2026/08/11

⚫︎「攻殻機動隊」第5話をネットフリックスで。最初は気になっていた「古さ(未来の古さ)」がだんだん「味」のように感じられるようになってきた。一種のスチームパンクのようなものだと思えばいいのかもしれない。

例えば、佐川電子という会社の社長と、その部下、おそらく警備担当の責任者との会話の場面。部下が、会社に潜入してこようとする組織(公安9課)について、「首相直属で、圧力の効かない組織だ」と言うと、社長は、「圧力が効かないのは議会を操っている組合の幹部連中だけだ、首相直属といっても大抵は書類上のことだ」という返しをする(このやりとりもほぼ原作通り)。「組合の幹部連中」以外は大抵「圧力」をかければどうとでもなる、つまり「組合の幹部連中」だけは手強い、という認識があるということだろう。このようなセリフは、おそらく現在つくられる「近未来」の話には登場しないのではないかと思う。まだ、「組合」に一定の力と自律性と、厄介だと思わせるだけの手強い存在感があった(ストライキなども行われていた)時代に書かれたフィクションであることが刻まれているセリフだろう。

このようなやりとりが「原作」のまま残されていることによって、今、我々がいる「この世界」と地続きにある(近)未来とは「別の(近)未来」が舞台であるかのような感触が生まれる。エリー・デューリングの言う「レトロフューチャー」というのはこんな感じのことなのだろう。

(とはいえ、原作が描かれた89年には労働組合はかなり弱体化していたと思われるので、このセリフは当時からすでにアイロニーだったのかもしれない。87年、国鉄分割民営化。89年、「総評」の解散。89年あたりではストライキはほぼ行われなくなっていたように思う。)

⚫︎ほとんど原作通りだと思うが、国名や地名が微妙に書き変わっているところが気にならなくもない。原作には、当時まだ存在していた「ソ連」という国名が記されているが、アニメでは架空の国名に書きかわっていた。なぜここは「原作のまま」ではないのか(あるいは「ロシア」ではないのか)、と。

2026/08/10

⚫︎『嵯峨野あやつり異聞』(近本洋一)。図書館で借りた。エンタメ小説として、不思議なあり方をしていてとても面白かった。

物語の背景となる「設定」的なものがすごく分厚く作り込まれていて、登場人物たちもまた、その来歴や性質、あり方について、深い奥行きを持って作り込まれている。そして、そのような決して紋切り型には収まらない複雑さを持つ人物が大勢出てきて、それぞれしっかり描き込まれている。

(ぼくが読んだミステリの中で最も複雑さを感じさせる「刑事」のキャラクターが登場する。法月綸太郎以上に複雑な人物だと思った。刑事に限らず、一人一人の人物が本当に面白い。少女だけが、やや紋切り型かなあという感じではあるが。人物像として紋切り型というより、役割としてありがちかなあ、と。)

(追記。いやいや、法月綸太郎は「刑事」じゃない。)

そのように、あたかも長大で大きな物語が展開されるかのような「構え」ががっつりと作り込まれていながら、語られる物語は、京都の奥まったところにある高級リゾートで起こる一夜の出来事と、その前後譚という、極めてシンプルな形に収まっている。そこに込められた主題の大きさや内包される多様な展開可能性に対して、(一応ミステリと言えるような殺人事件 ? が起こるのだが)起こる事件はささやかで、あっさりしているとさえ言える。ボリューム的にも短めで、あっさりしている。

一般的にこういう主題を好む人はペダンチックになりがちで、たとえば京極夏彦なら、同様の主題で長大な物語を作るだろう。何も別の作家を持ち出さなくても、この作家(近本洋一)もまたデビュー作は、構えの大きな長大な物語だった(ぼくは読んでいないが)。

でもそっちには行かないというところが、この小説のユニークさだと思った。小さな箱の底が抜けていて、底なしの空洞がひらけているというか、赤瀬川原平の「宇宙の缶詰」のように、内と外とが反転して、小さな缶詰に宇宙が内包されているという感覚。小説の主題としては「中身」と「器」の関係ということだが、ぼくはこの小説から、内と外との反転のような感覚を強く感じた。

(「中身」の大きさに対して「器」がとても小さいことで、器の構造がとても複雑になって、内と外との反転が起こっている、という感じ。)

⚫︎アマゾンのレビューは参考にならないが、読書メーターは意外に参考になるとぼくは思っているのだが、読書メーターでのこの小説の評価がびっくりするほど低いことにびっくりした。なんでだ、こんなに面白いのに、と。確かに、ジャンル小説の定型みたいなものからは外れるような書き方がされていて、ややとっつきづらく、読んでいて戸惑うような感じがあるかもしれないが、その「戸惑い」まで含めて面白いのだと思うのだが。

この小説は2015年に出版されていて、この作家の小説はこれとデビュー作の二つしかない。10年以上小説の新作がない(ただし、2018年にすばるクリティーク賞を受賞しているということをWikipediaで知った)。これだけの小説を書いてこんなに評価が低かったら「やってらんねえ」という気持ちになるのも仕方ないかな、とも思う(「やってらんねえ」と思ったかどうかは知らないが…)。

 

2026/08/09

⚫︎妄想と嘘の違いについて考えていた。妄想が、いわば「剥き出しにされた欲望」であるのに対し、嘘は「欲望(や罪)を隠蔽する」ものだと言えるだろう。

ただし、妄想が欲望を剥き出しにすると言っても、それは一般的な言語で書かれる(語られる)のではなく、妄想を持つ当人による独自言語・独自文法によって書かれ(語られ)ている。だから妄想は暗号化されている。妄想を語る本人に暗号化の意思はないとしても(欲望を隠そうとしているのではない)、「その妄想」は一般的言語では語りきれず、独自言語(独自語彙)・独自体系が必要になるので、話者はそれを独力で創造するしかなく、結果として暗号になってしまう。

それに対し、嘘は、他者を意識し、他者に向けて語られるものなので、一般的な言語で書かれる(語られる)。ただし嘘は、欲望(や罪)を語る・表現するためのものではなく、それを隠すために語られるものだ。とはいえ、実際には「隠そう」という行為が欲望のありかを逆説的に顕在化することになる。だから、嘘とは欲望(や罪)が隠喩化されたものだとも言える。

つまり、妄想とは暗号化された剥き出しの欲望であり、嘘とは隠喩化された欲望(や罪)であると言えるのではないか。

2026/08/08

⚫︎『UFO山』がいまひとつ冴えない感じだったのは、内容と形式が合っていないということもあるのではないかと思った。幽霊とファウンドフッテージ形式は相性がいいとしても、UFOとファウンドフッテージ形式とはあまり合わないのではないか。

そこで改めて、「幽霊」と「UFO(宇宙人)」の、フィクション・幻想(のリアリティ)としての組成の違いを思う。以前に「幽霊VS宇宙人」というようなテキストを書いたことがあるが、これをもうちょっと丁寧に、ダブル(分身)、ゴースト(幽霊)、ファントム(幻影)、エイリアン(宇宙人)の違い、として考えてもいいのではないか。ただし、この分類も英語に依存した適当な思いつきなので、もっと精密に考える必要があるが。

(たとえば「UMA」は、ファントムなのか、エイリアンなのか、と考えると、この四つの分類は必ずしも適当ではないのかもしれないという気もしてくる。ファントムは、ダブルとゴーストの中間であり、また、ゴーストとエイリアンの中間でもあるようにも感じられる。)

(あるいは、ゾンビはどうなの?、とか。)

この四つ(この分類が適当かどうかはひとまず置くとして)の違いは、フィクションとしての組成の違いだけでなく、ある程度、精神病理学的、あるいは脳科学的な違いを根拠として持つことができるのではないかという感じを持っている。

極めて粗い直感としてだが、ダブルとエイリアンは精神病的で、ゴーストは神経症的、ファントムはその中間(境界例的)くらいのことはとりあえず言えそうだが。ただし、ダブルとエイリアンとでは、フィクション・幻想としての質感がかなり違うように思われる。

もちろん、フィクションや幻想の質感を、精神病理学的、脳科学的に分類・整理する(根拠づける)というだけでは面白くもない。むしろ逆に、フィクションや幻想の質感を、より詳細・繊細に感じとり、感じ分けるために、そのための方法の一つとして精神病理学や脳科学の知見を参照する、ということだ。それにより、また、新しいフィクションや幻想の質感を創造できるようになるのではないか。そして、その創造が、ただフィクションのためにある創造(分類上の目新しさ)ではなく、われわれの生のリアリティと乖離していないかを確かめるときの一つの指標となり得るのではないか、と考える。

(このことはまた、自分とは異なる、身体・脳・来歴・関係性を持つ「他人」を敵視せずに共にあるためにも必要だと思う。)

結局、われわれの「生の質感」は、フィクションのリアリティや質感によって形作られていると言えると思う。われわれは「リアリティのあるフィクションや幻想」を通じてしか「現実」に触れられない。

いや、違うか。「現実」には常に触れているが、それを一つの「図」として、感覚可能な「質感」として感じられるようにするためには、リアリティのあるフィクション(の創造)が必要になる、ということだと思う。

(ここで「感じる」というのは、「認識する」というほど明確ではなく、半ば意識的で半ば無意識的、というくらいの感じのことを指している。リアルタイムではスルーしてしまったが、後から思えば、あの時は確かに違和感が惹起していたように思う、みたいな感じ。)

(そういえば、『幽霊の脳科学』の著者による、『怪異の脳科学』という本が出るみたいだ。)

2026/08/07

⚫︎舞台は病院。ナースステーションのようなところで、30歳代か40歳代くらいの石坂浩二(白衣ではなく、チェック柄のセーターを着ている)が、ピンク色の長髪を振り乱しながら、婦長らしい山岡久乃から批判的な意見を言われてるのを必死で抗弁していて、その傍らにはなぜか化粧パフがたくさん並んだ陳列ケースが置かれている。そこに、自動ドアが開いて、患者らしい中年の女性が、看護師に何か理不尽な要求をネチネチと言い立てながら通り過ぎていく。という夢を見た。前後も何かあったはずだが、この場面を目覚めた後に鮮明に憶えていた。特に、ピンク髪(肩まで届くサラサラの長髪)の石坂浩二と、ずらっと並んだ肌色でスポンジ生地の化粧パフのイメージをくっきりと。

夢ってなんなんだ。これらのイメージは、どのような経路で浮上し、どのようなやり方で合成されるのか。

(婦長らしい人物が本当に山岡久乃だったかについてはやや怪しいが、石坂浩二は明確に石坂浩二だった。)

⚫︎(昨日からの余韻…)改めて、ジェームス・ブラウン素晴らしいな。

・Cold Sweat

https://www.youtube.com/watch?v=ij0KHfvvWVs

・Ain't It Funky Now (Parts 1 and 2)

https://www.youtube.com/watch?v=hpNxRo6oboI

あまりにも、あまりにも有名になりすぎて、ミーム化してしまった感もあるが、依然として素晴らしい。

・james brown sexy machine

https://www.youtube.com/watch?v=ZNaXb3uuekk

2026/08/06

⚫︎偶然、良い動画を見つけた。ぼくが、知識もなく、都度都度つまみ食い的に拾って聴いている「好きな音楽」のうちの一つの系統について、とてもわかりやすく説得力を持って概要を示してくれている。やはり自分はファンクが好きなのだなと改めて思う。

(しかし、今、ファンクはあまり人気がないのか。昔は、80年代90年代のことだが、猫も杓子も「ジェームス・ブラウン好き」って言ってた気がするが。ぼくは、その頃は、正直よくわからないと思っていたのだった。)

・【ファンクミュージックが丸わかり!】"ファンクミュージックを知るための5枚" kingのTalking Blues Vol.191

https://www.youtube.com/watch?v=5Zzu6ejFtLE

⚫︎動画で言及されている曲をいくつか。とても良い、好きとしか言えない。

・James Brown - Hot Pants

https://www.youtube.com/watch?v=JnB0AZNCCCI

・Sly & The Family Stone - Thank You (Falettinme Be Mice Elf Agin)

https://www.youtube.com/watch?v=-T9vmaTI2LE

・Good Times - Chic - HQ/HD

https://www.youtube.com/watch?v=7j7rcSutYAQ

⚫︎そしてぼくは、ハービー・ハンコックが(ファンク的な傾向のものに限らず)、とてもとても好きなのだ。

・Wah Wah Watson with Herbie Hancock 1976 (live video) - Hang Up Your Hang Ups

https://www.youtube.com/watch?v=K3lgmnsTdcA

・Chameleon - Herbie Hancock | The Midnight Special

https://www.youtube.com/watch?v=rsJV13Biapg

⚫︎ただ、ぼくがソウルやファンクを好きになったのはかなり歳をとってからで、前述したが、10代や20代の頃はジェームス・ブラウンでさえ何がいいのかよく分からなかった。

(おそらく、ソウル・ファンク的なものとの最初の接触は中学生の時に聴いた山下達郎だったのだと思う。そして、90年代にシブヤ系を通じて、それと知らずに徐々に教育されていったのだろう。タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』も大きかったと思う。これはぼくにとってブラックミュージック啓蒙映画だった。この映画にかんしてはほぼ音楽のことしか憶えていない。そして何より、YouTubeによって、マニアでなくても、古いものやライブ音源など多様な音楽が好きなだけつまみ食い的に聴けるようになったことが決定的だ。)

2026/08/05

⚫︎必要があって調べたのだが、世界には、今、話されているものだけで7000種類くらいの言語があり、「語族」という単位でも(一言語一語族といった孤立言語を含めると)140から150種類くらいあるという。このような多様性があるのは、おそらく人類にとって「言語」が自然なものだからだと思われ、たとえば、まったく孤立して外との接触が一切ない集団があったとしても、その集団はその集団独自の「言語」を自然に作り出すだろう、ということだと思われる。

(確か、酒井邦嘉が、「手話」は自然言語であり、閉じた集団の中で新たな「手話」が自然発生することがあり、実際にその現場・過程が観察・記録されている、と書いてたと思う。ただし、言語を自然発生させられるのは「子どもたち」だけであり、特に、2歳から5歳の子どもにその能力が顕著であるとしていたと思う。この年齢は、特別な訓練をしなくても自然に言語が習得できる年齢と重なっている。これは記憶による記述なので、要確認、だが。)

それに対して「文字」には三つのルーツしかないという。ヒエログリフと、楔形文字と、漢字の三つだ。そして、楔形文字については、この系統の文字は絶滅し、完全に失われてしまっている。だから、現在世界中で使われているあらゆる文字は、ヒエログラフか漢字か、どちらかから発展したものだということになる。言葉は多様だが、文字には多様性がないのだ。つまり、「文字」は、ほんとんど(内的に)自然発生せず、常に「外」からもたらされるものである。

「文字」は人類にとって決して「自然」なものではなく、「外部記憶装置」としての有用性から自分自身にとって自然ではない「文字」を受け入れたことによって、人類の在り方は大きく変質したのだろう。

(「口」から「耳」へという通路と、時間的分節を基本とする「(音声)言語」に対して、「文字」は、「目」から入り、空間的分節を基本とする。)

(追記。いや、違うか。「手話」もまた「自然言語」なのだから、「目」から入り、空間的分節を基本とする「言語」もある。だから、そこが根本的な問題というわけではないのか。)

逆に言えば、「言語」までは、人間以外の動物ともある程度の連続性が考えられるものだが、「文字」となると他の動物との連続性が絶たれるということなのではないか。人間と動物とを分けるものは「言語」であるという考えが現在大きく揺らいでいるが、その境界を「文字」と考えることができるのではないか。

⚫︎人間にとって(音声)言語が「自然」なものであるならば、「精神分析」と「自然科学」の通路も考えられるはず。