2021-05-16

●お知らせ。 Spotlight (日本語)とmedium(英語)に、VECTIONのアカウントをつくりました。ガバナンスにおける権力分立の望ましいあり方について考えるエッセイを、週一のペースで公開することを目標にしています。長いエッセイを、少しずつ出していきます。

Spotlight

spotlight.soy

 

medium

vection.medium.com

 

久保ミツロウ能町みね子YouTube動画で、能町みね子が話題にしていた「ファッション イン ジャパン」という展覧会が気になって、即、図録をネットで注文してしまった。

広島そして島根会議【第61回 俺たちデトックス女子会会議室】

https://www.youtube.com/watch?v=dZuf-6Wgs_0

ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会

https://fij2020.jp/

この図録をパラパラ観ているだけでとても楽しい。今、毎日多量の文章を読み込んで、それにかんしての(ほんの数人しか読まない)少なくない量のテキストを書くという苦行のなかにいるので、そのストレスがかなり癒やされる。

ファッションが面白いのは、その構造、形式、概念、フォルム、色彩の配置、を見て楽しむことがそのまま、それぞれの時代の空気を感じることと直結している感じがあるというところではないか。それは、古い時代の写真を(過去の風景や人の姿の具体性を)見るということとも少し違っていて、いったん人の手(頭)によって造形・加工(虚構化)されていることによって、時代の空気が濃縮されたり、エッジが立てられたりすることで、「空気そのものがそこにある」感が強く出るのではないか。加工物によってはじめて生まれる、具体物とは異なる生々しさがある、というのか。

2021-05-15

●『今ここにある危機とぼくの好感度について』、第三話。変わらず、現実や権力のあり様を単純化、紋切り型化しすぎていることで、批判の論点がブレてしまって、何が言いたいかよく分からなくなっているように思うのだけど。ただ、松坂桃李のキャラはだんだん面白くなってきている。

気になったのは、イベント推進派の教員や学生たちに、苦情を直接受け止めている広報課の職員へのケアについての意識がないこと。推進派教員は広報課長に「申し訳ないが、そこは我慢してください」と言うだけだ。リベラルにありがちなブラック労働容認的空気(言論の自由のためには広報課職員が犠牲になるのも仕方ない的な感覚)への批判的視点がないように思う。

(かろうじて、広報課の女性職員が「わたしもう耐えられません」と課長に泣きながら訴える場面があるが、松坂桃李の「心のない」対応との対比による笑いで流されて、この問題についてこれ以上深く触れられることはない。)

総長が、上からの権限でイベントを強引に実施する時に、もっとも大きな負担を受けるのは、増え続けるであろう苦情を受け続けなければならない広報課の人たちではないかと思う。ジャーナリストや観客を守るために警備を強化することは出来るが、広報課の職員たちを守るための対策はどのようにすれば可能なのか。こういうところに、現実的に困難で大きな問題があると思うのだが。

ただ、総長(松重豊)が本音を言い出すと「英語」になる、というのは皮肉が利いていると思った。総長は日本人には期待していないということが(それが無意識だとしても)、これによって表現されている。「意味があること」を言う時には英語で言う。日本語は国内コミュニティにしか届かず、故にそこでの事情に縛られ、国内でのポジション取りのための抗争の道具にしかならないからむなしい、という諦観は(残念だけど)リアルだと思った。

2021-05-14

●『大豆田とわ子と三人の元夫』、第五話。

この回でまずすごいと思ったのは、「気づき」という状態を発生させるための、未来へ向けた伏線ともいうべきものの機能だ。もやもやっとした予感を生成し、そのポテンシャルが上がっていき、ある時、ふっと「気づき」に至る。砂浜での足形、靴下の穴、微妙な間、靴下二足のプレゼント、微妙な間、本人を前にした「過去の状況」を整理するように振り返る対話、着信、泳ぐ視線、靴下を買って行ってあげないと…。これらの要素、状況が積み重なることで、長年気づかなかったことに、ふと気づいてしまう(気づいた瞬間、気づいた本人が画面のなかにいない、という演出もすごい)。状況の重なりによって「気づき」はあたかも向こうからやってくるかのように松たか子の元へ訪れる。真のサプライズは、誰かが計画して起こすものではない(しかし、脚本・演出はそれを計算して創り出している)。

(「くつしたってさ、そういうこと」と言う松たか子は軽く噛んでいる。意識的にやっているかは分からないが、この「軽噛み」のリアルさ。)

松たか子が、松田龍平の片思いの相手が市川実日子だということを今まで気づかなかったのは、おそらく気づきたくなかったからであり、察していたとしても、気づかないように無意識を抑圧していたからだろう。様々な徴候を、松たか子は半ば意識的に見逃しているようにさえみえる(サプライズパーティーの徴候は決して見逃さないのに)。しかし、様々な要素の重なりによってつくられる状態が、意識の検閲を緩ませ、その隙を突いて「気づき」が浮上する。ここで「緩み」は、セクシスト社長の愚痴を松田龍平がまともに受け止めて怒ってくれたことによる、彼への信頼感の惹起が、意識のガードを緩ませたという一面もあるのではないか。また、離婚に対する罪の意識---父から娘を奪い、娘から父を奪った---を告白したこともまた、抑圧のガードを下げさせた原因の一つであろう。「気づき」は、様々な要素の積み重ねによって起ったわけだが、それにしてもこの「気づきのシーン」はすばらしく、気づきがまさに「ここ」で起るべくして起ったという説得力があった。

(松田からの靴下のプレゼントは---松田の意図はどうあれ---松にとってガチでサプライズであり、松田龍平は計画とは無縁のサプライズを生成できる存在であろう。)

(松たか子と同様に、岡田将生にも、気づかなかったことへの気づき=サプライズが訪れる。今まで見えていなかった、見ようとしなかったものが、見えるようになってしまったという点で同じだろう。岡田将生の場合は自ら気づくのではなく、偶発的、物理的接触によって---他者として---「気づき」がやってくる。)

前回の市川実日子と浜田信也との関係の描出はいわば今回の「先触れ」的なものだとも言える。市川実日子松田龍平との間にも、同様だが、もっと長く、深い、緊張を伴った、つかず離れず状態があり、それは今もなおつづいていている。前回の市川実日子と浜田信也との関係は、いわば過去の市川実日子松田龍平の関係の変奏的反復でもあり、代理的回想という機能ももっていたと言える。

また、松田龍平市川実日子松たか子三者関係は、石橋静河松田龍平岡田義徳三者関係と、男女を入れ替えてパラレルであり、松田龍平は、石橋静河の行動が、自分と岡田義徳との関係を悪化させてしまったように、自分の行動が市川実日子松たか子の関係を悪化させてしまう、ということがないように配慮しているようにみえる。とはいえ、岡田義徳が知ってしまったように、松たか子も気づいてしまった。

ここで石橋と松田の異なる点は、松田は恋愛至上主義ではないということだろう。松田と松の関係は恋愛ではないようだが、恋愛ではないからといって松が「二番手」というわけではない(恋愛が「一番」ということではない)。二人の間に唯一無二の信頼関係があるということは、他でもなく「気づきのシーン」そのものによって表現されている。

●娘(豊嶋花)が、医者になるという目標を捨て、勉強をやめた原因は、家が医者でお金持ちの「西園寺くん」と付き合っていることと関係がありそうだ、と匂わせられる。今回、豊嶋花が過剰に両親(特に父)に甘えている感じだったことが気にかかる。彼女の目標変更には、何か彼女なりの隠された挫折があるのかもしれない。

(そもそも豊嶋花は両親大好きで、会社の経営方針では常に母の肩を持つし、頻繁に松田の店を訪れているのだが。)

松たか子の前にあらわれた三人目の男は、詐欺師(斎藤工)、チャラ男(川久保拓司)についでセクシスト(谷中敦)だった。しかも強力な利害関係者。この件にかんしては次回以降の展開か。

2021-05-13

●以下は、ぼくが以前書いた「「ふたつの入り口」が与えられたとせよ」という小説の一部分です。「群像」2011年4月に掲載されています。これは、はじめて公的に発表できた小説で、他分野の人の書いた短編小説を掲載する「新鋭短篇競作」という企画として依頼されて書きました。「夢の話」を書くのではなく、どうやったら「夢の状態」を書くことができるのか、ということだけを考えて書いたものです。

11日からここまで、今まで発表した四つの小説の部分を、今年中には発表できるだろうと思う五つ目の小説の遠い予告編として、ここに置いておきます。

http://gunzo.kodansha.co.jp/3685/6350.html

 

わたしはいつも、自分の部屋へは後ろ側の入り口から入る。前側にも入口があることは知っているが、見たことは一度もない。わたしの部屋は六畳一間のはずなのに、後ろ側から入る時と前側から入る時とでは別の場所に繋がっているようだった。だから、わたしは、わたしの部屋を、いつも前側から入ってくる人と一緒に使っているのだけど、その人とは一度も会ったことがない。でも時々、タンスや机の引き出しを開けようとすると、向こう側から閉められてしまうことがある。きっと、わたしがそうした時にその人もまったく同じことをして、タイミングがぴったり合ってしまうとそうなるのだと思う。その時、ちらっとその人の手の影が見えて、影が手袋みたいにくるっとひっくり返るのが見える。

 

あなたは、どうやらわたしの存在には気づいているようだが、わたしのことを見えてはいないようだ。しかし、わたしにはあなたがよく見えている。あなたは、兄たちや友人たちと河原に行き、兄たちが魚を捕るのを見ていた。実はわたしも、同じ時、同じ河原で、兄たちや友人たちと魚捕りをしていたのだ。わたしはあなたとまったく同じ場所から、空や魚を捕る兄たちを見ていた。だけどわたしはそこで、宙を踏み外して空の方へと落下してしまったのだ。だからもう、わたしはあなたのいるその部屋には居ない。わたしは消えてしまった。

あなたは、わたしが消えてしまった後のあなたとわたしの部屋へと、とんとんとんと勢いよく階段をのぼってやって来て、後ろ側の入り口から入った。ポケットのなかにはまだ、友人の姉からもらったキャラメルが二粒入っている。おかあさんに見つからないうちに食べてしまはなければ、とあなたは思う。一粒を口に入れると、タンスのなかから手袋を取り出して、それをくるっとひっくり返し、そのなかにもう一粒のキャラメルを入れてタンスに戻す。それはきっとわたしにくれたものなのだろう。でももう、それではわたしに届かない。

逆立ちしてみて、とあなたに向かって声をかけようとしても、消えてしまったわたしの言葉は空気を震わせることができない。キャラメルをわたしに届けるには、あなたが逆立ちして、キャラメルも逆立ちさせてみて。もう一度、強い思いを込めて言葉を伝えようとする。でもそれは、声どころか風にもならない。それでも、あなたは何かを感じたようで、しきりにきょろきょろと周囲を見回しだす。そして、机の上にあった筆立てを逆さにしたり、教科書とノートを裏返しにしたりしはじめる。立ち上がって、座っていた椅子を逆さにし、本棚の本を上下逆に入れ直したりもする。そしてあなたは、聞き耳を立てるように眉間に皺をよせて目を閉じる。腕組みをして、首をかしげる。ゆっくりと目を開いて、空を仰ぐように上を向いて天井を見る。するとあなたはそこに、天井から逆さまに立っているあなた自身の姿を見る。逆さまに立つあなたの姿は、あなたに向かって、はっきりとした声で言う。あなたが逆立ちして、キャラメルも逆立ちさせてみて。

 

2021-05-12

●以下は、ぼくが以前書いた「ライオンと無限ホチキス」という小説から取り出した二つの断片です。「群像」の2012年4月号に掲載されています。

http://gunzo.kodansha.co.jp/10050/12507.html

 

あなたたちがいなくなって何年になるだろう。あの日、ギャラリーのスタッフは鈴がちりんと鳴るのを聞かなかった。あの黒い台は、その滑らかな表面にあなたたちを映すことはなく、ただ、ガラスの外を降る雪だけを映していた。起こしに来てくれる人たちを失ったわたしは、あれからずっと眠りつづけている。

あなたたちの部屋の、ケヤキの木が見える窓と反対側の、ベッドの枕の上辺りの天井近くに作りつけられた戸棚のなかには小さなライオンがいることをわたしは知っている。ライオンは昼間眠っていて、夜の間じゅう、戸棚のなかを円を描くようにぐるぐるとまわっている。小さくてものっしのっしと威厳をもって。あなたたちが消えた後も、その習慣はつづいている。だけど、わたしはすべてを知っているわけではなかった。あなたたちが消えてしまった二週間後に、それまでのライオンとそっくりな別のライオンにすり替えられていたことまでは知らない。そのライオンを、二頭目のライオンと言ってよいのかどうかも分からない。戸棚のなかのライオンのすり替えは、これまでも何度も繰り返されてきたことかもしれないからだ。間違いのないことは、それらのライオンがすべてそっくりであることと、どのライオンも、昼間は眠っていて、夜の間じゅうずっと、ぐるぐる歩いているということ、戸棚の外へは決して出ないことだった。

もう一つわたしが知っているのは、ベッドの足元に位置するドアから出たキッチンの、テーブルの上に置かれたコーヒー豆挽きの湾曲したアームが、三日か四日に一度くらいの間隔で、四、五回くるくるっと自動的に回転することだ。そして、アームが回転すると必ず、どこからか積み木が倒れたくらいの小さな音が、コトンと聞こえてくる。

あるいは、彼女は物知りだと評判のギャラリースタッフのAならば、あなたたちのいなくなった部屋についてもっと多くのことを知っているかもしれない。たとえば、洗面台の棚に置かれているはずのカミソリが、時々きまぐれに、キッチンのシンクにぽつんと置かれていることがあり、その時には必ずシンクに水が張られていて、つまりカミソリが水没する、とか、洗面台とキッチンの流し場との両方に水切りケースに入れて置かれている石鹸が、正確に五十七時間と三分三十三秒に一度入れ替わる、とか、その時、きわめてかすかにではあるが、洗面台にはコーヒーの香りが、キッチンには歯磨き粉の香りが、ふわっと漂うのだ、とか、そういうことを。

 

ギャラリースタッフのAは、あなたたちが消えてしまった後もギャラリーで働いている。ギャラリーからは、ケヤキの木に隠されてあなたたちの部屋の窓は見えない。それにそもそも、Aはほとんど奥のオフィスにいる。

ギャラリーは水曜が休みなので、水曜にはガラス戸を押しても開かないし、鈴もちりんと鳴らない。普段は、Aともう一人のスタッフが切り盛りしていて、社長は週に一度と展覧会のオープニングにしか顔を出さない。精力的に飛び回っていると言えば聞こえはいいが、そうしなければならないほど経営は厳しいのだ。Aはあなたたちと面識はないはずだが、あなたたちのことをよく知っている。あなたたちとAとの初対面となるはずだったあの瞬間より前に、あなたたちは消えてしまった。奥のオフィスで事務仕事をしながら、Aはしばしばあなたたちのことを考える。そうするとどうしても手が止まってしまうし、ぼんやりしてしまう。そして時々、もう一人のスタッフからやんわりと注意される。

全体に無機質でさっぱりしたオフィスには似合わないが、壁には鹿の首の剥製が飾られている。それは社長の趣味で、社長自身が海外で仕留めてきたものだ。鹿は四本の角をもつ。内側の二本は軽く弧を描いてシンブルにすっと伸びている。外側の角は木の枝のように枝分かれして、大きく外側へとひろがっている。威嚇するように拡張する角とは対照的に、鹿はつぶらな瞳をしているし、鼻面の延びた顔からは攻撃性が感じられない。それとそっくりな鹿が、社長の家にももう一頭いる。これは公然の秘密というか、誰もが知っているのだが誰もあえてそこには触れないという事実なのだが、Aは社長と同棲している。だからAは、家に帰ってもそれとそっくりな剥製を目にすることになる。オフィスでも家でもAはそれをずっと目にしつづけ、時にじっと見つめるが、決して飽きることはない。

 

 

2021-05-11

●おお、《atelier nishikata(小野弘人+西尾玲子)の作品集》が出るのか。長島明夫さんのツイートより。

《【メモ】来年5月30日発売予定で、atelier nishikata(小野弘人+西尾玲子)の作品集が予約販売されている。著者はミースやアドルフ・ロースの研究者。》

《atelier nishikata(小野弘人+西尾玲子)の作品集、近日開設予定のオンラインショップで和訳冊子付きで販売されるようなので、Amazon等で予約購入するのは控えておいたほうがよいかもしれない。》

https://twitter.com/richeamateur/status/1341348726485348353

atelier nishikataのウェブサイト。

https://atelier-nishikata.info/

●以下は、以前ぼくが書いた「セザンヌの犬」という小説の一部分です。「群像」2012年11月号に載っています。

http://gunzo.kodansha.co.jp/10050/18190.html

 

壁から鹿の角のように飛び出したフックにあなたの大きな麻の肩掛け鞄がぶら下がっている。近くにはハンガーにかかった古びたジャケットもある。ジャケットは重力に抗してあなたの肩のかたちをキープしている。そこにあなたがいなくても、それがあなたの立ち姿をあらわしている。だがあなたはその同じ部屋にいる。あなたはゆっくりと息をついて椅子に腰をおろす。たった今、大きな荷物を抱えて戻ってきたばかりだ。テーブルの上のクラフト紙で出来た大きな袋のなかにはリンゴがぎっしり詰まっている。袋には持ち手がないし、下から抱えるように持たなければ重みで底が破けてしまうかもしれなかった。だから途中で休むためには袋を地面におろさなければならない。もう一度息をつくとあなたは立ち上がり、冷蔵庫から白い液体の入ったガラス瓶を出してマグカップにそそぐ。ミルクを電子レンジに入れてスイッチを押すとウーという音とともにターンテーブルが回転をはじめる。ミルクの表面に薄い膜が徐々にかたちづくられる。

湯気のたったマグカップとともにテーブルへと戻ってきたあなたは、ミルクに一度口をつけて満足そうに軽く微笑み、カップを置くとその骨ばった右手で袋のリンゴを一つ掴み出す。そこに左手を添えて包み込み、顔に近づけて匂いを感じる。腕を伸ばして顔から離し、目を細めて表面を撫でながら形と色を受け取ろうとする。そのようにしてあなたは、リンゴを一つ一つ丁寧に袋から出してテーブルに並べる。

あなたのアトリエのドアを開けたわたしの目に最初にとびこんできたのは、そうしているあなたの背中だった。わたしの背中はわたしのものではありません。あなたの独り言のような喋り声が聞こえる。それはわたしの隙間です。わたしのからだの後ろ半分は、あなたに見られることでわたしの前半分とつながります。あなたの声はあなたのからだからではなく、この部屋全体から聞こえてくるようだ。用事を頼んでしまってもうしわけない。わたしにとって大切なハンカチなのです。さあ、どうぞこちらに来て坐ってください。ここにはおもてなしと言えるようなものはなにもないのですが。振り返ったあなたの手には鮮やかな色のオレンジが握られている。あのオレンジ色の奥には青が含まれている。わたしはそのように感じた。テーブルの上にもたくさんのオレンジが並んでいる。その色は晴れた空を連想させた。近所の方からのおすそわけですが、ここまで運ぶのに難儀しました。今、ちょうどコーヒーを淹れたところです、いかがですか。あなたはテーブルに置かれたコーヒーの入ったマグカップの方に視線をやりながら言う。いただきます、とわたしは応える。ドアを開けた時からいい香りだと思っていましたよ。それにしても今日は素晴らしい天気ですね。空がオレンジのように晴れています。そうですね、とあなた。わたしもこれを運ぶ途中、袋のなかと空とがひっくり返ってつながっている感じがしていましたよ。

実は、電子レンジのターンテーブルの上にはリンゴが一つ変換されずに残ってしまっていた。冷蔵庫のなかのミルクの入った瓶だけがそのことに気づいている。オレンジの香りとコーヒーの香りはケンカをしてしまいますね。紅茶の方が良かった。どうもわたしは気が利かなくていけない。あなたは言う。とんでもない、とてもおいしいコーヒーです。わたしはコーヒーの香りの向こう側にリンゴの存在を感じている。

 

2021-05-10

●思弁的空間性と思弁的身体性。下に引用するのは、以前ぼくが書いた「グリーンスリーブス・レッドシューズ」という小説の書き出し部分。異なるスケール感の共立、言葉が発せられてから届くまでの距離(伝聞的空間性)の伸縮と混線、主客の混交、仮定と確定の混同、類比的な短絡、だまし絵的な構造とその変化、遠近法的透明性と迷路的な不透明性の共存など、三次元上では表現できない空間に身体が貫通されている状態、あるいは、三次元空間の上では不可能な建築物のなかに身体が置かれている状態、というイメージ。そのような状態のなかで、あたかも、他人(あるいは物)に出会うように自分に出会い、自分に出会うように他人(あるいは物)に出会う。

「群像」2013年8月号に載っています。

http://gunzo.kodansha.co.jp/18928/25902.html

 

姉は、あの男が過去につき合ったすべての女性たちがそうだったように帽子屋で働いていた。木曜と金曜はパンと水だけで過ごした。週末が近づくと自分の手足がとても遠くにあるように感じられるという。あんなに遠くにある手がわたしの指示通りにパンをつかみ、ちぎり、そしてそれを正確にわたしの口元にまで運んでくることが奇跡であるように思えるのだとよくわたしに漏らす。姉にはしばしば、自分の両腕が抱えることの出来る空間の大きさに途方に暮れることがあるという。ベッドに腰掛けて足の爪を切る動作を太陽の周りを廻る地球のようなスケールでイメージするのだと、姉がわたしの彼に語っていたことをわたしは後になって彼から聞いた。彼は、それを聞いて姉の腿から足先へのびてゆく素足の遠くなだらかな稜線と質感を想像してとても興奮したと言いながらわたしに迫り、耳を噛んだ。わたしの彼はバカなのだ。

 

姉の目のなかで、わたしこそが眼差しである。今、わたしには姉が見ているものが見える。姉は、木曜の仕事帰りのバスの窓から外を眺めている。バスは橋にさしかかり、窓からはネオンを反射してきらきら揺れる水面が見えている。さざ波立つ水面は黒い紙の上に黄色や青や緑色の紙を細かくちぎって貼りつけたように平板で、姉にはその川面が、膝の上にあって両手を添えているハンドバッグよりも遠くにあることが上手く実感できない。

水道管が破裂して、その修繕工事で大通りが閉鎖されているためバスは普段とは異なる迂回路を通っていた。帽子屋のあるビルに近い停留所から回りくどくジグザグ曲がって自宅アパートに至る迂回経路を、姉は腹とバッグの間にある空間の内側にイメージしている。平板に見える川面も当然その内側に位置していたし、姉が住むアパートの部屋もその内側にあるはずだった。だからわたしも当然、姉の腿から膝の間のどこかにいることになる。

 

明日の朝食となるパンを買い忘れている姉は、バスを降りてから近所のコンビニエンスストアに立ち寄るはずだし、そこでミネラルウォーターと間違えて炭酸水を買ってしまうはずなのだが、バスに乗っている今からそれはもう既に決まっている。翌朝、目を覚ました姉が冷蔵庫からそれを取り出して飲み、むせてしまうところをわたしは想像する。

パンを食べる姉は当然それを排泄する。しかし木曜と金曜の空間の捻じれた姉の口と肛門とはなめらかには繋がっていない。姉が木曜と金曜とに口にしたパンと水に限っては、わたしの肛門と尿道から排泄されることになっている。そうなってしまう複雑な経路が姉には細部に至るまで明確に把握されているようだが、数学にめっぽう弱いわたしにはおぼろげな筋道さえイメージできていない。わたしはけっきょくのところ、そういうこともきっとあり得るだろうという形でそのことを納得し、曖昧に受け入れている。だからわたしは木曜と金曜には一切なにも口にしないことにしている。姉の排泄物とわたしの排泄物とを混じり合わせてしまうのは嫌なのだ。