2021-02-28

●あるサブカル系の有料配信イベントで能町みね子が、「画家が本業じゃないけど個展とかやる有名人(芸能人、業界人、スポーツ選手など)で絵がひどいと思う人ランキング」というのを発表していて、ぼくがこの言葉を聞いたとたんに真っ先に思い浮かべた人がぶっちぎりのワースト一位にランキングされていたので、絵を描く人にはこの認識がちゃんと共有されているのだなと思って少し安心した。

(ひどい絵を描く人が個展をするということ自体は別によいと思うのだけど、明らかにひどい絵なのに誰もそれを指摘せずあたかも才人であるかのように扱われているのが不可解だとずっと思っていた。ぼくは変にもったいぶらずにその固有名をここに書き込むべきなのだが、クローズドであることが前提となる有料イベントで話された---ここだけの話として話された---内容を勝手に外に漏らすのはルール違反なので、この場ではそれをしない。それに、上の文で言いたいことは、「ひどい絵を描く人」への批判ではなく、「認識が共有されていた(文脈や背景を共有しない人とでも「ひどい」という価値判断が共有され得る)」ということに対する安心と喜びの方なのだ。)

あと、かなり大物の芸能人の絵をかなり悪く言っていたが、それも同意出来た。他の業績が素晴らしい人なのだけど、そうだからといって、あの「絵」を持ち上げてしまう人を信用しちゃいけないと、ぼくも思う。

(この文章の目的はあくまで「共感を示す」ことだから、匿名となっているところにどんな固有名が入るかは大した問題ではないのだが、とはいえ、共感は、その固有名が「まさにそれ」であることによって起るので、その固有名が欠けていると妙にすっきりしない感じにどうしてもなってしまう。)

2021-02-27

●「古文訳J-POPの世界」で有名な「有隣堂しか知らない世界」の動画を観ていて、有隣堂に「飲食事業推進課」というのがあるのだということを知った。いまや、本だけ売って商売を成り立たせるのは、無理があるのだろう。本屋さんにカフェがあるのは普通だけど、レストランや居酒屋もやっているようだ。

下の動画では、「吾輩は猫である」に登場する(いや、登場しない)架空の料理「トチメンボー」を再現している。

【美味かった】本に出てくる料理のレシピの世界 ~有隣堂しか知らない世界028~

https://www.youtube.com/watch?v=tnj5MmPzOGc

【うまい】小池さんのラーメンを再現!本に出てくる料理のレシピの世界~有隣堂しか知らない世界031~

https://www.youtube.com/watch?v=G31AejV_bH0

●ハイトーンボイス清少納言による「古文訳J-POPの世界」。

【Pretenderを”古文”で歌ってみた】古文訳J-POPの世界 ~有隣堂しか知らない世界008~

https://www.youtube.com/watch?v=EfA41mmsdGQ&t=289s

星野源「恋」を”古文”で歌ってみた】古文訳J-POPの世界 ~有隣堂しか知らない世界011~

https://www.youtube.com/watch?v=kfy7_eD8MLw

●岡崎さんによる文房具シリーズもよい。

【飾りじゃないのよ】物理の力で文字を書く!ガラスペンの世界 ~有隣堂しか知らない世界002~

https://www.youtube.com/watch?v=BanYVWRVZ90

インスタ映え】超アナログアート!クラフトパンチの世界 ~有隣堂しか知らない世界015~

https://www.youtube.com/watch?v=ipD4x8oMw30

●味わい深い。

【脱ハンコに物申す!】シヤチハタの世界~有隣堂しか知らない世界022~

https://www.youtube.com/watch?v=-r_gWAYdflk

2021-02-26

●今週の「火曜The NIGHT」に「パピプペポは難しい」というアイドルグループが出ているのを観た。6人組みのグループ(出演していたのは3人)だが、なかに一人、ずっとキリンのかぶりものをかぶっているメンバーがいた。この人は、二年くらい前にグループに加入してからずっとキリンのかぶりものをしていて、公には一度も顔出ししていないそうだ。そのようなコンセプトが面白いのか面白くないのか、良いのか悪いのかとは別の話なのだが、番組をずっと観ていると、表情をまったく変えないはずのこのキリンのかぶりものの顔こそが、生身の顔を出している他の出演者たちと比べても、最も表情(表現力)が豊かであるように見えてくるのが面白い(中の人のキャラが面白いというのもあるだろうが)。首を傾ける角度のほんのちょっとした変化で、まったく異なる表情をしているように見える。これに限らず、(能面のような高尚なものでなくても)無表情なものこそが表情豊かだという場合は多くある。

【パピプペポは難しい】メンバーの中にキリン!?クセだらけのアイドルに矢口真里がパニック!素顔を出さない理由とは『矢口真里の火曜The NIGHT #224​』毎週火曜日24時からABEMAで生放送!

https://www.youtube.com/watch?v=RAXz_x8TeoA&t=3325s

●いろいろと心配。ソーク研究所・パオ博士が語る、コロナとワクチンの事情。

町山智浩アメリカの今を知るTV With CNN #135②

https://www.youtube.com/watch?v=enPwXrW28vk

ブラジルで発生した変種には、現在のワクチンが効かない可能性がある。イギリスで発生した変種はとても感染力が高い(これまで通りのロックダウンでは感染の拡大を抑えられなかった)。ワクチンが、どのくらいの期間にわたって有効なのかは、まだはっきり分からない(とりあえず三ヶ月くらいは大丈夫そう、とは言える)。

2021-02-25

●はじめてつくる大学の授業のシラバスの締め切りが28日。日本語で小説を読んで、日本語で講義するのだけど、日本語だけでなく英語版のシラバスもつくらなければならない。もしDeepLがなかったらどんなに大変だっただろうか。

(シラバスの書き方マニュアルのような資料が送られているのだが、それをみると、今、大学というものが置かれている立場や空気のようなものがなんとなく伝わってくる。今の大学は、ぼくが学生だった頃とは、かなり違っているということを実感させられる。)

授業は全部で14回。授業では、前半に近代小説のはじまりから現代小説へと展開していく流れのなかにある、いくつかの作品(の部分)をピックアップして具体的に読んでいき、後半では日本の現代小説からピックアップして読んでいく。「読む」というのは、解釈するとか分析するという以前の「(文章を)読むという行為」において何が起っているのか、ということに注目するということ。講義のうちの何回かは、「短篇を精読する」として、短編小説をできる限りまるっと全体を通して読んでみたいと思っている。

2021-02-24

YouTubeにあった『浜梨』(関田育子)の動画を観た。

https://www.youtube.com/watch?v=1uFqo_t3TFE

舞台の上手から下手の空間が、マンガの見開きの二ページのように使われていて、そこに多平面的に複数の視点(フレーム)が配置され、そのコマ割りが時間の経過とともに変化していく、という感じか。舞台空間は、連続したひとつの空間であるとは限らず、複数の視点へと分割されるし、その分割の仕切りも流動的になっている。舞台と観客との関係の一方方向性を利用して、舞台空間が、多数のフレームが共存する横への広がりとして、平面的に捉えられている。ここでコマ割りのコマ(フレーム)は、マンガのように可視化されてはいなくて、フレームの仕切りは、俳優の動きやセリフから立ち上がる。観客は空間の仕切りや視点の変化を俳優の演技から読み込む必要がある。現実空間における俳優の動きを見ることによって、現実から一拍遅れて、見立てられた空間を読み取ることになる。

あくまで演劇である『浜梨』が『盆石の池』と違うのは、舞台空間が「マンガの見開きの二ページ」と同様、多フレームを並立させるためのメタフレームとして固定されているという点だろう。『盆石の池』の画期的なところは、カメラを用いることで、固定されたメタフレームを消滅させてしまったという点にあると思う。俳優の演技によって生じる見立てられた空間の仕切りも流動的ならば、カメラの置かれる位置(俳優の動きとカメラとの関係)も流動的であるから、この二つはあくまで相互作用的であり、俳優の動きによるフレーミングとカメラによるフレーミングのどちらか一方が優位に立つことはない。地位が同等で原理の異なる二つのフレームが掛け合わせられることによって、「現実空間の三次元的な秩序」に規定されない別の空間と時間の生成が可能になっている。

(映画においては多くの場合、「俳優の動きによるフレーミング」という要素が弱いため、カメラのフレーミングモンタージュが俳優より上位---ここで「上位」とは、カメラのフレーミングが俳優の動きを外から包み込んでいるという意味であって、俳優よりカメラの方が重要だという意味ではない---となるが、『盆石の池』では相互包摂的な構造になっていると言えると思う。)

見立てを読み込むことによって虚の空間が立ち上がるという性質によって、場面の理解や空間の理解の「遅れ」の速度に違いが生まれる、というところも面白い。ある場面では、誰が何をしていて、空間がどのように仕切られているのか、すぐに分かるが、別の場面ではなかなか分からない、ということが起る。観客は、俳優の動きをリアルタイムで見ていながら、それとは別の、複数の「遅れた時間」を体験している。最近の演劇では特に珍しいことではないだろうが、『浜梨』では同じ俳優が何のことわりもなく(衣装やメイクを変えるという「印」もなく)当然のように複数の役を演じる。このことも、理解の遅れの速度に違いを生む要因になっていると思われる。たとえば、冒頭の場面は、おじさんが鳩に餌をやっている場面なのだが、ここで、誰が、何をしているのかが理解できるようになるのは、かなり話が進んだ後になる。誰かが、なにか動物に餌をやっているのだろうというのはすぐ分かるが、(一人の俳優が複数の役をやるので)それが誰なのか、その動物が何かのかは、なかなか分からない。

(小さな遅れとしては、逆上がりや滑り台を滑るを示すの仕草が印象的。)

(これは『盆石の池』でもみられたが、場面転換する時、しばしば、その後の場面で俳優がとる身振りが、先取りされて前の場面の最後に食い込んでくる。理解の遅れとは逆向きに、仕草が前のめりであらわれる。これは、ここで場面が転換するという印でもあるのだが。)

ひとつ気になったのは、『浜梨』にも『盆石の池』にも共通することなのだが、その奇妙な「古くさい感じ」をどう考えればよいのかということ。『浜梨』の中心には、ほとんど小津の映画からトレースしてきたような、父と娘と父の再婚相手の関係があるのだが、この物語がいったい「いつ頃」の話なのかがよく分からないようにふわっとしている。言葉遣いも微妙に古いので、『晩春』の頃(1950年前後)くらいの話なのかと思うと、その時代に家庭にヘアアイロンがあるだろうかということが疑問となる(このヘアアイロンの場面の絶妙な気持ち悪さはすごいと思った)。具体的にいつ頃ということはない抽象的な「昭和」というイメージなのかもしれないのだが、そうだとすれば、そのような時代の扱い方はやや危ういかもしれないという気もする。

(『盆石の池』は『長屋紳士録』の時代だと考えても矛盾はないように思われる。)

とはいえ、このような、あからさまに古い話、古い言葉を、現代の若者が、現代の若者のする身体の動きをもちいてリプレゼンテーションするという「時代錯誤」感は面白いと思う。古い方(物語・言葉)にも、新しい方(身体・身振り)にも、どちらか一方には寄せていない、いつでもなくどこでもない宙に浮いた感じ。

(あとひとつ、とても印象的だったのは、『浜梨』で俳優は、他者にだけではなく、自分自身にさえもまったく「触れる」ことがないという点。仏壇に向かって祈る時にさえ、掌と掌とを合わせることがなく隙間が空いている。)

2021-02-23

●『盆石の池』(関田育子)について、もう少しだけ。

映画を撮るという発想だとどうしても、ロケであってもセットを組む場合であっても、まず三次元の空間があって、それに対して、どの位置にカメラを置き、俳優を配置するか、という発想になると思う(鈴木清順はそうではないかもしれないが)。しかし、演劇の場合、舞台という抽象的な空間に、演技を通した見立てによって空間がたちあがることになる。ある空間がまずあって、その中で演技するのではなく、演技することによって空間を立ち上げるということが可能だ。

とはいえ演劇の場合、観客との関係によって、空間を半分しか使えない。観客の視線は一方を向いているから、180度のひろがりのなかで演技(演技によって立ち上がる空間)を捉えることになる。舞台と客席との関係を変えて、観客が輪になって舞台を取り囲み、その真ん中で俳優が演技するとしても、個々の観客の視線は前しか向いていないので、一方向であることは変わらない。観客が透明人間になって、舞台の上を自由に移動しながら俳優の演技を観る、という場合も想定できるが、この場合では今度は、見立てられた空間よりも、現実の三次元空間という規定が強く出ることになるだろう(サッカーゲームのグランド上の視点のようになる)。

『盆石の池』では、これらのどの場合とも違うかたちで時空をつくることができている。ほぼホワイトキューブと言ってよいだろう抽象的な空間に、演技とカメラとの関係によって(見立てられた)空間が立ち上げられる。カメラは演劇の観客とは違って、空間の中で自由に位置や向きや対象との距離を変えることができる。とはいえ、三次元空間のなかでのカメラの位置は絶対的ではない。観客は、実際の三次元空間のなかでカメラが占めた位置に立つのではなく、たんに、その位置から撮られた(平面化された)映像を観るだけである。カメラは、その撮り方によって、三次元空間のなかでの自らの位置を明らかにすることも出来るし、曖昧にすることもできる。

(VRの360度カメラや180度カメラを使うと、三次元という現実的、物理的な空間に強く規定されることになるが、スクリーンに映し出された平面化された映像のモンタージュであることで、現実空間の規定から逃れることができる。)

観客が観るのは、現実の三次元空間のなかでカメラの位置から観た光景ではなく、カメラと俳優の関係によって生み出された見立てられた空間・時間であり、カットとカットの関係(モンタージュ)によって生み出された非現実(非連続)的な空間・時間である。つまり、現実の三次元空間に規定されない抽象的な空間であり、現実の時間に規定されない操作・編集された時間である。

ホワイトキューブのような空間と、カメラと俳優という道具立てだけで、現実的・物理的な空間と時間という束縛からの自由度がとても高い、抽象度の高い空間を、ワンカットごとに新に生成させ、自由度の高いカットとカットをモンタージュして、さらに抽象度の髙い時空を創り出すことができる。やはりこれはすごい発明だと思う。

 

2021-02-22

●関田育子『盆石の池』の配信をなんとなく買って観たのだが、これはすごい発明なのではないかと思った。演劇に親しくない者としてあえて雑な言い方で言えば、はじめてチェルフィッチュを観た時くらい驚いた。

http://scool.jp/event/20210221/

この興奮は勿論、作品としての面白さに対してのものでもあるが、自分勝手な言い方だが、自分自身の制作に対して光が射した、大きなヒントをもらった、という側面も大きい。この作品を観て、自分が考えているいろいろなことが繋がり、そして、実現が難しいと思っていたことに、もしかすると実現可能かもしれないという希望が持てる感じになった。

かねてから、マティスにはエッシャーが足りなくて、エッシャーにはマティスが足りないと考えていて、アーティストとしてのぼくに今後できることがあるとすれば、その両者を繋げたものをつくることではないかと考えていた。時空構造そのものがだまし絵となっているような時空でこそ可能になる色のある経験。そのために適当なメディウムはおそらく、小説、映像、あるいはVR、建築ではないか、と。

(一昨日の日記ともつながるが、それはたとえて言えば、桂離宮を周遊する時の経験に近いものをたちあげることだ。連続したパースペクティブを断ち切られ、その都度、異なるスケール感をもつ空間が不連続的に立ち上がり、その不連続なシークエンス間の可変的なネットワークとして時空が経験される、というような。)

とはいえ、映像でそれをやろうとすると、とても大がかりなセットを組んで、そこでとても複雑なカメラの移動を実現させる必要があると思っていた。そのような大きなお金がかかることを実現させられる望みは、現時点のぼくにはない。可能だとすれば、ゲームのような仮想空間として、そのような時空構造をつくることだが、しかしそのような技術は自分にはない。建築はそれらよりさらに遠い。

だが、大がかりなセットなどなくても、カメラの位置とフレーミング、そして空間のなかでの俳優の動きと配置(カメラと俳優の関係)、映像のモンタージュ(ある映像と別の映像の関係)、そして視線、などによって出来ることが、またまだたくさんあるのだということをこの作品によって知らされた。こんなにちょっとした工夫(発明)で、こんなにすごいことになるのか、と。

マティスエッシャーも、絵画が二次元であるという特質に最大限に依ることで、われわれにとっての現実である三+一次元という時空を超え出る、超三+一次元的な時空構造(経験)を実現させた。この作品でも、カメラが写し取ることで、演劇的な三次元(的フォーメーション)が二次元化するという特質を介することで、三次元を超える経験が表現されていると思う。二次元性(平面性)には、まだ可能性があるということを知らされた。二次元化することで、視点が浮遊し、位置を失う。

(この作品はあからさまに小津的だが、それは、ゴッホが浮世絵を無理矢理に油絵の具で模写した、みたいな感じで、それによって「映画」との違いがより際立っているように思う。)