2021-11-17

●こんな夢を見た。数日後に自分が出演するイベントがあるので、接近中の台風の進路や進み具合が気にかかりながら眠りにつく(これも夢)。すーっと眠りに沈み込んでいくなかで、ちょうど今、台風の影響下の強めの雨が台湾に降り始めるのを、あたかもそこに居合わせているかのようにはっきりと感じるのだった。ああ、これは来てしまうな、避けられないな、と思う。

2021-11-16

●「無断と土」、「pot hole(楽器のような音)」を読んでから、改めて『半睡』(佐々木敦)を読んだのだが、つづけて読んで感じたのは、山本さんの仕事と佐々木さんの仕事との意外なくらいの共鳴だった。「pot hole(楽器のような音)」の冒頭には、《人間は他人を救うのとおなじ次元で、じぶんを救うというようにはできていません》という吉本隆明の言葉が置かれているのだが、この言葉は『半睡』の冒頭に置かれていてもおかしくない。あるいは、山本さん(たち)の小説と佐々木さんの小説の間に、山本さんの大林宣彦論を置くと、二つはきれいにつながるようにも思われる。

(一人二役と二人一役の問題、そして作品が慰霊のようなものとしてあること、そして、わたしからこぼれ落ちる他人としての「わたし」と並行世界の感触など…)

●『半睡』の主人公で話者である「わたし」は、2012年3月1日から2020年3月11日まで、八年の時間をかけて11日(10+1日)分の日付つきの手記を書くのだが、そこに書かれていることはほとんど、2012年以前に起こった事柄だ。手記を書いている8年間に(手記を書く以外に)「わたし」が何をしているのかはほとんど分からない。この手記が書かれるきっかけとなった2012年2月29日以降に起こったことで手記に書かれているのは、2012年にアピチャッポンの(2002年につくられた)映画を観たことと、2016年に東京都現代美術館で「キセイノセイキ」を観たこと、Y・Yと定期的に会っていたこと、そしておそらく2019年にY・Yが亡くなったことくらいだろうか。この手記に日付がついているのは、この手記に書かれているのは、過去の出来事だけでなく、過去の出来事を書くために必要だった時間でもあるということを示すためだろう。だかその「時間」は、その時間に起きた出来事や、その時間の間に「わたし」が行った事柄によって表現されるのではなく、ただ、四年に一度「うるう年」が巡ってくるという、時間を外側から規定する反復的な「形式」によって表現されるのだ。

また、この手記が、十日(+一日)分の手記という形をとっているのは、この手記が夏目漱石の「夢十夜」の形式を借りているからでもある。つまりこの手記は、うるう年という暦の形式、「夢十夜」という文学史上で有名なテキストの形式を借りることによって、そのようにして外側から「形」を強いられることによって、(書くことへの抵抗感に抗して)書くことの持続させる力を得ているということだ。

(つまり、この饒舌にも感じられる手記には「書かれていないこと」欠落が多くある。むしろ、書かれていないことを書かないために饒舌であるかのよう感じられる。というか、「書かれていないことを書かないために書く」ような饒舌を通じて「書かれていないことがあることを示す」ように書かれている。)

●この手記を書く「わたし」が、どんな仕事をしているのかもはっきりとしない。不安定な仕事とされ、たびたび「仕事」をMやNに会えない理由とするのだが、具体的なことは分からない。後半になって、Nと出会ったきっかけが「編集者」による取材を介したものであること、そして、Y・Yが「わたし」に「ああ、君のこないだの、とても面白かった、またしても新境地だね、じつに羨ましい」と言うことで、おそらく作家ではないかと推測される(「またしても新境地だね」という評言は「この手記」を書いている者には似合わないように感じるのだが)。しかし、普段から「書く仕事」で忙しくしている「わたし」が、不眠によって手記を書く時間が得られるのだということになり、そうなると「わたし」はひたすら書いてばかりではないかと思う。「わたし」は、(Y・Yとは対照的な)旺盛に執筆する多作な作家ということだろうか。だとすれば「わたし」は、「この手記以外にも多くの文章を書いているのだ」ということも「この手記」に書いていないことになる。

(この「わたし」が「佐々木敦」ではあり得ないのは、2001年にMに誘われるまで『ツィゴイネルワイゼン』という映画を観たことがなかったばかりでなく、その存在さえも知らなかったということによって明らかだろう。「わたし」が頻繁に映画を観たり、クラブに通ったりする---都市の文化的風俗的なものに積極的に触れるようになる---のは、Mの影響によるものだろう。ただ、もしかすると、そう書くことによって「わたしは佐々木敦だ」ということを隠しているのかもしれないが。)

(「わたし」がMと出会ったのは、「ツィゴイネルワイゼン」がニュープリントで公開され、フィネスの「エンドレス・サマー」が発売され、9・11が起こった2001年であり、9・11以降、二人の仲はぎくしゃくし始める。そして、Nと親しくなったのは、五反田団の「おやすまなさい」の初演があり、マイケル・ジャクソンが逮捕された2003年のおそらく11月頃である。だからMが「わたし」を非難するように、MとNとの交際期間が重複していることは考えにくい、と、一応は言える。しかしなぜ「わたし」は、わざわざ年次や時期を特定できるような事柄を手記に律儀に書き込むのか。問われてもいないアリバイを進んで口にすることこそ、アリバイが捏造されていることのしるしではないか、とも考えられる。)

ここで「書かれていないこと」には二種類ある。一つは、「わたし」によって意図的に隠匿されているもの。あるいは、そのことを書きたいがために書いているにもかかわらず、それを書くことに大きな抵抗が生じてどうしてもそれを迂回してしまう、というようなこと。つまり、それを「隠している」ことが意識されている。もう一つは、書いている「わたし」にさえ意識されてなくて、饒舌に書いてみることによって結果として生じる欠落によってはじめて、「わたし」にとっても事後的に発見されるような「書かれていない(隠された)なにか」。あるいはその隠されたものは、事後的にさえ発見されず、ある不在感、なにかが足りていないという感じ、あるいは、そこはかとなく漂う(書かれたものへの)不信感としてしか現れないような何かかもしれない。この小説は、前者を行うことを通じて、後者を暗示しているように思われる。

●もちろん、この小説にも「隠されてないもの」、あからさまに示されるものがあり、それは後悔、悔恨、後ろめたさという感情であり、そのような感情こそが「わたし」にこの「手記」を書かせているということだろう。しかし読み進めても、そのような感情が何に由来するのか、その原因となる出来事は何であるのかが、なかなか分かってこない。それが分からないのは、一面では「わたし」がそれを隠しているからだが、もう一面では「わたし」にもその原因が分からないからだろう。「わたし」は、なにかしら、決して許されることのない裏切りを犯した。これは確かなことであり、これについて自分を誤魔化すことはできない。しかし、それが一体どういうものなのか「わたし(の意識)」は十分には知らない。「わたし」は、自分でも知らない何かについて隠そうとし、同時に、自分でも知らない何かについて贖罪しなければならないと強く感じている。そのことの切迫性、その生々しさが、すべてが嘘かもしれない、他人の作品や他人事ばかりで埋め尽くされている「この手記」をリアルなものにしていると思う。

●終盤で、手記の書き手である「わたし」が、この「手記」は複数の対象に向けて書かれたのではなく、ただ「あなた」に向けて書かれているのであり、そしてその「あなた」とはつまり「(未来の)わたし」なのだと書き、しかしそれは「嘘」で、未来の「わたし」である「あなた」はこれを決して読まないだろうと書き、これを読んでいる「あなた」がいたとしても、それは「わたし」が届けようとした「あなた(未来のわたし)」とは別人である「あなた」だろうと書く。ここで未来のわたしである「あなた」とは、「わたし」の罪の所在を知った「わたし」であるとすれば、そのような「あなた=わたし」(わたし自身と完全に一致する「わたし」)が到来することは決してないという諦観を読みとることができるかもしれない。

《あるいは、あなたなどどこにも存在していないのかもしれない。わたしにはそれはわからないし、正直に言うならば、それはもう、まったくどうでもいいことなのだ。しかもこのことは、そもそもの始まりから決まっていたことだった。なぜならわたしが自分でそう決めたのだから。ただ、気づかないふりをしてきたのだ。そうでもしないと、自分で自分を騙さないと、これをやり遂げることは、到底できそうになかったから。》

●上の『半睡』の引用に、下の「無断と土」の部分を並べてみたら、どうだろうか。

《かように生物は、探索し知覚した情報から特定の世界とそこに存在する肉体(そこに接続した視覚や平衡感覚等)を構成=リプレイすることで、ようやくそこに降り立つ。二〇世紀末に荒川修作+マドリン・ギンズが〈建築する身体 Architectural Body〉という概念とともに行った議論の通り、その降り立ちが失敗した場合、肉体は激しい可能の洪水を前に、自らにとって不透明な肉体が自らの位置する座標から離れた場所で、しかも自らの肉体の感覚器官と一定程度連帯したかたちで多数存在しうるという圧を、強い質感とともに受ける。荒川+ギンズはそれを懐かしさとして認識し、また彼らの先行者であるマルセル・デュシャンはエロティシズムとして検討したが、多くの生物にとっては恐怖という情動が充てがわれることだろう。そこで恐怖とは、一方では感覚器官間のもつれ、誤認の物象化、知覚対象の唐突な変容の予感などとして経験され、また一方では、世界によるこの私の自由意志の収奪、(この私とは異なる場所に私があらわれるという意味での)分身の発見、(この私において異なる私が現れるという意味での)肉体の役者化=世界の上演化としてイメージされる。世界を単一に束ね得るような(主に視覚的な)宿が無く、不確かな(主に聴覚的な)ノイズばかりが由来も定まらず反響し、起こる世界の変容あるいは複数化。いずれの場合でも観測されるのは、表現主体における表現の生成過程を自らの自由意志のもとで測定しそこねた肉体が世界の側から強引に採掘する〈喩〉の型であり、感覚器官の連合をめぐる極めて叙情的なバグであり、多宇宙=可能世界そのものの歪な擬人化である。》

2021-11-15

●山本浩貴「pot hole(楽器のような音)」(「ことばと」創刊号)。「無断と土」であれば、とてもハードで歯ごたえがあるとはいえ、読もうと思えばふつうに読むことが可能だ。たとえば、いきなり「詩」が出てきて、これをどう読むべきなのかと読みあぐねていると、その先に「詩の解釈」が書き込まれているのに行き当たる。だが「pot hole」にはその「詩の解釈」の部分がない。この小説をどう読むべきかということが、この小説には書き込まれていない。だから、この小説を読むということは、中味を読み進めることと、どう読めばいいのだろうかと探るということとを、同時に進行していかなくてはならない(とはいえ、本来ならば、あらゆる小説(作品)はそうであるはずなのだが)。では、どう読めばいいのだろうか。

まず、この小説は戯曲の形式で書かれている。だが、ここでいう「形式」とは文字通り「かたち」であり、戯曲が紙面に印刷されるとき、通常、文字はこのようにレイアウトされる、ということを意味する。中味をみる限り、戯曲にはなっていない(なっている部分もあるが)。登場人物の台詞であるかのようにレイアウトされている部分にも、ト書きとしてレイアウトされている部分にも、通常の小説の地の文のような文章が置かれていたりする。つまりここでは、内容と形式が一致していない。

では、戯曲の「形」で書かれていることに意味はないのかというと、そういうわけでもない。ト書きであるかのようにレイアウトされた部分には、あきらかに、舞台装置や舞台上の人の動きを指示しているような言葉がみられる(こともある)。だがそれは、舞台装置や人の動きを指示するもの(通常のト書き)なのか、今、舞台で起こっていることを描写しているもの(上演の描写)なのか、しばしば判然としない。さらには、台詞としてレイアウトされている場所にも、ト書きとしてレイアウトされている場所にも、「この戯曲(この小説)」を上演しようとしている人たちの姿(物語)が通常の小説のように書かれた言葉(文章)が配置されていることもある。さらにもう一つ、この戯曲によって表現されようとしている物語内容(出来事)を、舞台上の描写とはことなるやり方(詩的だったり小説的だったりする言葉)で表現する文章が、台詞の部分やト書きの部分にバラして配置される。この「物語内容」は、この戯曲を上演しようとしている人の一人である「Yさん」の経験であるようだ。物語内容は二種類ある。一つは、Yさんが子供の頃の話で、近くの山で土砂崩れが起きて人が死んだことと、Yさん自身が川で溺れそうになって、そこで自分の足をひっぱる防空頭巾の幽霊をみたこと。もう一つは、Yさんが大学院に進んで間もない頃に、友人が自殺したこと。

つまり、戯曲のようにレイアウトされた形式のなかに、(1)戯曲、(2)その戯曲の上演の描写、(3)戯曲を上演しようとしている人たちの話、(4)戯曲-上演によって表現される二種類の物語内容(子供の頃の経験と友人の死)の小説的描出、という異なるレイヤーが、ベタッと一つの層に圧縮されて書かれている。だから、この小説を読むということは、まずは、一つの層に圧縮されたものを、複数のレイヤーに腑分けすることだと言える(そうでなければ「意味」がとれない)。だが、読むということは、腑分けして整理するということとは違う。「一つの層に圧縮された」という言い方は正しくないかもしれない。同時に走っている複数のレイヤーがあって、(読むことを一筋の継起的な流れとするならば)スイッチングするようにして次々と別のレイヤーに飛び移るようにモンタージュされているとみることもできるし、(読むことが多次元的な空間の構築を可能にすると考えるのなら)様々なレイヤーの重ね合わせによって現実的な時空間とは異なるパースペクティブを打ち立てようとしているとみることもできる。この小説の狙いは後者であろう。

ではなぜ、こんなに困難でわかりにくい多次元的なパースペクティブの設立を仕掛けなければならないのか。それはおそらく、この小説が慰霊と死を主題とする作品であることと関係があると思う。

この小説の第四場で、上演中に舞台上の斜面から滑り落ちる役割を担わされる「人1」とされる存在は、この舞台を上演しようとしている人たちのうちの一人である(おそらく)ナーちゃんと呼ばれる人物について、一人称で語りはじめる(人1はナーちゃんによって演じられるのだろう)。ナーちゃんは小田急線で鵠沼海岸に向かいながら、「戯曲がぜんぜん掴めない」と思い、一度、戯曲のモデルとなったYさんの故郷の小学校まで行ったほうがいいだろうかと考える(戯曲のなかに、それを上演しようとする人の悩みがあらかじめ織り込まれている入れ子構造、とは考えない方がいいと思う、ここではたんに時空の底が抜けている、そのようなことがふつうに可能な時空が成立している)。そしてグーグルマップでYさんの故郷を検索し、事件の現場を辿るように移動する。電車で移動すると同時に、グーグルマップ上を移動してもいるナーちゃんの一人称の語りが重なるのだが、そこに、時折ノイズのように(おそらくYさんのものだと思われる)直接的な経験の描写が差し挟まれる。(1)小田急線での現実的な移動、(2)グーグルマップ上での仮想的な移動、(3)外からもたらされる直接的な経験、に、さらに、ナーちゃんがしばしば行う「人の動き」をつかもうとするドローイングの話、(5)6500万年前の隕石の衝突による恐竜の絶滅(絶滅した恐竜は《それ以降の時間には進むことを許されず(…)》)が加わり、いわば5つのレイヤーが重なって同時に走っている状態が生まれ、その先で、ナーちゃんの経験の一人称とYさんの経験の一人称(それは後に「人3」によって語られる)とが完全に重なる一瞬が訪れる。

第四場は、この小説のなかのクライマックスのもっとも分かりやすい例の一つだと言えるが、このようなはっきりした形に限らず、この小説の様々なところで、多次元的な交錯や出会い損ない、重なりやズレが起こっており、この小説は、このような多次元的な重なりやズレを経験することを通じて、(それを読む、少なくとも読もうと試みる)われわれに、別の時空間のなかに降り立つ別の身体への可能性をつくりだそうとしているのだと思われる。そのようにして別の身体の可能性を探ることが、慰霊につながるのだと考えているのではないか。

●この小説について、「文學界」の新人小説月評では以下のように書いた。

《山本浩貴「pot hole(楽器のような音)」(ことばと)。荒川修作小林康夫との対談集の中で次のように言う。《小林さんは言語の持っている不思議な力強さで自分を相当納得させているところがある。しかし私は、言語にはどこまでつきあっても納得できないんです》(「場それ自体が行為であり出来事なんだ」『幽霊の真理』)。荒川は、世界の発生には環境とそこへの入り口が必要だが、言語では、入り口は作れるが環境そのものまでは作れないと言う。だがそれは、入り口ならば言語で作ることが可能ということでもある。ここで新たな世界を生む環境とは、空間、時間、そして身体の関係の新たなあり方のことだ。そこへの入り口は、「自分を納得させる」ような言語の使い方とは別の使い方で作られる必要がある、と。本作は言葉への態度として荒川と共振しているようだ。だが同時に、入り口の創造がそのまま環境の創造の促しとなるような、誘因力と設計図としての密度を言語がもつところまでが目指されていると感じる。設計図を書くことがそのまま建築することであるような建築物、地図を書くことがそのまま身体の運動であるような行為の組み立て。様々な視点や形式や階層やスケールが、互いが互いを含み、含まれ合うことで、複雑な錯綜状態を作る本作の構造を簡潔に示すのは難しいが、単純化すれば、暗闇を手探りで進むように読むしかない部分と、メタ的に俯瞰する部分が混在しており、一文の中にも身体に無理な姿勢や変形を強いるねじれや接合が込められる。それは変身を描くのではなく読むことが我々の変身への促しとなるような言葉だ。変身は身体の変化だけでなくそれを包む時間と空間の変容と不可分だろう。》

2021-11-14

●「無断と土」(鈴木一平+山本浩貴)は、一方で大江健三郎深沢七郎の系列に連なる「天皇制小説」として歴史に残り得る画期的な仕事であると同時に、もう一方では、荒川修作+マドリン・ギンズが構想した「共同性」の概念に明確な像を与えているという点でも画期的であるように思う。

荒川+ギンズについて、その「死なない」ための探求についてであれば、面白がったり、興味をもったりする人も少なくないだろうが、彼らが考えていた「共同性」について真に受けている人はそう多くないのではないかと思われる。多くの場合、「まあ、それはそれとして…」という感じでお茶を濁すか、あるいは、荒川+ギンズが「言っていない」ことまでを動員し補強して、何となくもっともらしい形にとりつくろったりする場合が多いように感じる(とはいえ、ぼくはあくまで日本語の環境下でしか荒川+ギンズについて知らないのだが…)。ぼく自身もずっと、荒川+ギンズの「共同性」についてはどう捉えたらいいのか分からず(普通に考えて超危険だよね、と思うのだが)、考えあぐね、態度を決めかねている状態が長く続いている。

しかし「無断と土」では、恐怖についての分析と記述を通じて、荒川+ギンズにおける「共同性」の概念の根本のところが明快に示されているように読めた。これは本当に驚くべきことだと思うし、とても驚いた。そして、荒川+ギンズ的な「共同性」の概念を通して透かし見るように、天皇制の可能性と危険性が考察されているように思う。