という合成概念のなかで、その持続性に関わるものと、その実質に関わるものとが区別できるようになるということだ。確かに、持続的な紐帯は存在していよう、しかし、だからといって、そうした紐帯が社会的な材料でできていることにはならない---真逆である。》

《権力が社会的な紐帯だけに頼らざるをえないならば、長期にわたって行使されることはない。(…)非対称性を維持すること、権力関係を確固たるものにして持続させること、不平等を強いることが非常に困難であるからこそ、弱くてすぐに朽ちてしまう紐帯を他の種類の結合へと移し替えるべく、実に多くの仕事が常につぎ込まれているのである。》

《権力は、眠らない事物と壊れないつながりを通して行使されてはじめて、さらに長く続き、さらに遠く広がることになる---そして、そうした離れ技を成し遂げるためには、社会契約よりもはるかに多くの道具が考え出されなければならない。》

《持続的に広がる力が社会的な紐帯にあるのかを疑い始めれば、すぐにモノの果たす役割が中心に見えてくるだろう。逆に、社会的なまとまりが「社会的な力」に支えられて存続できると考えるやいなや、モノが視界から消える。》

●何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを検討しなければならない

《「志向的/意味的」で「意味に満ちた」人間が行うことに行為がアプリオリに限定されるならば、ハンマー、かご、ドアの鍵、猫、敷物、マグカップ、リスト、タグなどがいかに行為しうるのかを見定めるのは難しい。モノは、「物質的」で「因果的」な関係の領域に存在するとされて、「反省的/再帰的」で「象徴的」な社会関係の領域には存在しないということになりかねない。対照的に、アクターとエージェンシーをめぐる論争から始めるという決意を貫くのであれば、差異を作り出すことで事態を変える事物はすべてアクターである》。

《もしも、真顔になって、ハンマーを使って/使わずに釘を打つことは、どちらもまったく同じ活動であると主張し、ヤカンを使って/使わずにお湯を湧かすことも、かごを使って/使わずに食料品をとってくることも、服を着て/着ずに街路を歩くことも、(…)やはり、どちらもまったく同じ活動であり、そんなありふれた道具を見せられても、自分の課題を理解する上で「重要なことは何も」変わらないと主張できるのであれば、すぐにでも、(…)この月並みの土地からでていけばよい。他のすべての社会的な構成子にとっては、実際に試してみれば差があり、したがって、以上の道具は、私たちの定義ではアクターであり、もっと正確に言えば、いつ形象化されてもおかしくない行為の進行への参与子である。》

《(…)モノがアクターであるということが意味しているのは、完全な原因として存在していることとまったく存在していないことのあいだに、数々の形而上学的な陰影が存在するであろうということである。「人間の行為の背景」として働いたり「規定」したりする他にも、事物は、権限を与えたり、許可したり、可能性を与えたり、促したり、容認したり、提案したり、影響を与えたり、妨げたり、できるようにしたり、禁じたりしている。ANTは、モノが人間のアクターに「代わって」あれこれしていると主張する机上の空論ではない。(…)何よりもまず、どんな人やモノが行為に参与しているのかということを徹底的に検討しなければ、社会的なものの科学は始まりはしない》。

●モノはところどころでしか痕跡を残さない(共約可能性と共約不可能性のあいだで)

《確かに、あるレンガが別のレンガに及ぼす力、軸を中心とした車輪の回転、塊に対する梃子の効果、滑車における力の反転、リンへの着火といった作用のありようはいずれも、自転車に乗っている人に「停止」標識が及ぼす力や、個々人の心に対する群衆の力とは明らかに異なるカテゴリーに属するように見える。だから、物質的な存在と社会的な存在を二つの別々の棚に置くのはまったく理に適っているように見える。しかし、ものの数分のうちに、次のように、どんな人間の行為も物質とひとつに紡ぎ合わさる可能性を認めるやいなや、理に適ってはいるが、馬鹿げたものになる。たとえば、レンガを積めという大声の命令、セメントと水の化学的な結合、手を動かすことでロープを伝う滑車の力、同僚がくれたタバコに火をつけるためにマッチを擦るなどである。ここで、物質的なものと社会的なものという一見理に適った区分が、まさに、ある集合的な行為を可能にするものの探求をすっかり混乱させてしまうのだ。もちろん、ここでの集合的という語は、均質な社会的な力によって持ち込まれる行為を意味するものではなく、逆に、相異なるためにひとつに紡ぎ合わせられる種々の力を集める行為を意味するものである。したがって、ここからは「集合体」という語を「社会」の代わりに使いたい。》

《社会的な慣性と自然界の重力は結びつかないように見えるかもしれないが、しかし、労働者たちの一団がレンガの壁を築いている時には、両者は明らかに混ざり合っている---壁が完成した後ではじめて両者は再び別々になる。(…)ANTはこうはっきりと述べる。「理に適った」社会学者よりも少しでも社会的な紐帯について実在論的(リアリスティック)でありたいならば、受け入れるべきことがある。それは、どんな行為の進行であれ、その継続性が人と人との結びつきによって成り立つことはまれであり(…)、モノとモノの結びつきによって成り立つこともまれであり、おそらくは両者がジグザグになって成り立っているということだ。》

《私たちにとって、対称的であるというのは、人間の志向的/意図的な行為と、因果関係からなる物質世界のあいだにまがい物の非対称性をアプリオリに押しつけないということであって、それ以上の意味はない。》

《ここでのモノへの関心は、「主観的」な言語、象徴、価値、感情に対置される「客観的」な物質に与えられる特権とは無関係である。》

《(…)ANTによる研究は、諸々の行為/作用の様態の連続性と非連続性の両方に取り組まなければならない。種々雑多な諸々の存在の滑らかな連続性に注意を向けるとともに、結局はいつまでも共約不可能なままでいる諸々の参与子の完全な非連続性に注意を向けられるようになる必要がある。分析者にとって、流動的な社会的なものは、連続的で実体的な存在ではなく、むしろ、その痕跡にわずかに姿を見せるものであり、言わば、検出器に残される軌道の束によって物理的な粒子が把握できるのと同じである。》

《(…)社会的な紐帯と共約可能とされる限りにおいて非人間を報告に入れなければならないし、そのすぐ後には、非人間の根本的な共約不可能性を受け入れなければならない。》

2019-02-10

●Huluで、アニメ『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』の三話まで観た。事前知識はまったくなくタイトルだけに惹かれて。

すでにありふれた、既視感のある要素をゆるく組み合わせているだけだし、切り口や構築の仕方にしても、いくらでも駄目出しができてしまうようなつくりで(その理屈はいくらなんでも通らないよね、と何度も思ってしまった)、どのような方向からみてもよいとは言えない作品だと思うけど、でも、こういうのはどうしても嫌いになれないんだよなあ、とも思った。

(つまり、けっこう楽しんで観てしまったということだが。前のめりにはならず、時々うーんとなって首をかしげつつ半身を後ろに反らす感じではあるけど、惰性でついだらだら観てしまうような緩さ。このくらい感じの緩いつくりのアニメがもっとあってほしいとも思う。)

2019-02-09

●八十年代の竹内まりやの『Plastic Love』という曲が最近とても流行っているらしくて、トーフビーツやFriday Night Plansがカバーしたりしもしているけど、ぼくは、9m88という人のカバーが、なんか好きだ。よく知らないけど、台湾出身でニューヨーク在住という人らしい。

9m88- ‘Plastic Love’ Cover Version(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=dadU79KQzO0

YouTubeには他にも、「九頭身日奈」という曲のMVがある。9m88 - 九頭身日奈(日本語字幕)

https://www.youtube.com/watch?time_continue=240&v=nC8zfpgeGbs

●ライブもいい。

9m88 『 Plastic Love 』 @ HMV record shop 新宿 ALTA (2018.01.12)

https://www.youtube.com/watch?v=LrzEzBAi0Mg

9m88 『 九頭身日奈 』 @ 青山月見ル君想フ (2018.01.09)

https://www.youtube.com/watch?v=9xDQ8TeDdhc

9m88 『 Save Your Love For Me 』 @ 青山月見ル君想フ (2018.01.09)

https://www.youtube.com/watch?v=T74KjOmJF0I

9m88 『 陪妳過假日 』 @ HMV record shop 新宿 ALTA (2018.01.12)

https://www.youtube.com/watch?v=PQZE6NUiYVA

台北生まれNY在住、今台湾の若者たちを虜にするソウルシンガー9m88インタビュー

https://www.herenow.city/taipei/article/9m88/

2019-02-08

●『晩年様式集(イン・レイト・スタイル)』(大江健三郎)の、ほぼすべての主要な登場人物は、主人公である作家、長江古義人の小説(そこにはしばしば「自分」が登場する)の読者であるだけでなく、自分がその内部にいる---今、書かれつつある、進行中の---当の「この小説(『晩年様式集』)」の草稿に当たるとされるもの(『「晩年様式集」+α』)の読者でもある。草稿(『「晩年様式集」+α』)と、それにまつわる情報(録音され、録画されたもの)は、基本的にすべての人物に対して開かれていて、共有されている。

だから、この小説では例えば、二人だけの場面での会話も、登場人物の内省として書かれた部分も、他の登場人物たちに読まれている(知られている)ことが前提となる。わたしの心のなかだけのつぶやきや、Aさんは知っているけどBさんには内緒にしてある、ということは成り立たない。この小説に書かれたすべての文はすべて、主要な登場人物たちに共有されている。

(ただ、アカリさんだけが、すべての情報にアクセスできるとは言えないが、しかしそれでも、周囲の者たちを通じて、その大まかな流れは掴んでいるだろう。)

このことによって、ある特定の話者による特権的な視点が成り立たなくなる。「わたしだけが知っている」「わたしだけが見ている」ことは小説には書かれない。わたしがAという人物に対して行う描写、回想、その印象や批評は、その視線の対象であるAにも、A以外の、BやCといった人物にも読まれることがあらかじめ分かっている。というか、既にそのような人物たちの目をいったん通過したものとして、「この小説における独白」はある。

(たとえば、小説の序盤で、古義人が、深夜の自宅の階段の踊り場にたった一人でいて、声をあげて泣く場面があるのだが、その場面の一人称の描写について、終盤にギー・ジュニアから批評される。「深夜にたった一人で泣く」一人称的行為について、その場にいなかった他人から---伝聞を通じてではなく、直接その場面、一人称的記述について---批評されるのだ。すべての人物が---一人称的な内面を含む---すべての場面をお見通しだ。)

ただこれは、小説内の出来事、小説の登場人物たちの間でのみ成り立つ関係だ。小説内で書かれて(進行して)いる『「晩年様式集」+α』という文章と、われわれが読んでいる当の小説、『晩年様式集』が同じものだ(同じやり方で書かれている)という保証はない。ただ、小説内に描かれている作家=長江古義人と、当の「この小説」を書いている作家=大江健三郎の生きている環境が、(たとえば、三・一一以降の社会のありようなども含めて)限りなくあいまいに一致している(ようにみえる)ということを除いては。

『晩年様式集』という小説は、われわれが現実として生きている次元に「作品」としてあらわれている何かであり、『「晩年様式集」+α』という冊子は、その作品=小説の効果によってつくりだされる虚構の世界のなかで成立しているものであるから、あきらかに次元を異にしている。しかし、その次元の異なる二つのものが、ぴったりと重なった、一つの同じフレームとしてあらわれている。異なる次元のものがまったく同じ器を共有している。

(小説内に描かれている作家=長江古義人と、当の「この小説」を書いている作家=大江健三郎との、「かぎりなく曖昧な一致」は、フレームの一致の効果としてあらわれていると言える。)

フィクションがフィクションとして成り立つためのその世界の外枠と、現実が、現実の内に存在するある特定のフィクションに対して与える内枠とがぴったり一致することによって、たんに「フィクションが現実の出来事を反映する」ということとは別のことが起こる。たとえば、この小説に書かれる「本当のこと」とは一体何なのだろうか。それは、フィクションという枠内で成り立つ本当のことなのか、それとも、現実とフィクションとが一致しているということなのか。おそらくそのどちらでもない。フィクション内の整合性とも、現実とフィクションとの一致(あるいは、現実のフィクションへの反映・表象)とも違う、両者が貫かれることではじめて生まれるフィクション=現実であるような「本当のこと」が求められるのだと思う。

というか、そのようなものが求められ得る土台をつくるためにこそ、「フレームの完全な一致」が必要になる。これはたんに形式の問題ではなく、形式の問題こそが内容を可能にする。