2023/11/30

⚫︎今年の夏は、自転車を買ったことでちょくちょく大磯の海岸まで行き、途中で大磯の街の中を自転車で走ったのだが、大磯という土地をモデルにすれば、ぼくなりの「オレンジ党」が書けるのではないかという気がしてきた。でも、それは老後の楽しみのようなものだろう(ぼくにまともな「老後」があれば、という話だが)。

⚫︎水声社の「人類学の転回」シリーズは、最初に予告されたものは既にほとんど出版されているのだけど、アルフレッド・ジェルの『アートとエージェンシー』だけがまだ出ていないのは何故なのだろうか。この本の翻訳者としてクレジットされている内山田康によるジェルの紹介論文に出会ったことが、ぼくが、新しい人類学の傾向、そしてそこから新しい実在論にも繋がる思想の流れに触れた、かなり最初の頃の出来事で(これはグレアム・ハーマンやマルクス・ガブリエルによるアート論とも親近性がある)、この日記を検索したらそれはもう11年前のことだった。その時からずっとジェルの本の翻訳を待っているのだが、同時期に知ったヴィヴェイロスやデスコラの翻訳は出ているのに、ジェルの本はなかなか出ない。

「芸術の仕事(ジェルの反美学的アブダクションと、デュシャンの分配されたパーソン)」(内山田康) PDF

https://www.ne.jp/asahi/tirtha/vitu/pages/The_work_of_works_of_art.pdf

furuyatoshihiro.hatenablog.com

2023/11/29

⚫︎昨日の日記でリンクしたポリタスTVの動画で知った『50代で一足遅れてフェミニズムを知った私がひとりで安心して暮らしていくために考えた身近な政治のこと』(和田静香)を読んだ。半分は、もともとフェミニズムにどちらかというと抵抗があったという作者が、フェミニズムに出会ってどのように考え方が変わっていったのかを、自分の生涯を振り返って解釈し直すように生々しく語っていて、もう半分は、20年前から町議会でパリテ(男女同数)が達成され持続している大磯を訪ね、議会の人々や、街で出会った人々を取材しながら、パワハラもヤジもなく、性別も年齢やキャリアも関係なく、会派もなく、互いを尊重しつつそれぞれが積極的に発言し、しつこく丁寧に議論を重ねるような町議会が、どうして可能になったのかを探っていく、という本だった。作者自身の話と大磯の話が行ったり来たりして、大磯での取材も、人づてにアミダくじのように行き当たりばったりに進み、その一見錯綜したかのような記述によって、個々の話題がゆるく絡み合っているのを感じるという構成になっていると思う。一つ一つの事例を深く掘り下げるというより、バラバラにあるように見える様々な事柄が実はいろんなところで繋がっているということを示している本だと思う。

(大磯のことが知りたくて読んだのだが、別の半分も面白かった。)

面白かったのだが、ショックだったのは、公立である大磯中学で、86年に、スクール水着はぴっちりしていて恥ずかしいので、水泳の授業でトランクス型の水着を着たいという男子生徒の要望から始まって、それが発端となった教師と生徒との話し合いが、校則の撤廃、そして制服の撤廃にまで進展していくという話だった。その数年前くらいの時期に、距離的にもそんなに離れていないところでぼくも中学生だったのだが、田舎の保守そのものの風土の中で、教師など全員「敵」で「軽蔑の対象」でしかないという勢いでトゲトゲしてイキっていた中学時代だったわけで、しかしそこからせいぜい5、6キロくらいしか離れていないところで、まるで別世界のような環境があったというのだ。大磯中など自転車で行けばすぐのところなのに、全然違うじゃねえか、と。教室に毛筆で「らしく」という貼り紙があり、「男は男らしく、女は女らしく、学生は学生らしく」と書かれていて「なんだこの地獄は」と思っていたのに、こんなに近くでこんなに違うのか(お前もただ敵対するだけでなく何か「提案」でもすればよかったと言われるかもしれないが当時はそんな知恵も余裕もぼくにはなかったし、「提案」が通りそうな空気もなかった)。この事実を、十代の頃に知りたかった。

(とはいえ、中学一年生の一年間はぼくの生涯で最も幸福な一年であったというのも事実で、だがそれは、学校や教師たちの風土に激しく苛立っていたということとは別の話だ。)

本に書かれているのは、広い意味で「政治」的な運動に関わった、主に女性たちの(必ずしも直接的に繋がりがあるわけではない)歴史的な積み重ねのありようなのだけど、大磯には、それだけでは説明できないような独特の空気感、鷹揚さのオーラのようなものがあり、それは大磯にある高校に通うようになるとすぐに気づくくらいにある。

(この本は、民主主義には丁寧で執拗なコミュニケーションが大事だよねという話であり、それはその通りなのだろうが、コミュ障にはそれがちょっと辛いんだ、ということはちょっと言いたい。)

⚫︎追記。Googleの航空写真で見ると、この本に出てくる主な舞台のいくつかは、結構狭い範囲にギュッとある。市民運動の拠点と書かれている「カフェぶらっと」は、今は「はんすの台所」という居酒屋になっている。本には、《あそこはカフェだったのか。やっているようにみえなかった》と書かれている。ここは海に行く時にいつも前を通るのだが、なかなか味わい深い(廃屋のようにも見える)建物で、空き家なのか、店なのか、店としてもなんの店なのか、やっているのかやっていないのか、と、不思議に思っていた。週末以外は17時から営業の居酒屋らしく、だから前を通るときいつも閉まっていたのだと、今、ネットで調べて知った。

(写真の右上にあるのがJR大磯駅、一番下の西湘バイパスの先は照ヶ崎海岸。一番若い議員として本に登場する吉川議員の事務所も写真の中にある。)

 

2023/11/28

⚫︎大磯は隣町だし、大磯にある高校に通ってもいたので、割と馴染みのある土地なのだが、大磯町議会では二十年も前からパリテ(男女同数)が達成されていたと知って驚いた(本はまだ読んでないが、買った)。

地方自治からフェミナイゼーション#4 20年前からパリテ議会|20年議会男女同数が続く神奈川・大磯。和田靜香さんと、亀倉ひろみ町議のお話を聞きました!(11/28)#ポリタスTV #ヒルタス - YouTube

大磯は本当に感じのいいところで、高校時代は「大磯町全体」にすごく良くしてもらったという感覚がある。ぼくが育ったのは典型的な「田舎保守(ヤンキー神奈川)」みたいな風土で、小中学生の頃からそういうのがとても嫌だったが、高校に行っていきなり雰囲気が変わって驚いた。そして、高校に通っていたのはもう40年も前なのだが、(ぼくが知っているのは駅や高校がある大磯町の東側の一部でしかないが)今でも雰囲気が全然変わっていない。ぼくが知る範囲では、びっくりするほど変わっていない。

大磯は、明治から戦前くらいにかけて東京のお金持ちの別荘地で、明治の有名な政治家の別荘が残っているし、吉田茂の家もある。当時は、今のようなレジャーではなくて、湯治場のような健康(治癒)効果があるとされていた「海水浴場」が日本で最初に開かれた土地でもある。駅のすぐ前にはエリザベス・サンダース・ホームがあったりもするし、歴史的に醸し出された上品感があり、さらに、鎌倉や茅ヶ崎ほどメジャーではなく、あまり人に知られていないということも「いい感じ」がずっと保たれている原因の一つだろうと思う(小津の『麦秋』で原節子が遊びに行く淡島千景の別荘があるのが大磯だった)。

人口が3万人ちょっとという規模感も、ちょうどいい塩梅なのだろう。

⚫︎自分が住んでいる市の市議会議員の選挙があったとき、市議会議員なんか誰に投票すれば良いか選びようがないと思って、明らかに議員の男女比が偏りすぎているので、女性の議員が増える方向で考えれば良いと思い、女性の候補で新人の人のなかから良さげな人を選んで投票しようと調べてみたら、女性で新人の候補は一人しかいなかった。ああ、そういう感じなのだなあ、と思った。女性は当選するより前にまず立候補することが困難なのだな、と。

2023/11/27

⚫︎八王子の100円ラーメン復活というニュース。このニュース映像の何に感心したかと言って、新しくオープンした店は前にあった店とは違う場所にあるみたいだけど、街の人にインタビューしている場所は、ちゃんと前に100円ラーメンの店があったところだということ(おじいさんがインタビューに答えている映像で、背景に映っている「ダイヤモンド 貴金属…」と書かれた看板のあるところに店に上っていく階段があった)。地味にちゃんとした取材だと思うのだけど、この意味がわかる人はほとんどいないだろうなあと思って気に掛かったのだった。

(新しい店は八王子駅の周辺にあるようだが、以前にあった店は西八王子駅の駅前にあり、距離もそれなりにあって、取材も二度手間になるだろう。)

八王子“青春の味”100円ラーメン 12年ぶり復活 なじみの元客が思い継ぐ【詳細版】【知ってもっと】(2023年11月27日) - YouTube

100円ラーメンの「満福亭」は地元では知らない人のいない名物店で(単なる安売り店ではなく、地元で長く親しまれていた店で)、部活帰りの中高生とかでいつも賑わっていて、だから、このニュースで並んでいる人は、100円で安いから並んでいるのではなくて、あの「100円ラーメン」が懐かしくて並んでいるのだと思う。このニュアンスが伝わらないと、ただ「貧しい日本」(失われた30年とか、長く続いた日本のデフレみたいな)を表すだけのニュースみたいに見えてしまう。

(満福亭は七十年代のオイルショック以後に100円ラーメンを始めたようで、バブル期にも100円を維持しているので、この「100円」には高度成長期という背景とその思想があり、そこにはゼロ年代以降のデフレ指向とは別の―-ある意味、昭和的な-―価値観が働いていると思われる。)

(だから、「100円」であること自体に昭和ノスタルジーが宿っているともいえて、それを、今、再現することに意味があるのかどうかは、また別の話だが。)

⚫︎満福亭は、学生の頃に住んでいたアパートから徒歩五分くらいのところにあった。ぼくが学生の時は一階も二階も満福亭だったが、いつからか一階はケータイショップになった(一階の店と二階のの店とで違いが何かあったような気もするが、忘れた)。常に混んでいて、並ばずに入れることは稀だった。ラーメン、タンメンが100円で、モヤシののった味噌ラーメンが200円だったか…。よく憶えていないが餃子も200円くらいだったと思う。九十年代初頭くらいのこと。

(当時は円高の時代で、一ドルが90円くらいの感覚で、おかげで輸入CDが安く買えた。この30年で円の価値が三分の二以下になったのだなあ、と。つまり、当時の100円ラーメンは一ドルでは食べられなかったが、今では一ドルでお釣りがくる。額面は同じでもドルだてでは値下がりしている。)

hachioji.keizai.biz

2023/11/26

⚫︎いわゆる専門家と言われる人には二種類あると思っていて、一つは、ある特定の分野に対して広い知識と深い考察を持つ人で、もう一つは、ある特定の分野に対して事情通的、政局通的、業界通的な、インサイダー的で細かい情報やアンテナを持っている人。両者は排他的ではなく両立し得るが、しかし性質(あるいは傾向)としてかなり違うのではないか。どちらが良い悪いということではないが(とはいえ、ぼくは基本的には前者にしか興味がないが)、この「性質の違い」はちゃんと意識してみておかないといけないと思う。

(たとえばぼくは『三国志』的なものに全く興味が湧かないのだが、この興味―-つまり後者への興味-―の欠落は、自分の明らかな欠陥だと思う。)

2023/11/25

⚫︎日本だけでなく、世界的な情勢を見ても、代議員制がそもそもやばいのではないかという話を、VECTIONではいつもしている。一度選挙で当選してしまえば、一定期間好き放題というのはどうなのか、と。権力者、いくらなんでもゴリ押ししすぎだろう、と。確かに、権力者は世論調査の結果や、デモなどの動向を気にするだろう。しかし、気にした上でゴリ押しすることができるし、たいていゴリ押しする(選挙が近ければ気にするが、遠ければ気にもせずにゴリ押しする)。選挙という制度は、民意の反映という点に関して、あまりに鈍くて、遅い。だから、人(政治家)や党にではなく、政策や法案、予算案に対して、常時、直接的に投票できるような制度が必要なのではないか。もちろん、完全な直接民主制は不安定だし、継続性の問題や長いスパンの判断ができないという問題があって危険だ。しかし、代議員制と直接民主制とのハイブリッドにはする必要があるのではないか。

(だから、有権者の投票によって法案が決まるというのではなく、直接投票で一定以上の反対があった場合その法案は通せなくなる、というような抑制的に働く形が現状においては適当だろう。また、この投票は「二次の投票」が良いかもしれない。)

昔は、選挙というやり方しかなかった。しかし今なら、有権者によるスクリーミング電子投票が技術的には可能なはず(投票過程の透明性を保証するのは相当大変だと思うが)。

政策や法案への直接投票の他に、例えば、行政が、常態的な世論調査を行っているような形でスクリーミング投票を受け付けていて、その結果や変化を常時表示して、その数字の変化によって権限が抑制されるようにする、とか。ものすごく大雑把な例として、内閣支持率が一定水準以下になったら、その内閣には重要事項の決定権がなくなり、重要事項に関しては一時保留して、内閣の方針や人事の改革で支持率回復を待つか、総辞職して首相を選び直すかしなければならなくなる、とか(実際にこれをやると色々弊害が出そうだし、軍事や外交などについては除外せざるを得ないかもしれない、これは雑なたとえでもっと丁寧なシステムのデザインが必要だ)。

とにかく、「人による判断(裁量)」が忖度や権力の癒着を生む元なので、投票の数字によって権力の制限が裁量なしに自動的に行われるという点が重要。党の重鎮たちの力の駆け引きで物事を決めんな、と。VECITONでは、右だろうが左だろうが、保守だろうがリベラルだろうが、「人のする政治」にとても懐疑的なので、統計的数値がある閾値を越えたら自動的に作動する制度が必要だと考える。判断において「(専門家的な)人の裁量」が必要な場面はあるだろう。だが、裁量の範囲や強さが一定の値を超えた場合に制限をかけることができる制度が必要であり、そしてその「制限の判断」は、人の裁量(権力者たちの駆け引き)ではなく統計的、自動的に行われなければならないのではないかと考える。

(権力と結びついた「利益団体」が、その実際の規模=数以上に強い力を持ってしまうという問題も、直接投票でかなり回避できるのではないか。)

裁量とは権力であり、権力のあるところには権力が集まりがちで、固定された権力は大きくなり、大きくて固定された権力は忖度や癒着や不正の温床となる。そして、独裁者は暴走する。これはさまざまなレベルの権力で起きる。分かり切っていることだが、分かり切っていることを止めることが人にはできない。だから、統計的な数字によって自動的にそれを制限するしかないのではないか。そのために、代議員制と直接民主制をハイブリッドにする必要があるのではないか。

(SNSにおける炎上や誹謗中傷の発生を見ると、直接民主制への不安もないわけではないが、VECTIONは「人のする政治(政治をする人)」は信用しないが、「個人としての人」の大半は日常的、常識的なレベルでは「ちゃんとしている」であろうと信じているという点では人を信用している。だから「議論」ではなく「統計(投票)」が重要だと考える。話をすると、話の上手い奴≒人を騙そうとする奴に誘導されるし、オーディエンスを気にするとアテションの強い方に引っ張られる。多様な個が、個として無記名投票をし、それが統計的に処理されることが重要。もちろん、個々が判断するための十分な情報の提供は必須だ。そしてこの投票は、マイノリティができるだけ損をしないように「二次の投票」であることが望ましいだろうと思う。)

(難問は、この「一定水準」の値をどのように決めるのかということで、ここでまた「政治」が始まってしまう…。おそらく、普段は、リアルタイムでかなり詳細な公的世論調査くらいの力しか持たなくてもいいのだが、「大きな反対」が起こった時には権力者がゴリ押しできない、というくらいの塩梅がいいのだと思う。)

⚫︎bot議員なら、制度を変えずにハイブリッド化が可能。

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