2021-07-31

●お知らせ。VECTIONによるエッセイをアップしました。「3レイヤーサイクル」の話は少し休みして、今後数回は、「苦痛」をトレースするブロックチェーンで組織を改善できないかという「苦痛トークン」というアイデアの概要についてです。

苦痛のトレーサビリティで組織を改善する 1: 「良いの定義」を決めずに良くすることは可能か

https://spotlight.soy/detail?article_id=vrhxcndiq

Can We be Good without a Definition of Good? / Implementing Pain Tracing Blockchain into Organizations (1)

https://vection.medium.com/can-we-be-good-without-a-definition-of-good-a1157cafbd72

ボルヘスの「円環の廃墟」の日本語訳が、手元に岩波文庫の『伝奇集』(鼓直・訳)とちくま文庫の『ボルヘスとわたし』(牛島信明)の二種類あるのだが、比べて読んでみるとかなり違うことにとまどってしまう。調子が異なるだけでなく、段落の分け方まで違っている。元のスペイン語がどうなっているのかは分からないが、日本語として読む、あるいは日本語で書かれた小説として読むと、牛島・訳の方がおもしろいと思った(鼓・訳は、過剰に簡潔にしようとしすぎているように感じられるし、日本語で読んでも、ここは解釈が違っているのではないかと疑問に思うところがある)。

書き出しの部分の引用。先に牛島・訳、次に鼓・訳。

《その静かな夜に彼が上陸するのを見た者はいないし、竹の小舟が清らかな泥に乗り上げるのを見た者もいない。しかし二、三日もすると、その寡黙な男が南部からやって来たこと、そして彼の故郷は川をさかのぼった、険しい山の斜面に点在する無数の村の一つであり、そこではまだパーラビ語(三-十世紀にペルシャで用いられたイラン語)がほとんどギリシャ語に汚されておらず、癩患者などまれであるということを知らぬ者はなくなった。事実を言えば、その白髪まじりの男は泥に唇を押しつけ、繁茂するみずがやに肌を切られながら、それを払いのけもせず、(おそらくそれを感じることさえなく)堤にはい上がり、血にまみれてふらふらになりながら、重い足を引きずって、かつては炎の色であったものが今では灰色に褪せている、石の虎だか馬だかに見守られた円形の空き地までやって来たのである。》

《闇夜に岸に上がった彼を見かけた者はなく、聖なる泥に沈んでいく竹のカヌーを見た者もいなかった。しかし、それから数日後には、この寡黙な男が南からやって来たこと、その郷里は上流の山の険しい中腹にあること、そこではゼンド語もまだギリシア語に汚されていないこと、レプラもまれであることを知らぬ者はいなかった。いずれにせよ、髪が灰色の男は泥に唇をふれ、皮膚を傷つけるチガヤを払いもせず---おそらく、何も感じなかったのだ---、土手を這いあがった。目まいに悩まされながら、血にまみれた体を引きずって、かつては炎の色をしていたが、いまでは灰の色をした虎か馬の石像が建っている、円形の境内にたどりついた。》

最初の二つの文で、「~を見た者もなく、~を見た者もなかった」、しかし「~を知らぬ者はなかった」という形で「否定」「否定」「しかし」でひねって「否定の否定」と、否定を連打していて、しかも、「見た者はいない」という言い方で、逆説的に誰にも見られていないはずの男のイメージを提示している。かなりひねった書き出しだと思う。誰にも見られていないという形でイメージが提示されることは、この小説が「夢を実在化する話」であることと密接に関係しているだろう(男が、夢のなかで作り出して現実へ押し出した人間=息子の、現実での姿を、男は伝聞で聞くのみで、見ることはない)。

この構造は、二人の訳者の訳で共通している。しかし、《竹の小舟が清らかな泥に乗り上げる》と《聖なる泥に沈んでいく竹のカヌー》とでは、ニュアンスの違いを越えて意味が違う。「小舟が乗り上げる」と「沈んでいくカヌー」とでは、「上がる」と「沈む」で意味が逆だし、物(小舟)が行為(乗り上げる)に着地するのと、行為(沈んでいく)が物(カヌー)に着地するという違いもある。「清らかな泥」は泥の状態を描写する言葉だが、「聖なる泥」は、ある泥を意味づける言葉だ。

三つめの文。牛島・訳では一つの文として訳されているところが、堤・訳では二つの文になっているが、これはおそらく、読みやすくするために二つに分けたのだろう。この三つめ(三つめと四つめ)の文は、意味や構造はそれほど違わないものの、表現力という意味で牛島・訳の方がおもしろいと感じる(読みにくくはあるが)。

●夢をみることで一人の人間を実在させようとする「男」は、まず、円形の階段教室にいる学生たちの夢を見て、その夢の学生たちの教育をはじめる。そして、大勢の学生のなかから見込みのありそうな一人を選ぶ。先に牛島・訳、次いで鼓・訳。

《ある午後(今では午後も睡眠にあてられ、明け方の一、二時間、醒めているだけであった)、彼はその巨大な夢の学校を永久に解散してしまい、ただ一人の学生だけを残した。これは時々反抗的になるが、物静かな、青白い顔の若者で、その鋭い面だちは夢見る彼の師に瓜二つだった。》

《ある日の午後---いまでは午後も夢にささげられていた。夜明けに二時間ほど眠るだけである---彼は大勢の学生たちをきっぱり見かぎって、ただ一人の学生を残した。それは口数が少なく、時には土気色に見えるほど顔色が悪く、自分を夢見ている者とそっくりな、鋭い目鼻立ちの少年だった。》

鼓・訳には牛島・訳の《時々反抗的になるが》に相当する部分がないのだが、これは、牛島・訳が「盛った」のか、鼓・訳が「端折った」のか。それはともかく、ここでみてみたいのは、鼓・訳に間違っていると思われるところが一カ所あるということ。牛島・訳では、《明け方の一、二時間、醒めているだけ》とされているところが、鼓・訳では《夜明けに二時間ほど眠るだけ》となっている。今では午後まで睡眠(夢見ること)にあてられているという前の言葉からすれば、多くの時間を眠ることに費やしているはずだから、《夜明けに二時間ほど眠るだけ》というのでは意味が通らなくなってしまう。昼間に寝ていて夜は起きているというなら意味が通るが、それだとたんに昼夜逆転しているだけで、夢見ることに力を注いでいることにならない。

このように意味が分からないところがいくつかある。牛島・訳では《砂で縄をあざなったり、風で貨幣を鋳造したりすることよりはるかに困難である、と》となっているところが、《それは、砂で縄をなったり、表のない貨幣を風で鋳造したりすることより、はるかに困難な仕事だった》となっているのだが、この「表のない貨幣」の意味がよく分からない、とか。

●こうして読み比べてみると、「バベルの図書館」も牛島・訳で読んで比べてみたいと思うのだが、『ボルヘスとわたし』に「バベルの図書館」は収録されていないのだった(『伝奇集』には鼓直・訳とは別に、篠田一士・訳があるのだが、篠田版は手元にない)。

 

2021-07-30

●マンガを読むとすごく目が疲れるのでいつからか苦手意識が芽生え、最近ではほとんど読まなくなってしまったのだけど、文庫版ならなおさらだが、単行本サイズでさえも、字が小さ過ぎ、それだけでなく絵も小さ過ぎる、というのがその主な原因なのではないかと思って、でも、電子書籍で読めばサイズを変えられるから目の負担を少なく読めるのではないかと考えたことが、タブレットを買った動機の一つだった。

で、電子書籍ではじめてマンガを買ってみた。萩尾望都バルバラ異界』1~4巻。絵を拡大できるとマンガはこんなに読みやすいのか、と思った。読むペースも紙の本よりもつかみやすい。先がはやく知りたくて目がはしってしまいそうなところを、「絵を拡大できる」ということが頭にあるからそれが「拡大してみる」という実際の行為をしばしば惹起して、先走りがほどよく抑えられる感じ。これはテキストを読む時も同じなのだが、ただ目で追っているだけだと目が先走りしやすく、書かれ(描かれ)ているものとの接点を失いがちだけど、傍線を引いたり書き込みをする、あるいは、指を使ってスワイプしたり拡大させたりする、という行為を介することで見ているものと物質的・触覚的な接点を保ち、それを通じて内容への関心や探索の接点を維持しつづけることがし易くなるという、感じがある。

しかし、そういうことはそれとして、それ以上に『バルバラ異界』がとてもおもしろかった。なんとなくおもしろそうな感じがひっかかったことと、全四巻で完結するコンパクトな作品だから「電子書籍でマンガを読む」ことの「お試し」としてちょうど良いかと軽い気持ちで選んだのだが、こんなにおもしろい話があるのかと驚くくらい、物語の魅惑的な要素が詰まっていて、そしてそれがとても納得できるかたちで緊密に絡み合って構築されているのだった。すごく複雑な話だが、その複雑さのあり方に必然性があるように感じられる。たんに物語が複雑だというだけでなく、モチーフの複雑な絡み合いのあり様そのものに説得力を感じる。

2021-07-28

●昨日と一昨日の日記を書くために、非周期的な平面充填、ペンローズ・タイル、五回対称性、正五角形と黄金比準結晶などの関係について、分かりやすく、かつ、十分に説明してくれるような文章や動画を探していたのだけど、日本語で検索する限り、かなり苦労して探してもなかなか見つからなかった。なのに、英語で検索したとたん、簡単に(昨日と一昨日の日記にリンクを貼った)とてもすばらしい動画がみつかった(おかげで、曖昧なぼんやり理解だったところがずいぶんすっきりした)。またしても、日本語話者であることの(英語話者に対する)知的な不利というのを強く感じることになった。(特に、科学や数学などの分野で)専門家ではない人に向けた、要点を的確に拾って分かりやすく説明してくれる文章(言葉)というのが、日本語の環境ではとても貧しいということを常々感じる。

(中学一年の二学期にはもう既に「英語」が嫌いだったというくらいの語学弱者なのだが、だからこそ、DeepLのような自動翻訳の精度の驚くべき進歩によって、ほぼストレスなくウェブにある英語の文章が読めるようになったということは、とてもありがたいことだ。)

2021-07-27

ボルヘスの「バベルの図書館」では、最初に「無限」が強調される。しかし中頃になると、蔵書には25種類の記号によって可能なすべての配列パターンが記されていて、そして《おなじ本は二冊ない》とされるので、数は膨大であるが無限ではないことになり、最初の宣言は否定される。だけど、ラストにはこの《おなじ本は二冊ない》が否定され、《図書館は無限であり周期的である》ことが主張される。25種類の記号の可能な組み合わせのすべてがある、という以外の秩序がみつからないこの図書館=宇宙において「周期的反復」という秩序があり得ることが、果てしなく広がる(無意味としか思えない記号の羅列ばかりである)本たちのなかで生まれ、その中で今にも死んでいこうとしている話者にとっての希な「希望」となる。

すべては既に本に書かれている。「わたし」が今書いているこの文章も、「わたし」の生涯も、「わたし」の生涯のすべてを弁明するテキストも、それへの批判や解釈も、いくつのも偽物の弁明のヴァリエーションも、予め図書館=宇宙のどこかにある本のなかに書かれてある。しかし、この「わたし」がそれと出会う可能性は、チンパンジーが適当にキーボードを叩いていたらシェイクスピアの作品が生まれた、という可能性と同じくらい低い。

(この図書館には、二十五の記号によって可能なあらゆるヴァリエーションが存在するが、そこに、不合理なものはなにひとつふくまれていない、と書かれているのを読んで、この宇宙に、数学的に可能なすべてのことがらが起るとは限らないが、数学的に可能でないことは一つも起らない、という言葉を思い出す。つまりこの図書館=宇宙は、われわれの「この宇宙」よりも大きく、可能なことはすべて存在するとされているのだ。)

図書館の膨大な蔵書のなかには、図書館にあるすべての本の的確な要約であるような一冊があるはずであり、それを読むことができればこの図書館=宇宙のすべてを知ることができるはずだ。しかし、それがこの「わたし」である可能性、あるいはこの「わたし」がその本を読んだ者に出会える可能性はほぼゼロだと言える。だが、たとえそれがこの「わたし」でないとしても、遠い過去(あるいは遠い未来)において、誰か一人でもその本を読む者が存在するとすれば、その者は神のような存在となり、その者によって、神とこの図書館=宇宙の存在が正当化されるだろう。「わたし」は、そのような「一人」が存在してほしいと「神」に祈る。

この小説に書かれているはこの図書館=宇宙についての考察でしかなく、それが真であるという保証はない。図書館が《永遠を越えて存在する》というのも、《記号の数は二十五である》というのも「公理」であり、その確実性を確かめることはできない。仮に、《記号の数は二十五である》という公理が成り立たなくなる実例(反証)が発見されたならば、図書館に二十五の文字で可能な配列のすべてがあるという前提も、図書館が無限に広いのならば反復という秩序があり得るという希望も、成り立たなくなってしまう。

(最後の「註」に、図書館は無用の長物であり、無限に薄い無限数のページからなる一冊の本があれば充分であるはずだ、と書かれている。この場合に宇宙は、外側へ無限に拡張するのではなく、内側に無限に折り畳まれるということになる。この場合に「わたし」は宇宙の外に存在し、無意味な記号の羅列がどこまでも広がる無限のページを果てしなくめくり続けることになるのか。無限に広がる図書館では、人による本の廃棄は限定的過ぎてほぼ意味がない行為だが、無限のページをもつ一冊の本であれば、それを廃棄することが可能になるのではないか。)

●この小説を読んでまず感じるのは、無限なのかそうでないのかにかかわらず、可能性の膨大さに対する実在する人間の小ささであり、可能性を前にすると「このわたし」がほとんど無のように感じられてしまうということでではないか。図書館の本のなかに、人にとって意味を持ちうるありとあらゆる事柄が予め書かれているとして、しかしその「人にとって意味のあるあらゆること」は、それよりもずっと膨大な無意味な順列組み合わせの広がりのなかに、あるかなしかというくらいに極めて希薄に漂っているだけだということになるだろう。仮に「人間にとって意味のあるすべて」を「神」だとすると、そのときに神は、神よりもずっと大きな無意味に取り囲まれた小さな存在となる。そして、そのことを最も強く表現しているのが、「本の廃棄」にかんするエピソードだと思う。

《他の連中は、反対に、何よりも重要なことは無用の作品を消滅させることだと信じた。彼らは六角形に侵入し、つねに偽造のものというわけではない信任状を呈示した。面倒くさそうに一冊に目をとおしただけで、すべての本棚の破棄を命じた。彼らの衛生的かつ禁欲的な熱意のせいで、何百万冊もの本の意味のない消亡が生じた。彼らの名前は呪詛の的になった。しかし、彼らの乱心によって破壊された「宝物」を惜しむ者たちは、ふたつの顕著な事実を忘れている。ひとつは、図書館はあまりにも大きく、人間の手による縮小はすべて軽微なものであるということ。いまひとつは、それぞれの本が唯一の、かけがえのないものだが、しかし、(図書館が全体的なものであるので)千の数百倍もの不完全な複写が、一字あるいはひとつのコンマの相違しかない作品がつねに存在するということ。》

●「バベルの図書館」には次のように書かれている。《観念論者たちは、六角形の部屋は絶対空間の、少なくとも空間についてのわれわれの直観の必然的形式である。三角形もしくは五角形は考えられないという》。一種類で平面充填できる正多角形は、正三角形、正方形、正六角形の三つのみだ。この三種類の正多角形のなかで最も「円」に近い形態として六角形が選ばれているのだろう(下の図は、ウィキペディアの「平面充填」のページの一部をスクショしたもの)。

 

f:id:furuyatoshihiro:20210730042805p:plain

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E5%85%85%E5%A1%AB

この小説を含む短編集『伝奇集』が発表されたのが1944年。ペンローズが、二種類のひし形によって非周期的な平面充填を可能にするいわゆるペンローズ・タイルを発見したのが1972年。このタイル貼りの展開には五回対称性と正五角形の構造(や黄金比)が含まれている。そして、シェヒトマンによって(二次元における正五角形と同じく)三次元で五回対称軸をもつ正十二面体や正二十面体の構造による準結晶状態の物質が発見されたのが1984年。もしボルヘスが、1984年以降に「バベルの図書館」を書いたのだとしたら、それでもなお《五角形は考えられない》と書いただろうか。むしろ、五角形こそがバベルの図書館にふさわしいと考えたのではないか。

(昨日の日記の最後に「追記」として置いた動画のリンクを再び置いておく。英語の動画だが、日本語字幕を自動生成できるようになっている。非周期的な平面充填、ペンローズ・タイルとそこに含まれる五回対称性と黄金比の構造、その同じ構造の3Dバージョンともいえる準結晶、などの関連性について分かりやすく解説されている。)

The Infinite Pattern That Never Repeats (繰り返すことのない無限のパターン)

https://www.youtube.com/watch?v=48sCx-wBs34

 

2021-07-26

ボルヘスの「バベルの図書館」において図書館=宇宙は、正六角形による周期的な平面充填が無限階層積み重ねられているという世界像(結晶モデル)になっている。だがこれを、準周期的でフラクタル構造をもつペンローズ・タイルによる平面充填の重なりという世界像(準結晶モデル)として考え直したらどうなるのだろうか。

(「正六角形=ボルヘス・六回対称性・結晶的」に対する、「正五角形=ペンローズ・五回対称性・準結晶的」という、単純な思いつき。)

ボルヘスの場合、同じスケールの六角形の空間が、横にも縦にも無限に連なっていて、全体としては決して到達のできない球形というイメージで図書館=宇宙を示している。これは、次のようなイメージになる。

What Does Jorge Luis Borges’ “Library of Babel” Look Like? An Accurate Illustration Created with 3D Modeling Software (Open Culture)

https://www.openculture.com/2016/10/what-does-jorge-luis-borges-library-of-babel-look-like.html

ウィキペディアによると、五種類の黄金ゾーン多面体(表面に対角線比が黄金比の菱形のみをもつ等面菱形多面体)により、三次元空間を非周期的に充填することが出来て、ペンローズ・タイルはその二次元への投影図であるという。

ゾーン多面体(Wikipedia)の「黄金ゾーン多面体」の項より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%A4%9A%E9%9D%A2%E4%BD%93

このようなモデルで考えると、図書館=宇宙の空間構造は次のようなイメージになるだろうと思われる(山口大学理学部数理科学科 数楽工作倶楽部)。

http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~math/toybox/ko-saku-club/2012-03/index.html

準結晶における、五回(72°)対称性、フラクタル構造、入れ子構造について。(井村敬一郎「美しき数学モデルが魅せる準結晶の不思議な性質」academist Journal)

https://academist-cf.com/journal/?p=15430

《また、結晶は「回転対称性」という性質も持っています。たとえば先ほどの「正方格子」の場合には、ある格子点を中心に90°回転させると、元の状態と完全に一致させることができます。幾何学を使って調べると、結晶に許される回転角は、90°のほかに60°、120°およびそれらの整数倍(たとえば180°など)であることがわかっています。一方、ペンローズ格子には、周期結晶では許されない、72°といった特別な回転操作が許されます。また、ペンローズ格子には、フラクタル性と呼ばれる、スケールをτ倍拡大しても似た構造が現れる性質を持ちます。このように準結晶の構造には、通常の結晶には見られない幾何学的な特徴がいくつも含まれているのです。》

準結晶は変わった特徴を持ちます。準結晶中の原子は、「多面体クラスター」と呼ばれる100個程度の集団を形成します。このクラスターは、正4面体や正12面体、正20面体といったさまざまな多面体が、ロシアのマトリョーシカ人形の様に、入れ子状に重なり合っています。これらの多面体クラスターが、準格子点上に並んでいるものが準結晶です。》

ウィキペディアではよく分からなかったところが、下の「ホームページ」で詳しく解説されていた(八割くらいは分かった……、と思うけど…)。

5回対称性と準周期的結晶 【2】空間充填 (Ikuro`s Home Page)

http://ikuro-kotaro.sakura.ne.jp/koramu/304_5.htm

《平面上の敷き詰めに引き続いて,3次元空間の敷き詰め<結晶>についてみていきましょう.結晶学の常識では,原子が周期的に配列した結晶物質では2重,3重,4重,6重の対称性しか許されないというのが鉄則・大前提になっていました.

なぜ5重,7重,8重などの対称が結晶に存在し得ないかは,同じ形の多角形のタイルで床を敷き詰める場合を考えると分かります.それは5角形や7角形またはそれ以上の辺数の多角形ではあり得ないし,正五角形は平面を埋めつくすことができないことから容易に理解されるところです.

3次元では5回対称軸をもつ正五角形の役割を正12面体や正20面体が果たしますが,正五角形が平面充填形でないのと同様に正12面体・正20面体は空間充填形ではありません.

ところが,1984年に5重の対称性を示す物質(アルミニウムとマンガンの人工合金)がアメリカのシェヒトマンによって発見され,結晶学の根底は揺るがされ,この大前提は覆されました.それまで知られていた結晶格子はすべて正四面体,立方体,正八面体から導かれていたのですから,それはあたかも誰かが5角形の雪の結晶を発見したような事件であったのです.

この物質はペンローズのタイル貼りと密接に関係していて,ペンローズが始めた5重の対称性をもつ敷きつめを3次元空間に一般化したものであり,ある規則性をもちながら周期配列をしないことから,準周期的結晶,あるいは簡単に準結晶と呼ばれます.最近まで,結晶とアモルファスの両方の物質の状態を共有しそのどちらでもない新しい状態があると思っている人はごく少なかったのですが,この準結晶は両方の性質をもっています.

ペンローズタイルと同様にして,2種類の菱面体(太った菱面体とやせた菱面体)でともに合同な面をもつものを用いて,3次元を隙間なく埋める非周期的構造を作ることができます.これら2種類の菱面体は各面の菱形の対角線の長さの比が黄金比1:1.618[=(√5+1)/2]の黄金六面体です.黄金菱面体には2種類あり,細めで尖ったほうがacute(A6),太めで平たいほうがobtuse(O6)と呼ばれています.》

5回対称性と準周期的結晶 【5】まとめ (Ikuro`s Home Page)

《5回対称性をもった正多角形や正多面体は2次元平面や3次元空間を充填しません.しかし,一定の間隙を許すことにすると平面や空間を無限に連結することができます.4次元空間内で,正120胞体あるいは正600胞体を連結すると周期的にも非周期的にも無限に連結するのですが,その場合,3次元空間内への投影は3次元空間を周期的にも非周期的にも被覆することができます.なお,5次元以上の空間には5回対称性をもった正多胞体は存在しません.

2種類の黄金平行多面体を用いて,3次元を隙間なく埋める非周期的構造を作ることができるのですが,この黄金平行多面体による充填図形の平面への投影はペンローズ・パターンと呼ばれる準周期性平面充填となります.すなわち,ペンローズのタイル貼りは,三次元空間を2種類の黄金菱面体で非周期的に埋めつくしたときの平面への投影図であり,5回対称性という物質の新しい状態を2次元的に模似したものになっています.

一般にn次元平行多胞体は1種類(あるいは何種類か)でn次元空間を周期的に充填するのですが,それを3次元空間内や2次元平面上に平行投影して適当に隠線処理すると平行多面体や平行多角形による非周期的な充填図形が得られることになります.その際,正10角形を構成する2種類の菱形で構成される準周期性平面充填をペンローズ・パターンというのですが,それに対して,正8角形を構成する2種類の菱形(正方形を含む)で構成される準周期性平面充填はアンマン・パターンと呼ばれるタイル貼りになっています.》

●(追記)平面充填、ペンローズ・タイルと五回対称性、黄金比準結晶などの関連について、日本語で分かりやすく説明しているものを見つけられなかったが、下の動画を見つけることが出来た。この動画、すごく面白い。英語だが、日本語の字幕を自動生成できる。

The Infinite Pattern That Never Repeats (繰り返すことのない無限のパターン)

https://www.youtube.com/watch?v=48sCx-wBs34

2021-07-25

●お知らせ。VECTIONによる権力分立についてのエッセイ、第9回をアップしました。本文につづく「補遺」の部分です。

補遺:「多様性」なら何でもいいのか? ー Google vs Pynchon

https://spotlight.soy/detail?article_id=u6rjzvdhp

Is Any Diversity Good Enough? — Google vs. Pynchon

https://vection.medium.com/is-any-diversity-good-enough-google-vs-pynchon-5167323a4565

●火曜The NIGHTを(火曜ではないが)配信で観ていたら、山口めろんという人が出ていた。ピアノが上手く、絶対音感があるというのだが、歌を歌い出すとすごいことになる。番組内の本人の発言によると、(この点がとても重要なのだと思うが)主観的には正しいメロディを歌っているつもりなのだが、録音されたものを後で聴くと、そうでないことは分かる、と。そもそも、絶対音感があり聴音ができるというのだから、それはそうなのだろう。つまり、歌っている自分の声のみ正しく聴き取れないということになる。たとえば、自分が音をはずしているのは分かるのだが、正しい音程の声がどうしても出せない(あるいは、そもそもまったく音程が聴き取れない)、というのなら理解できるのだが、自分が弾いているピアノの音はちゃんと聴き取れているのに、自分から出ている自分の声のみ音程が聴き取れないというのは、かなり不思議なことではないか。

(とはいえ、ぼくにはこの人の感じがけっこう分かる気がするのだが。)

この、自分が出す声のみ音程が取れないという不可解な出来事は、そのまま「自己」というものの不思議さに深くかかわっていのではないかと思ったのだった。

山口めろんさんはYouTubeチャンネルをもっている。最初に聴いた時はとても混乱するのだが、繰り返し聴いていると不思議とだんだん気持ちよくなってくる感じもある。

【童謡】手のひらを太陽に【子ども向け?】

https://www.youtube.com/watch?v=eAWy8yeq0KE

絶対音感の謎】「First Love/宇多田ヒカル(Hikaru Utada)」音大卒メロン界のアイドル弾き語り

https://www.youtube.com/watch?v=jyCxcaQx2gU

ノーダウト-Official髭男dism / THE FIRST TAKE風

https://www.youtube.com/watch?v=vRHq9D238SE

●大学の先輩と話している下の動画では、「違うことを手で喋りながら、違うことを口で喋っている感じなので、音程を見失う」というようなことを言っているので、手でピアノを弾くという行為と、口で歌を歌うという行為の間に、両立不能な不調和があるせいで音程を見失っているのかもしれないとも思う。しかし、上のヒゲダンの曲の動画では、伴奏と歌とが別撮りなのに、あまり変わりが無い。

【前編】音大卒タレント山口めろんが音痴なのはなぜ!?【リモートで呼び出し】

https://www.youtube.com/watch?v=HmRAYVCZN1k