⚫︎趣味というものの重要さについて最近よく思う。趣味とか趣味判断とかいうとカントを思い出す人もいるかもしれないが、ここではカントは想起せず日常的に使われる言葉に近いものとしての「趣味」、つまり自分が好きだとかいいなとか思うものに共通する傾向性が見られる、というようなことを指す。
たとえば、「けっきょく、若いときに聴いた音楽が一番だ」という懐古主義的なあり方はすごく嫌だと思うのだが、かといって、ひたすら最新の動向にアンテナをはって流行りものを追いかける、というのは限りなく虚しい。そこに、一種の根拠のようなものとして「趣味」を置くことができる。趣味に合う限りにおいて古いものも掘るし、趣味に合う限りにおいて新しいものも追いかける。
「趣味」はいっけんふわっとしているように思えるかもしれないが、けっこう強めの判断の基準となる。たとえば、今、世の中はこのような傾向が強くあり、その流れに乗ることが自分にとって利益になることも目に見えている。というか、この流れに乗らないことによって明らかな損失を被るだろう。しかし、その潮流が趣味に合わないものであれば、そこには乗っかれない、と判断する。
でも、そこに一貫した思想や主義主張があるというのでもない。趣味に合うものであればほいほい軽薄に流行りにも勝ち馬にも乗っかっていく。
(それは、現状に対する批判というのとは違う。趣味は、正義や倫理ではないので、趣味を根拠に他者を批判することはできない。しかし、趣味(好き / 嫌い)を根拠として「嫌いなもの」とは距離を置く、という判断はできる。趣味は「利害よりも趣味を優先する」ことができる程度には強い判断の根拠となる。)
(「趣味」は、強い判断の根拠となるが、しかし「正義」ではないので他者に強要できないという点も重要だ。ただ、趣味について話し合ったり、共有するために努力したりすることはできる。)
(そして、趣味的な一貫性は、思想的・原理的一貫性よりはだいぶ緩いだろう。)
一方に、世の中の潮流と人の顔色を見て勝ち馬に乗ることばかり考える人がいて、もう一方に、頑なな原理主義的な態度があるとする。前者はまったく尊敬できない。後者に対するリスペクトは強くあるが、自分としてはそれはちょっと苦しいかな、とも思う。
自分にとって「自分の趣味」は、概知のものであると同時に未知のものでもある。自分の趣味は自分にとって親しいものであり、ある程度は自己分析できるが、しかし明確に言語化できるものでも、分析し切れるものでもない。不確定でふわっとしているからこそ汲み尽くせない底の深さを持っていて、ときに、自分にとって新鮮で意外なものとして「自分の趣味」が現れることがある。
ある程度長く生きてきて思うのは、社会的な、あるいは常識として共有される価値観は大きく変化するということだ。価値があるとされるものや傾向、好ましいと評価されるものや傾向、正しいとされることの方向性や基準、嫌われるものや事柄の傾向、悪とされるものの方向や基準、など、80年代や90年代、ゼロ年代以降、そして現在とで、びっくりするほど様変わりしている。当然、現在の価値観も10年も経てば古くなるだろう。そんな中で、《盛者必衰の理》《ただ春の夜の夢の如し》といった「平家物語」的な空虚・虚しさに支配されない根拠となり得るものが「趣味」なのではないか。
(「空虚」は真っ当な認識だと思うが、一方で空虚は熱狂を欲しファシズムや全体主義に通じるから厄介なのだ。)
(「趣味」は不変であるということではない。時代や年齢とともに趣味もまた変化するだろう。)
けっきょく、「このわたしの存在」とは「このわたしのこの趣味」のことなのではないか。それは言い過ぎだとしても「存在」と「趣味」とはかなり分かち難く結びついているのではないだろうか。存在の形式は趣味を通じて形作られる。
では、「趣味」と「正義」や「倫理」とが相容れないような緊張関係を持ってしまった場合はどうなのか。まさに、そのような「緊張関係」を生きることこそが、それぞれに個別の「このわたしの固有の生」を形作る「難問」なのではないか。
(「どうでもいいことは流行に従い、重大なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」という小津の有名な言葉があるが、この「自分に従う」ときの根拠となるものが「趣味」なのだと思う。)


