2026/11/01

⚫︎『残酷と無能力』(江川隆男)は図書館で借りた。まず、入りやすそうなところからと思ってリンチについてのテキストから読んで(昨日の日記)、これは熟読の必要ありと思って本を買った(まだ届いていない)。

「デイヴィッド・リンチと様相なき世界」を読みながら、山本浩貴(いぬのせなか座)のホラー論(「死の投影者による国家と死」)のことを想起していた。「様相なき世界」で書かれている事は、とても雑に言えば(雑にまとめると面白いところはほとんど抜け落ちてしまうが…)、情動から様相を剥落させることでイメージ(様相なきイメージ)が強度化するということで(《というのも、強度は、それ自体ではまったくの無―様相だからである》)、それによりわれわれを把捉・拘束している「希望」と「恐怖」がペアとなった体制から逃れ、基本的で原始的な情動形式、つまり「至福と残酷」に至ることになる、といったようなことだ。《『インランド・エンパイア』における変様イメージの異様さは、その情動(例えば、ロスト・ガールの自己満足あるいは自劣感)が相反する派生感情としてではなく、そのまま基本情動にまで、あるいは「原始的な情動形式」にまでもたらされていることに依拠している。相対的な脱領土化をより多く享受する人間は、それだけより多くの様相をともなったより多くの派生感情によって精神が内装化されうる。これに反して、様相のない原始的感情は、希望と恐怖の体制に関わることなく、叫びという身体の強度的変様を見出すのである。こうした叫びは、至福と残酷という永遠の情動に対応しているのではないか》。ここでは「希望と恐怖の体制」から脱して(より強度的な)「至福と残酷」を肯定するというモチーフがある。

対して山本のモチーフには、そのような強度(様相なきイメージ)が、希望と恐怖の体制(山本の問題体系・語彙では「主観性」と「法」、そして「国家」、と言えるだろう)への巻き込まれを促しもするのだ、という感覚・肌感が含まれているように思う。人には、様相なきイメージ(強度的イメージ)に接した時でも(あるいは、強度的体験に貫かれた時でも)、そこから「主観性」と「法」とを読み込まずにいれらないという「呪い」がかかっており、そのような呪いは簡単にはキャンセルできない。だから、強度的な経験を称揚するだけでは足りず(まず第一に強度的体験が称揚されることに異論はないだろうと思う)、それが主観性と法と国家とに巻き取れらるあり方を分析した上で、そこから逃れるやり方が探られなければならないのではないか、ということになるだろう。

江川のテキストが分析するのが、リンチの作品そのものが生成される力の場であるのに対して、山本が問題とするのは、そのような作品を「観ている側」に生じてしまう事柄だろう(こちら側の生)。だから、特権的な達成を示す作家としてのリンチではなく、可能性と危険とが不可分に、無造作に、生々しく混じり合っている一般的なジャンルとしてのホラーが問題となる。

《(…)呪いの発露をめぐる因果はしかし、物理法則をはじめとする客観的因果に取って代わるというよりは、客観的因果とその発露を相対的な位置へと落とすことで個々の肉体(の私)のスケールを超える。物を放せば落ちるということもまた、重力の(呪われた場所が自身を訪れたものを呪い殺すのと同じくらいに)私的な一表現として扱われ、同様にこの私の瑣末な行為もまた、新たな法を生み出す可能性を与えられる。世界はあらゆる表現の背後に見られる法、その由来同士が遡られては相互に拮抗し、階級を更新し合い、新たな表現の支持体として再設定され作者に用いられ合う、酷く騒がしい霊的国家=劇空間となる。ここでいちいちが由来を所持する作者のもとへと遡行されていく(表現物と見なされる)ことによる知覚的圧や、由来の拮抗・更新の激しさに、画面手前側で鑑賞する肉体における特定の情動を起動させるものとしての価値が(すなわちコンテンツの価値として)見出される傾向のある作品らを束ねる名として、ホラーはある。そしてこれは結果的には、あらゆるものを表現物として受け取らざるを得ず、ゆえにありもしない由来を即座に観測可能な情報から捏造することで異種を結合させると同時に自他を差別し自由意志を剥奪する側にまわる傾向のある人間そのものの問題、またそこからの(由来の拮抗・更新の激しさを利用した)離脱の先で辛うじて得られるところの、私から私へのほとんど死後めく知覚の質(しかしそこでも依然として残る権力勾配と恐怖の是非)について、ホラーに属そうとする作品群が検討せざるを得ないことも示している。》(「死の投影者による国家と死」山本浩貴 「ユリイカ」2022年9月号)

たとえばこのテキストで取り上げられる「シリーズ監視カメラ 古本屋」では、古本屋に設置された二台の監視カメラがそれぞれ異なる方向から撮影しているにもかかわらず、そこに映っている対象・人が、どちらのカメラの映像においても同じ方向(背中)をカメラに向けているというあり得ない事態が生じている。ゆえに「彼女(後ろ姿の和服の女性)」を「幽霊」と判断するしかない。われわれが拘束されている経験の条件(時空構造・因果体系)に収まらない(そこから剥落する)このイメージは、ある意味で「様相なきイメージ」とも言い得る。だがその時、このイメージの観測者である視聴者は、《諸感情の間に張り巡らされた様相が消滅していく》(「様相なき世界」)というより、新たな世界の法(≒様相)を作り出すことを強いられ、それによって(自分の意思によってではなく)自らを霊化し、世界を「呪いのビデオ」化されたものとして再―定位する(させられる)ことになるだろう。山本は次のように書く。

《(…)そしてこのとき、二つの映像(二つの視点)の外に立ち、両者を交互に視聴してはひとつの経験として束ねている画面の手前側のこの私の身が、その機能において霊に似ていることに気づかざるを得ない。私は複数の矛盾する視点を同一の視覚像において束ねる霊を通じ、自身の視聴経験そのものが備える霊性を知る。霊にとってはもはや世界に自身が立つ必要はない。ただ自身がつくる法を上演する肉体らを通して見るだけでいい。世界を見るという経験そのものが霊化する。ここでprojectorと霊のカップリングは本来なら世界(表現内容)にとってあくまで二次的に機能するだけの映像表現上の技法(カットバック、クローズアップ、フラッシュバック、カメラの位置、音の反復…)を、時空間そのものへと急激に引き上げることになる。霊が作る映像を、霊に似、霊に所有された私が見る。こうして世界の新たなモンタージュ=「呪いのビデオ」化が到来する。(同上)》

このようにして《霊的国家=劇空間》が立ち上がる。もちろんこれは、「シリーズ監視カメラ 古本屋」の「様相なきイメージ」のありようがリンチの作品のようには徹底されたものではないから(つまり、リンチとは作品としての組成が基本的に違う)、ということがあるからなわけだが。江川は次のように書いている。《人は、現働性という着衣を脱いだ顔を亡霊と呼んでいる。しかし、リンチのクローズ・アップは、こうした〈顔―亡霊性〉に依拠することなく、いまだに着衣のない或る潜在的なものの無言の身体性を露わにすることに存している。》(「様相なき世界」)それは確かにそうなのだ。

2026/10/31

⚫︎引用、メモ。江川隆男「デイヴィッド・リンチと様相なき世界」(『残酷と無能力』所収)から。引用の太字は原文では傍点。

これはすごく面白かった。リンチの作品を「様相なき世界」として捉えるのは、おおっ、なるほど、という感じだし、《経験上の触発が必ずしも現働的な水準で展開も推移もしないことから生起するようなイメージ》というのは、まさにリンチ的だな、と思う。

(様相とは、どのような仕方で成り立っているのという、存在のあり方のことで、基本的には、現実的、可能的、必然的、偶然的、の四つが挙げられる。ベルクソン、ドゥルーズの哲学では、現実的(リアル) / 可能的(ポシブル)のペアに対して、現働的(アクチュアル) / 潜在的(バーチャル)というペアが考えられていたりする。)

⚫︎第一、離接的総合(共可能性から非共可能性への移行)の変様イージ。

《さて、出来事の未完成の部分、すなわち表象の領域が多孔質的に抜け落ちていくという或る種の落下の変様イメージは、言い換えると、〈反時代的なもの〉(intempestif)あるいは〈非現働的なもの〉(inactuel)の生成イメージだとも言える。これは、離接的総合という考え方によって理解することができる。例えば、ライプニッツにおける神は、まず、〈アダムが罪を犯す世界〉(a世界)を創造する。次にその世界のうちに〈罪を犯すアダム〉が創造される。この世界とこのアダムは、相互に共可能的である。しかし、もしこの〈a世界〉における〈罪を犯すアダム〉に何らかの変様が起きて、或る〈罪を犯さないアダム〉へと人間アダムの内在的様態が一つの実在の経験――例えば、誘惑に抵抗することとして生成して展開されるならば、この実在的移行は、いったいどこで実現されるのであろうか。〈罪を犯さないアダム〉は「丸い三角」や「谷のない山」といった矛盾ではない以上、アダムについてこの存在の仕方は十分に可能である。ライプニッツの場合であれば、この〈a世界〉から排除されるべき〈罪を犯さないアダム〉(或る反時代的アダム)、すなわち発散すべき〈非―罪人〉としてのアダムの系列は、別の可能世界(アダムが罪を犯さない世界)のもとで収束することになる。しかしながら、この〈a世界〉のただなかで〈罪を犯すアダム〉から〈罪を犯さないアダム〉への過程がイメージ化されるならば、つまりこの創世記の世界に対するアダムの共可能性から非共可能性への残酷な様相変化――こうした抵抗するアダム系列が創世記の世界に対して発散すること――が他の可能世界(b世界、c世界…)にまったく依拠せずに表現されるならば、或るアダムのこうした経験や出来事は、いったい〈いつ〉、〈どこで〉、〈どのようにして〉実現されるのであろうか。この特異な様相変化は、いかなる脱―様相性を持ったイメージを産出することになるであろうか。リンチが用いる変様イメージは、希望と恐怖を超えた特異で残酷な様相変化をつねにともなっている。この様相変化は、決定的な落下のイメージ(部屋や家具であれ、身体の諸器官であれ、それらがもつ暗闇の強度的部分への移行)によって与えられる。それは、いわば潜在化の変様イメージである。ところが、それと同時にこのイメージは、いくつかの情動として形式的にあるいは幾何学的に希望と恐怖の体制のもとに現働化される。》

《或る種の情動が、〈同情〉(misericordia)と〈妬み〉(invidia)という相反する二つの情動が、それゆえ相互に反転可能なこうした二つの受動的情動が、それぞれにまったく異質な世界をつくり上げることがある(『マルホランド・ドライブ』)。リンチはこの作品で、離接的総合という共可能性から非共可能性への実在的移行を本質的に含んだ総合を用いて、こうした様相変化についての情動を諸々の変様イメージとしてつくり出すことに成功した。その様相の特異点では、恐怖よりもまさに叫びとその等価物がきわめて重要な役割を担っているようにみえる。》

《それは、或る現働化の系列を通過するが、しかしそれとはまったく異質な或る運動、移行、変様、変化のイメージである。言い換えると、それは、経験上の触発が必ずしも現働的な水準で展開も推移もしないことから生起するようなイメージである。》

《こうしたイメージの存在の仕方を明確に指摘することができる。それは、遠近法主義における現状の解釈そのものの様態、すなわち〈非―P〉の迷宮である――例えば、、「現実は、〈非―夢〉である」、「魂は、〈非―可死的〉である」(カントにおける無限判断)。リンチの離接的総合における様相移行は、この〈非―P〉の位相に内属する変様イメージである。それはまた、或る種の〈非―真理〉を生の条件とする者の逸脱の経験であり、その変様イメージになるとさえ言えるだろう。》

⚫︎第二、脱--様相化の変様イメージ。

《さて、こうした変様イメージが情動をともなうとき、例えば、〈同情〉は世界(経験の諸条件)を肯定する収束の系列を描き出すが、これに反して、その世界からの発散の系列は〈妬み〉あるいは〈嫉妬〉(zelotypia)の情動によって規定された欲望のもとにある。『マルホランド・ドライブ』における〈ベティ / リタ〉の世界は、一方の記憶を失った怯えるリタに対する、他方の女優としての成功を確約されたかのような力強いベティの〈同情〉(喜びの派生感情)からなる。しかし、リタに同情するベティとこの〈ベティが女優として成功する世界〉との間の共可能性は、徐々に非共可能性へと様相変化し、ついには発散してしまう。〈女優として成功するベティ〉から〈女優として成功しないベティ〉への変様イメージは、恐怖ゆえの身体の振動や顔の震えなどであり、連動してリタの振動や震えさえも引き起こす。というのも、ベティとリタは、同情についての一つの生成変化のブロックをなしているからである。ところが、〈女優として成功しないベティ〉は、同情ではなく、妬みと嫉妬に刺戟されたダイアンという別の固有名をもち、また記憶喪失に怯えるリタは、このダイアンと共可能的である限り、カミーラという主役を獲得した女優である。ここに〈ダイアン / カミーラ〉の世界が成立する。ここにあるのは、今度は〈同情〉ではなく、それの反転した〈妬み〉という悲しみの派生感情であり、また〈嫉妬〉という高次の情動である。同情と妬みには、感情の幾何学上の共通性がある。それは、どちらも必ず愛の情動が先行していなければならないという点にある。しかし、妬みや嫉妬の場合には、同情よりも強力な愛が必要となる場合がある。〈ベティ〉という表現形態は、発散して別の表現形態〈ダイアン〉へと収束するかの様である。しかし、リンチの特権的な様態イメージの問題は、実はそこにはない。〈同情〉と〈妬み〉は相反する受動的な情動であり、相互につねに反転可能である。》

《(…)リンチの変様イメージは、むしろ或る動的な肖像画のイメージ系列とそれとは別の肖像画のイメージの系列との間の〈反転の度合〉に時間が本質的に関わっているということである。これは、いったい何をわれわれに示しているのだろうか。リンチの映画は、絵画的映画ではなく、むしろ時間性の絵画となる。ただし、これは、単に時間のなかの動く絵画などではなく、時間の様態――過去、現在、未来――を持たないという意味で、様相のないイメージとなる。というのも、感情は、時間のうちで様相をともなった仕方でしか生起しえないからである(恐怖、希望、絶望、安堵、落胆、歓喜、等々)。したがって、様相なき変様イメージは、様相を生起させない時間イメージである。リンチの映画は、こうした意味において一枚の様相なき絵画となる。変容イメージは、第一に複数の様相相互の共立可能性から諸様相それ自体の共立不可能性への移行過程における非現働的な強度イメージである。様相そのものを減算するような変容イメージは、第二に特性のない、それゆえに強度的なイメージを与えると言える。というのも、強度は、それ自体ではまったくの無―様相だからである。愛と憎しみの情動を、恐怖と希望の体制から、あるいは絶望と安堵の情動から解放する脱―様相化そのものの変容イメージはあるか。こうした問いのうちに第二の強度イメージは、形成され、実際に知覚されうるのである。》

⚫︎第三、落下という変様イメージ。

《では、さらに別の第三の強度イメージは、リンチのうちに存在するのか。(…この問いは)諸情動を世界に内在し直す仕方――現代の信仰の意義――として考えることであり、言い換えると、〈悲しみ〉と〈喜び〉を、観念においてア・プリオリな偏椅(clinamen)を含んだ原子論的な情動として理解することだからである。》

《そのためには、リンチに独自のクローズ・アップについての考察が必要であろう。》

ここで、一見すると相反するようなことが言われる。

《(…)顔には一般的に三つの機能がある。すなわち、顔は、(1)各人を区別し性格づける個体化の要因であり、(2)社会的役割を明示する限りでの社会化の表出であり、(3)他者との外在的なコミュニケーションや自己の役割と自身の内的な性質との一致を保証するような関係性を有するものである。クローズ・アップの効果は、一般的にはこうした顔の三つの機能を相対的に解体するまでに至る。しかし、リンチのクローズ・アップの操作は、そうではない。『インランド・エンパイア』では、それは、むしろ個体化も社会性もコミュニケーションも含んだ限りで、世界のうちにもう一度内在し直そうとする仕方あるいは実験そのものとなるのだ(…)。》

《(…)ドゥルーズ=ガタリは、次のように述べている。「顔が生産されるのは、もはや頭が身体に所属しないとき、身体によってコード化されないとき、頭自体が多次元的で複義的な身体的コードをもたない時だけである――これは、頭も含めて、身体が或るものによって脱コード化され、超コード化されなければならないときであり、この或るものが〈顔〉と呼ばれるのだ。(…)頭とその諸要素が顔化されるのは、不可避的な過程のなかで、身体全体が顔化され、顔化へと導かれざるをえないような場合である」。(…)リンチのクローズ・アップの操作は、言わば顔が生産されないように、つまり身体を超コード化したり代表したりしないようにするための強度的な方法論である。その限りでリンチは、この操作によって現働性と潜在性との間の〈関係=比〉(rapport)そのものの変様イメージに挑んでいると言える。》

ここがなかなかわかりにくくて、一方で「一般的な顔の機能」を解体するのではなく、しかし他方で、「顔」が決して「顔化」しないようにしている、と。後者はわかりやすいが、前者はどういうことなのか。リンチのクローズ・アップは、個体化、社会的役割、コミュニケーションという機能から「顔」を引き剥がすようなものではないが、同時に、クローズアップされた「顔」が、身体をメタ化し、身体のあり方を代表するようなものとしてある(なる)ことは拒否している、ということか。だが、後者のようにしてある「顔」が前者の機能を持つことはできるのだろうか。というか、後者のような「顔化されていない顔」というあり方によって、「顔の一般的な機能」とは別のやり方で、《世界のうちにもう一度内在し直そうとする》ということか。

《リンチの映画作品においては、人間の経験はまったく進展しない(『ストレイト・ストーリー』(一九九九)でさえもそうである)。経験上の問題は、何も解決されないだけでなく、一つの問題が他の問題へと識別不可能な仕方で表現されていく。そこでは、通常の実在的で現働的な出来事はまったく完結も展開もしない。確かに〈問題〉は個々の場面で提起されるが、それが解決に向けて進展しているか、あるいは事態は悪化しているのかは、ほぼ不明なままである。そこにあるのは、経験の表層的な進展も、その能力的な展開も存在しないような逸脱の変様イメージである。》

《このようにして、リンチの変様イメージは、顔の表情によって表現された経験の諸条件のもとでは必ずしも現働化されないような或るものを〈感覚の強度〉としてわれわれに与えるのである。これは、その変様イメージに対応する行動が諸事物の状態において現働化されえないということでもある。(…)すでに述べたように、顔は、一方で身体の変様そのものであり、他方で身体の変様イメージ(あるいは身体の情動)の表現でもある。〈情動〉と〈変様〉は、同じものであるが、明確に区別されるべきものでもある。すべての情動は変様をともなっているが、しかし、すべての変様が情動をともなっているとは限らない。しかし、変様イメージに現働化しえないような潜在的イメージが或る〈情動〉となる瞬間がある(例えば、希望ではなく至福に、恐怖ではなく残酷に)。一つの〈顔―変様〉は、恐怖ではなく、こうした情動の叫びそのものになることがある。叫びは、言わば諸感情の間に張り巡らされた様相が消滅していく度合である。それは、様相のない世界をより多く信じること、すなわち世界に内在し直すことである。》

《『インランド・エンパイア』では、映画内映画は、最後には映画の外部の変様イメージを織り込んだ〈外―映画〉――ドゥルーズが言う「超映画」――になる。女優のニッキーは、スーザン役を演じることで、ロスト・ガールと称される女とこの女が演じた黒いドレスの婦人との情動に触発されるが、しかしその衝動はつねに不定のままである(映画内映画)。しかし、次第にそれは、特定の愛と憎しみ、あるいは同情と嫉妬へと規定され、最後にその衝動あるいは欲望は明確に決定される(超映画)。この決定は、自由意志によるものではまったくなく、〈顔―クローズ・アップ〉によって表現される力能の変様の流れそのものである。顔は、変様イメージ一般において或る特権的な存在を有している。ここでニッキーのロスト・ガールへの同情は、現働的なものと潜在的なものとの間で成立する脱―様相的な情動あるいは力能である(しかし、この同情は、ニッキーをロスト・ガールの分身だと考えれば、ロスト・ガール自身の実は〈自己満足〉という情動になる)。ここには依然として感情の幾何学が存続しているが、しかしながら、変様イメージは原因と結果の関係=比を変形し続ける。》

《現在の現在性は、けっして未来の現在と共可能的ではないし、また過去の現在からの結果でもない(「もし明日なら、あなたはあそこに座っているでしょう」…)。こうした出来事の実在性は、外延的にも内包的にも規定されず、あるいはそれらの規定を逃れて、現働的なものから落下していく。》

《『インランド・エンパイア』における変様イメージの異様さは、その情動(例えば、ロスト・ガールの自己満足あるいは自劣感)が相反する派生感情としてではなく、そのまま基本情動にまで、あるいは「原始的な情動形式」にまでもたらされていることに依拠している。相対的な脱領土化をより多く享受する人間は、それだけより多くの様相をともなったより多くの派生感情によって精神が内装化されうる。これに反して、様相のない原始的感情は、希望と恐怖の体制に関わることなく、叫びという身体の強度的変様を見出すのである。こうした叫びは、至福と残酷という永遠の情動に対応しているのではないか。そこでの現働性における決定は、つねに潜在性の変化に、つまり〈至福であれ残酷であれ〉という変様につながるのだ。(…)人は、現働性という着衣を脱いだ顔を亡霊と呼んでいる。しかし、リンチのクローズ・アップは、こうした〈顔―亡霊性〉に依拠することなく、いまだに着衣のない或る潜在的なものの無言の身体性を露わにすることに存している。》

《(…)リンチにおける強度のイメージは、単に三つのタイプに分かれるのではなく(…)機能素の三つの側面として覚知されるのである。それらは、反転、変調作用、内在の仕方である。いずれにせよ、それらは、いかに或るものに内在し直すかという問いを含んでいるのである。》

2026/10/30

⚫︎永瀬さんのXポストで知ったが、こんなのやってたの知らなかった。観たかったが、知っていたら観に行っただろうか。うちからだと武蔵美は限りなく遠い…。

(図録も手に入れるのが難しそうだ…。)

mauml.musabi.ac.jp

和田誠が基本的に線描の画家で、線画の段階で絵として成立していて、色が使われていたとしても、それはあくまで追加的要素であり、つまり「色」それ自身が歌っているのではないと思う。対して安西水丸は「色」それ自身を歌わせる。だが逆に言えば、線画だけだとやや弱く(線画として自律的に存在しているという感じにはなっていなくて)、色彩があることで初めて表現として十全なものとなる、のだと思う。

マネとマティスをきちんと理解して自分のものにしている数少ない人だと、ぼくは思う(色彩としての「明るい黒」を使える稀な人だと思う)。

(これはあくまで大雑把に捉えられた概観で、一個、一個、個別に作品を観ていけば必ずしもこれが当てはまるとは限らないというのは当然のことだが。)

2026/10/29

⚫︎21日に葉思堯さんの展覧会を観に行った時に、たまたま会場で会った江藤健太郎さんにフェリスベルト・エルナンデスというウルグアイの作家を教えてもらった。水声社から『案内係』という短編集が出ているが版元品切れで古本もやや高め(図書館にもない)。検索したら『エバは猫の中』という80年代にサンリオ文庫から出たラテンアメリカ作家のアンソロジーに短編が一つ収録されていて(「水に浮かんだ家」)、こちらはメルカリで800円で買えた。

読んでみたら、なんというか他人とは思えない、いかにも自分が書きそうなというか、発想的にとても自分に近いものを感じて驚いた。夫を亡くした(正確には行方不明で生死はわからない)裕福な夫人が、人工的・技術的に床上浸水くらいに水没させた家に住んでいる。中庭の、もともと噴水だったところを土を盛って島のようにして、その島に植え込みを作っている。語り手は貧しい作家(男性)で、夫人に雇われるような形でその屋敷に住み込んでいる(彼は、急な階段を登った水没していない上の階で寝泊まりしている)。彼の仕事は、夫人をボートに乗せて、その植え込みのある中庭の島の周りを漕いでぐるぐる回ること。語り手は、ボートを漕ぎつつ、背中を向けて座っている巨体の夫人に邪な欲望を抱いたりしている。

中盤の、夫を失った夫人が悲しみの中で「水」と出会うくだりが、中途半端に意味ありげでありがちであまり面白くないのだが、最初と最後がとても面白い。

小説の終盤、語り手は電話で呼び出されて、夫人の部屋にボートに乗って向かう。以下の引用する場面はクライマックスと言っていいと思うのだが、この、風呂桶の栓を抜いたようなクライマックス !!

《夫人は階段のしたで待っていたが、あたりはもう真暗だった。ボートを漕いでいたので後ろを向いたままとっつきの部屋に入っていったが、そのとき初めて、先ほどから聞こえていたのは水の音で、部屋に入ったとたんにその音がいっそう大きくなったことに気づいた。最初に目についたのは食器戸棚だった(浮き輪で浮かべてある食器戸棚はボートの波を受けてゆらゆら揺れ、グラス類や、戸棚を壁につないである鎖ががちゃがちゃ音を立てた)。部屋の反対側には、丸いイカダのようなものが浮かんでいた。中央にはテーブルがあり、まわりの手すりには椅子がもたせかけてあった。ボートが通ってもイカダはほとんど揺れなかったが、その様子はまるで聾唖者の秘密の会合を思わせた。ぼくはうっかりして、寝室に通じるドアのかまちにオールをぶつけてしまった。そのとき、水面に水が降りそそいでいるのに気づいた。大型の洋服ダンスやベッド、化粧台といった家具の置かれている場所は別として、壁一面にさまざまな形をした色とりどりの、おびだだしい数の散水器がそなえつけてあった。天井から電灯のように吊り下が下られている、トルコ風のパイプそっくりの形をした、ガラス製の大きな容器からそこに水が流れこんでいた。そして、その容器からゴム管が花飾りのように伸びており、それを通して水が供給されていたのだ。洞窟のなかを思わせる音がひびくなかで、ボートをベッドのそばに近づけた。そのベッドはガラス製の長い脚がついていたので、水面よりもずっとうえのほうにあった。マルガリータ夫人は自分の靴をぬぐと、ぼくにもそうするように言った。そのあと巨大なベッドによじ登ると、枕もとの壁に向った。そこには、後ろ足で立っている白い髭を生やした仔山羊の大きな絵がかけてあった。彼女は額縁をつかむと、まるで扉か何かのように絵を開いたが、その向こうに浴室が現われた。重ねた枕をはじご代わりにしてそのなかに入り、しばらくすると二個の丸いプディング容器をもって戻ってきたが、その底には何本ものロウソクが立ててあった。それを水に浮かべてください。と夫人が言った。ぼくはベッドに登ろうとしたときに、足を取られて倒れた。あわてて立ち上がったが、そのとき毛布にしみついている夫人の香水の匂いが鼻をくすぐった。夫人のさし出すプディング容器を、ベッドの横につぎつぎ浮かべていった。夫人がだしぬけにこう言った。『お通夜みたいに見えますからそんなふうに浮かべないでください』》

《プディング容器は、まるで嵐のまえに港に避難してきた小舟のように一ヶ所に集まっていた。やがてモーターが始動し、しばらくすると水面に波が立った。マルガリータ夫人は大儀そうに起き上がると、ベッドの足もとのほうに身体を動かして、腹ばいになった。やがて、部屋のなかの水が流れ始め、プディング容器がたがいにぶつかり合った。水の流れは、突きあたりの壁にぶつかったあと、勢いよく戻ってきたが、そのたびにロウソクの灯が小さな煙を出して消えていった。ぼくはマルガリータ夫人のほうをちらっと見たが、ぼくが妙に思ってそうするだろうと予期していたらしく、夫人はこめかみに手をあてて顔を隠していた。プディング容器はたちまち水に沈み押し流されて、玄関ホールのドアのところを全速力で曲がって、中庭のほうへ流れていった。》

《彼女はなにも言わなかったが、ぼくはベッドの脚に結んであったともづなをたぐってボートを引き寄せた。それに乗りこんで、ともづなを解いたとたんに、予測もしない速さでボートが押し流された。玄関ホールのドアのところを曲がるときに後ろをふり返ると、マルガリータ夫人がぼくのほうを食い入るように見つめていた。夫人の目にはぼくが、ある秘密を啓示してくれるもうひとつのプディング容器のように見えたのだろう。中庭に出ると、水流に乗って島のまわりを巡りはじめた。ぼくはボートのひじかけ椅子に坐っていたが、どこまで流されようと構いはしないという気持ちになっていた。そのときに、以前ボートで島のまわりを巡ったときのことを思い出した。あのころのマルガリータ夫人は今とは別人のように思われた。水は激しい勢いで流れていたが、ぼくの頭のほうは逆にゆっくりと巡っていた。》

 

2026/10/28

⚫︎ TVerで『ポリティカルパン』、第4話。Netflixの配信はテレビ放送の1日後からなのだが、前回がとても面白かったので待ちきれず、放送時のリアルタイムでTVerで観た。前回は複雑でみっしり詰まった回だったが、今回はわりとシンプルなエンタメ回だった。

⚫︎「250円」が主題の回だが、冒頭近くから2種類の、というか裏と表の250円が示される。河合優実が750円のフラペチーノを買う。だが河合は小銭を500円しかもっていない。そこで石原さとみが500円プラスする。それにより2種類の「250円」が生まれる。石原は、お釣りとして250円受け取り、河合に250円貸したことになる。ここで、物語上では河合に貸した250円が重要なのだが、それは数字としての250円だ。お釣りの方の250円は物語的にはどうでもいいのだが、こちらはオブジェクトとして、二つの百円玉と一つの五十円玉として、はっきりと画面に現れる。この「モノ」としての250円が石原の過去の想起の糸口となる。だからドラマの「展開」としては、ここでオブジェとして250円が出てくる必要がある。だがそれだけではない。

数字としての250円を「モノ」としての250円へと顕在化する。このことがドラマ全体の主題とかかわる。国民一人当たり毎年250円相当が政党助成金として徴収されている。少額であるためにこのことはほぼ意識されない。この、意識されない250円を改めて(国民に対しても、政治家に対しても)意識させようというのがこのドラマの狙いの一つだと言えるだろう。だからこそ冒頭で、「250円貸す」という事実(言葉・数字)だけでなく、250円がモノとして(視覚的に)現れる必要がある。

⚫︎お釣りが250円であることと、250円貸したこととは、本来ならば別の事柄だ。河合が800円のものを買ったとすると、お釣りは200円で貸したのが300円になるから、その意味の違いははっきりわかる。だがここでたまたま750円のフラペチーノを買ったことで、お釣りと貸しとが同じ250円になって、ここに同じイメージによる短絡・混同が起こる。似ているけど違う。つまり、違うものを同じであるかのように見せかける(取り違えさせる)、という主題だ。

「千葉第17区政党支部」と「千葉17区政党支部」。「第」がついているかいないかの違いだけの、そっくり同じ別のもの。多くの人はこの細かな違いをいちいち意識しないので、同じ選挙区に同じ政党の支部が複数あることに気づかない。また、そっくり同じに見える2種類の政治資金パーティーのチラシ。ほぼ同じチラシだが、チケット代の振込先だけが違う。一方は主催する政治家の支部の口座で、もう一方は応援ゲストである首相の支部の口座。それにより、表沙汰にならないような形で、首相に献金したり、首相が献金を受けたりできる。本来ならば別々の「違う」ものに、「同じ見かけ」を被せることで誤魔化し(不正)が可能になる。このことが、冒頭近くでの、250円という「お釣り / 貸し」の混同によって提示されている。なんと巧みな脚本なのか、と思う。

そしてさらにこのことは、二人の異なる「女泥棒」の取り違えという、この回の根本的なトリックにつながっている。ここで「ドラマ」は、視聴者を騙し、高橋一生を騙すことに成功する。視聴者も高橋も、同じ「女泥棒」である山口紗弥加と石原さとみを取り違える(山口は石原の泥棒の師匠である)。ここには、似たイメージ(女泥棒)同士の闘争もある。山口は、石原を出し抜いて、まんまと政治献金を盗み出すことに成功する(山口は、石原を騙すことで、結果として高橋も視聴者も騙す)。しかし、その代償であるかのように、山口が石原のデコイとして高橋に差し出され(高橋に対して姿を表し)、石原は高橋に対して正体を晒すことを回避することができた(図らずも、高橋に「偽情報」を与えて混乱させたことになる)。高橋は、似たイメージ(そっくりだが違うもの)に騙されて、つまりデコイをつかまされて、石原の正体に迫ることができない。石原は「盗むべき金」を失うことと引き換えに「自分の正体を明かさない(正体・行為を隠蔽する)」ことを得る。

(ここには、敵方=与党の政治家たちの使う「不正のやり方(似姿による混同・隠蔽)」を、こちら側=泥棒たちが逆・利用するという、前回と同様の構図が見られる。ただし前回と違って今回は、泥棒側がそれを意識的に仕込んだのではなく、たまたま、結果としてそうなった、ということだが。というか、この仕掛けを仕込んだのは「泥棒たち」ではなく「脚本家」だ。)

⚫︎だが、さらにもう一捻りが用意されている。そっくりだが少し違う二種類の政治資金パーティーのチラシがあった。「そっくりだが違う」というのが政治家側の不正の策略だ。ここまではずっと、そっくりなものはペアとして現れていた。泥棒側は、第三の「そっくりなもの」をここに紛れ込ませる。主催する政治家の支部の口座、首相の支部の口座に加えて、泥棒側の口座を印刷したチラシをそこに紛れ込ませることで、政治献金を自分たちの口座に振り込ませることで「盗む」。ここに、似姿の「ニ」から「三」への転換(増殖)がある。

(この「泥棒側の口座」は、何かしらの秘密・いわくのある、凍結された政治支部の口座であり、このことが次回以降の展開につながっていくようだ。)

⚫︎正義だけがある社会派というのがある。そのような物語において正義は「批判的なもの」として現れ、図式的(または比喩的)に提示される状況の中で、告発・啓蒙・挑発・風刺という形を取ることになるだろう。だが正義だけのドラマは一面的なので単純で深みを欠き、退屈であることが多い。一方、「正義のない」社会派というのもある。それは大抵、ドロドロの権力闘争を描くことになる。あるいはそれが、ひたすら相手の裏をかく騙し合いの嘘つきゲームという形で現れることもある。しかしこちらにしても、「正義」の無い権力争いや騙し合いゲームに、なぜわざわざ真面目に付き合わなければならないのかとバカバカしく感じられてしまう。

野木亜紀子の作品においては状況は複雑である。プラス3が示されるとそのすぐ横にマイナス2が置かれ、逆に、マイナス4が示されるとすぐさまプラス3が並置される、というように。これはバランスというよりも、一つの場が常に、それぞれ異なる思惑を持つ多数のアクターや、異なる出自や源泉をもつ多数の力が交錯することによって成立していることを示しているだろう(それがリアリティであろう)。野木亜紀子には優れたストーリーテラーとしての能力があるが、それをただ「面白いお話」を作ることにだけ使うのではなく、常に複雑な「形」を作ろうとする。だが、そこにあるのは単なる相対主義ではない。いや、相対主義であることに変わりはないとしても、それでも「正義(抵抗)」が忘れられることがない。常に正義が強く主張されるのではないとしても、「いや、でも、正義って、やっぱあるよね」ということが何度も思い出される。いわば、正義がくすぶりつづける。思い出されたからといって結実するわけではないとしても(感動するエピソードやセリフがあると、すぐその後に、それを相対化する何かが待っている)、「これはあくまでエンタメです」というエクスキューズがある場合にも「正義が無い」という状況にはならない。

山口紗弥加と石原さとみの間には思想的な相容れなさがある。山口紗弥加は反権力・反体制であり、権力への「抵抗」としての正義である。しかし、石原さとみは、必ずしも反体制ではない。一方に、河合優実の(恵まれた境遇であるからこそ可能になる)まっすぐでお花畑的とも言える正義があり、もう一方で、山口紗弥加の実存的かつ実践的「抵抗」としての正義がある。石原は、そのどちらをも理解できてしまう位置にあり、だからこそどちらにも乗り切れない。山口から見れば、石原が河合の実直さに「揺るがされること」は、単に「甘っちょろい」ことでしかない(山口にとって上位階級に属する河合は「奪う対象」以外の何者でもない)。だから山口は、石原が「ナマクラ」になってしまうことへの警告を発する(「おすし」の「し」は「信用するな」であり、特に、恵まれた奴らを信用するな、であろう)。しかし、すでに河合と出会ってしまった石原は、師匠である山口の正義に忠実であることはできなくなっている。同時に、あまりに恵まれ過ぎている河合(の正義)に同調し切ることもできないだろう。

(実際、社会の権力構造や階級構造は極めて強固であり、河合優実がいとも簡単に選挙で当選してしまうことになったのは、なんと言っても彼女が元首相、草刈正雄の娘だからであり、そこに石原さとみたちの及ぼした力は、ゼロではないとしても、微々たるものだろう。そのような現実が身に染みてわかっているからこそ、石原は河合(=既成の階級構造)を躊躇なく「利用しよう(騙そう)」と思ったのだ。だが、そのような石原が河合の存在を前にして「揺らいでいる」のだ。)

(石原が自分を「泥棒」ではなく「大泥棒」だとするのは、つまり義賊であるということだ。盗んだ金の半分は、必要としている、困っているところに寄付する、など。しかし、義賊とはいっても「泥棒」であり、反体制側、非公式的立場であることに変わりはない。それが敵であるはずの「公式(=規制の階級秩序)」の側に感化され、加担しようとしてしまっている。)

⚫︎前回から出ている美村里江にしろ、今回の山口紗弥加にしろ、キャスティングが絶妙で素晴らしいと思う。

2026/10/27

⚫︎自分とにって関心があること、あるいは、自分がずっと考えていることとは、要するに「図と地」と、「空隙」と、「フレーム」という三つのことで、それだけでだいたい九割くらいは尽くされてしまうようにも思われる。

(「図と地」というのは不可分で一つの構造であるから、ある「図と地」構造を成立させている「図と地」の地とでもいうべきものがあり、その「図と地」と《「図と地」の地》との関係によってある「フレーム」というものが立ち上がる。さらに、「フレーム」は、「ある図と地構造」と「別の図と地構造」とを、つまり複数の異なる「図と地構造」を関係づける紐帯のようなものである。だがその時「フレーム」は決して閉じられてなくて、複数の〔「図と地」と《「図と地」の地》との関係〕を束ねるもの=フレームの「地」、のようなものとして、その外というのではなく、その外と内を貫くものとして、フレームを成立させると同時に危うくするものとして、「空隙」が作用している、というようなこと。)

(追記。たとえば「身体」というものを一つの「フレーム」と考えるとすると、それがどのような「図と地」構造の配置としてあり、そこに「空隙」がどのように作用するのか、とかいうふうに考える、とか。)

(追記。身体が一つのフレームであるのと同様に、身体の上で働く「行為」、たとえば「自転車に乗る」というようなこともまた「フレーム」であり、複数の「図と地」構造の配置によって構成されている。)

(追記。この構図で足りないことがあるとすれば「力」と「動き」か。「空隙」は「図と地」構造を揺るがし「フレーム」を組み替えるが、その時に作用する根本的な「力」や「動き」と、「図と地」構造や「フレーム」そのものは動かさず、その構造内部で働く「力」や「動き」との違い、あるいは、その両者にまたがる「力」や「動き」とは何か ? 、など。)

では、「図と地」とは ? 、「空隙」とは ? 、「フレーム」とは ? 、と問われても、それらについて明確に説明することはできない。「明確には定義できないこと」の三つの異なるありよう(外部と直接的にかかわる内在性の三つの異なる形式)が、「図と地」であり「空隙」であり「フレーム」であるのだ、ともいえるが、この言い方はちょっとずるいかもしれない。

ただし、明確に定義できることだけを用いて考えを構築すれば何かがわかるのだと考えること自体が、根本的に傲慢なことなのではないかとも思うが、だけど、このような考え方もまた、もしかするとずるいのかもしれない。