2019-06-14

●『ニュー・ダーク・エイジ』の最初の章でジェームズ・ブライドルは、我々のすべてを呑み込んでいるかのようなテクノロジー(あるいはネットワーク)について、それを理解すること以上に、それにかんする「新たなメタファー」を生み出すことが重要だと書いている。

(そしてそれは、正しい知によって正当な批判を行うというよりも、ツールに「再度魔法をかける」というようなことである、と。)

《理解することの必要性と、つねに理解しなくても生きていけることの必要性だ。私たちはよく新しいテクノロジーを必死に理解し記述しようとするが、それは新しいテクノロジーを考えることにすら苦労しているということだ。必要なのは新しいテクノロジーではなく、新しいメタファーだ。すなわち、複雑なシステムを形作ってきた世界を記述するメタ言語である。新しい速記法(ショートハンド)が求められている。人々が、政治が、文化やテクノロジーがすっかり絡み合っている世界のリアリティを認識し、これに取り組むための速記法だ。》

《私たちはすべてのことをよく理解してはいないし、理解できないが、考えることはできる。充分な理解を主張したり要求したりすることなく考える能力は、新たなる暗黒時代を生き抜く鍵である。なぜなら、これから見ていくとおり、理解することはたいてい不可能だからだ。》

《今日、雲(クラウド)はインターネットの中心をなすメタファーだ。》

(…)このクラウドに対する最初の批判は、それがとても悪いメタファーだということだ。クラウドには重さがある。形が定まっている。そして探すべき場所を知っていれば、目にも見える。クラウドは、水蒸気と電波で作られた、すべてのことがうまくいく、どこか魔法めいた遠くの場所ではない。それは電線、光ファイバー、衛星、海底ケーブル、コンピュータがぎっしり詰まった巨大な倉庫から成る物理的なインフラストラクチャーであり、莫大な量の水とエネルギーを消費し、国家および法的所有権のもとにある。》

《もう一つの批判は、この理解のなさが意図的なものだということだ。国の安全から企業秘密から多種多様な不正行為まで、クラウドの内部に何があるのかを隠すにはもっともな理由がある。》

《これらは正当な批判であり、それを問い直すには、クラウドがその影を落とす場所を調べるのがその方法の一つである。つまりデータセンターと海底ケーブルの位置を問い、稼働中の電力の実際の配置がどうなっているのかを調べればいい。》

《だがこのいまや地についたクラウドの機能的な見方を超えて、新しいメタファーを生み出すために、クラウドの姿をもう一度反転させることができるだろうか? クラウドは、私たちの無理解ではなく、無理解の理解を吸収できるだろうか? 私たちは基本的な計算論的思考をクラウド的思考に置き換え、不可知の雲を認め、生産的な雨を降らせられるだろうか? 一四世紀、キリスト教神秘主義者の匿名の著者が、人類と神とのあいだにかかる「不可知の雲」について書いた。それは美徳、正義、正しい行動を体現したものだ。(…)クラウド的思考---不可知を受け入れること---ならば、私たちを計算論的思考から逆戻りさせられるかもしれず、それこそがネットワーク自身が私たちに促していることだ。》

《過去数世紀で最大の進歩の波は、啓蒙思想そのものの中核をなす考えであった。つまり、より多くの知が---より多くの情報が---より良い決定へと導くということだ。》

《今日、ふと気づくと私たちは、巨大な知の倉庫とつながってはいるが、考えることを学べてはいない。それどころか、その反対になっているというのが正しい。世界の蒙を啓こうと意図したことが、実際には世界を暗黒へと導いている。インターネットで入手できる、有り余るほどの情報と多数の世界観は、首尾一貫したリアリティを生み出せず、原理主義者の簡素な語り(ナラティブ)の主張と、陰謀論と、ポスト事実の政治とに引き裂かれている。この矛盾こそが、新たなる暗黒時代という着想の根源だ。》

《ここに述べるのは、テクノロジーへの糾弾ではない。それでは私たち自身の糾弾になってしまう。むしろ、世界について考えたり、知ることができるものに対して、根本的に異なる理解のしかたを伴う、テクノロジーとのより思慮深いかかわり方を訴えるものである。》

《テクノロジーはツールを作ったり使うだけでなく、メタファーの創造でもある。ツールを作ることは、その世界にある種の影響を与えられるよう具体化された、世界のある種の理解を提示する。そうしてそれが世界の理解のもう一つの可動部分になる---たとえ、その多くが無意識のうちにしても。したがってそれは、隠れたメタファーだと言えるかもしれない。ある種の移送や転移がなされるが、同時に、ある特定の考えや思考法をツールに取り込み、もはや考えることを促進する必要をなくす。再考したり新たに考えるためには、ツールにいま一度、魔法をかけなければならない。》

《格言にあるように、ハンマー()をもっていると、何でも釘に見える。しかしこれはハンマーについて考えていないからだ。適切に想像すれば、ハンマーには多くの用法がある。(…)化石を掘り出すこと、登山ロープの端の輪を固定することもできる、判決を下したり静粛を求めたり(…)。トールの槌ミヨルニンを打つと、雷鳴が鳴り稲妻が光ったし、槌形をした神の怒りに対するお守りが十字架に似ているので、強制的な回心のためのお守りもできた。のちの世代に掘り起こされた先史時代の槌と斧は「雷石」と呼ばれ、嵐の空から落ちてきたと信じられていた。そしてこれらの神秘的なツールは魔法の対象となった。もともとの目的がすたれたとき、新しい象徴的な意味をもつことができた。私たちはハンマーに---あらゆるツールに---再度魔法をかけなくてはならない。そうすることで、大工道具よりもトールや雷石らしくなる。》

《テクノロジーは固定化された雰囲気をもっている。ひとたび状況に封じ込められた思想は、固着して論破できないように見える。ハンマーを適切に用いれば、それを叩いてこじ開けることができる。いくつかのツールに再び魔法をかけることによって、現代の日常生活の無数のあり方に内在する別の実現の仕方が、ありとあらゆるかたちで見えてくるだろう。》

《本書で提示する主張は、テクノロジーの影響が気候変動のように世界中に広がっており、私たちの生活のあらゆる分野に、すでに変化をもたらしていることである。こうした影響は大惨事になりうるし、私たち自身が開発してきた激動のネットワークで結ばれた産物を、私たちが理解できていないことに帰因する。そうしたテクノロジーは、私たちが愚かにも、ものごとの自然の秩序だと思うようになったものを覆し、私たちの世界観のラディカルな再考を要求している。だが本書のもう一つの主張は、すべてが失われたわけではないということだ。実際に新しいやり方で世界を考えられるのなら、世界を再考し、理解し、その中で異なった生き方ができる。ちょうど現在の世界観が、科学的発見から進んできたように、世界観の再考もまた、テクノロジーの開発とともに出現するにちがいない。》

 

 

2019-06-13

(昨日のつづき) 「喩としての聖書――マルコ伝」(吉本隆明)でもう一つ面白かったのは、なぞなぞのような比喩の交換によって信仰が試され、奇跡が実現されるということが書かれているところ。

マルコ伝の第8章で、イエスがツロの地方に行った時、悪霊に憑かれた小さな娘をつれた母親がやってきて、悪霊を追い出してくれとイエスに頼むエピソードが書かれる。しかしイエスはその前の土地で、群衆から取り囲まれ、様々な要求をされていて疲れてしまって、静かに退きたいという気持ちでこの地方へやってきた。そんなところに、悪霊に憑かれた娘をつれた母親がやってきてしまった。

ここで、イエスと母親とは、比喩を取り交わして対話する。

《まず、(エス)子どもに飽かしむべし、っていうんですよ。飽かせるっていうのは飽きさせるってことですね。まず、子どもに飽かしむべしと、子どものパンを取りて、小犬に投げ与えるはよからずっていうふうに言うわけですよ。つまり、どういうことかっていうと、まず、子どもに満足させてやるべきじゃないかと、それで、子どもに満足させてやらないで、子どものパンを取り上げて、犬にやっちゃうっていうのは、それはいいことじゃないよっていうふうにイエスが言うわけです。》

《で、それに対して、娘を治してくれって連れてきた母親が、然り主よ、食卓の下の小犬も子どもの食べ屑を食らうなりっていうふうに言うわけなんですよ。どういう意味かっていいますと、そうですあなたよ、だけどね食卓の下にいる犬も、食卓の下に犬がいるとすると、その犬は子どもがパンを食べていると、食べ残しっていうことじゃなく、食べてると同時にこぼれ落ちたパン屑を小犬が食べるんですよっていうふうに、食べるもんじゃないですかっていうふうにその母親は答えるわけです。》

《その答えを聞いて、イエスは、汝この言葉によりて、安んじて行けって言うわけです。そしたら、治ったっていうわけです。つまり、そしたら治ってたっていうわけです。つまり、この言葉によって治ったっていうわけです。つまり、おまえの答え方っていうのはいいって言ってるわけです。見事だって言ってるわけですよ。だから、治ったって言ってるわけですよ。》

●ここでは、例え話に対して、例え話で答えている。このとんち問答のようなやりとりによって、母親の信仰は確認され、娘の悪霊は払われる。

《なんのことがわからないでしょう。しかし、わかんないでしょうけど、解釈を、つまり、わかんないってことは喩なんですよ、喩。喩でもって問答しているわけです。そうすると、喩でもって問答して、それでわかんないわけです。すると、ところが、答える方もまた、喩で答えてるわけです。そうすると、この種の言い方っていうのは、みなさんのご存じのあれで言えば、謎謎なんですよ。謎謎っていうのはそうでしょう。謎謎の問答っていうのは、こういう謎謎とかね、諺っていうのがあるでしょう。諺っていうのがあるでしょう。それはね、いつでもこういう言い方なんです。それで、これは古代においては、例えば、古代における古代の共同体っていうものに、世界である意味で共通なんですけれども、共同体で信仰を司る者っていいますか、信仰を司る者と共同体を政治的に、あるいは、行政的に司る者っていうのは、しばしば同じであるっていうことがあります。》

《そういう時代においては、ある諺、ある比喩、ある喩ですね。非常に普遍的に言えば喩なんです。謎謎、諺、喩ですね。そういうものを、解けるっていうことは、それがわかるっていうことは、信仰が非常に強固だっていうことを意味したわけです。同時に、それはその共同体を治める資格がある。能力がある、資格がある、そういう人だけが、謎謎、諺、そういうものをわかったんだと。それは、諺、謎謎がわかるとか、すぐにわかるっていうことは、それは、信仰が篤いことを、つまり、神の御託宣っていうのは、心っていうのは、すぐにわかるっていうことを意味しましたし、そのことは同時に、ある共同体を実際に政治的に治めるっていうことの能力があるってことを意味していたことがあるのです。それは、実際問題としてもあるのです。》

●で、ここでは何がやりとりされていたのか。次のように読み取られる。

()要するに、まず、子どもに飽かしむるべきじゃないか、っていうことは、俺くたびれっちゃってるんだっていうことだと思います。俺くたびれっちゃったもんで、静かに休んで祈るって思っているのに、いるところに、本当に祈って、つまり、少し精神を統一してさわやかにしようって思ってるのに、疲れっちゃったんだって、それなのにやってきて()、子どもが悪鬼に憑かれて治してくれって言うのはよくないよっていうふうに言ってるんだと思います。よくないことじゃないか、そういうのはよくないんだよって言ってるんだと思います。ところが、答えた母親の方が、いやそういうわけじゃないんだ。ただ子どもが、つまり、神の子たるあなたが、憩ってる、憩った時にも、なお、若干のゆとりはあるでしょう。つまり、食べ屑っていうのはあるでしょう。食べ残しの屑っていうのがこぼれ落ちるっていうのはあるでしょう。そのこぼれ落ちる、そのこぼれ落ちたものを、自分の子どもに与えて治してくれって言ってるんですよって、けっして、あなたの憩おうとしている、神と言葉を交わそうとしている、それを邪魔しようっていうふうに、邪魔してひったくっちゃって、こっちに奇跡をよこせって言ってるんじゃないですっていうふうに母親は答えたんだっていうふうに思います。つまり、そして、その答え方は、あっ、こいつはわかってるよっていうふうに、こいつはわかってるんだ。つまり、わかっているってことは言葉がわかっているんだと、言葉がわかっているっていうことは、比喩がわかっている、喩がわかっている。喩がわかっているっていうことは、信仰が全き信仰、つまりいい信仰を持っているんだっていうふうに思ったので、要するにそんなの治ったと同然だよ。治ったっていうふうに言ったんだっていうふうに思います。》

●ここでは、例え話が例え話によって返されているだけで、いわば、修辞的なレベルで「上手いことを言っている」だけに過ぎず、実質的には何も言われていないに等しいようにも思われる。しかしこの例え話の応酬によって、抽象的なレベルで何かが交換され、信仰が実証され、奇跡が実現される。ここで「喩」と呼ばれるのは、たんにレトリックではなく、レトリックとしか見えないものを媒介として交換されている、レトリックではない何かのことであろう。

実質的にはほぼ何の情報も交換されてはいない。それでもイエスは、自分が提示した例え話への反応として相手が提出した例え話によって、信仰の核のようなものを相手が理解していることを確信する。リテラルなレベルでは無駄な修辞のようにも見えるものによって、「理解への理解」のようなメタ情報が交換される。「魂」のようなものを垣間見ることが出来る。ここで言われている「喩」というのは、そういうものを示したり受け取ったりすることを可能にする媒介のことだと思われる。

リテラルに示すことが出来る何ものかの修辞的な言い換えではなく、「喩」としてしか表現できないものがあり、「喩」を介してしか交換できない何かがある。この時、「喩」は必ずしも言葉を介したものである必要はないと思われる。「喩」を(パース的な意味での)記号一般の問題として考える時、フィクションというものの意味を、また違った方向から考えることができるようになるように思われる。

 

2019-06-12

吉本隆明の「虚喩」という考え方がすごく面白い。講演「喩としての聖書――マルコ伝」より。

https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a041.html

●まずここで、聖書における「奇跡」というのは、理解の出来ない暗喩のことなのだと言っている。

《奇跡っていうのはなにかって言ったら、メタファーなんですよ。メタファーなんです。ところで、一般的なメタファーならば、普通のメタファーならば、例えばあの人の目はゾウだとか、まるでゾウだとかって言えば、誰にでも、一応はどんな人にでも、ああそれは、ゾウのように細くて柔和だっていうことを言おうとしてるんだなって、誰にでもわかるでしょ。ところが、奇跡っていうのはわからないわけですよ。つまり、我々、合理的に言い換えしても、聖書の中で奇跡のところを読んでも、つまり、海が荒れてるのを静かになれ、って言ったって静まるわけないじゃないかっていうふうに、誰でも思うわけですよ。》

《ところが、奇跡っていうのは、本来ならば、隔たっていて、あまりに隔たっていて、あるいは、あまりに相反していて、けっしてどんなふうな結び付け方を言葉として結び付けようとしても結びつけられない言葉を、言葉を結び付けているのが奇跡なんです。言葉としてみた奇跡なんです。つまり、言葉から見た奇跡とは何なのかって言った場合、それは本来ならば、結び付くはずない2つの対象を結び付けているっていうのが、奇跡なんですよ。》

()本来ならば喩として成り立たない、つまり、直喩にもならない。直喩としても意味が通じない。それから、暗喩として考えても意味が通じない。つまり、荒れ狂った海に対して、鎮まれって言ったら、海は静まったっていうふうに言われたって、本来的にそんなの嘘でしょ。嘘でしょっていうのはつまり、絶対信じることはできないでしょ。信ずることをできないことをするから、奇跡なわけですよ。》

《言葉に対する全き信仰とは、いわば聖書の言い方ですれば、それは神に対する全き信仰ってことでしょっていうこともあるんでしょうけども。言葉に対する全き信仰っていうのがあるならば、信仰っていうのがこの両者を、この2つを、まったくつながりそうもない2つの対象を媒介するならば、聖書のマルコ伝の言葉で言えば、黙せ、鎮まれって、イエスがそう言ったと、黙せ、鎮まれっていう言葉が、もし言葉に対する全き信仰として、信仰のもとに、黙せ、鎮まれっていう言葉が、この両者を媒介するならば、つまり、まったく結びつきそうもない2つの対象を媒介するならば、これはメタファーになりうる。》

●ここでは、「喩(比喩)」で(つまり、おそらく「言語」で)、時間的に一番最初にあったものが「虚喩」だと言われる。そして次に「暗喩」があらわれ、次に「直喩」で、「ストレートな言い方(散文)」は、時間的に一番後になってようやく出てきたものだ、と。つまり、「ストレートな言い方」が発生する前は、あらゆることがらは「喩」によって表現するしかなかった。

《つまり、私たちがメタファーと考えているものっていうのは、現在、メタファーだと考えているものは、その時代の人に、メタファーが発生して、使われて、流布された初めの時代の人にとっては、それがメタファーじゃなくて、当たり前な言い方だったっていうことなんです。今、われわれはストレートにおまえの目は細いっていうのを言うことと同じことを言うのに、メタファーが発生した時代の人は、おまえの目はゾウのようだとか、ゾウの目だっていうふうな言い方をしたんです。したっていうそういう意味なんです。だから、それが時間性っていうことなんです。だから、ストレートな言い方っていうのは、時間としては一番あとに出てきたんです。だけど、そんな馬鹿なことないでしょ。喩とかの方が言葉の飾りじゃないですかっていうのは、それはちょっと固定した考え方なんで、そうじゃなくて、それ以外には言えなかったんですよ。人間っていうのは、言葉を、言い方を知らなかった。言えなかったんですよ。だから、ある非常に重要なことを言おうとする場合、例えみたいな言い方しかできなかった時代っていうのはあるのですよ。それが、それぞれの喩が発生した時代なんです。》

●では「暗喩」以前にあった「虚喩」とはどのようなものなのか。

《ここに扇風機が回っているとするでしょ、ただ扇風機が回っていますっていうふうに、僕が言ったとする。そういうこと、それ以外に何もないんですよ。つまり、扇風機が回っていますっていうふうに言った場合に、ほんとはそれ以外何も言わないんだけども、それで何か言ってるっていうことなんです。それで、なんか言ってる。そんなことはありえないんですけど、ありえないんだけども。つまり、我々の今持ってる言語感覚では、そういうことはありえないんですよ。何の含みもなく、ここに扇風機が回っていますっていう、目の前に回っている扇風機を見て、扇風機が回っていますって言ったら、もうそれ以外に何にもないわけです。確かに回ってるから回ってるって言ってるわけです。ところが、しばしば、僕が言う虚喩なるものが発生した古代においては、古代においてはそういう言い方をして、あるいは、そういう言い方でしか、自分の思っていることを言えなかったっていう時代があったと思うわけです。》

《本当は、俺はこういうふうに思ってるんだよっていうような、そういうことを本当は言うために、ほんとにそれしか言えない。そういう言い方しかできなかったそういう時代って言うのがあったと思います。そういうふうに考えているものが虚喩なんです。》

《つまり、ストレートに、おまえは馬鹿だとか、扇風機が回ってるっていうのと虚喩と同じだっていうふうに思われるかもしれないけども。そうじゃなくて、それは現在の言語感覚で言うからおんなじに見えるんであって、ひとまわりして全部めぐって、歴史を全部めぐって、おんなじだって意味なんです。そういう言い方でしか言えなかった。そういう言い方で心を言う。そういう時が、古代のある時期にあったっていうふうに理解します。》

 

2019-06-11

●『さらざんまい』、第九話。六話までの前半が、主に、穴と管(肛門と直腸)、吸引というイメージに主導されていたのに対し、七話以降の後半では、突起物と管(男性器)、発射というイメージが台頭してきている(拳銃というアイテムが頻出し、そこから頻繁に弾が発射されるし、カワウソの形の人形焼きはあからさまに男性器のイメージだ)。前者を象徴するのがカッパであり、後者を象徴するのがカワウソだと言える。

七話までに出てくる(肛門的存在と言える)カバゾンビたちの欲望は、どれも性器的、性行的な快楽に直接的に結びつくものではない倒錯的なものだったのに対し、後半になって前景化する、玲央と真武との間、あるいは真武とカワウソの間でとりかわされる欲望は、性行的な接触を伴うものであり、男性器(人形焼き)を媒介とするものだ。そこには肛門的なイメージがない。

(『さらざんまい』に登場する「穴」は管とつながっていて、肛門・直腸、あるいは男性器・尿道というイメージであり、これまでに女性器的なイメージは出てきていないように思われる。)

九話では特に、人形焼きと拳銃のイメージが強く前に出てきている。人形焼きは性的(性器的)な欲望を介する相手との関係にかかわり、拳銃は(ホモソーシャルな社会における)男性的な能動性と権力抗争にかかわっている。玲央と真武とカワウソの間に人形焼きがあり、悠と誓と暴力団たちの間に拳銃がある。十歳の悠は、球(サッカー)を捨てたが、弾(拳銃)は捨てなかった。

(前半と後半の中間とも言える七話に出てくるカパゾンビは、「球」を集めていた。ここで「球」とは、肛門と男性器との間にある睾丸的な感覚をあらわすのかもしれない。)

『さらざんまい』で拳銃を持つ登場人物は、 玲央と真武、悠と誓であり、つまり彼らは男性器をもつ大人の男である(悠は既に銃を撃って人を殺した---手を汚した---「経験」があり、 一稀や燕太のような「少年」ではない)。とはいえ、この世界に女性器的なイメージは存在しないので、男性器は生殖能力を持たない。そのせいか、『さらざんまい』では血縁関係が希薄である(「血」の問題は相対的でしかない、一稀にとっては実の母より血のつながりのない弟の方が重要である、など)。故に、悠と誓の関係も、血のつながりというより(ホモソーシャルな関係性における)義兄弟的なものだと考えられる。

九話では、男性器を持つ者の、大人の欲望(による関係)、大人の社会的能動性(による関係)が破綻する。玲央の真武に対する思い、悠の誓に対する思いは、行き場を失う。

男性器(カワウソ帝国の力)を媒介として真武と関係することに失望した玲央は、「希望の皿」による真武との関係の回復をより強く願うことになる。しかし一方、(玲央から銃で撃たれた)燕太の命を救うために、一稀たちもまた希望の皿を必要としている。

(『さらざんまい』の世界における唯一の男女カップルは、ケッピと吾妻サラであろう。二人の間には、キュウリという、一応男性器的にも見える媒介的イメージもある。九話では、ケッピの破壊と再生が描かれ、そこに吾妻サラが深くかかわるのだが、吾妻サラという登場人物の位置づけが、ここまできてもいまいちよく分からない。)

 

2019-06-10

●以下は、『身体(ことば)と言葉(からだ)(山縣太一+大谷能生)からの引用。

《生きて死ぬぼくたちの生活は、一度切りの出来事なのです。》

《演劇とは---もしかするとあらゆる芸術がそうなのかもしれませんが---このような、ぼくたちの一回性に対抗するためのフィクションです。そこではある出来事が、「その場にいなかった人でもそれを共有できる」という可能性へと開かれるかたちで上演されます。》

《演劇とは、そこで語られる物語の内容とは関わりなく、「一回切りの生を担うそれぞれの身体が、同じ出来事に繰り返し立ち会う」という奇跡を想像的に実現させる場所なのです。これはおそらく「演劇」でなければ生み出すことのできない経験です。》

●上記の引用部分に一つだけ疑問があるとすれば、それが本当に「演劇」というものにだけ可能なことなのだろうかという点だが、しかし、それはいったんおいておく。重要なのは、反復されるものとしてのフィクションは、あくまで「出来事」であって、いわゆる「物語」ということではない。

《この媒体(俳優・身体)は、物語を伝えるためだけの必要をはみ出して、いわば、充分すぎるほど濁っている。この濁りは、物語を見ようとする観客の視線を阻み、その想像力を「いま、ここ」で起こっている出来事の方向へと開きます。ここでは、フィクションはすでに終わったものではなく、俳優と観客の現在形の身体を通過して、その前方に、いままさに作られてゆく状態で立ち表れるものなのです。》

●繰り返されるもの(フィクション)とは、物語ではなく出来事であり、それは「いま、ここ」で「いままさに作られていゆく状態」という形で反復される。反復されるもの(フィクション)は、反復されるその都度に、改めて創造され、起こされる出来事である。

《異なった状況で、同じ出来事を繰り返すこと。---あらためて、これは本来不可能なことです。しかし、絶対に二度と同じことは起きないぼくたちの生にあって、俳優は、言葉と身体を使って、その時間の流れを捻じ曲げ、押し止め、再活性化させて、ぼくたちに「同じ経験」が可能な「作品」という場所を切り開いてくれる。》

●本来一回限りであるはずの出来事を、フィクションとして反復させることが可能であり、わたしたちは、そのための(もっとも基本的な)媒体として身体と言語とをもっている、ということになる。その意味で、演劇や音楽は、もっとも根源的な芸術なのではないか。もっともミニマムな形で演劇が可能であるからこそ、あらゆる芸術が可能なのだ、と。

●ただここで、「身体と言葉」という問題設定よりも、「身体と記号」という方がいいのではないかとぼくは思った。ここで「記号」とはパース的な記号だ。「身体と記号」という時、身体はまず解釈項として記号過程の内部にある。そして、身体は、記号過程のなかで、それ自身が対象でもあり得、記号でもあり得る。

身体と言語というと二項対立的だが、記号過程という三項関係のなかで、身体はその都度くるくると役割を取り替えていく。というか、複数折り重なる記号過程のなかで、身体は常に、同時に解釈項でもあり、対象でもあり、記号でもある。

(身体と言語という二項で考えるより、同時に、解釈項であり対象であり記号であるものとしての身体と、それが位置づけられる記号過程のありよう---その多層性---を考える方がよいのではないか。)

(「身体と記号」という構えで考えることが可能ならは、身体それ自身が既に、同時に解釈項であり記号であり対象でもあるのだから、言語獲得以前にも演劇はあり得た---というか共有可能なフィクションはあり得た---ということになる。)

●以下はまた、上とはちょっと話がずれる。

身体は記号過程の内部にあると同時に、身体の内部にも記号過程がある。たとえば、自律神経と心臓と血圧の関係を考えると、解釈項と対象と記号の関係にあるとも言えるのではないか。身体内部にも、このような記号過程が無数の階層として折り重ねられている。

身体の外側にあって無数の階層として折り重ねられる記号過程と、身体の内側にあって無数の階層として折り重ねられる記号過程があり、そして、その外と内との境界面として、どちらにも還元されない一つの「わたし」があると言える。

この時の「(境界面としての)わたし」はハーマン的なオブジェクトとしての「わたし」であると言えるから、あらゆる関係から(外・上に対しても内・下に対しても)脱去している。しかしこの実在的対象としての「わたし」によって、(外と内との境界面上にあらわれる)記号過程における様々な解釈項(思考や感覚)は、一つの「わたし(の心)」へと統合される、と考えることが出来るのではないか。

(統合される、というより、帰属させられ、配置される、と言うべきか。)

 

2019-06-09

●イベントが終了して、ここ二ヶ月くらいつづいていた例外的な忙しさ(あくまでも自分にとっては、という程度のものだが)が終わった。

気が抜けて疲れが出たのか、一日中眠っていた。

夜になって、とにかくスッキリするものが観たいと思い、U-NEXTで『ガールズ&パンツァー 劇場版』を観た。

 

2019-06-08

RYOZAN PARK巣鴨で、『虚構世界はなぜ必要か?』刊行イベント《「虚構」と「制作」》。

上妻さんのツッコミのおかげで、普段の自分からはあまり出てこないものがけっこう出てきたと思う(自分にとっても新鮮なことだった)。そういう意味で、少なくともぼくにはとても面白かった(聴衆にとっても面白いものであったのならよいのだが)

これも、上妻さんの、ツッコミ力と、知らぬ間にこちらのガードを下げて無防備にさせてしまう開放的な人柄のおかげだと思う。