2020-02-12

●メモ。下にリンクした小鷹研理さんの「Merge Nodes」(Joe Hamilton)をめぐるテキストは、ぼくには、コーリン・ロウ(+ロバート・スラツキイ)による「透明性 虚と実」のバージョンアップ版のように感じられた。

「主空間」の座をめぐる闘争、奥行きの階層、「透明な支持体」の破れ

http://kenrikodaka.hatenablog.com/entry/2020/02/04/183605

ディスプレイ内部に醸成される「過剰な現実」

http://kenrikodaka.hatenablog.com/entry/2020/02/07/180534

「透明性 虚と実」で引用されるジョージ・ケペシュによる「(虚の)透明性」の定義とは以下のようなものだ。

《二つまたはそれ以上の像が重なり合い、その各々が共通部分をゆずらないとする。そうすると見る人は空間の奥行きの食い違いに遭遇することになる。この矛盾を解消するために見る人はもう一つの視覚上の特性の存在を想定しなければならない。像には透明性が賦与されるのである。(…)透明性とは空間的に異次元に存在するものが同時に知覚できることをいうのである。空間は単に後退するだけでなく絶えず前後に揺れ動いているのである。》

ところが小鷹さんは、ここで言われるような「虚の透明性」を認めず、「主空間」(観測者の身体と連続的である「主要」で「主観的」な空間)は常に一つであり、主空間の座をめぐる、複数の空間による闘争があるのだと、まず考える。そして、主空間の座を巡る闘争に敗れた、主空間とは異なる別の空間は、主空間上に配置されている透明な膜上(透明な支持体)に投影された「ここではないどこかの」映像であるように見えることになる、とする。つまり、主空間の座を得た空間こそが「ここ」という(観測者の身体と連続的な)基底的な上位の空間なのであり、主空間からこぼれ落ちた別の空間は、主空間内部に定位できる「透明な支持体」のフレームの内側に投影されたものに過ぎず、二つの空間は同列ではなく、一方が一方に包摂される階層的な関係になってしまう。

とはいえ、主空間と非主空間、上位の空間と下位の空間、包摂する空間と包摂される空間との関係は、常に安定しているのではなく、ちょっとした細かい細部の変化によって逆転が可能であることが示される(主空間の《足元を掬おう》とする非主空間の《静かな意思の漏れ》)。この、逆転の可能性こそが不気味さを形作るのだ、と。

《「A3」からはみ出した地面を塗りつぶすという簡単な操作によって、(空間A)と(空間B)との主空間の座をめぐる関係に、一気に多義性が生まれることである。このような多義的空間にあっては、(空間A)も(空間B)も、明確な序列関係を持たず、主空間に昇格するポテンシャルを同列的に有しているのである。》

《つまり、元画像における不気味さとは、明確な認知手がかり(「透明な支持体」の破れ)によって主空間の座に安定的に君臨している(空間A)の影で、それでもなお、(空間A)の足元を掬おうと窺う(空間B)の静かな意思の漏れなのである。》

二つ目のテキスト「ディスプレイ内部に醸成される「過剰な現実」」では、まさにその「主空間の逆転」の様が考察される。「Merge Nodes」で、《何の変哲も無い岩山の映像の一部が、パネル状に段階的に切り取られていき、その切り取られた矩形から、紫陽花の瑞々しい群集の空間の全貌が次第に露わになっていく》場面が取り上げられる。岩山の風景が主空間であった状態から、矩形のパネルが一枚一枚剥がれ落ちて紫陽花の映像に切り替わっていくことで、主空間が紫陽花へと時間的に推移する。とはいえ、岩山の風景も紫陽花の映像も、それ自体はディスプレイ上に映し出された画像に過ぎず(それを観ている我々の身体が定位している主空間から切り離されている)、ポスターのような平板な印象しかもてない。だが、主空間が逆転していく時間的推移のなかで、《体感として最も直接的に強く"えぐられた"と感じた》というほどの、紫陽花の群集の空間の全貌が「画面の奥へと一気に空間が開けていく」感じ」エグい感じがあらわれるのだ、と。

ここには二つの問題がある。まず主客逆転の予感のあらわれる「性急さ」。

《(…)重要なのは、この主空間の主観的認知に関わる時間的カーブの性急さである。(…)実際、まだ二、三のパネルが剥がれただけの(S1-S2の近辺)、割合としては画角全体の10%ほどを充填できているに過ぎない条件下で、しかし、そうした(空間P=岩山)に穿たれたわずかな切れ目から、(空間Q=紫陽花)は、自らに与えられるべき主空間に対する有資格性を、性急に主張してくるのである。》

次に、ある生々しい空間の知覚(非主空間の訴求力)は、主空間の逆転のプロセス、過渡期的状態のなかでこそあらわれる、ということ。

《さらに重要なことには、この(空間Q=紫陽花)の訴求力は、画角全体を紫陽花の絵が占めるようになるとき(S6の近辺)、つまり(空間Q=紫陽花)が、他の空間からの邪魔を一切受けることなく主空間の座に落ち着いた段階で、むしろ消失してしまうのである。(…)つまり、この場面における「エグさ」は、(空間P=岩山)から(空間Q=紫陽花)へと主空間が移譲される過渡的状態において、時限的に醸成されているものなのだ。》

では、エグさはなぜ、過渡的状態のなかでのみ現れ、主空間が入れ替わると消えてしまうのか(逆に言えば、なぜ過渡期においては「エグさ」が現れるのか)。

《現実の物理空間で感じられる奥行きと、ディスプレイ空間の中で感じられる奥行きは、相互に階層的な関係にある。すなわち、ディスプレイ空間における空間性は、奥行きのある物理空間の中で規定される平板な支持体の面に沿って展開されるものであり、この(一つ上の階層にある物理空間上の)支持体の存在を半ば「忘れる」ことによって、ディスプレイ空間は観測者にとっての主空間へと昇格する。(…) としてみるならば、(空間Q=紫陽花)が主空間となる過程で失ったものは、(ディスプレイを主とするような)主空間としての奥行きではなく、その一つ上の階層であるところの物理空間としての奥行きなのだとは考えられないか。》

《(…)S1から S4の遷移において(空間P=岩山)は平板化し、まるでポスターのようなペラペラな素材であるかのような印象を与えるようになる。この「平板さ」とはまさに、主空間から締め出された映像の平面的な土台として作用する「透明な支持体」に対する質感のことであり(…)、この想像上の「透明な支持体」が、ディスプレイの「物理的な支持体」と位相的に重なることで、「透明な支持体」の射抜かれた先に開かれた風景(空間Q=紫陽花)が、ディスプレイの物理的な向こう側として感覚されるのではないか。》

《そして、(ここで少し矛盾したことを言うようだが)この「物理的な奥行き」は必ずしも、文字通り物理世界の奥行きそのものと知覚されるわけではない。ここで指摘している「物理的な奥行き」とは、あくまで、ディスプレイ空間を主空間としている住人にとっては、原理的に不可視な次元のものが現実に滲み出したものとして感覚されるものであり、そのような、現実を現実たらしめているより生々しい場所への接近は、むしろ、ディスプレイ内部では"過剰な現実"として立ち現れてくるだろう。そして、この「現実の過剰性」こそが、紫陽花のシーンのエグさの正体なのではないか。》

《この過剰な現実に適応してしまったディスプレイ空間の住人にとって、もともとの現実のリアリティーは、その強度において物足りないものと感覚されるかもしれない。(空間Q=紫陽花)が主空間の座を射止めたところで、ディスプレイの中で構成される空間性に対する奥行き感が減退したように感じられるのは、こうした事情によるものと考えられる。》

2020-02-11

●忙しいというより、頭のなかに大きく占めるものがあり、頭に余裕がないのだが、ときどきは気分を変えるために、最近出たあたらしいルゴーネスの翻訳をちょっとずつ読んでいる(一篇がとても短いし)。面白い。

以下、「死んだ男」より一部を引用。

《「わたしは気絶の病を患っていたのですが、その症状があまりにも死に似通っていたために、周囲の人々をひどく心配させた挙句、結局のところわたしがこの病気で死ぬことはあるまいという確信を彼らに与えることになりました。医師たちもその確信が正しいことを請け合いました。どうやらこの男はサナダムシにやられているらしい、というわけです。

ところがあるとき、いつものように気を失ったわたしは、そのまま意識を取り戻すことがありませんでした。わたしの苦悩の物語はここにはじまるのです。狂気の物語と言ってもいいでしょう……。

わたしが死んだことを誰ひとり信じようとしなかったために、わたしは死ぬことができませんでした。自然の摂理にしたがって、あのときわたしはたしかに死んでいましたし、いまもやはり死んでいるのです。しかし、そのことが人間的な意味で現実のものとなるためには、死んでいるという事実に逆らう意志をもつことが、たったそれだけの意志をもつことが必要なのです。

わたしは、肉体的な習性にしたがって意識を取り戻しました。ところが、考える主体としてのわたし、客体としてのわたしはもうどこにも存在しません。この苦しみを言葉で言い表すことは不可能です。無への渇望とは恐ろしいものです。」

男はこれだけのことを淡々と語ったが、その真に迫った話しぶりは、聞いていると怖くなるほどだった。

「無への渇望! いちばん始末に負えないのは、眠ることができないということです。三十年も目覚めたままなのです! 事物と永遠に向き合うことを、おのれの非在と永遠に向き合うことを、三十年も強いられているのです! 」

村人たちはすでに男の言い分をいやというほど聞かされていた。自分がすでに死んでいることを信じてもらおうとする男の度重なる努力は、いまやありふれた出来事となってしまったのだ。男は四本の蝋燭に囲まれて眠るのを習慣としていた。そして、顔を土まみれにして、野原の真ん中で何時間もじっとしていることがあった。》

 

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2020-02-09

●最近は、三色以上のボールペン(擦ると熱で消えるやつ、主に、オレンジ、水色、緑、紫を使うことが多い)と、二色のラインマーカー(こちらも消せるやつ、蛍光イエローと蛍光ピンク)がないと本が読めない。特別な部分を拾い出すというより、視覚的には平坦なラインとなってしまう文章の立体的な構造を可視化していく感じ。図書館から借りた本は、汚せないからとても読みにくい。

 

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2020-02-08

豊田市美術館の岡﨑乾二郎展は、二月の上旬のうちに行こうと思っていたのだが、月の終わりに、終盤ギリギリで駆け込む感じになってしまいそうだ。

●『コタキ兄弟の四苦八苦』、五話まで観た。面白くなくはないけど、ずっと助走の状態がつづいていてなかなかテイクオフしない感じ。野木亜紀子の脚本と山下敦弘の演出の相性はあまりよくないのかもしれないとも思う。

(四=死を正面から扱った四話はなかなかすごくて、ここから飛翔するのかと思われたが、次の五話はそういう感じではなかった…。でも、終盤になってそれまで抱えてきたものを抱えながらも一気に飛翔する、という可能性は、まだあると思う。)

2020-02-07

●夜。トイレの扉をあける。トイレの灯りをつける。扉の前でスリッパを脱ぐ。それらをそのままにして、近所のコンビニまで買い物に行く。「トイレに入ろうとするわたし」から「わたしの身体」がこぼれ落ちる。自分の存在の幾分かをトイレの扉の前に残して、幾分か抜け殻になった身体が買い物にでかけていく。買い物をしながらも、トイレに入ろうとする姿勢で扉の前にいるような気がしている。幽体離脱の初歩的な練習。