2024-11-30

⚫︎たとえば、「弁護士」という肩書を持つ人が、かなりいい加減なことを言ったとしても、法律の知識のない我々は、そこに何かしらの法的な根拠があるかのような印象を持ってしまう。我々には真偽を確かめる能力がない。これは権威主義だ。

この、いい加減な弁護士のいい加減さを明らかにするには、そこで話題になっている分野で、長年にわたって仕事をし、数々の実績をあげている偉い弁護士が出てきて、にわか弁護士の言葉は間違っていると否定しするしかないだろう。そして、これもまた権威主義だ。

ここではいわば、「浅い権威主義」と「深い権威主義」とがあり、双方が対立している。この場合、自分の力で真偽を判定することができない以上、我々は(比較的にはマシだと思われる)「深い権威主義」を支持しないわけにはいかない。

数々のデマが急速に拡散されるインターネットの世界で活躍する「浅い権威主義(≒教祖的権威主義)」の陣営は、自らを正当化するために、「深い権威主義(≒社会的権威主義)」に対して、既得権者とか、オールドメディアとか、左翼とか、ウォークとか、ディープステイトとかいって攻撃するだろう。だからこそなお一層、我々は「深い権威主義」を、より強く支持せざるを得ないことになってしまう。

状況が、我々が「深い権威主義者」となることを強く要請してしまっている。この状況で、「深い権威主義などが本当に信頼できるものなのか」と疑義を提出することは、情報を混乱させることになり、それ自体が最悪な「浅い権威主義」側の利益になってしまう。だから疑問を発する余裕がない。

だとしても、少なくともぼくには「深い権威主義」に対する根深い不信がある。とりあえず当面は、政治的には「深い権威主義」を支持するかのように振る舞わざるを得ないが、しかし一方で、そこにも多くの嘘が含まれていると思ってもいる(故に政治には没入できない)。

だから、このような状況自体を根本的に別物にするにはどうしたら良いのか、を考える(思い浮かべる)必要(必然)がある。実現可能かどうかはともなく、少なくとも、思弁的・仮想的にだとしても、どのような状態を考えれば、それが可能なのか。そこにVECTIONの動機の一つがある。我々はSFみたいなことしか言っていないが、しかしそれは決して絵空事ではなく、切迫した動機に基づくものだ。

vection.world

2024-11-29

⚫︎なんでみんなそんなに「賞」が好きなのか、と不満に思う。「賞」なんて、権威主義そのものではないか、と。勲章は、王様が家臣に対して、その働きを褒め称えるために与えるものだ。王様のために尽くした者がもらえる。賞もまた同じ構造で、賞を与える権威の側が、常に、賞を受ける人の仕事よりも偉いという前提でできている。もっといえば、賞などというものは、家父長制的な権威があって初めて可能になる。「賞を受ける」ということは、それを与える側の権威を受け入れるということであり、自分が、その権威の下に(権威によって格付けされる序列の下に)あることを認めることだ。

(「賞を獲る」という、あたかも主体的、能動的であるかのような間違った表現が、賞を受けることの「権威主義的な受動性」を見えなくしてしまっている。)

昨日の日記の続きとしていえば、(「解説」と同様)「賞」は社会的権威であり、それは教祖-信者な権威よりはマシなものであり、社会にとって必要なものではあるだろう(「権威」が悪だ、というのではなく、たとえば、アカデミズムは権威の下にあり、権威がなければ維持できないだろう)。「賞」が何かしらの印づけ(差異づけ)の機能を持ってもいいと思うし、「賞の権威」がないと、ただただ「売り上げと資本主義」ばかりの世界、あるいは「口先が上手い奴」ばかりがのさばる世界になってしまうだろう、というのもわかる。その分野に不案内な人に対して、「賞」の存在が入口となりガイドとなるという側面もある。あるいは、ノーベル平和賞が一定の政治的な力を持つ、というようなことには意味がある。

(「賞」的権威主義は、確かに、「金の力にモノをいわせる」勢力に対する抵抗という意味はあるだろう。)

ただ、あまりにもあからさまに、あまりにも素朴に、あまりにもなんの抑制も躊躇もなく、「受賞は素晴らしい(「推し」が受賞して嬉しい)」という態度を、普段はある程度批評的で知的であったりするような、フラットであるかのように振る舞う人たちがとることに対して、そこにわずかの自己矛盾すら感じていないのはどうなのか、と思ってしまう、ということだ。アイロニカルな屈折、みたいなものさえないのか、と。

(賞・権威が悪だというのではないが、そこに明らかに―-「権威」によって正当化されたことになっている-―理不尽な権力の作動があることを少なくとも自覚はしようよ、ということだ。)

(ぼく自身、大きくない役割とはいえ「賞」にかかわっていないわけではないので、確実に自己矛盾があるのだ。)

結局のところ、みんな水戸黄門の印籠大好きかよ、という気持ちになる。

(たとえば知り合いが何かしらの賞を受ければ素直に「おめでとう」と言うだろう。しかしそれはその人が「賞を受けたこと」を喜んでいるのではなく、「賞を受けたことによってその人が得られるであろう様々な良いこと」に対して喜んでいる。賞を受ける人は、賞金ももらえるし、宣伝にもなるのでラッキーだし、これからはきっとギャラの単価も上がるだろう。その人にとっての利益になるならば、それを拒否する必要もない。そこは、プラグマティックに処理すれば良いと思う。)

(受賞式には出ないが、金だけはもらう、というボブ・ディランの態度は頼もしい。)

2024-11-28

⚫︎最近、「解説」という言葉に強く引っかかる。YouTubeなどで、ネットで「かしこいキャラ」とされているような人たちが、しばしば「~について解説します」という動画をあげている。それを見るたびに(そのような動画を見ることはほとんどないが、そのようなタイトルを見るたびに)、お前は、なんの権利があってそれについて「解説」しているのか、と思ってしまう。「解説」という言葉の持っている権威性に無自覚というか、いやむしろ、その権威性をわかっていて悪い利用の仕方をしていると感じる。

今、テレビをまったく観ないし、野球中継を観ることもないが、昔の野球中継には「解説者」という人がいた。解説者は、元プロ野球選手で、しかも一定以上の実績を残した人がなる。あるいは「ニュース解説」というのもある。そこでは、ニュースで取り扱われる事象について、その周辺事情について、研究しているような研究者か、あるいはそれについて突っ込んだ取材を長く続けているような記者が「解説者」となる。また、本の末尾に「訳者解説」がついていることがあるが、それを書いているのは、少なくともその本を一冊丸ごと翻訳する程度には深く読み込んでいる人だ。つまり、「解説者」は、ある特定の分野にかんして普通の人よりも深く、広い知識を持っていると社会的に認定されている人がなる。

要するに「解説」とは、上から目線でなされる。知らないお前に、知っているオレ様が教えてやるよ、という態度であり、解説者の言説には一定以上の真実相当性があるという「(社会的な)お墨付き」がくっついている。

だから「解説者」は、ある特定の分野のみを解説する。野球解説者が選挙の結果について解説することはできないし、ロシアの歴史の専門家が地下アイドルについて解説することはできない。権威やお墨付きは、非常に厳しい制限(限定性)があってこそ、正当化される。

しかし、「かしこいキャラ」の人たちは、何でも、どんな分野、どんな事象についても「解説」してしまう。それは本来、「感想」とか「考察」とか呼ばれるべきものだ。「感想」や「考察」には、何の権威性もお墨付きもない。それは上から目線のものではなく、話者にも何の特権性もなく、事象そのものに対しても、聴衆に対しても、同じ高さの目線からなされる言説だ。だから、話者が誰であるかということではなく(話者の権威性とは関係なく)、その「感想」そのものが興味深いものであるか、「考察」そのものが鋭いものであるかどうか、が、問われることになる。だからこそ、「~について語る権利」などに縛られることなく、誰でもが、何について、どんな風に語ってもいいことになる。「感想」や「考察」はいわば、(原理的には)平等で水平的で民主的な言説だ。

逆に、「解説」と言ってしまった途端に、「話者の権威性」が問題になる。その権威性を支えるのはつまり「かしこいキャラ」である⚫︎⚫︎さんが言っていることだからきっと正しいのだろう、という個への信頼=信仰ということになる(「権威」の根拠が「社会」への信頼性ではなく「個・キャラ」への信頼性になってしまう)。「解説」という言葉の使用からは、話者を権威化する(話者を聴衆よりも上に置く)という逆流効果が生まれてしまう。あるいは、「解説」という語は、聴衆を信者化する、と言ってもいいと思う。「~について解説します」というタイトルで動画をあげる人は、そのような効果を狙っていて、悪質な語の使用であるように、ぼくには感じられる。

(「解説」を行う権利は「社会的に認められた権威」を持つ者にだけが持つ。この「社会的に認められた権威」が、どこまで信頼するに足りるものであるのかは、大変に大変に疑わしいと思っているが、だとしても、少なくともそれは公共的・共同的なものではある。しかし、教祖-信者関係で成り立つ「権威」を支えるのは信者の教祖への信仰であり、その「解説」は教祖の主観と恣意と思惑に基づくものでしかない。)

(信者にとって「教祖の権威」は、それを疑うことが許されないものとしてある。しかし一方、「社会的な権威」は、なんか疑わしいんじゃないかと思いつつ、吟味しつつ、とりあえずは受け入れておく、という半信半疑的な距離を確保することもできる。ゆえに「社会的な権威」の方がまだマシなのだ。)

⚫︎そこで、では「批評」はどうなのか、という話になる。「批評」は、「解説」の側にあるのか、「感想」や「考察」の側にあるのか。批評は、ある事象や作品に対してメタ的な視線に立つことも多い。しかしそれは必ずしも「上から目線」ということではない。メタとは、たんに「階層が一つ上」と言うことでしかない。階層の違いは、価値や権威とは関係ない。「人間」というカテゴリーは「ソクラテス」という語に対して階層が一つ上だが、だからといって、「人間」について語る方が「ソクラテス」について語るよりも権威主義的で上から目線であるとは言えない。ただ、視点の位置が違っているだけだ。

いっけん、「批評」という語の語感は「解説」という語の語感より、権威的に感じられるかもしれない。しかし本来ならば「批評」は非アカデミズム的な言説であり、権威やお墨付きとは関係ない、という宣言として「批評」という語が用いられる。批評は、何の権威もお墨付きもないところから始められる(本来ならば…)。

(「解説」という語の使用の悪質性は、いっけん「批評」などよりもずっとソフトな語感を持っている、というところにもあると思う。)

2024-11-27

⚫︎メモ。kiki vivi lilyの最近のやつ。

・kiki vivi lily「illusion」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=bbXUl58qa78

おまけ。大学のサークルって素晴らしいな、と思う。

・kiki vivi lily【関学文総軽音KGLMC】

https://www.youtube.com/watch?v=g4qstsoBPko

⚫︎メモ。苺りなはむ、久々の新曲。苺りなはむには旧BiS以来もう15年近いキャリアがあるが、一貫して我が道をいく求道者という感じで、なんかいつ見ても頭がさがる。

・GALFY5 / 苺りなはむ & KOGYARU & 半熟卵っち(Prod.KOTONOHOUSE)【Official Music Video】

https://www.youtube.com/watch?v=GBB1fYSytJ0

・4s4ki × rinahamu - 頑張り屋さんだから愛して [prod. by RhymeTube] (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=Q5peMzFP-9E

⚫︎メモ。絵恋ちゃんの最近のやつ。

絵恋ちゃんは、サブカルの可能性の核のような位置にある人だと思う。ゆるくあることの持つアイロニカルな力を体現している。絵恋ちゃんは、肯定の人ではなく批判の人であり(絵恋ちゃんの表現は自律するというより「何か」に対する批判的身振りであり、故に「サブ」カルチャーであり)、常に物事を斜めから見るが、しかしその批判は決して尖ることがない。ゆるくあることそのものが批判としての力となり、同調への抵抗となり、アイロニーの形となる(それが「地下アイドル」という形態として結実する)。それは時に「自虐」の形をとることがあるが(「他」への批判・アイロニーがいったん「自虐」の形を経由する、ということ)、その時も自分自身に牙を向けることはなく(自傷的ではなく)、自分を傷つけない自虐となる。アイロニーとしての自虐は自己肯定的ですらある(状況や他者に対して「やれやれ」というのではなく、自分に対して「やれやれ」という距離感を持つ感じ)。

(『ゆでがえる』はハイコンテキストで伝わりにくいが、アイロニカルな自己言及で、地下アイドルとして13年くらいのキャリアがあり、その前の「地底」時代から数えるともっと長い期間活動を続けてきて、その間、同じ時期に活動していた他のアイドルたちは次々「我に帰って」やめていき、その末にある現状の自分の在り方やそのスタイルを半ば自虐的に「ゆでがえる」に例えていると考えられる。)

・絵恋ちゃん『ゆでがえる』MV

https://www.youtube.com/watch?v=kH7KHza8X9I

古典と言ってもいい曲。ぼくにはブルーハーツよりもこっちの方がずっと刺さる。

・It's night if don't get a job. 就職しないとナイト | 絵恋ちゃん Eren-chan With Her Musical Instruments ERERGY

https://www.youtube.com/watch?v=ts_JdqQNpKM

(追記。もうちょっと絵恋ちゃんを追加。)

・恋人はサイコパス Lover is a psychopath  作詞:絵恋ちゃん 作曲:中村友則 編曲:中村友則

https://www.youtube.com/watch?v=Kcy4OLYPEfw

・陽気な店長

https://www.youtube.com/watch?v=Sygvs-VehIU

・クリームパンはそれっきり

https://www.youtube.com/watch?v=HbnrI4dz3WM

(たとえば『陽気な店長』。365日働き詰めでひたすらすり減らされ続けるコンビニの店長の惨状を歌った歌に《陽気な店長》という一言をぶつけることで、そこになんともいえないアイロニーが立ち上がる。決して現状肯定ではないが、惨状を笑い飛ばすヤケクソ的な力となる。これを、プロテストに繋がらないと言って批判することもできるが、それは、革命のためなら「個の苦痛」をやむなしとする思想とどこかで繋がっていて、その思想は肯定できない。)

⚫︎あなたも絵恋ちゃんが好きになる(?)動画。

【<超個性派アイドル絵恋ちゃん>「どうやったら人付き合いできる?」お悩み告白】YouTube版BOOKSTAND.TV|#46 前編

(ここで「アイドルの絵恋ちゃん」と紹介されて、「地下アイドルの絵恋ちゃんです」となにげに修正している。アイドルに対して「地下」であるという距離感。)

https://www.youtube.com/watch?v=Hhx18ba5qSc

【絵恋ちゃん】ドSアイドルのヤンチャ伝説に矢口真里ドン引き!?『矢口真里の火曜The NIGHT#225』毎週火曜日24時からABEMAで生放送!

https://www.youtube.com/watch?v=t6koY1rxl2g

2024-11-26

⚫︎小室哲哉を回顧する1日になった。地下アイドルが「WOW WAR TONIGHT」をバカっぽくユーロビートでカバーしているMVを観たのをきっかけに、オリジナルの動画を観てみたら、今まであまり気づいてなかったけど、このトラックむちゃくちゃかっこいいのでは ? 、と思って、動画で小室漁りが始まってしまった(「ジャングル」の気持ちよさに今更気づいた ? )。

WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーヴメント~ (EUROBEAT Ver) d-girls

https://www.youtube.com/watch?v=6Ek1t3GT_9A

・【PV】【歌詞付き】H Jungle with t - WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~【HD】【FLV】

https://www.youtube.com/watch?v=jKKr98nmves

⚫︎初期の小室といえばこの曲。若い頃にはこの曲が嫌いだったが(嫌いな要素の八割が「詞」だったが)、改めて聴くと、小室のすべてがこの曲に入っているとさえ言えるのではないかと思った。今では素直にいい曲だなあと思う。アレンジが小室ではないところもいい。

渡辺美里 My Revolution

https://www.youtube.com/watch?v=S4K6A8p3Yl4

⚫︎原田知世への提供曲。

Tomoyo Harada - 家族の肖像

https://www.youtube.com/watch?v=I0if5q5W7MA

⚫︎松田聖子への提供曲だが、オリジナルよりこっちの方が好き。

・Kimono Beat 中島愛

https://www.youtube.com/watch?v=l_dEK49CNy8

⚫︎小室ファミリーとしての観月ありさ。このあたりから小室の快進撃が始まる。92年。

・TOO SHY SHY BOY! 観月ありさ

https://www.youtube.com/watch?v=2iAPDOCH_6Y

⚫︎小室は、売れていないアイドルをアーティストとして再生させる。dosのメインボーカルの西野妙子は、アイドル時代に傑作『パンツの穴 キラキラ星みつけた』(鎮西尚一)という映画で主演をしている。二曲目のボーカルはどことなく野宮真貴っぽい。

dos ‐ Baby baby baby(MV)

https://www.youtube.com/watch?v=5kzbeCu5Kqw

dos 「CRAZY FOR YOU」MV(1996年)

https://www.youtube.com/watch?v=pc-xBQPFdwA

⚫︎dosのメンバーの一人、吉田麻美と小室が二人で組んだユニットがKiss Destination(TRUE KiSS DESTiNATiON)。吉田と小室は結婚する。この時期(99年)、小室はヒットメイカーとしてはすでに絶頂期を過ぎているが、この曲はとても良いと思う。

・Kiss Destniation GIRLS,BE AMBITIOUS! album mix

https://www.youtube.com/watch?v=_zz1s2YTigU

⚫︎いわゆる量産曲だが、強引な感じも含めて好き。

Alone In My Room / 鈴木あみ

https://www.youtube.com/watch?v=YT-A-RpOUk8

⚫︎華原朋美の絶頂期。この頃の華原は世界の女王であるかのようで天下無敵に見えた(「見えた」だけだったが)。

華原朋美save your dream』Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=HfhV1VbdseQ

⚫︎小室の天下はTRFと共に。TRFといえばこの2曲。強く印象に残っている。

TRF / survival dAnce ~no no cry more~

https://www.youtube.com/watch?v=gfuykoLwzII

TRF / BOY MEETS GIRL

https://www.youtube.com/watch?v=EgGnreyPmaQ

⚫︎エモい(復活したKEIKOが、今でもマーク・パンサーと一緒に仕事をしているのもエモい)。

・globe / Can't Stop Fallin' in Love

https://www.youtube.com/watch?v=4ctWvVAmQpo

⚫︎アルフィーTMネットワークはどうしても好きになれないのだが、TMをちょっとだけ好きになれそうな動画があった。ボーカルの人のダンスが江頭2:50にしか見えない。しかもこのMVでは、このダンスを、フィックスのワンシーン、ワンカットで、最後まで押し切ってフルで見せている。

TM NETWORK「COME ON EVERYBODY」Music Video

https://www.youtube.com/watch?v=7ouSzdjjFZA

(小室動画を漁っていると、コメント欄に「90年代は良かった、あの頃に戻りたい」という書き込みがたくさんあって、今はみんなそんなに不幸なのかと悲しい気持ちになった。)

2024-11-25

⚫︎『マルサの女』を観た。1987年の映画。この映画を、かつて観たことがあったのかなかったかも忘れてしまった。1987年の山崎努が今の自分より年下であることに驚く。

大ヒットした映画だけあってさすがに面白かった。若い時は伊丹十三の映画が苦手だったが、あまり違和感なく受け入れられた。伊丹十三の「シネフィル的なこだわり」は、アート系の作品よりもエンタメ系の作品でこそ十分に生かされるのだなあと思った。そういう意味で、アーティストというより才人なのだな、と。この映画はかなり良いと思う。

(クセの強い俳優を集めた「顔芸」的な感覚は、案外『アウトレイジ』とかに影響を与えているんじゃないかとも思った。北野武とは「顔の趣味」がけっこう違うけど。)

バブルの絶頂期に、国税局の査察官の話をやろうとするアイデアも面白いし、そのアイデアの持つポテンシャルが十分に展開されている(ためらうことなくエンタメ方向に振り切った)脚本も優れているし、エンタメなんだけど(エンタメとしては必ずしも必要ないのだけど)、エンタメ要素の邪魔にならないよう、無茶苦茶に凝った撮り方がなされて画面が異様に充実しているという「捩れ」があることも味わい深い。

「無駄な画面の充実」が、実は物語要素を背後で支える説得力にもなっているのだと思う。エンタメ的にお話が面白いだけでなく、一つ一つのカットにちゃんと多くのアイデアが込められていることが滲み出ている。ぼくは、山崎努という俳優がちょっと苦手なのだが(青山真治『こおろぎ』とか、うーん、となってしまう)、この映画では素晴らしい。エンタメ作品において悪役に厚みがあることがいかに重要か、と思う。宮本信子が演じる「板倉亮子」というキャラクターも、かなりすごい発明だと思った。

(物語的に重要な要素なのに、山崎努と息子との関係の描き方がやや弱いかなあとは思う。あと、今の感覚でみると、ラブホテルの経営者がそんなに儲かるはずないのでは、と思ってしまうが。芦田伸介による「これからのヤクザは(敵方の親分のタマを取る、とかではなく)脱税で刑務所に入るんだ」といういかにもバブリーなセリフが秀逸。)

⚫︎『マルサの女をマルサする』によると、撮影期間が45日くらいで予算が2億円くらい。バブル時代の日本映画としては低予算の作品ということになるだろう。37年前の作品なのでさすがに感覚的に古いところはあるとしても、今観ても、潤沢な予算で作られるNetflixドラマとかより面白いと思う。

(それにしても、80年代の日本映画は画面が贅沢だなあとは思う。予算の問題だけでなく撮影所の技術がぎりぎり残っていた時代ということもあるのだろう。)