2023/01/29

桂離宮を回遊する経験をかなり正確にトレースできる動画をYouTubeで見つけた。途切れないワンカットで撮られているし、カメラが注目するところもけっこう的確だ(チャプターもついているし、ガイドの音声もとてもよく録られている)。この動画をベースにして、もっと画質の良い他の動画や写真も参照して、薄れがちな記憶を補完すれば、あのときの感じを生々しく頭の中で再現できる。

(動画を観て改めて、「幽体離脱の芸術論」にとって桂離宮は重要だと感じた。)

京都 桂離宮 (案内係員の音声収録が良好) Katsura Imperial Villa, Kyoto - YouTube

2023/01/28

●Stable Diffusionに自分の作品の写真を取り込んで、「Henri Matisse Painting」「Pablo Picasso Painting」という語で変換してもらったら、やけに楽しい絵が出てきた。上がぼくの作品、真ん中かマティス変換、下がピカソ変換。

(どちらもあまり変わらないようにも思うが、ピカソの方が形がカクカクしていて抽象度が高く、絵具の塗りが強調される傾向にあり、マティスの方は、形がフニャッと柔らかくて具象性が高いというくらいの違いがある、か。あと、色はやや燻むんだな、と。ここで出てきた絵はとても楽しい感じだけど、一歩間違うとDeepDream的な悪夢の方へ雪崩れ落ちかねない危うい気配も薄っすらとある気もする。)

(いや、最初は、やたらと楽しい絵が出て来たと思っていたが、長く観ていると徐々に、統合を欠いた狂気のようなものが見えてきて、だんだん落ち着かない、怖い感じになってくる。やはり、自分の絵が一番落ちつくな、と。それが、わたし=人間の限界でもあるのかも。)

(変換すると、自分の絵がこうであることの必然性―-自分がやりたいこと-―は消えてしまうのだな、と思うと同時に、自分からは絶対出てこないものが出てくることの面白さもあると思った。変換して出てきた絵に、自分が影響されるということもあるだろう。)

この辺の細部とか、すごく面白い。

上の四枚が「Henri Matisse Painting」、下の四枚が「Pablo Picasso Painting」。

 

2023/01/27

●ぼくにとって天沢退二郎は、まずは『光車よ、まわれ!』や「オレンジ党」シリーズの作家として、そしてまた、アンリ・ボスコの翻訳者としてとても大きな存在だ。シリーズ一作目の『オレンジ党と黒い釜』を初めて読んだのは小学校五年生(1978年)だが、完結編『オレンジ党 最後の歌』を読めた時にはもう46歳になっていた。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

●地図萌えも天沢退二郎から。一枚目は『光車よ、まわれ!』の地図、二枚目は『オレンジ党と黒い釜』の地図。

ちなみに、次の画像はアーサー・ランサムの地図(『スカラブ号の夏休み』)。

●面白いのか面白くないのかよくわからない、なんとも掴み辛い夢日記みたいな散文詩にも、不思議にとしか言いようがないのだが、不思議に惹きつけられるのだった。ここから受けた影響はとても大きい気がする。以下、詩集『乙姫様』より「運河に沿って」、詩集『ノマディズム』から「ファルマコス」の二篇を丸ごと引用する。

(改めて読み返して、そして書き写してみて、この、掴みどころのないとろっとした単調さのようなもの、えっこれで終わりなの、と、足をカクンとされるような呆気なさに、自分が受けた影響を思い知るという感じだった。オチがつかずに、竜頭蛇尾的に終わるというのがまた。夢的なリアルだと思う。)

運河に沿って

 

 運河に沿ってその水面とほとんど差のない舗道がまだ夜来の雨で湿っているのを音もなく踏みながら幼い娘の手をひいて歩いていくと片側にしめやかな料理屋がならびはじめた。どれもまたタタキが路面と差がなくてそこに畳一枚の厚さに敷き並べられた客席の間を黒衣の女たちがゆききしているのをのぞきこみながら、そこには立ちどまらずに、やがて青黒くコンクリートを打ち放した食堂の二階へ上がり窓際の席に娘を座らせてわたしはトイレを行くからと階下へ下り外に出た。そうやって娘を置去りにするのがかねてからの計画だったのだが、つい見上げると窓際に娘がこっちを見ているのと視線が合ってしまっては、どうにもぐあいがわるいからちょっと手などあげてみせてそのまま本当に手洗所に入ると長々と放尿しながらさてどうしたものかと途方にくれた。しかしもうずいぶん時間もたった、もしかして娘は勝手にどこかへ行ってくれたのではないかとそれを空頼みにおそるおそる手洗所から首を出すと窓辺に娘の顔はない。しめたという気持ちと娘がどこへ行ったのか慮る心配とが二本の紐になってまといつくのをふりほどいてわたしは運河ぞいに歩き出した。

 思えば同じようにして病妻を置去りにしたのはもう何ヶ月いや何年前であったか、いまようやくこうしてほんとうにただひとり運河ぞいに歩いているのが夢のようだ。とはいってもべつに、妻や娘が邪魔だったわけでは全くない。ただああして置去りにするまさにそのときの、その行為の云うに云われぬ胸の底を丸っこい指さきでかきむしるような切なさを味わいたい、ただもう無性にそれが味わいたいと思いつめてこの何年何ヶ月を彷徨ってきたのだったが、さてついさっきからはじまり進行し終ろうとしているこの置去りのその切なさを自分は充分に味わい、味わいつくしたのかというと、これまた切ないばかりにもどかしくやるせなくこころもとないのだった。

 それなのに運河ぞいのみちは次第に華やぎはじめた。右から左からさし下される枝々に花か紅葉か色けざやかに重々しくしだれて、まだぬれたままの路面に照りかえすその不吉さのたえがたさにわたしはぷいと左手の黒々とした料理屋に入った。暗い廊下は右に左に折れ曲がり折り返してまもなく黒小紋の婦人がひとりわたしを迎えていそいそと立ち上がると、「嫁菜御飯ができていますよ、たきたてですよ」とにこにこするので見ると床の間の大きな水盤にたき散らされた熱い白い御飯のなかへ、なるほど青じろい大ぶりのヨメナが何本も何本も活けてある。そうだ、娘を嫁に出すときの料理はこれに限る! そう思うとわたしは思わずもう顔ぜんたいが笑えてきてどうしようもないのだった。

 

ファルマコス

 

 書籍や薬をくるんだ風呂敷包みを両手にさげて路地を駆け下りバス通りに出たところで忘れ物に気がついた。仕方がない、よいしょと再び急坂を登って幾度かみちを折れたけれどもどうにも伯母の家へは戻れぬままに、狭い私道の迷路へ入りこんで、いやこれは私道とさえいえない、たてこんだ民家の軒や縁側や台所の庇などの間の不定形に屈曲する隙間にすぎなかった。そこで私は教授と称する男に出会ったのだ。

 それは大学教授というより中小企業の社長といった風のやけに角張った中年男で、色あせた浴衣を着て濡縁に腰かけたまま私に身の上話をきかせたが、それによると彼はもう十五年来この路地の奥から外に出たことがなく、いずれ家族を離縁して手製のヨットで側溝づたいに外海へ出たいと夢見てきたが、その側溝も暗渠になったしもう駄目かもしれないという。そんな情無い話は聞きたくもない---それで大学のお勤めはどうしているんですかと訊くと、教授はどうも近頃の学生は当てにならんでねと曖昧にごまかして濡縁から中に入ってしまった。伸びあがって覗いてみると、障子の上半分に嵌ったガラス越しに、教授が立ったまま白衣の女に不思議な容器に入った何か異様なものを食べさせられているのが辛うじて見わけられた。

 頭上にやはり屈曲する空は、もう日暮れが近いらしく、ふしぎな桃色と青に染めわけられていた。私は何となく右へ往き左へ往きしたが出口は皆目見当がつかず、台所の出窓からは手拭被った若奥さんの立ち働く顔の下半分や、洗剤の瓶の口や鍋のかち合う音や湯気やらしんそこよそよそしくのぞくばかりで、私もこんなところにいつまでも佇みうずくまっているわけにもいくまいが、ねえ、いったいぜんたい私はどうすればいいんですか!

 

2023/01/26

吉本隆明のテクノロジーに対する態度について。檜垣立哉『日本近代思想論』第17章「吉本隆明によるテクノロジーと生」より、メモとして引用。ここで問題にされているのは「核」だが、おそらく核以上に人間にとって危険なものとなるだろうAIについて考えるための参考になるように思った。

(興味をもって『「反核」異論』を検索したが、今、Amazonマーケットプレイスでは品切れで買えないようだ。)

吉本隆明にはどこか明るい科学技術への信頼がある。》

《そうした吉本にとって、とはいえこの問題に深く関わるポイントともいえる問題がある。それは「核」についてである。》

《(『「反核」異論』における)吉本の主張は、テクノロジーと政治、あるいはより深くテクノロジーと人間の生に関する吉本の思考を検討する際におおきな意味をもつだろう。》

《『「反核」異論』でも、わずかではあるが「反原発派」に対する痛烈な批判を行っている。》

《何も吉本が核兵器の存在を、たとえ軍事バランスとしてであれ容認しているわけではまったくない。同様に、原発についても、原発を即時にすべてやめることは困難だろうと語りつつも、原発そのものを肯定しているわけではない。吉本が問うているのはそれらに反対する「反」という姿勢が内包する危うさにある。》

《吉本は、原発について、これから人類は危ない橋をとぼとぼと渡っていくしかないと述べている(『思想としての3・11』河出書房新社参照)。吉本は原発に対して賛成であるわけではない。だが吉本の思考のなかに、「反核」異論のときと同様に、核と放射能という自然エネルギーをとりだし操作可能にしてしまった人類そのものの課題をみていることは確かであろう。そしてその課題をみようとしないあらゆる運動を、吉本は批判しつづけるのである。》

《(…)中野孝次の宣言文自身や、それに同調する大江健三郎の文章などに顕著にみられる、一種の恐怖言説そのものも標的に挙げられる。当時の核爆弾は、そのすべてをひっくるめれば地球の人間を何回でも破壊しうる力をそなえていること、それが利用される危機が迫っていたことは確かだろう。だがそれが、この宣言や反核運動の正当性を支えるものとされるとき、それは「危機」を利用して反論を押し殺す言説でしかない。》

《(…)核物質の半減期が数万年におよび、それがはるか彼方にまで汚染をひきおこすという主張について、先の「SF的想像力」とほぼ同様のことが述べられている。「半減期が約二万年だから、約五万年も放射線が消えないプルトニウム廃棄物質にまみれて、あたかも糞尿に囲まれて生活するかのような妄想を、大衆に与えるほか、どんな意味もない」(『「反核」異論』四〇六頁)。ここからとりだされるのは倫理的反動だけであり、それでは「敗北主義的敗北」に陥るだけの運動しか構築できないと述べられる。これは「開明」によってでなく「迷蒙」によって「大衆のエネルギイ」を動員するだけのものだというのである。》

《では吉本が語る「開明」とは何か。それは、テクノロジーによって開発された宇宙エネルギーの解放は、それ自身の制御可能性も含め、テクノロジーによって対抗しうるよりほかはないという主張からとりだされるだろう。吉本は、核兵器の撤廃に対して、核を一度獲得したからにはそれに対するテクノロジーはすでに人類史に蓄積されており、これを「禁止」「廃棄」という理念で把握するのは、それが少数のテロリストによって利用できる限り不可能だと論じたことがある。》

《(…)終末イマージュそのものは人類にとって普遍的なものでさえある。人類史の水準で考えれば人類は必ず滅びるし、宇宙史のレヴェルでいえば地球はどこかでなくなる。時間を生きてきた人間はそのことを知っているし(宗教的イマージュを創設しえたことそのものがそれに通じるし)、人類史上・自然史上で核エネルギーを解放した人間の物質的条件は、あらたな仕方でそれに接近したものだといえる。》

《そこで核エネルギーそのものは自然物である。確かに人類はそれを解放した。それによって人類は滅びるかもしれない。だが人類は生物学的進化の必然で滅びるかもしれないし、たんなる気候変動で滅びるかもしれない。そこで根源的に「滅びる」ということを自然過程として捉えないで、人類がとりだした核のエネルギーを特権視する言葉は何を述べているのか。吉本のテクノロジーと自然への信は、時代の条件としてのこのプロセスだけを特別視することに向けられている。そこでみいだされるべきは、そもそも生誕して滅びていく自然過程のなかにあることへの信である。》

《敗北主義ならざるものとは、自然の核エネルギーの解放に対して、何ら否定しないことだ。逆説的にきこえるかもしれないが、吉本はこれだけが、人間が自然と巧くやっていく手段であると考えたとおもう。現在の原発問題についていえば、吉本は即座に原発の核エネルギーを拡散させないテクノロジーと、拡散した放射線の被害を緩和するテクノロジーを発見することに全力を傾けるのが人間の「とぼとぼ」歩くべき道だというだろう。同時に原子力よりはるかに廉価な自然エネルギーの解放を早急におこない、それを資本主義の理屈にのせて(つまり経済的に安く、ということだ)流通させる手段を確立することだけが、反原発運動を間違いないものにする手だてだというだろう。その方がよほど戯画的であるといわれるかもしれない。だが、自然と一体化しているわれわれのテクノロジーを敵とみなすことなく、むしろその奇妙奇天烈な解放力をことほぐ吉本にとって、それこそが人類のなしうることだということになる。》

●おそらく、AIの発達は人間を幸福にしない。できるのならば、その研究・開発はやめた方がいいと思うし、そのような潮流は世界的にも(特にヨーロッパで)広まりつつある。しかしそこで問題なのは、みんなで取り決めて「開発はしない」ということにしても、テクノロジーとして実在する限り、こっそりと研究・開発を行う「誰か」は絶対にでてくる。この場合、取り決めを破って研究をつづけた者が、取り決めを守っている者たちに対して様々な点で圧倒的な優位に立ち、守った者たちを支配することが可能になる。これを避け、力の均衡を保つためには、研究・開発を「やめることができない」ということになると思われる。そうであるならば、それを「肯定的なもの」とするように開発するしかないということになるのではないか。だがそれは、とても危うい、綱渡りのような道を行くということだ。

2023/01/25

●夢。駅前を歩いていると、神社に併設されている古い造り酒屋の奥の方から、端正な顔立ち、端正な服装の若い男性が出てきて、「利き酒会をやるので参加しませんか」と声をかけられる。是非とも、と言ってロビーに入ると、折り畳み式の細長い机の上に、参加者のものであるらしいマスクがきれいに並んでおかれている。それによって、今、自分がマスクをしていないことに気づいて、しまった、マスクを車のなかに置いたままで出てきてしまった、と思う。二、三軒先に確かドラックストアがあったはずだし、そうでなくても、いつの間にかこのあたりはドラックストアだらけになってしまったのだ。ちょっと出て、マスクを買ってすぐ戻ってこよう。

だが、二、三軒となりのドラックストアだったところは、色黒で、赤いシャツのえりを立てて着ている筋肉質の店主が不自然なまでの笑顔で店番をしていて、両側の棚には怪しげな電子部品が並んでいるばかりだった。さらに少し離れた場所のドラックストアまで行くが、闇市かアジアの朝市のように、色とりどりの様々な物を売る小さな区画がずっと先まで、蛇行する通路の両側にひろがっていて、こんなに雑然とした店では容易にはマスクをみつけられそうもない。

神社からはさらに離れるが、角をまがって少し先にコンビニがあったはずで、そこならマスクを買えるだろう。しかし、駅からも神社からもどんどん離れていくのがもどかしく、端正な若い男に理由も言わず出てきてしまったことも気がかりだ。

コンビニは、やけに間口が狭く、そのかわりに奥までまっすぐ長くつづいていて、そしてなぜか、レジもそれに沿ってずっと細長く奥までつづいている。たくさんの客がいてごった返しているが、レジの内側にも、たくさんの店員がいるので、並ぶことなくすぐに買えそうだ。しかし、ベージュ色でレース模様のついたマスクしか売っていなくて、これを自分がするのか、と抵抗を感じるが、急いでいるのでとにかくそれを買った。

外に出て神社に向かうと、真っ赤な日の丸の腕章をつけた黄色に近いカーキ色の軍服の男たちが、何か威嚇的なパフォーマンスをしていて、それを避ける人たちで歩道は渋滞している。こういう人たちはなぜ、自分の存在をアピールするときにこんなにも威嚇的になるのかと苛立ちながら、駅前まで戻ると、そこでは百人を超えるであろうという軍服たちが大々的にパフォーマンスを敢行している。はやく戻らなければという焦りと苛立ちで、パフォーマンスに使われているハリボテ(何なのかよくわからない)や金属の物(何なのかよくわからない)を蹴っ飛ばしたり、倒したりしながら進むが、神社にまで至ることのないまま目が覚める。

2023/01/24

●八王子のくまざわ書店の動画があって、懐かしくて見入ってしまった(ここには本当に「入り浸っていた」という感じだ)。今は生活圏内にまともな書店が一つもないし、コロナで都心に出ることも少なくなって、本屋さんで本を買う(本を探す)ということを全くしなくなってしまった。

【八王子市旭町・くまざわ書店 八王子店】八王子で愛されている本屋さん - YouTube

八王子には、くまざわ書店の他に、佐藤書房とまつおか書房という古本屋があり、大きめのブックオフもあって、今思えば贅沢な環境だったと思う(大学に入ったばかりの頃は、小さな古本屋がそこここにあった)。今は無くなってしまったが、南口には、あゆみBOOKSという、小さいけど品揃えの面白い本屋さんがあって、一階が本屋で二階が喫茶店だったので、下で買った本を上で読むうちに一日が終わる(窓際の席だと駅前が一望できる)ということも多かった(南口の再開発前には、闇市のなごりのようなバラック建ての八百屋とかがまだ残っていた)。ぼくの二冊目の本(『人はある日とつぜん小説家になる』)は、発売直後でも八王子のどこの本屋さんにも置いてなくて、厳しいなあと思ったのだが、あゆみBOOKSには三冊置いてあったことを憶えている。

住んでいたのは八王子の一つ隣の西八王子という駅の近くで、回り道をしてゆっくり一時間くらいかけて八王子駅近くまで散歩して、本屋と古本屋、そして古着屋をのぞいて、また、一時間くらいかけて歩いて帰ってくるということを、ほとんど毎日のようにしていた時期があった。数百円の古本の文庫を一、二冊買うくらいしかお金は使わないが幸福な時間だ。

furuyatoshihiro.hatenablog.com

追記。あゆみBOOKSがシャノアール(二階にあった喫茶店)の系列だということを、たった今、初めて知った(二つ同時に消えたのは、だからなのか…)。

 

2023/01/23

●『ゴダールの決別』をU-NEXTで。この映画で、湖の近くに暮らす人々や学生たち、そこへビジネスでやって来た人々が、湖畔や、カフェや、(絵画教師のやっている)本屋や、ビデオ屋や、牧師と教師夫婦の家などで、落ち着きなくも騒々しく言葉を発しながら行き来し、交錯しては、行き違っていく描写(映像と音のモンタージュ)がひたすらカッコいい。とにかくそれだけをただ観ていたいと思う。切れ切れのフレームに忙しなく人が出たり入ったりする騒がしいモンタージュと、流麗な長回しとが組み合わされ、ドタバタと落ち着きなく気に障るようなノイズとリズム(頻繁なリズム変換)と、息を呑むような美しさ(美しいイメージ)が平然と、雑然と同居している(この雑然とした同居こそがゴダールなのだと思う)。

それに比べると、離婚の危機にある夫婦の夫の留守中に、夫の姿となった「神」が現れて妻と関係を持つという題材(主題)に対しては、そこまで興味を持つことができなくて、中盤以降の、「神」と妻との対話部分になると、興味や集中力がどうしてもやや散漫になってしまう。

●『ゴダールの決別』の撮影現場のリポートがYouTubeにあった。ゴダールが口移しに俳優たちにセリフを伝えている。

Jean-Luc Godard et Gérard Depardieu (1992) - YouTube

ゴダールの(というか、カロリーヌ・シャンプティエの)撮る画面がいかにカッコいいのか。ザ・ストロークスの「Hard to Explain」という曲に、『ゴダールのマリア』の映像を編集して合わせた動画があった。何度も観てしまう。

Hard to Explain / Je Vous Salue, Marie! - YouTube