2023/09/25

⚫︎七月の終わりに自転車を買って、八月は毎日のように自転車で海まで行っていた。今はさすがに「毎日のように」は行かないが、しばしば行く。片道20分くらいで、少しだけ海岸にいて、遠回りして帰ったり、途中で買い物をしたりして、だいたい一時間で帰ってくる。八月は、六時くらいに出て、七時くらいまで明るかったが、今では五時前に出て、六時前には帰ってこないと真っ暗になる。

海の近くに、鴫立沢という沢がある。西行が「心なき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という有名な歌を詠んだと言われている場所で(実際には、そこで詠まれたという根拠はあまりないらしいが)、それにちなんで、江戸時代に崇雪という人が沢の傍らに鴫立庵という庵をたてて、そこに「著盡湘南清絶地」と刻まれた石碑を作り、これが「湘南」という地名の由来だという。湘南とは元々、中国の湘江の南方一帯の景勝地のことで、この辺りの景色を文物として入ってきた(中国語の詩を通してイメージした)湘江の風景に擬えたということだろう。本当にここが「湘南」発祥の地なのか、地元の人だけがそう思っているのではないかという疑いもあるが、このこと自体は地元の高校に通っていた頃から、現国か古典の教師の口から聞いて知ってはいた。しかし、具体的にどこにあるのかは知らなかったし、行ったこともなかった。まあ、興味がなかった。

で、海までしばしば自転車で行くようになってたまたま発見した。あ、ここにあったのか、と、40年越しくらいで見つけた。車がびゅんびゅんはしっている、車優位で、横断するための信号がなかなか変わらない、そんな国道のすぐ脇にあるのだが、(「沢」なので)道路とは高低差があり、道路よりもかなり低い位置にあることで、それによってその一角だけ閉ざされて、空気の感じからして、周囲の環境と切り離された独自のものに変わる。しかもそこから数十メートルですぐ海岸なのだが、海の近くという感じもぜんぜんなくて、背の高い木々に囲まれた沢は、深い山の中にあるみたいな感じもあり、別の空間がそこだけ切り取られて出現しているようだ。

40年前から知ってはいて、特に興味はないがなんとなく頭に残っていたものが、いきなり目の前に現れて、しかもその空間自体が周囲から切り離されて異彩を放っている、というのはとても妙な感じだ。

2023/09/24

⚫︎お知らせ、というより、匂わせ。来年は、なんとか展覧会ができるっぽい。詳細の発表はまだ先になると思いますが、古谷が来年は展示をやるみたいだと頭の隅に置いておいてもらえるとありがたいです。

⚫︎都内のどこか。

 

2023/09/23

⚫︎小説を書いていると日記が全然書けない。それ以外のことにまったく頭が回らないし手がつかない。すごく辛いけどとても楽しい。あと一息だと思うのだが、どうやら最後まで行き着けそうだという安堵と、楽しい時間がもうすぐ終わってしまうという寂しさ。早く終わらせて楽になりたいのに、終わって欲しくない。

(これはおそらく、今まで「群像」「早稲田文学」「ことばと」に書いてきた短編シリーズの最後の作品になると思うのだが、これを書きながら、今までと少し違う、もう少し長いものを書けそうな、その書く感じを、掴めたとまではいえないが、そこにチラッと触れられた感じはある。これは単に幻だという可能性もあるが、このような幻を見ることをくりかえすことで何かを掴んでいくしかない。)

2023/09/22

⚫︎今月中に書くと約束した小説、あと最後の一押しというところまではきた。一押しというか、あと一つ、何かしらの飛躍が必要で、それが見つかれば多分、終わりにしていいのではないかと思う。いま、12900字くらい。

(特に犬好きということもないし、とても幼い時以外には犬を飼ったこともないのに、小説を書くとなぜか犬がよく出てくる。)

⚫︎夕方になると明らかに風が違う。海と(とても小さな)月。



 

2023/09/21

⚫︎たまたま、『パルプフィクション』の有名なダンスシーンの撮影現場を撮った動画を見つけたのだが、この場面を撮っているとき、カメラの後ろでタランティーノが(背中を汗でびしょ濡れにさせながら)ずっと踊っているのがすごくいい。撮影中に監督が踊っていても全然いいんだ、というのは何かが解放されるような発見だ。

Pulp Fiction detrás de cámaras escena de baile en Jack Rabbit Slims - YouTube

この、ユマ・サーマンとトラボルタのダンスシーンは、難しそうなことや派手なことは何一つやっていないのにかっこよく見える。何故だろうか(タランティーノの「撮り方」はあんまりかっこよくないと思うけど)。

【パルプフィクション】ジョン・トラボルタ ダンスシーン 高画質【Dance】 - YouTube

トラボルタがやっているのは、ツイストの教則動画に出てくるような、最も基礎的な動きなに見えるだが、「踊る」というのはそういうことで、これで十分なのだなあ、と。

Dance Demonstration of The Twist (1961) - YouTube

2023/09/20

⚫︎『すずめの戸締り』(新海誠)をU-NEXTで観た。前回の『天気の子』もそうだったが、今回もすごくシンプルな話だ。ほぼ見たままで全てがわかるように語られており、深読みや考察の必要がない(世界観としてはほぼ「カエルくん、東京を救う」だと思う)。ただ、最後のところが二重になっている。『君の名は。』でも『天気の子』でも、そして『星を追う子ども』でもそうだが、新海誠の作品は、最後は黄泉の国に降りていって死者を蘇らせるという展開になるのだなあと思っていると、死者=恋人は、主人公の「未来」を担うので救われるが、死者=母は、彼女の「過去」であるから、母の死は「受け入れる」ということになる。

(この物語は、一目惚れした男性にどこまでも徹底的に食らいついていくという狂気じみた女性の話であり、自分の中に「狂気の恋愛」を見出すことで「母の死=災害から受けた傷」をようやく自分の内に受け入れることができたという、とても激しい話でもある。「死ぬのが怖くない=生の実感のない」が故に狂気じみた行動をすることができる女性が、男性に一目惚れすることによって発動されるその「狂気じみて極端な行動」の中で「生への執着=未来」を得る。彼女は自分を大切にしない。その捨て鉢とも取れる行動の極端さの中に、彼女の受けた傷の深さが表現されている。自分を大切にしない女性が、一目惚れした男性を救おうとする自己犠牲的な行為の中で、男性と共に行きたいという生への執着が生まれ、ようやく「自分を大事にすること」を知る。これは、ダイジンを犠牲にしてでも男性との未来を得るという排他的で利己的な欲望の発動でもある。このような過程が、母の死の受け入れにつながる。)

(災害は、多くの人の命という重たいものを突きつけて、女性に「わたしの欲」を持つことを強く抑圧する。女性は一度、自分の欲望を抑制して愛する男性を「要石」とするが、一度火のついた彼女の「強欲」は、それを再び取り戻せとうながす。彼女の強欲が彼女に再び未来を与えるのだが、その時彼女は「彼女に愛されたい」と願ったダイジンの存在には見向きもしない。もちろん、彼女は何も悪くない。彼女に愛されないと悟ったダイジンは生を諦め、自己犠牲的に自ら要石となる。ちょっと「攻殻」のタチコマを思い出させ、ぼくなどはどうしてもダイジンの方に思い入れてしまうのだが。)

⚫︎ただ、この作品はなんといっても「イス最高」の一言に尽きるのではないか。イケメンは最初と最後しか出てこなくて、あとはずっと「イス」だ。イスだからこそ、人間には絶対に無理なアクションが可能になる。これこそがアニメではないか。個人的にこういうのが大好きなので、前半はずっと「イス最高」と思って観ていた。後半は、いつも通りの(『君の名は。』以降の)新海誠かなあという感じ。

⚫︎日本のアニメでは、なぜか絶対の掟のように、主人公は、子供でなければ若い女性か男性だ。だが、今までの作品を見て思うのは、新海誠には「少女」に対する思い入れは希薄であるように感じられる。ただ、ある程度以上の規模の作品では中心にいるのは少年と少女でなければならないという掟に従って、そうしているということであるようにみえる。この映画でも、実は叔母さんをもっと突っ込んで描きたいのではないかという感じがある。新海誠は、これだけ世界的な興行の成功を積み重ねているのだから、次くらいは、中年女性を中心とした企画を提示してみても、プロデューサーは受け入れるのではないだろうか。それによって日本のアニメの「別の可能性」の開けがあるのではないか。

(今回はRADWIMPSの曲が流れなくていい感じだと思っていると、最後に流れてきてガクッとなる。ただ、今回は明らかに付け足し的にあるだけで、作品の内容に深く食い込んでいないので、次には、もうなくてもいいのではないか。)

⚫︎最初の場面の、自転車が坂を下っていく運動感が素晴らしい。この感じは、まず「坂の傾斜を撮る」ということからしてとても難しい実写映画ではどうやってもできないのではないか。『君の名は。』でもそうだが、新海誠の坂道の描写は唯一無二だと思う。それと、片側が山の斜面になっていて、もう片側が谷になって落ち込んでいる道路に視点がある時の、空間の広がり。これは例えば『星を追う子ども』でも見られるが、この感じも新海誠独特のものだ。この感じは、単に構図だけでなく、カット割りや、空に飛んでいる鳥がフレームに入る時の入り方とか、あと音の使い方とか、それらすべての要素の統合の仕方によってできているのではないかと思う。空間の描写と身体運動の絡め方という点で、宮崎駿の後継者は新海誠だと言っていいのではないか。この作品でも、イスが、まるで『未来少年コナン』のコナンのように動いていた。

2023/09/19

⚫︎まとまりのない(ちゃんと調べたわけでもない)思いつきをただ並べる。

60年代から70年代にかけて、アナーキーな大衆娯楽として、一方にヤクザ映画があり、もう一方にピンク映画があったとする(これはあくまで男性的な見方で、女性から見たらまったく別の風景が見えたのだろう)。大衆娯楽の本流としては、ホームドラマがあり、時代劇(チャンバラ映画)があるが、アナーキーな反主流としてヤクザ映画やピンク映画がある。両者どちらも、70年代から80年代へと移行する時期に力を失って衰退していく(ジャンルとして細々と続いてはいる)。大雑把にいって、ヤクザ映画は右翼的で、ピンク映画は左翼的だと言えるだろう。

(内容としては保守的だとはいえ、例えば橋本治が描いた有名な東大五月祭のポスターなどを見ると分かるように、左翼の人もヤクザ映画は大好きだった。)

(それとは別に、左翼的な喜劇映画の系譜というのもあった。初期の山田洋次や、森崎東前田陽一など。)

映画としてみれば、ヤクザ映画に比べてピンク映画は弱いようにも思われる。例えば、右翼的な「暗殺(テロ)」映画としては『日本暗殺秘録』(中島貞夫)があるとして、左翼的な「暗殺(テロ)」映画に何があるだろうかと考えて、『天使の恍惚』(若松孝二)をU-NEXTで観てみたのだが、まったく面白くなくて二十数分で観るのをやめてしまった(あまりにもセンチメンタルに過ぎるように思う)。これは仕方のないことでもあり、ヤクザ映画が主に東映という伝統もあり資本力もある会社で作られていたのに対し、ピンク映画はよりマイナーであり、日活を除けば、技術的にも資本的にもずっと貧しい独立プロダクションという環境で作られていた。左翼は常に貧しい、と。

(だが、低予算で作られる初期のピンク映画はコスパがよくて、利益としてはかなり大きかったようだ。若松孝二は2000年代、『ピンクリボン』というドキュメンタリーのインタビューで、「数十年前に、ビルの一室で、三日間で撮った映画が、今でもお金を生み続けている」と豪語していた。記憶による記述で、間違っているかもしれないが。)

(『天使の恍惚』はATGが製作に絡むアートフィルムであって、ジャンル物としてのピンク映画とは違うかもしれないが、アートフィルムとピンク映画の境界は曖昧で、この「アートとの境界の曖昧さ」もまた、ピンク映画の一つの特徴ではないか。ピンク映画は、ヤクザ映画よりもアートという領域で評価されることも多い。日本では、エロとカルチャーが結びつくことが多く、例えば、80年代のエロ本は同時にサブカル雑誌でもあった、など。今では、それを不快に思う人の方が増えているのかもだが。)

ヤクザ映画もピンク映画も、同じ時期に衰退するというのも興味深い。ピンク映画の衰退はアダルトビデオの隆盛によるとされているし、Wikipediaではその直前の80年代前半が産業としてのピンク映画の最盛期とされているが、(ピンク映画全体を見渡すことはできないので)にっかつロマンポルノを指標として考えれば、80年代に入ると分かりやすく作品の質が低下(あるいは変化)しているように思われる。ヤクザ映画の側から見ると、高倉健が主演の『幸福(しあわせ)の黄色いハンカチ』(山田洋次)という作品がヒットし、『北陸代理戦争』を最後に実録路線から深作欣二が撤退する、1977年が象徴的な年だろう。高倉健ホームドラマ化する。高倉健はこれ以降、「ヤクザ映画のスター」から「退屈な大作に出演する大物俳優」になる。ここに、左翼的な喜劇の作家である山田洋次がかかわった。

男はつらいよ』の映画版第一作は1969年。これが90年代半ばまで続くシリーズとなる。寅さんも「ヤクザ」と言えるが、その反社会性は、(1)家族に迷惑をかける、(2)定住せず、家庭も作らない、という程度のものだ。寅さんという「反家庭的存在」がホームドラマに小さな波乱を巻き起こすというパターン。

ヤクザ映画とピンク映画。雑にいえば暴力と性ということだが、社会の中での暴力や性についての捉え方、受け取られ方が、70年代から80年代に移行する時期に大きく変化したということではないか。このような変化があると、変化の前のことは、後になってからでは感覚的にも(というか、「感覚的なこと」こそが)わからなくなる。最近では、おっさんでも平気で外で短パンを履いているが、成人男性が短パンを履いて出歩いても奇異に見られなくなったのはわりと最近のことであるはずだが、もう既にそれがいつごろからのことか忘れてしまっている、など(吉田豪はいつから短パンなのか…)。