2022/06/23

●本棚の整理をしていて出てきたもの。タモリのレコード。

 

 

タモリのレコードの帯の裏側に、荒井由実の広告が…。

 

 

タモリのレコードはYouTubeで聴ける。

タモリ 3 -戦後日本歌謡史-

https://www.youtube.com/watch?v=JY_GtyceL98

タモリ 2

https://www.youtube.com/watch?v=AaYJgIaXNyI

本棚の整理をしていて出てきたもの。カイエ・デュ・シネマ・ジャポン」のゼロ号と、「リュミエール」の一号(アトリエに本を置いておくと絵の具などですごく汚れる)。ベアトリス・ダル、ハリー・ディーン・スタントンナスターシャ・キンスキー

 

 

2022/06/22

●本棚の整理と模様替えをしていると、いろいろ出てくる。下の写真は、『星座から見た地球』(福永信)論「マイナス1、プラス1 /『星座から見た地球』と『あっぷあっぷ』のなかを動いているもの」(「新潮」2012年5月号に掲載された)を書くためにつくったノートの一部。

 

 

この文章はnoteで読めます。福永信『星座から見た地球』論「マイナス1、プラス1/ 『星座から見た地球』と『あっぷあっぷ』のなかを動いているもの」(1)

note.com

●何かからの切り取り。若い黒沢清のインタビュー。1992年。サングラスをかけている①の写真は、森達也(「しがらみ学園」出演)。

 

 

●いつかの「すばる」に掲載された「ペンギン村に陽は落ちて」(高橋源一郎)のコピー。おそらく、図書館で読んで、とても良かったからコピーした。後に『ペンギン村に陽は落ちて』というタイトルの本が出たが、他の小説と組み合わせたりして、かなり編集・改変されていた。ぼくは、最初の「すばる」掲載バーションの方がずっと好きだったから、コピーを保存しておいた。

 

 

2022/06/21

●ふと思い立って、本棚にさしてある『万延元年のフットボール』(大江健三郎)を手に取って読みだした。ふだん本を読むときは、何色ものボールペンや蛍光マーカーなどで線を引いたり書き込みをしたりするのだが(集中力がなく散漫なので、そういう動作をかませないと、すぐ別のことに気が逸れてしまう)、そうすることもなく、本をひらいてすぐに、すーっと入り込んで、そのままとりあえず六章まで読み進んだ。

(というのは厳密には嘘で、いつか「万延元年…」をちゃんと読み返そうと思って、本棚の割と目立つ場所に移動してあった。本は前後二列に並んでいるので、後ろにある本は見えない。それを前の方に意識的に出してあった。とはいえ、それをしたのがいつだったかわからないくらい前ではある。「いつか」が来るまで割と時間がかかった。その「いつか」が不意に来たのは本当のことだ。)

1967年(ぼくが生まれた年だ)、作家が32歳の時に出版されたこの小説は、この時点ですっかり大江健三郎だ。それは、晩年の代表作と言える『水死』と、まったく地続きにつながっていて、後年の大江の特徴や要素というべきもののほとんどがここに出そろっている、という意味でだ。ある意味、ここで既に完成してしまっている。たとえば、

《僕は妻が僕の言葉に反撥する仕方をつうじて、彼女の内部に起こっている地崩れに逆らおうとする妻自身の意思が、まだ全的にはアルコールの破壊力に溶かされてしまっていないことを感じた。》

32歳にして、もう(何重にも屈折する)「この書き方」なんだな、と。それは初期の、早熟な、瑞々しく才気走った若手作家のものとはまったく別物になっている。

(自殺する友人は、主人公---蜜三郎---から分離していく自分自身であり、ここに既に『水死』のコギーがいる、と思った。)

そして、「万延元年…」を読みながら頭に浮かんでくるのは、中上健次という名だ。二人の小説が似ているということではないが、「小説」という器によって何をつかみ取ろうとしていたか、何を救い上げようとしているのか、という点で共通するところが大きいと感じる。

なんというのか、自分の「血縁」を描くことがそのまま、一方では共同的な神話的、説話的想像力に直接アクセスし(いわば、対幻想と共同幻想との関係が直接的で近く、同時に、「個人幻想が共同幻想に逆立する」を地でいく位置にある)、しかしもう一方ではその同じ「血縁」が、(説話的想像力を批判するように)現実としての日本近現代史へも直接的につながっているという、多層的な(複雑で矛盾を孕んだ)位置にある。また、言葉が紡がれる位置が、被抑圧者であると同時に抑圧者でもあるという微妙な位置にあり、引き裂かれた二重性をもっている。この多重化された相容れなさの諸要素が、決して溶け合うことなく、交わらないまま互いに批判的関係を保つことで激しく振動し、沸騰する。

日本の小説で、『万延元年のフットボール』、『懐かしい年への手紙』、『水死』と比較すべきものがあるとすれば、それはやはり、『岬』、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』(+『熊野集』、『千年の愉楽』)になるのではないか。中上健次には、大江健三郎に対して中上健次であった(つまり、大江がああやるのなら、オレはこうやる、という風に)という側面があるのではないか。「岬」という小説が、『枯木灘』へと展開し、『地の果て 至上の時』へ展開するのは、『万延元年のフットボール』という小説があったから、ということではないか(検証のない思い付きです…)。

(あるいは、『枯木灘』の完成度に満足せず、その後に『地の果て 至上の時』が書かれる必要があったのは、これではまだ「万延元年…」に届いていない、という意識があったのではないか。)

●そういう流れとは別のところに、いわば「バートルビーの系譜」というのがあるのだが。

2022/06/20

●夢。大勢の子どもたち、ようやく、立って歩いたり、はしったりを、それほどたどたどしくなく行えるようになった、というくらいの年齢。子供たちには、巨大なイカの足のようなぐちゅぐちゅした尻尾が一人にひとつついている。遊んだり、はしやいだりしていると、それは足手まといで、子どもたちは、しばしば自分の尻尾を踏んづけてしまい、それはぐちゃっと嫌な感じで潰れる。そのたびにはっとして、気が気ではない。しかし、当の子どもたちは、そのことを気にする素振りをまったくみせず、痛がる様子もなく遊びつづける。尻尾はただくっついているだけで、子ども自身とは無関係かもしれない。子供たちのなかの何人かが、ぼくにまとわりつき、自分たちをかまうように強いてくる(現実においてそのような状況になったことはない)。最初は適当に相手をしているが、そのうちに、子どもたちの容赦なさとあまりの執拗さに軽く苛立ちを感じるようになる。その苛立ちが、不注意と行為の粗さとなってしまったのか、子どもたちのうちの一人の尻尾を踏んでしまう。踏まれた子供に特に反応はないが、ぼくは子どもたち自身よりもあきらかに重いので、子どもが自分で自分の尻尾を踏むときよりも大きなダメージを与えたことは疑いない。見ると、尻尾は大きく歪み、出血さえしている。だが、その粘液でぬらぬらした尻尾を、どのように治療したらよいのかまるでわからない。あの粘液には、高い自己治癒効果があるに違いない、と、思い込みたい。あるいは、尻尾と子供は別物ではなのいか。だがうらはらに、あの、特に執拗にぼくにまとわりついた子供が、この出血が原因で死んでしまうのではないかという恐怖と自責に襲われる。

2022/06/19

●連続トークイベント「ベルクソン思想の現在 21世紀に炸裂する20世紀の生の思考」の第一夜「生きるとは?---『創造的進化』の未来」(藤田尚志×米田翼、司会:平井靖史)を、オンラインで観た。『生ける物質』(米田翼)は買ったのだが、『ベルクソン 反時代的哲学』(藤田尚志)は6600円という値段にビビッて躊躇していたが、イベントが面白かったので買ってしまった…。

(質疑応答がガチだった、というか、まるで事前に仕込んだかのように、トークを補完するような内容の質問ばかりで驚いた。質疑応答の部分がとても充実していた。発表の部分が充実していないという意味ではない。)

ベルクソンの言う「神秘主義(神秘家)」とは、過剰な行動力をもつ人のことで、たとえばいきなり教団をたちあげてしまうとか、あるいはマイナーな本屋さんをつくってしまうとか、行為の大変さに見合った見返りがあきらかに期待できないようなこと、なにに繋がるか先の見通しもたたないようなことを、それでも思い立ったらはじめてしまうような人のことだ、というのはとてもいい話だと思った。

ベルクソンの言う---あるいは米田翼の言う---「可能的(たとえばオルタナティブなバイオケミストリー)」は、あくまで「この世界(この宇宙)」のなかでの、あり得た別様な可能性(あり得る別の道筋)の話であって、この現実より先に無数の可能世界があって、その一つとして「この現実」があるという話や、この世界の外に並行世界があるというようなことを想定しているのではなく、その意味で、ベルクソンにとって「敵」はライプニッツなのだ、というのも、なるほどと思った。ならば、「この宇宙」という一つの全体があるということになり、「世界は存在しない」というのも否定されるのだろうな、と。

●【本のあるところ ajiro】連続トークイベント「ベルクソン思想の現在 21世紀に炸裂する20世紀の生の思考」全4夜のご案内

https://note.com/kankanbou_e/n/n50223e07ff8c

●これから寝る朝。

 

 

 

 

2022/06/18

●『アクターネットワーク理論入門』(栗原亘・編著)の第一部を読んだ。とても面白い。

とはいえ同時に、この議論には『ラディカルマーケット』に感じたのと同質の「落ち着けなさ」があり、「引きこもりや怠惰、ダメな奴であることを許さない調子」も感じられて、ここにハーマン的な「脱去(無アクタン的オブジェクト?)」のような概念が欲しいとも感じる(あるいは、他のアクターとの連関のなかにあっても何もしない「怠惰な(非アクト的)アクター」であることは可能なのか…そういうものは「存在しない」のか)。

以下、第三章「ANTの基礎概念をたどる」(伊藤嘉高)より引用、メモ。

●グレマスとエスノメソドロジー

《(グレマスによると)物語とは、混沌とした世界を組織化(分節化)する統語的な形態である。私たちは混沌とした世界の動きを理解可能にするために言語で再構成している。そして、詳しくは次節でみるが、これら対立/差異が「行為」によって変容する(ないしは翻訳される)ことで物語の意味が生まれる。》

《(…)グレマスの分析は、徹頭徹尾、テクスト内にとどまっている。(…)つまりは、テクストからコンテクストが切り取られているのだ(…)。》

《そしてラトゥールは、こうしたグレマスの記号論を「テクストのエスノメソドロジー」と位置付けている(…)。》

《(…)社会学者たちがあれこれ思索をめぐらせなくても、社会秩序は、社会生活を営む成員たちによってすでに成り立っている。社会秩序がすでに成立しているものであるならば、社会学者が観念的な問いを立てるよりも前に、現に成立しているその秩序のあり方を人びとがどう報告しているのかを記述してみるほうがよほど科学的ではないか。これがエスノメソドロジーの基本的な考え方である。》

《(…)ANT(アクターネットワークセオリー)もまた、外的現実に対する一切の予断を挟み込むことなく、目の前で行われている世界の分節化の営みを記述しようとしているだけである。》

《(…)なかでも重要なのが、グレマスの物語論によって、何かアクターであるのかを外在的に規定しない記述が可能になることだ。》

●アクターとアクタン

《グレマスの物語論におけるアクターないしアクタンは、文における「主語」や「目的語」に相当する物語文法の単位である。具体的には、主体、客体、送り手、受け手、補助者、反対者であり、これらは諸々の変化が記述される物語の統語(構成)にとって不可欠の要素である。そして、このアクタンは、他のアクタンとの関係によって規定される(たとえば、客体なき主体はない)。さらに、アクタンは、ストーリーのなかで具体的なアクターとして登場する。》

《(…)アクターとは、物語のなかで名前をもって登場し何事かをなすものであり、たとえば、王や王女、勇者、ドラゴン、自由、剣、妖精などである。そして、アクタンとは、アクターが体現している物語文法の単位(主体や客体)である。》

《(…)たとえば、「主体」である勇者は、「客体」(王女)など他のアクタンがなければ、「主体」として成立しない。物語は、「送り手」(王)と「受け手」(勇者)による約束(「ドラゴンを倒し、王女を救い出せば、王女と結婚させる」)の締結によって動き出し、勇者が王女を救い出し、約束の履行で終わる。勇者がいるだけでは物語は成立しない。》

《そして、アクタンは、必ずしも人間の登場人物によって体現されるわけではない(ドラゴンを倒す「主体」は、勇者なのかもしれないし、伝説の剣なのかもしれないし、王国なのかもしれない)。モノや抽象的な概念は、「行為を成し遂げるもの」として識別できる限り、人間と同じように行為することができる。》

《ただし、ラトゥールによれば、「ANTが物語論から取り入れてきたのは、その主張と内輪の言葉のすべてではなく、その「移動の自由」である(…)。》

《ラトゥールらによるアクタン/アクターの定義をみてみよう。まず、アクタンは、「行為するあらゆるもの、ないし行為を変えるあらゆるもの」であり(…)、「行為/作用するあらゆるもの」を意味する。(…)人びとによる報告を成り立たせるあらゆる要素(言い換えれば、時間軸上で差異をもたらすもの)がアクタンであるといえるだろう。》

《他方のアクターは、「個性を与えられたアクタン(通常は擬人化)」(…)であり、「行為の源とされるもの」を意味する。『社会的なものを組み直す』では、アクターは、行為(差異や変化を生み出すもの)の源として形象化されたアクタンとして定義される。逆にいえば、アクタンはまだ形象をもたないアクターである(…)。》

●強度の試験、「強く」実在するアクターであるために…

《あるアクタン(「王女を救い出す主体」)が特定のアクター(「勇者」であったり「王」であったり「王国」であったりする)として形象化されるには、自らの力能によるパフォーマンスを提示しなければならない。それがグレマスのいう「資格試験」である(…)。(…)たとえば、通過儀礼としての冒険が資格試験であり、この試験をパスすることで、勇者が「主体」としての力能をもった者(アクター)として認められる。》

《ここで決定的に重要なのは、王から賛美される真の勇者は、この特定の環境においてのみ「信の勇者」であるということだ。たとえば、剣の攻撃力がもう少し弱ければ、あるいは、妖精の手助けが足りていなければ、あるいは、王からの褒美が少なければ、勇者は死んでいたかもしれない。》

《ANTにおいて、これらの試験は「強度の試験」(強さの試験)と呼ばれる(…)。たとえば、細菌などのアクターとしての科学的対象は、一連の試験を通して現れる。実験室という特殊な事物の連関のなかでなされる試験を通してはじめて「強く」実在するものとされる。はじめはパフォーマンス(行為の名称)のリストでしかなったのが、試験によってそのパフォーマンスが力能の前提として認められれば、その事物の連関の中なかで「強く」実在する具体的なアクターとして定義される。》

《さらに、強く実在するアクターとして定義されるには、肯定的なデータが集まるだけでは不十分であり、反論を退ける強度が必要であり、その試験が必要となる。そしてその強度を得るためには、他のアクターとの同盟、連関が必要であり、他者の関心を引かなければならない。この強度が当のアクターの実在性をいっそう強めていくのである。》

《(…)アクターは決して単独では行動しないし、単独で存在することすらない。アクターは他のアクターとの連関を通してそのエージェンシー(行為や作用を生み出す力)を身にまとう。》

《科学的実験においても、アクタン(たとえば、「〇〇を死なせたもの」)が特定の形象を有するアクター(たとえば、「病原菌」)になるには、「強度の試験」をパスし、他のアクターと連関する必要がある。こうして「厳然たる事実」とみなされるようになった対象もまた、アクターの連関が変われば、とたんに「議論を呼ぶ事実」に変わってしまう。》

●「客観的実在(外的な指示対象)」を持ち込まずに…(参照フレームの移行と循環する指示)

《まず重要になるのが、R.ヤーコブソンの議論からグレマスが導入した関与/離脱(…)の概念をANTが採用していることだ(…)。なお、関与/離脱ではなく、内向推移/外向推移(…)といった表現が用いられることもある(…)。いずれにせよ、内向推移(関与)とは、読者の注意を、論文などにおける目の前の記述(言表)と記述者からそらし、実験室など他の場所や時間で働いている別のアクター(ジ仏の連関)に移すことを示す。外向推移(離脱)はその反対であり、実験室から論文へ移行することで、結果として、当の記述をより事実らしくしたりそうでなくしたりする操作である。》

《こうした記述の変換こそ、テクストにおける実在性を理解するうえで、決定的に重要である。ある文=分節化は、他の文=分節化との関係によって、実在性を強めたり弱めたりする。ある文=分節化自体は、事実でも虚構でもない。科学的なテクストは常に、外向推移の捜査に大きく依拠している。別の表現を使えば、こうした推移によって、参照フレーム(基準系)の移行が行われるのである。》

《このことが意味するのは、あるテクストには、その真偽を判定するコンテクストがあるのではなく、「コ・テクスト」(co-text)があるということだ(…)。この意味で、ANTは「相対主義的」であるというよりは「相対論的」なのである。ドゥルーズの言葉を借りれば、相対論が得のは、真理が相対的であることでなく、関係が真理であるということだ(…)。》

《(…)外的な指示対象はあくまで不要である。橋渡しすべき溝もない。》

《代わりに登場するのが、「循環する指示」(循環参照…)である。循環する指示とは、外向推移、内向推移を可能にする支持の連鎖の質を示すものである。良い連鎖である---どの参照フレームでも中断されず、常に外向にも内向にも推移できるものである---ならば、循環する指示が成り立つ。》

《(…『科学論の実在』において)科学者たちがアマゾンの土壌に関する知識を生み出すとき、彼らは、可逆的である参照の連鎖のなかで土壌を物質から形式(記号)へ変換することによって行っている。ちなみに、ここで変換は、上方推移(物質から記号への変換)と下方推移(記号から物質への変換)と呼ばれている。

しかも上方推移によって、物質性、特殊性、ローカル性などが次々と失われる一方で、形式性、互換性、相対的普遍性が得られ、厳然たる「不変の可動物」となり流通する(…)。科学とは、外在する真実を変形(…)させることなく転写・転置させるものではない。諸々の形式変換(…)による転置こそが、科学の営みなのである。ちなみに、こうした変換によって、異なる物質=記号がつながることをANTではとくに「翻訳」と呼んでいる。》

●中間項と媒介子

《まずは、ある社会的な出来事について、その発生源を研究者が外側から特定する(分節化する)という不遜さが明らかになる。権力や利害といった「社会的なもの」をもちだす「社会的説明」であればなおさらだ。》

《確かに権力構造と呼べる静態的で堅牢な社会関係は存在するだろう。しかし、それを「権力」で説明し批判する社会学理論は、人びとを動かす理論にはなるかもしれないが、「権力」を成り立たせている事物の連関を説明することは決してできない。したがって、権力関係を変えるような政治的意義---批判の力---は持ちようがない(…)。》

《しかも、そうした説明におけるアクターは、社会学者による形象化の結果に過ぎず、ANTのいうアクターではなく、「中間項」(…)に過ぎない。中間項とは、外からやってきた意味や力(エージェンシー)を歪めることなく移送するものであり、そこに投入されるもの(「原因」)がわかれば、そこから発せられるもの(「結果」)がわかる。(…)いわば、「厳然たる事実」の住民である。》

《それに対して、グレマスの物語論を援用すれば、あらゆるものが連関しており、連関のあり方によって、その姿が変わってしまうという実際のありさまを記述することができる。そうした際のアクターは、もはや中間項ではなく「媒介子」(…)である。王国も国王も王女も勇者も剣もドラゴンも、他のアクターと連関することで、他のアクターの力能を変えてしまう不確定なものである。》

《(…)実験科学の世界では、「Aに対してBが作用するとA`になる」という厳然たる「法則」が見出されるではないかと思われるかもしれない。(…)確かに、特定の環境においてBにはAをA`にする性質があるといえるが、それは一つの分節に過ぎないのであり、事物の連関が変わればBの性質も変わってしまう。あるいは、B以外のアクターが見出されることもあるだろう。つまり、ここで事物と呼んでいるものこそ、媒介子なのである。》

《(…)ただし、この連関のあり方は一様ではなく、(…)科学と法とではあきらかに異なるし、法と政治とでも明らかに異なる。》

《(…)ANTのテクストは、各々の人やモノが媒介子として扱われるアクションの連鎖(ネットワーク)をたどるものであって、諸々の存在を中間項に貶めるような客観的説明や批判を行うものではない。ATNは新たな媒介子を見出すための方法なのであり、「ここまで事物の連鎖をたどればよい」という基準はない。》

 

2022/06/17

●インスタグラムで他人のアカウントを見るためには、自分でもアカウントを持っていないと見られない。ある人のアカウントを参照する必要があってアカウントをつくったのだが、せっかく作ったのだからちょっと触ってみようと思っただけだった。日記が非リニア的に、当てクジのように並んでいたら面白いのではないかと思いついて、やってみた。過去に書いた日記をコピペして、過去に撮った写真と組み合わせるだけだから、手軽にできる。

ランダム再生「偽日記」@インスタグラム

https://www.instagram.com/toshihirofuruya67/

日記を、順番に並んでいる時系列から切り離して、ランダムに生起させるというのは、「ことばと」に掲載された小説「騙されない者は彷徨う」でもやっていることで、時間の解体というか、「わたし」の非リニア化ということだ。順番に、とどまることなく整然と、ただ一方向に流れていく「現在」という時空の秩序をなんとかして、現在(いま・ここ)にとらわれない存在のありようを作れないのか、ということには常に関心がある。

やってみて案外おもしろかったのは、日記をランダムに配置するということだけでなく、それがまたランダムに選ばれた画像に結び付けられるというところだった。これは、インスタグラムという形式がなければ思いつかなかっただろう。

画像は、日記にアクセスするためのインデックスであるが、画像と日記の内容は(一部を除いて)無関係であるから、画像は同時に、日記の内容を隠す遮蔽幕でもある。画像と日記(の日付)とは一対一対応しているが、その結びつきには根拠がない。すでに自分でも、どの画像がどの日の日記へのアクセスなのか憶えていない。

インスタグラムのプロフィールのページにいくと、互いに関連のない正方形の画像が並んでいる。これを感じられるのは自分だけなのだが、どの写真も自分が撮ったものなのだから、それを撮った時のこと(場所や状況)を、なんとなく憶えていて、画像によって記憶がよみがえる。ただ、何年の何月何日、というところまではわからない。というか、場所や状況の記憶はけっこうはっきりあるが、いつ頃という時間(「現在」からの距離)の記憶は、まったく朧気だ。だから、プロフィールページの画面を眺めているだけで、様々な異なる場面の様々な記憶や感覚が、時間の秩序と関係なくランダムに生起してきて、これだけでぼくにはかなりおもしろい。

そして、そのどれかを選択すると、過去に書かれた日記があらわれる。日記もまた画像と同様で、そこに書かれた出来事のことは、けっこう生々しく思い出すことが出来るが、それがいつ頃の出来事であるのかを思い出すのは(日付を見ないと)難しい。二十年前の出来事も、五、六年前の出来事も、記憶の生々しさ、あるいは現在からの距離感は、あまり変わらない。

(ただし、二十年前の自分にはダメ出ししたいことがたくさんある、という意味で距離を感じるが…。)

つまり、プロフィールページには、過去の断片が、ランダムに、平面的に散らばっていて、そしてその下(奥)もまた、別の過去の断片(日記)へとランダムにつながっている。こういう状態がつくりだされてあることが、ぼくにはとてもおもしろい。だが、ぼくだけにおもしろいのかもしれない。

(ここで問題になるのは、ハッシュタグをどうするのか、ということだ。コンセプトの一貫性を考えるならば、使うべきではないと思う。ただ、ハッシュタグという、また別のランダムな通路をつくる、という意味でなら使ってもよいかもしれない。その時は、日記の内容とまったく関係ないわけではないが、ぴったりと合っているというわけでもないというハッシュタグをつけることで、もう一つのランダムな通路をつくることになる。)