2023/11/28

⚫︎大磯は隣町だし、大磯にある高校に通ってもいたので、割と馴染みのある土地なのだが、大磯町議会では二十年も前からパリテ(男女同数)が達成されていたと知って驚いた(本はまだ読んでないが、買った)。

地方自治からフェミナイゼーション#4 20年前からパリテ議会|20年議会男女同数が続く神奈川・大磯。和田靜香さんと、亀倉ひろみ町議のお話を聞きました!(11/28)#ポリタスTV #ヒルタス - YouTube

大磯は本当に感じのいいところで、高校時代は「大磯町全体」にすごく良くしてもらったという感覚がある。ぼくが育ったのは典型的な「田舎保守(ヤンキー神奈川)」みたいな風土で、小中学生の頃からそういうのがとても嫌だったが、高校に行っていきなり雰囲気が変わって驚いた。そして、高校に通っていたのはもう40年も前なのだが、(ぼくが知っているのは駅や高校がある大磯町の東側の一部でしかないが)今でも雰囲気が全然変わっていない。ぼくが知る範囲では、びっくりするほど変わっていない。

大磯は、明治から戦前くらいにかけて東京のお金持ちの別荘地で、明治の有名な政治家の別荘が残っているし、吉田茂の家もある。当時は、今のようなレジャーではなくて、湯治場のような健康(治癒)効果があるとされていた「海水浴場」が日本で最初に開かれた土地でもある。駅のすぐ前にはエリザベス・サンダース・ホームがあったりもするし、歴史的に醸し出された上品感があり、さらに、鎌倉や茅ヶ崎ほどメジャーではなく、あまり人に知られていないということも「いい感じ」がずっと保たれている原因の一つだろうと思う(小津の『麦秋』で原節子が遊びに行く淡島千景の別荘があるのが大磯だった)。

人口が3万人ちょっとという規模感も、ちょうどいい塩梅なのだろう。

⚫︎自分が住んでいる市の市議会議員の選挙があったとき、市議会議員なんか誰に投票すれば良いか選びようがないと思って、明らかに議員の男女比が偏りすぎているので、女性の議員が増える方向で考えれば良いと思い、女性の候補で新人の人のなかから良さげな人を選んで投票しようと調べてみたら、女性で新人の候補は一人しかいなかった。ああ、そういう感じなのだなあ、と思った。女性は当選するより前にまず立候補することが困難なのだな、と。

2023/11/27

⚫︎八王子の100円ラーメン復活というニュース。このニュース映像の何に感心したかと言って、新しくオープンした店は前にあった店とは違う場所にあるみたいだけど、街の人にインタビューしている場所は、ちゃんと前に100円ラーメンの店があったところだということ(おじいさんがインタビューに答えている映像で、背景に映っている「ダイヤモンド 貴金属…」と書かれた看板のあるところに店に上っていく階段があった)。地味にちゃんとした取材だと思うのだけど、この意味がわかる人はほとんどいないだろうなあと思って気に掛かったのだった。

(新しい店は八王子駅の周辺にあるようだが、以前にあった店は西八王子駅の駅前にあり、距離もそれなりにあって、取材も二度手間になるだろう。)

八王子“青春の味”100円ラーメン 12年ぶり復活 なじみの元客が思い継ぐ【詳細版】【知ってもっと】(2023年11月27日) - YouTube

100円ラーメンの「満福亭」は地元では知らない人のいない名物店で(単なる安売り店ではなく、地元で長く親しまれていた店で)、部活帰りの中高生とかでいつも賑わっていて、だから、このニュースで並んでいる人は、100円で安いから並んでいるのではなくて、あの「100円ラーメン」が懐かしくて並んでいるのだと思う。このニュアンスが伝わらないと、ただ「貧しい日本」(失われた30年とか、長く続いた日本のデフレみたいな)を表すだけのニュースみたいに見えてしまう。

(満福亭は七十年代のオイルショック以後に100円ラーメンを始めたようで、バブル期にも100円を維持しているので、この「100円」には高度成長期という背景とその思想があり、そこにはゼロ年代以降のデフレ指向とは別の―-ある意味、昭和的な-―価値観が働いていると思われる。)

(だから、「100円」であること自体に昭和ノスタルジーが宿っているともいえて、それを、今、再現することに意味があるのかどうかは、また別の話だが。)

⚫︎満福亭は、学生の頃に住んでいたアパートから徒歩五分くらいのところにあった。ぼくが学生の時は一階も二階も満福亭だったが、いつからか一階はケータイショップになった(一階の店と二階のの店とで違いが何かあったような気もするが、忘れた)。常に混んでいて、並ばずに入れることは稀だった。ラーメン、タンメンが100円で、モヤシののった味噌ラーメンが200円だったか…。よく憶えていないが餃子も200円くらいだったと思う。九十年代初頭くらいのこと。

(当時は円高の時代で、一ドルが90円くらいの感覚で、おかげで輸入CDが安く買えた。この30年で円の価値が三分の二以下になったのだなあ、と。つまり、当時の100円ラーメンは一ドルでは食べられなかったが、今では一ドルでお釣りがくる。額面は同じでもドルだてでは値下がりしている。)

hachioji.keizai.biz

2023/11/26

⚫︎いわゆる専門家と言われる人には二種類あると思っていて、一つは、ある特定の分野に対して広い知識と深い考察を持つ人で、もう一つは、ある特定の分野に対して事情通的、政局通的、業界通的な、インサイダー的で細かい情報やアンテナを持っている人。両者は排他的ではなく両立し得るが、しかし性質(あるいは傾向)としてかなり違うのではないか。どちらが良い悪いということではないが(とはいえ、ぼくは基本的には前者にしか興味がないが)、この「性質の違い」はちゃんと意識してみておかないといけないと思う。

(たとえばぼくは『三国志』的なものに全く興味が湧かないのだが、この興味―-つまり後者への興味-―の欠落は、自分の明らかな欠陥だと思う。)

2023/11/25

⚫︎日本だけでなく、世界的な情勢を見ても、代議員制がそもそもやばいのではないかという話を、VECTIONではいつもしている。一度選挙で当選してしまえば、一定期間好き放題というのはどうなのか、と。権力者、いくらなんでもゴリ押ししすぎだろう、と。確かに、権力者は世論調査の結果や、デモなどの動向を気にするだろう。しかし、気にした上でゴリ押しすることができるし、たいていゴリ押しする(選挙が近ければ気にするが、遠ければ気にもせずにゴリ押しする)。選挙という制度は、民意の反映という点に関して、あまりに鈍くて、遅い。だから、人(政治家)や党にではなく、政策や法案、予算案に対して、常時、直接的に投票できるような制度が必要なのではないか。もちろん、完全な直接民主制は不安定だし、継続性の問題や長いスパンの判断ができないという問題があって危険だ。しかし、代議員制と直接民主制とのハイブリッドにはする必要があるのではないか。

(だから、有権者の投票によって法案が決まるというのではなく、直接投票で一定以上の反対があった場合その法案は通せなくなる、というような抑制的に働く形が現状においては適当だろう。また、この投票は「二次の投票」が良いかもしれない。)

昔は、選挙というやり方しかなかった。しかし今なら、有権者によるスクリーミング電子投票が技術的には可能なはず(投票過程の透明性を保証するのは相当大変だと思うが)。

政策や法案への直接投票の他に、例えば、行政が、常態的な世論調査を行っているような形でスクリーミング投票を受け付けていて、その結果や変化を常時表示して、その数字の変化によって権限が抑制されるようにする、とか。ものすごく大雑把な例として、内閣支持率が一定水準以下になったら、その内閣には重要事項の決定権がなくなり、重要事項に関しては一時保留して、内閣の方針や人事の改革で支持率回復を待つか、総辞職して首相を選び直すかしなければならなくなる、とか(実際にこれをやると色々弊害が出そうだし、軍事や外交などについては除外せざるを得ないかもしれない、これは雑なたとえでもっと丁寧なシステムのデザインが必要だ)。

とにかく、「人による判断(裁量)」が忖度や権力の癒着を生む元なので、投票の数字によって権力の制限が裁量なしに自動的に行われるという点が重要。党の重鎮たちの力の駆け引きで物事を決めんな、と。VECITONでは、右だろうが左だろうが、保守だろうがリベラルだろうが、「人のする政治」にとても懐疑的なので、統計的数値がある閾値を越えたら自動的に作動する制度が必要だと考える。判断において「(専門家的な)人の裁量」が必要な場面はあるだろう。だが、裁量の範囲や強さが一定の値を超えた場合に制限をかけることができる制度が必要であり、そしてその「制限の判断」は、人の裁量(権力者たちの駆け引き)ではなく統計的、自動的に行われなければならないのではないかと考える。

(権力と結びついた「利益団体」が、その実際の規模=数以上に強い力を持ってしまうという問題も、直接投票でかなり回避できるのではないか。)

裁量とは権力であり、権力のあるところには権力が集まりがちで、固定された権力は大きくなり、大きくて固定された権力は忖度や癒着や不正の温床となる。そして、独裁者は暴走する。これはさまざまなレベルの権力で起きる。分かり切っていることだが、分かり切っていることを止めることが人にはできない。だから、統計的な数字によって自動的にそれを制限するしかないのではないか。そのために、代議員制と直接民主制をハイブリッドにする必要があるのではないか。

(SNSにおける炎上や誹謗中傷の発生を見ると、直接民主制への不安もないわけではないが、VECTIONは「人のする政治(政治をする人)」は信用しないが、「個人としての人」の大半は日常的、常識的なレベルでは「ちゃんとしている」であろうと信じているという点では人を信用している。だから「議論」ではなく「統計(投票)」が重要だと考える。話をすると、話の上手い奴≒人を騙そうとする奴に誘導されるし、オーディエンスを気にするとアテションの強い方に引っ張られる。多様な個が、個として無記名投票をし、それが統計的に処理されることが重要。もちろん、個々が判断するための十分な情報の提供は必須だ。そしてこの投票は、マイノリティができるだけ損をしないように「二次の投票」であることが望ましいだろうと思う。)

(難問は、この「一定水準」の値をどのように決めるのかということで、ここでまた「政治」が始まってしまう…。おそらく、普段は、リアルタイムでかなり詳細な公的世論調査くらいの力しか持たなくてもいいのだが、「大きな反対」が起こった時には権力者がゴリ押しできない、というくらいの塩梅がいいのだと思う。)

⚫︎bot議員なら、制度を変えずにハイブリッド化が可能。

mirror.xyz

2023/11/23

⚫︎「一筆書きで描かれた顔」は、ほとんど悪ふざけのような(ようにしか見えない)シリーズだけど、図と地の問題、ゲシュタルトの問題、イメージ=顔の問題といった、ぼくにとって重要な問題がいくつも重なっているもので、しかし、それを今のところは、このような馬鹿げたものとしてしか形にできないということです。

 

2023/11/22

⚫︎「このわたし」の固有性について考えるためには、「決して一般性には解消されることのないこのわたし」性というものの「一般的性質(形式)」について考え、その一般的性質によって導かれた《この「このわたし」》について考える必要があるのではないかと、昨日の日記ではほぼ勢いで書いたが、考えてみるとこれはけっこう重要なことではないかと思えてきた。これはつまり、わたしの固有性を捉えるには、遠く(一般性としての「このわたし」の性質)へ行って、もう一度戻ってくる(《この「このわたし」》)という過程が必要があるという感覚で、これは「十年後」(長澤沙也加)という小説を読んだことで得られた考えだと思う。

note.com

ただし、昨日も書いたが、「このわたし」という「一般化できないものの一般的性質」は、どこまでも改訂可能性のある「蓋然性の高さを目指す仮定」として運用されるしかなく(決してメタに至らない未メタ的なままのものであり、だから準一般的性質というべきかもしれない)、試行錯誤を通じて何度でも書き換えられるものでなければならないだろう。

ここで試行錯誤とは、まず「ここ」があり(わたし)、いったん遠くへ行って(「このわたし」の一般的性質)、再び戻ってくる(《この「このわたし」》)、ということの繰り返しというとになろう。

この時、最初の「ここ=わたし」と戻ってきた《この「このわたし」》の間にはズレが生じる。もしかすると前者と後者とは「(字義通りに)別人」である場合もあるかもしれない。