2021-10-13

●講義のために「東京画」(保坂和志)を読み返したのだが、これは本当にすごい(『この人の閾』所収)。95年か96年くらいにはじめて読んだときに、「小説」でこんなことが書けるのかと衝撃を受けた。いや、「小説」がどうとかということではなく、このような思考が可能であり、それをこのように表現する(記述する)ことが可能であるということに驚いたのだったが、その驚きは今もかわらなくあった。「小説」は、こういうことが書けるということを保坂和志以前は知らなかった(この文の主語は「小説」)。似ているものを探すとすれば吉田健一の『瓦礫の中』だと思うが、ただ、吉田健一が好きな人で、吉田健一の小説のもつ可能性(潜在性)を、こういう方向に拡張(徹底)しようとした人は、他にはいなかった。

(あと、この小説を読むと不思議と思い出すのが橋本治の『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』で、作風はまったく異なるものの、バブルの絶頂の時に、それに染まることないままで、そのなかで失われていくものの姿を的確に掴んで、それを記録しようとする意志が共通していると思う。)

「東京画」の特異性は、バブルのなかで失われていくものを、歴史や物語としてではなく、「風景を見ること」と「見ることによって惹起される思考」のみによって掴み取って、それをまた風景へと返し、風景として描出しようとしているところだと思う。別の言い方をすれば、(1)世界=空間のなかに描き込まれていることと、(2)「空間に散逸的に記述されているもの」を拾い上げる視線の推移、そして、(3)その視線の推移に伴う思考のプロセスという、三つの要素を縒り合わせることを通じて、(歴史や物語という形とは違った)「空間の厚み」として、時間のある一断面を表現(記述)しようとしている。空間中に散逸する細部、それを見る(発見する)視線の推移、視線の推移から生まれる思考(推論)。そして(4)として、それに絡む感情(違和感や疑問、愛着や反感、納得)もある。

これはいわゆる「小説の情景描写」とは異なる。風景(の記述)は、状況の説明でも、背景(文脈)の設営でも、感情の(比喩的)表現でもなく、どちらかというと(ミステリにおける)解かれるべき謎のようなものとしてある。だが、ミステリにおいて「謎」は作者の手によって作られたものだが、「風景」は作者がつくったものではない。

小説において(1)と(2)は、風景をどのように書くかという問題として、絡み合って一体化した一つの問題としてあるだろう。そして、「風景をどう書くか」という問題に一定の解答を導く過程で、必然的に(3)が生まれてくるのではないか。そして(4)は世界=風景から直接的にもたらされるもので、視線や思考やその記述を生みだそうとする発端であり、モチベーションとなるものだと思われる。

また、この小説はその大部分が、世界=風景と、それを見て、思考し、記述する話者=主人公の視線だけで成立しているという点でもきわめて先鋭的だと言える(話者は、自らの身体と視線だけによって世界=風景という「謎」に対峙し、先行する文献やテキストへのアクセスに対して禁欲的であるということも、大きな特徴だろう)。話者以外の登場人物は、マンションの隣の部屋に住む夫婦の他は、(人物ではないが)三匹の猫(プニャ、シロ、そして「うらぶれている」の原因発見のきっかけとなった「比較的小さくてまだおとなになりきっていない猫」)くらいだろう。冒頭に出てくる不動産屋や夕涼みする老人たちは、人物というよりむしろ世界=風景の(厚みの)側にいる。

隣の部屋の夫婦は、その土地(風景)の先住者(先輩)であり、まだ十分に「猫好き」になるに至っていない話者に対する「猫好きの先輩」として存在するという意味で登場人物だろう。猫たちは、老人たちと同様、風景の側にあるとも言えるが、しかし話者は、老人たちに深い敬意を感じはしても、それで感情を大きく動かされることはない。この小説の話者は、猫に対する時にだけ(世界=風景に対してもつ「関心」以上の)強い感情の揺れ動きと愛着をもつ。

2021-10-11

●講義のために『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)を読んで、自分がいままでこの小説のラストを誤読していたのではないかと気づいた。いままで、ペドロ・パラモは最後の場面で、(小説の最初に出てきて、主要な語り手であるフアン・プレシアドをコマラに招き入れた)ロバ追いのアブンディオに殺されるのだと思っていた。しかし、よく読むと必ずしもそうとは言えない。

まず、妻を亡くした悲しみから泥酔して我を失ったアブンディオが、妻の埋葬のための費用をペドロ・パラモに無心するつもりで、酔いと悲しみの混乱のうちに自分ではそうと意識しないうちにペドロをナイフで刺してしまうという(凝縮されて充実した)場面がある。そして、それに続く場面。

《「これがおれの死だ」とつぶやいた。

太陽が少しずつ昇ってきて、まわりを鮮明に照らしだした。ペドロ・バラモの前には、荒涼とした無人の土地が広がっているばかりだった。太陽が徐々に暖まってきた。その目がかすかに動いた。現在をかき消して、ひとつの記憶からべつの記憶へと飛び移っていたのだ。不意に心臓が止まったりすると、時間や命の息づかいも停止するように思われた。

「とにかく、新たな夜が来なければいい」と思った。

亡霊の群れで満たしてしまう夜が恐かった。 亡霊たちと顔をつきあわせるのが恐ろしかった。

「もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ。そのとき、おれは奴を見ないですむように、目を覆い隠すこともできないだろう。奴の声を聞かなけりゃなるまい。 夜明けが訪れてその声が消えるまで、その声がかれ果ててしまうまで」》

この場面は、二通りの解釈が可能だ。ひとつは、ペドロ・パラモは「自分が息子であるアブンディオに殺される場面を妄想、あるいは予言している」という解釈。《もう少ししたら、アブンディオが手を血だらけにして、おれが断った施しを無心にくるはずだ》という言葉は、まだ、その場面がやってきていないことを意味するはずだ。ならば、この場面の前に置かれている「ペドロが刺される場面」は、ペドロによる妄想(自分は息子に殺されたい)であるか、予言(自分は息子に殺されるであろう)であるはずだ。

もうひとつの解釈は、ここでペドロ・パラモは(他の登場人物達と同様に)既に死んでいて、幽霊であり、自分の死の場面を何度も何度も反復して経験している、というものだ。だから、ペドロは、もう少ししたら息子のアブンディオが自分を殺しにやってくることを知っているのだ、と。この場面だけ読めば、この二つ目の解釈の方が適切であるようにも思われる。しかし二つ目の解釈は、これにつづく、この小説の最後の部分によって否定されるだろう。

《肩を叩かれたので、体を起こして身構えた。

「あたしですよ、旦那さん」とダミアナが言った。「昼ごはんを持って来ましょうか?」

ペドロ・バラモは答えた。

「あっちへ行くさ。いま行くよ」

ダミアナ・シスネロスの腕につかまって歩こうとしたが、二、三歩進んだところで倒れた。心の中で何かを哀願するようだったが、ひと言もその口からは洩れれてこなかった。乾いた音をたてて地面にぶつかると、石ころの山のように崩れていった。》

ここには、ペドロ・パラモの死が、《石ころの山のように崩れ》るような死であることが書かれている。これは、ナイフで刺された血まみれの死とはあきらかに異なるように思われる。つまりペドロは、自分が望んだ、あるいは予言した(息子による父殺しという劇的な)死ではなく、たんに石が崩れるように死んだのだということが、突き放されて記述されていると読める。

おそらく、どの解釈が適当か、ということよりも、最後の最後の凝縮された短い場面の連鎖のうちに、解釈が何度もひっくり返るようなねじくれた構造になっているということが重要なのだと思われる。

2021-10-10

●週二回講義があると、どうしても準備に追われてしまう。それに、講義の中身を詰め込みすぎで、一本調子の早口で喋りまくって無理矢理時間内に納める感じに、どうしてもなってしまう。

今、九回目の『ペドロ・パラモ』についての講義のスライドをつくっているのだが、これも、グスグズしているとすぐ追いつかれてしまうな。

(はみ出してしまったジェイン・ボウルズを、どこに組み込むかもまだ決まっていない。組み込むためにはどこかを削るしかないのだが。)

2021-10-09

新潮新人賞の「彫刻の感想」(久栖博季)、とても周到に構成・構築された小説だと思った。

樺太に居住するウィルタという民族のナプカという少女が、戦中に家族と別れ、日本人の家族にもらわれてフイという日本の名に変わる。フイの一家は戦火を逃れ北海道に渡り「あきお」という息子を産む。小説では、ナプカ(フイ)の母、オーリのエピソードから、娘のナプカ(フイ)、フイの兄の茂、フイの息子のあきお、あきおの娘である杏子のエピソードが、時系列の蝶番から外れて、互いに互いを包み合うかのように行きつ戻りつしながら語られ、そこに、北海道の風土や、熊(羆)、トナカイ、鹿、アザラシ、鳥たち(不死鳥)といった動物たちの(現実的でもあり、神話的でもある)イメージが織り込まれていく。フイの息子のあきおは、母がナプカという名で(も)あり、ウィルタに属していたことを知らず、民族の記憶はそこで途切れ、また、杏子は同性愛者で子供をつくらず、ウィルタとしての「血」もそこで途切れる。

ただ一人、フイの(もらわれた先の、血の繋がりのない)兄である、彫刻家の茂だけが、フイの出自を知り、彫刻としてウィルタの記憶を引き継ごうとしている。また、孫娘である杏子は、しばしば自分と祖母のフイとを同一視し、シャーマンのように自らのうちに祖母の記憶を反復的に蘇らせる。そのためなのか、父あきおの代で途切れたウィルタとの繋がりは、一方でロシアからの郵便を通じて、もう一方で彫刻家である茂を通じて、杏子の元で通じることとなる。とはいえ杏子は子供をもたないので、それも杏子の代で途切れるだろう。

「血」や「記憶」あるいは「魂」といったものの、伝承と断絶が織りなす複雑なネットワークが、歴史と、神話的動物まで含んだ北方の風土を背景として描かれている、という感じだろうか。政治的に読めば、少数民族が日本という大きな流れに同化させられる過程とも読めるかもしれない。

周到に編まれて密度も濃い高度な小説だと思うが、文章やイメージの作り込み、比喩といった表現を、妙にひねりすぎているように感じられるところがないわけではなかった。とはいえ、濃くて面白かった。

2021-10-08

●大学の講義がはじまっているのだが、ぼくは、大学の様子も知らず、学生たちの雰囲気も知らず(一人として学生を目の前にすることなく)、学生たちの反応も分からないまま、一人、遠く離れた部屋にいて、ただ、時間が来たらPCの前で喋りはじめ、時間が来たら喋り終わるというだけで、手応えというものがなく、これでホントにいいのか、よくないとしたら、よくないということをどうやって知ればいいのか、と不安になってくるのだが、とはいえ、基本的に引きこもりで、人と接するのも苦手なので、実際に大学に出向いて、学生を前にして講義するより、こちらの方が自分には向いているのかもしれないとも思う(Zoom使いがもう少し手際よくなれば)。

●デュラスの『ロル・V・シュタインの歓喜』についての授業のためのスライドが、どう考えても講義一回分の時間をまるまる使わないと収まらないものになってしまった。これでも、絞れるだけ絞って、この小説の特異性を感じられるために最低限必要だと思われる四つの場面に絞っているのだが。

(ならば、ジェイン・ボウルズをどこにもっていけばいいのか…)

ジェイン・ボウルズとデュラスとを講義の同じ回に考えたのは、どちらも、「存在(狂気)」を基盤とした小説で、それは「意味(差異)」を基盤とした小説とはあり方が違っているので、読み方もちょっと違うということを示したかったから。これでは正確な言い方ではないか…。意味(差異)の構築によって存在(狂気)を覆い尽くそうとする小説と、存在(狂気)の上に不安定に意味(差異)が乗っかっている小説との違い、というべきか。ジェイン・ボウルズとデュラスは後者で、前者と言えるのは、たとえばクロソウスキーとか。

すごく雑な言い方になるが、「存在」には意味がない(「存在」は「意味」によって把捉できない)ので、「存在」は無意味や穴や空隙としてしか表現できない。その、無意味や穴の外堀を意味(差異)によって埋めていくことで、逆説的(ネガティブ)に無意味や穴の在処を示そうとするか、あるいは比喩的な「深み」によって表現しようとするのが、普通のやり方というか、多くの作品のあり様だと思うのだが、そうではなく、無意味そのものが直に露呈してしまっていて、そのまわりに辛うじて積み木のような不安定な意味(差異)が仮構されているというのが、ジェイン・ボウルズやデュラスの小説のあり様だと思われる(とはいえ、デュラスの構築はとても複雑だ)。

たとえば、『ロル・V・シュタインの歓喜』を、三角関係、不倫、覗き、みたいな、そういう「欲望の構造」の小説(「欲望とは他者の欲望である」みたいな)として読んでしまうと、とても薄っぺらなものにみえてしまう。たしかにこの小説は、ロル、マイケル、アンヌ=マリの三人の関係が、後に、ロル、ジャック、タチアナの三人において再演されるという形をとっているし、ひとまずはそういうものとして読むしかないのだが(とはいえ、三人の関係は三角関係ではない)、ロルという人物は、そのような欲望の構造を操作する「主体」としては、底が抜けすぎている。むしろこの「底が抜けている」ということの方が関係の構造よりも重要で、欲望の構造はこの「抜けた底」を露呈させるために仮構されたものだとみた方がよいと思われる。

ロルが組織しようと画策する「欲望の構造」は、「私の快楽」を保証する安定した構造でもないし、「決してそこに到達できない」ことによって機能する(馬の鼻先のニンジンの)ような構造でもない。到達したらどうなるか分からないその未知の構造にロルは到達しようとする。いや、存在には意味がないとすれば、そこに到達すると無意味そのもの、穴そのものになるしかなく、それは通常は狂気(意味・差異の破綻)と呼ばれる状態であり、つまり到達しても破綻しか待っていないと思われる。しかしそれこそが求められる「未知」の状態なのだ(「不可能なもの」ではなく、あくまで「到達可能な未知のもの」としての「存在=差異の破綻」だろう)。

2021-10-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)の語り手がジャックだと書くことは、それだけで重大なネタバレになる。

《以下に、事細かに述べるのは、タチアナ・カルルが話したそのうわべの見せかけとやらと、T・ビーチのカジノの夜に関して私がでっち上げた話を、まぜこぜにしたものである。それをもとに、ロル・V・シュタインについての私の物語を語ることにする。》

上記のようにあからさまに語り手の存在を意識させながらも、小説の途中までは、それを誰が語っているのか分からないまま小説は進行する。どうやらロルを愛しているらしいその語り手の《私》は、小説が三分の一程度進行したところで、タチアナの愛人であり、(タチアナの夫である)ピエール・ブニュールの医局にいる医師、ジャック・ホールドであると名乗る。

結婚して故郷のS・タラを離れたロルが、十年後、夫の昇進によって再び故郷へ帰ってくる。そして故郷を散歩している時に、女学校時代の友人であり、「T・ビーチの事件」の時に傍らにいたタチアナが、男と密会しているのに出くわす。ロルは二人を尾行し、ホテルに入るのを見届けるだけではなく、ホテルの裏にあるライ麦畑から、二人が密会するホテルの窓を覗き見する。その後でロルは、タチアナの現在の住まいを調べ、タチアナ宅を訪ねようと画策するのだが、この、ロルがタチアナ宅を訪ねるというタイミングで、《私》が語り手であるとジャックが名乗りをあげる。

つまり、ロルが覗いていたホテルの窓、外からロルがタチアナを見ていた時に、その部屋の内側にいた男こそが語り手であった、と。読者は、ロルが外から窓越しに部屋のなかを見ていた場面を読んでいる時はまだ、語り手が部屋でタチアナの相手をしている男性だということを知らない。だが、それを知った後に改めてその場面を読み返すと、なんとも複雑な視点の「入り交じり(混交)」があることに気づき、この小説の記述の複雑さ(視点や欲望の複数的絡み合い)を感じる。

まず、覗き見しているといっても、ロルはライ麦畑に横たわって窓を眺めているのであり、《これだけ離れていると、ふたりがなにか喋っても彼女には聞こえない》《 (…)彼女には、彼らが窓のむこうの部屋の奥を通るときしか見えない》という距離があり、詳細に見えているわけではない。だが、つづいて次のように書かれる。

《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている。そして彼にほとんど続いて、タチアナ・カルルがまだ裸のまま通る。彼女は立ちどまり、顔をかすかに仰向けて反りかえり、上体をぐるっと回転させ、腕をあげて両手で受けとめる構えになりながら、髪を体の前にもってきて、それを縒りりあわせて上にもちあげる。乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ。 ロルはその昔この乳房の付け根がどんなに清らかだったか思い出したはずだ。タチアナ・カルルはロル・V・シュタインとおない年だ。》

普通に読んでいると、タチアナの乳房が《すでにかなりしなびて》いるのを見ているのはロルであるように読んでしまう。読者は語り手が誰なのかまだ知らないし、段落の最初の部分、《男がまたしても灯りの中を通るが、今度は服を着ている》というのは、あきらかにロルの視点(を、語り手が想定して語っている)であるように思われるからなおさらだ。とはいえ、窓の外から乳房が「しなびている」というところまで見えるだろうか、と疑問には思う。

だが、次の段落を(語り手が誰かを知った後で)読むと、これは完全に内側からの視点であり、つまり、ロルの視点を想定して語られているはずの場面に、語り手の視点がずうずうしく混じり込んでいるのがはっきりと認識できる。というか、語りがここで、自分の正体を明かさないままで自己主張しているのが分かる。

《私は思い出す。 彼女が髪の世話にかかりきっているあいだに男がそばに来て、かがみこみ、やわらかで量のある髪の中に顔をうずめ、 接吻し、彼女のほうは髪をもちあげつづけ、彼のすることには構わずにつづけ、それから放すのだ。》

ここで、タチアナが「髪の世話にかかりきっているあいだ」に、男が「髪の中に顔をうずめ、 接吻し」ているのを至近距離で見る(思い出す)ことが可能なのは、その行為をしている本人以外ではありえず、それを《私》が思い出すのだとしたら、もうこの時点で、語り手(《私》)がタチアナの愛人であることが事実上明かされてしまっているのだ(ということを、再読してはじめて気づくのだが)。

だとすれば、一つ前の段落では《乳房は細い身体に比してぼってりしているが、すでにかなりしなびていて、タチアナの全身でそんなに傷んでいるのはそこだけだ》という描写と感想を行っている主体がロルであるかのように書いているが、そうではなく、語り手が自分のもった感想をあたかもロルのものであるかのように語らせているのだ、ということが分かる。なにしろロルは、外から窓によって区切られ限定された一部分を見ているだけのなだから(タチアナの全身を見られるはずはないのだから)、タチアナの全身で「そこだけ」が傷んでいるなどという判断はできないはずだ。

この小説はなんと複雑なのかと思い、そして、そのような複雑な書き方でしか書けないことを書こうとしている、ということも強く感じる。