2024/07/22

⚫︎夏の暑さは年々酷くなるが、それに対して、ぼく自身は歳をとって年々体力が落ちてくる。それでも、夏の間は、時間が取れる限り外に出たい(外にいたい)。強い日差しと濃い緑が目に入ってくるだけで、気分が高揚してくる。

(日差しが強ければ強いほど高揚する。)

泳ぎに行くわけでもなく、キャンプに行くわけでもなく、ただ、一人で、近所をぶらぶら歩くか、自転車かバスに乗って、少し離れたところまで行って、ぶらぶら歩く。昔は、何時間もぶっ続けで歩いたが、今はさすがにそれは無理なので、定期的に、コンビニや何かしらの店舗、喫茶店などに入って休み(涼み)、しばらくしてまた歩く。炎天下を歩くのは、せいぜい2、3時間くらいが限度だが、500ml入りのペットボトル入りのスポーツドリンクを1.5本くらいは消費する。

(女子高生が持っているような手持ち扇風機も買った。)

 

2024/07/21

⚫︎下高井戸シネマで『いもの国風土記』(黒川幸則・井上文香)を観た。川口市領家にある鋳物工場、不二工業に関するドキュメンタリー。第一部水の刻、第二部火の刻。第三部以降も製作される予定のようだ。

特集<DIGにわのすなば>『いもの国風土記』予告篇@下高井戸シネマ 2024/7/21 - YouTube

実は事前にウェブで観せてもらっていて、パンフレットにコメントを書いている。コメントは以下。

鋳物工場では、宇宙と社会と人情が重なり合う。この宇宙の物理法則とそこから導かれる技術、製品を必要としその生産体制の維持が要請される社会、そして、そこにかかわる人々の生や感情の質感、関係のありよう。

それらが交錯する場所に、歴史がきざまれ、風景が生まれ、記憶が形成され、そして、そのただなかから人の生の「かたち」が出来する。

本来は、我々が生きているすべての場面で、宇宙と社会と人情の不可分な重なり合いが成立しているはずだ。モノとその生産過程を記録するこの映画のうちに、我々はそのような事実を改めて発見することになる。》

⚫︎この映画は2022年に公開された劇映画『にわのすなば』と深い関係がある。『いもの国風土記は、共同監督の一人、井上文香が幼い頃の実家での体験を描いた絵本『青の時間』が元になっている。その実家というのが不二工業と隣接しており、不二工業が大家であった。井上の実家も工場で、一階が作業場で、その上に住居があって、子供の頃のそこでの記憶を描いたのが『青の時間』だ。もう一人の監督である黒川幸則が絵本に興味を持って、舞台となった井上の実家を訪ねた時に、大家である不二工業に挨拶に行ったことが、この映画が始まるきっかけだったようだ。映画の撮影のために不二工業に通ううちに、黒川が川口市領家という土地に惹かれるようになり、この場所でフィクション映画を撮りたいと思うようになってできたのが『にわのすなば』だ、と。タイトルにある「すなば」は鋳物工場にある鋳型を作る砂を指しているのだろう。『にわのすなば』でも不二工業は、「ショボいフェス」が行われ、主人公の友人キタガワが激しいダンスを踊る場所として登場している。『いもの国風土記』で聞くことのできる幾つかのエピソードは、フィクションへと転移し、形を変えて『にわのすなば』に現れている。不二工業のある川口市両家は、『にわのすなば』では架空の土地「十函」へと位相を変える。

⚫︎第一部水の刻では、不二工業の4代目社長、入野純一と妻紀衣子に、黒川と井上がインタビューする音声と、入野家のアルバムやホームムービー、不二工業の記録写真、工場の様子などの映像で構成される(地元の神楽の映像や井上の絵なども挿入される)。系統立てたインタビューというより、アルバムをめくりながら雑談的に話を聞くみたいな感じで、あちこちに話題がとびながら、代々の入野家の人々や工場の来歴、領家という土地についての話が聞かれる(映画はアルバムが開かれるところから始まる)。インタビュアーもインタビュイーも画面には映らない。

工場に集まる猫の話から始まり、鋳物工場の鋳型のための多量の鋳砂が「猫のトイレ」となってしまうというエピソードが語られる(また、冒頭近くの小学校の映像は、自然と『にわのすなば』の記憶と繋がる)。人物としては主に、現社長の父と祖母について詳しく語られる。父は、工場の火花で片目を失うが、サングラスをトレードマークとし、地域の活動に積極的に参加した。祖母は、思ったことがすべて口から出るようなきっぷのよい人物で、親分気質でいつも周りに人が集まった。父や祖母についての語りは、父を語る現社長自身、夫の祖母について語る社長の妻自身の人物像も、語られた人物以上に強く浮かび上がらせる。語りのなかに、近所に住んでいた井上の記憶も自然と混じってくる。

社長の母とウマの合わなかった社長の妻は、仲良くしていた祖母とのちょっとした喧嘩がきっかけで家出をし、それによって「工場一家との別居」を手に入れ、工場の切り盛りから解放される(職人さんたちのお昼を作ったりしなくてもよくなる)。それでも「おばあちゃん」とは仲がよかった妻は、子供を連れて頻杯に工場一家を訪れる。おそらく、そのような場面を撮ったのであろうホームムービーが再構成されて映画の一部となる。このホームムービーによって立ち上がる「過去の一場面」の鮮やかさ。あるいは、モノクロ写真の持つ過去の時間の喚起力。アルバムに冷凍保存された過去が、外から人がやってきたことがきっかけで開かれ、そこにある写真と、写真についての語り(語り合い)によって解凍され、構成し直されて、過去が現在時のなかに混じり込んでいく。人物についての語りはそのまま工場の歴史と重なり、土地の来歴とも重なる。映画の編集によってそれが工場の現在、土地の現在のなかに差し込まれる。

祖父は最初は祖母の姉と結婚したが、すぐに亡くなってしまったので妹である祖母が再婚の相手として浮上する。東京見物だと騙されて上京した祖母は、そのまま見ず知らずの男と結婚させられる。工場の前の一本道を何度も行き来するように狭い範囲の時間を何層も折りたたむこの映画が、このエピソードによってより広い歴史的パースペクティブに一瞬だけリンクする。

第一部のナラティブから、ぼくはとても強く「小説」を感じた。家族に関する語り方が小説的な感じ。

⚫︎第二部火の刻。第一部は、現社長の父の丁寧な手仕事によるアルバムというモノが撮影対象としてあって、そこからさまざまな過去へのアクセスが開いていく感じだだった。第二部では主な撮影対象がアルバムから現在の工場へ移行する。過去のモノクロ写真なども登場するが、それは家族の過去ではなく、工場や職人たちの過去を表す。第二部は工場と職人たちのパートだ。第一部では「語る人(社長、妻、黒川、井上)の現在」は画面に現れなかったが、第二部では工場でスケッチする井上の姿がチラチラと捉えられるようになる。また、被写体でもある職人の語りも加わり、声と画面の行き来が生まれる。

まず爆音。ウェブで観た時と劇場との最も大きな違いは音の凄まじさだった。さまざまな種類の音が一塊となってうわっと押し寄せてくる。そして驚いたのは、スズメなどの小鳥の鳴き声が、工場が発する爆音や大型車両の走行音と拮抗するくらい強いことだ。そして、さまざまなモノたち。工場には、何に使うのか、何のためにあるのか分からない物も含め、さまざまな形、さまざまな質感を持ったモノが溢れている。まずは、カメラによって撮影されたそれらをみているだけで楽しい。

第二部では、さまざまな要素がごちゃ混ぜに語られる。物たちの形やテククスチャーへの注目、鋳物の製作過程、不二工業の歴史、川口市の鋳物工場の歴史、不二工業の経済的な存立基盤、昔の職人たちの様子(給料体系からいじめまで)、今いる職人たちの様子(役割や位置付けから人間関係や性格まで)、職人たちのアルコール事情(工場長は毎日飲んでいる)、工場に植えられた植物たち(職人たちのために食べられるものが多い)、洗濯物、落書き、絵を描く人、神楽、絵画…。さまざまな要素が、行ったり来たり、重なったり離れたりしながら映画が進んでいく。鋳物の製作過程も、順番通り、手順通りの語られるのではなく、他の要素との関係で、行きつ、戻りつしながら、語られる。

また、鋳物の製作過程一つとっても一枚岩ではない。そこには、先代から受け継いだ大規模な設備、人間関係と職人の組織化(誰が誰の弟子だとか、誰は技術はあるが人の上に立つタイプではない、誰は優しいが仕事ができないなど)、社会的な経済基盤(技術的に難易度が高い製品を作っているから工場が経済的に成り立っている)、信仰(火入れの日には必ずお参りする)、物理法則(鉄の溶解温度、炉の耐熱性の維持など)等々が、重なり、折り畳まれることで「製作技術」は成立している。製品の生産体制と技術は、次元の異なる複数の要素の複合によって初めて成り立つ。親から受け継いだ設備だけでも、物理法則や工学的な知識だけでも、技術を持った職人たちの連携関係だけでも、社会的な需要や取引先との信頼関係だけでも、製品は出来上がらない。それぞれ個別にある要素が、一つのアレンジメントとして組み合わされ、それが維持されることで、製品とそのクオリティが実現される。この映画では、一つ一つの要素を取り出して検討するのではなく、さまざまな要素の「配置」を、映像と音声と言語による「配置」によって語ろうとしているように思われる。

それと、この映画には、過去からの来歴を含む「鋳物工場」という現実的なアレンジメントだけでなく、そこに神楽と絵画という、二つの虚構の次元(層)が重ねられている。神楽は、歴史的に積み重ねられ、共同化した人々の記憶として、絵画は、それを描く人の個人的な記憶と密接に繋がるものとして、鋳物工場というアレンジメントのありようを別の角度から映し出し、それと交錯している。

2024/07/20

⚫︎『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)についてもう少し。NHKのドキュメンタリーを観ると、この作品全体があたかも大叔父=高畑勲との対決と喪の作業が主題であるかのように思わされてしまうが、実際に観てみると大叔父の存在感はびっくりするほど薄い。宮崎駿が大叔父というキャラクターにどのような感情を込めているのかとは別に、作品の構造としては、大叔父は最後の方にちらっと出てくるだけの人だ。作品にそんなに大きな影響を与えているキャラクターではない。

たとえば「ラピュタ」であれば、不在であるバズーの父は、その「不在」による存在感によって作中でそれなりに強い力を作用させている。しかし、鳥たちが、ただ目の前の欲望(主に食欲)に駆られてワラワラしているような「塔の中」の世界に、誰か特定の人物(大叔父)による強い中央集権的な権力の行使は感じられない。いやそうではなく、権力などではなく、この「塔の中世界」そのものを、大叔父が神のように根本で支えているのだと言われても、取ってつけた理屈のようにしか感じられない(作中に、そのような力の場は成立していない)。

それよりも、たとえば「父」の方が余程、強い存在感がある。父はまったく空疎で、下らないことしか口にしない俗人であるにも関わらず、なぜか非常に大きな現世的な権力と財力を持っており、何より「エロティックな義母」を(言い方は悪いが)占有的に所有している(エロティックな義母は「父の女」なのだ、少年は何度も義母について「父が好きな人です」と言う)。義母に、エロス的に強く魅かれている少年にとって、空疎であるくせに絶大な現世的力を持っている父の方が、大叔父などよりもより切実に対立的・敵対的な対象だろう。「権力を持つ大人の男である父」と「エロティックな年上の女=義母(父の女)」と「思春期の少年(わたし)」という三者の関係における力の作用(抗争)こそが、この作品を動かしている根本的な動力であって、そこには大叔父は、極端に言えばいてもいなくてもいいくらいの存在だ。せいぜい、物語を収束させるために必要な人物、というくらいだろう。

少年は、「父の女=義母」を、父から奪い取るためにこそ、義母を救うために塔のなかに入っていく。父ではなく、自分こそが、「義母を救う」のでなければならない。塔の中での少年の冒険は、それ自体が、義母をめぐる父との戦いでもある。とても古典的な構図だ。

(無理矢理に高畑勲という存在を代入するとすれば、大叔父というより父の位置だろう。あるいは、大叔父は父の影であり、反転形であるとは言える。現世の王である父と、ファンタジー世界の王である大叔父。)

ただ、少しややこしいのが、そのエロティックな義母が「母の妹」であること、そして、作中に「少女となった母」が登場すること。ここに母の影がちらついていることは確かだ。ただ、この作品において、少女=母の像は、なんというのか、典型的な美少女像からあまりはみ出すものではないように思う。言い換えれば、この母=少女には、作者である宮崎駿の思い(熱量)がそれほど強く込められているようには感じられない。

たとえば、「コナン」のラナ、「ナウシカ」のナウシカのように、その像の「かわいさ」が作品全体の重みを支えているというような、そのような重要性は、この作品での少女=母であるヒミにはない(ある時期以降、宮崎駿は「少女」に世界の重さを預けることをやめる、「コナン」のラナや「ナウシカ」のナウシカと「千と千尋」の千尋とではあり方がまったく違う、ナウシカは世界を救うために戦う少女だが、千尋は世界を背負うことのないたんなる普通の少女であり、「千と千尋」は普通の少女の成長物語だ)。ヒミは、少年にとってエロス的対象ではなく、キリコおばあさんと同様の、自分を保護し、教育し、導いてくれる保護者的な存在だと考えられる(なぜ、男をケアする存在がいつも女なのか、なぜ女はいつも男をケアしなければならないのか、という批判はあり得る)。

だから、この作品を動かしている動力が、父、義母、少年という三者の関係であるという(とてもとても古典的な)基本形は、少女=母の登場によって大きく揺らぐものではないと思われる。

⚫︎ひとつ興味深かったのは、大叔父の世界を崩壊させるのは、少年(眞人)ではなく、愚かなインコの王であるというところ。ああ、現実ってこうだよなあ、と思った。少年は、大叔父の世界の継承を拒否したが、その時点ではまだ、世界は首の皮一枚でギリギリ成り立っていた。それを、間違った使命に駆られたインコの王が叩き壊す。こういう奴いるんだよなあ、と思う。

(追記。全体的にセンスが若返っている感じがするのは、実際にスタッフが若返っているからなのだろう。監督は歳をとるが、スタッフは若返る、ということによって生じた、独特の感じがあるように思った。)

(追記。主人公の少年、眞人は、父親が、自分が持っていた大きくて重たい鞄を「重いぞ」とか言って義母に渡し、受け取った義母が明らかに重そうにしているのに、手伝うどころか、気遣う様子も、気遣うふりすらもなく、ずんずん一人で行ってしまう。金持ちのボンボンだし、横柄で、決していい奴ではない、そういう男なのだということが、最初にちゃんと示してある。こういう描写はすごく重要。)

2024/07/19

⚫︎お知らせ。スペースとしてはささやかですが、小説集『セザンヌの犬』が宝島社の雑誌「リンネル」9月号で紹介されています。女性向けファッション誌で取り上げられるのは意外なことですが、編集の方がたまたま本屋で見かけてジャケ買いしたという経緯を聞いています。下の写真は山本浩貴さんがXでポストされたものをお借りしました。

⚫︎『君たちはどう生きるか』(宮崎駿)をブルーレイで観た。驚いた。思っていたのと全然違った。

いや、ある意味では思っていた通りだった。中盤以降のファンタジー世界に入ってからの展開は、よく言えば宮崎駿節全開、悪く言えば手癖が見える。よく言えば集大成、悪く言えば、今まで散々宮崎駿の映画で観てきたことのバリエーションを延々観ている感じ。ただし、かなり力がこもっていて衰えはほとんど感じられない。そこはすごい。

驚いたのはそこではない。この作品は、ファンタジー世界に入っていく前の、現実世界というか、半は現実で半ばファンタジーであるようなあわいの世界のパートが、前半たっぷりと40分から50分くらいある。このパートが息を呑むくらい素晴らしかった。そして何より、このパートでは、いままでの宮﨑駿の映画では観たことのない、新しい宮﨑駿の世界が出現していた。細かく観ていけば、細部の作り方や演出の技法はこれまでとそんなに変わらないのかもしれないが、似たようなパーツを使っていたとしても、それによって組み立てようとしているものがかなり違う。宮﨑駿的なマジックリアリズムの世界とでもいうようなものができている。これが素晴らしかった。

(なんというのか、特異な身体能力とサスペンスによって引っ張るということをしない、描写とイメージ展開の鮮やかさのみで勝負する宮﨑駿、という感じ。)

できれば最後までこの感じで行ってほしいと思ったが、途中からはお馴染みの宮﨑駿になった。だがそれも悪くはない。何より重要なのは、前半の4、50分のパートが存在しているということだ。80歳を過ぎた巨匠が、たんに力が衰えていないというだけでなく(むしろ「力が衰える」ことができないというのは弱点かもしれないが)、まだまだ新しいものを作り出せる(たんに「新作」を作れるというのではなく、新たな局面を切り開ける)というのは、すごいと思うと同時に、もはや若くもない自分にとっての希望でもある。

(初期宮崎の到達点が「ラピュタ」で、第二期宮崎のピークが「千と千尋」だとして、ここから第三期宮崎が新たに始まるのではないか、とさえ、最初のパートを観ている時は思っていた。)

2024/07/18

⚫︎ふと思った。ジブリ作品は配信では観られないが、かつてレンタル店には普通にDVDやブルーレイが置いてあった。ならば、レンタル店に行けば『君たちはどう生きるか』が観られるのではないか、と(そこまでに積極的に「観たい」と思っているわけではないのだが)。しかし、地元のTSUTAYAは全滅している。ただ、もしかしたらGEOはまだやっているのではないか。徒歩20分くらいのところにGEOがあったが、もう何年も行ってない。GEOの隣には、書店+文具店があり、(他で買ってもいいのだが)そこに付箋とフリクションを買いに行くという「ついでの用事」を作って、その際に隣をのぞいてみようと思った。

GEOは営業していたし、DVD・ブルーレイのレンタルも継続されていた。そして、新作の棚には『君たちはどう生きるか』がいくつも並べられていた(他のジブリ作品もかなりあった)。おお、と思って、とりあえずカードを更新し、継続しているとはいっても、かなり縮小されている感じのDVDの棚をみてみる。新作や準新作は、大体配信で観られるものなので、旧作の棚をみてみると、かつてに比べるとかなり貧弱な品揃えになってはいるものの、時々、おっ、と思うものもまだある。

ミツバチのささやき』と『エル・スール』があったので、一緒に借りることにした。伊丹十三はあまり好きではないが、「配信では観られないもの」ということで、『マルサの女』も一応借りてみたが、観るかどうかわからない。

2024/07/17

⚫︎『新宿野戦病院』三話を観た。おお、こっちの方に折り曲げてくるのか、と。現在の風俗や社会問題と古い「家族」の主題を強引な力技で重ね合わせる。そういえば「不適切…」でもそうだった。

⚫︎小池栄子は、点として人に接しており、たまたま病院に担ぎ込まれて来た人、たまたま行きあった怪我人に対して「命を救う」という接し方をする。だが、壁一枚隔てたすぐ隣にいるとしても「出会わなかった人」については、そこに困難な人がいるかもしれないということさえそもそも考えない。だからこそ伊東蒼にとって、小池が「(他でもない)個としてのわたし」に直接語りかけてくれているように感じられる。小池と接することで、無気力だった彼女が、性加害をしてくる母親の交際相手を「拒否する」ための元気(活力)を得る。しかし橋本愛は、「歌舞伎町に集まってくる困難を抱えた人たち」を包摂するようなサポートを考えている。できるだけ取りこぼしのないように、できるだけ多く人をサポートしたいと。だから伊東蒼の側からすると自分が「そういう子たたち」として把捉される大勢のなかの一人でしかなく、「個としてのわたし」をみてくれていないという感じ方になるのはある程度は仕方がない。確かに伊東蒼が(薬物による「わたしの拒絶」状態から)「守るに足る尊厳としてのわたし」を発見するためには小池の言葉(小池との出会い)が必要だった。ただ、本当は伊東蒼には両方が必要なのであり、小池だけでは足りない。だが一面で、「そういう子たち」の一人として捉えられるのを嫌うのも仕方がない。ただし、ここに「自己責任論の内面化」が忍び込む余地が生まれてしまうだろう。

一話に出てくる「元反社の老人」も同様に、自分が「社会的弱者の一人」として捉えられるのを嫌ったのだと思われる。元々一廉の者であったという(内的)プライドが、福祉によってサポートされるべき「社会的弱者の一人」として自分を外から「捉え直す」ことを阻害する。もし彼が、弱者であることを受け入れ、サポートされることをすんなりと受け入れていたら、悲劇は起こらなかった。社会的に弱い立場にいる人が、自分たちに有利な政策を掲げる左派の政治家を嫌うというのも、これと近い感情ではないかと思う。おそらくここに橋本愛の困難がある。

この、相補的であるとも言える小池栄子橋本愛が交錯する場が「病院」ということになる。

⚫︎「病院」のもう一つの側面として「大きな家族」がある。家父長制的で、代々続く家族=病院。父を権威とした兄と弟との関係(確執)があり、「家=権威」の存続のためのコマとされる兄の娘がいる(兄の娘は家=病院=家父長的権威の存続を望み、婿養子を探す、自らコマとなることが内面化されている)。父から病院=権威を相続した兄と(権威は相続されたが家は没落する)、権威に反発して実利(金)をとり、その財力によって家=権威に復讐しようとする弟。弟は家=病院への復讐のためには自分の息子すら裏切る。そして、代々仕える執事のような経理担当者。そのような家=病院に、家父長(兄)の過去に関係がありそうな女(小池栄子)と、家族という制度が崩壊する現在を生きている娘(伊東蒼)がやってくる。さらに、復讐する弟=父に裏切られたは弟の息子(仲野太賀)はどうする ? 。この、なんとも大時代的で古臭い「家族の物語」が、多言語的、多国籍的な「歌舞伎町の現在」と重ね合わされる。こうしてみると、このドラマの、古くて新しいありようが見えてくる。

2024/07/16

⚫︎トランプの政策(ロイター発)。当選したとしてもすべてを実現することは無理だろうと思うが、相当やばい。

jp.reuters.com

全ての連邦政府職員に、自らが作り出す新たな公務員試験への合格を義務付けると述べている(…)》。

トランプ氏は2020年の選挙が不正選挙だったという自身の信念に、公務員は従わなければならないと示唆している》。

トランプ氏は、数千人の連邦政府職員を再分類して解雇できるようにする大統領令を通じて「ディープステート」の撲滅を図ろうとしている。同氏は、密かに自分たちの目的を達成しようとしている連邦政府のキャリア職員らを想定してディープステートと呼んでいる》。

2020年の選挙が不正だったと認めない公務員はクビにする、その権限が俺にはある、と、恫喝している。さすがに実行はしないと思うが、この恫喝だけでやばい。