2024/07/17

⚫︎『新宿野戦病院』三話を観た。おお、こっちの方に折り曲げてくるのか、と。現在の風俗や社会問題と古い「家族」の主題を強引な力技で重ね合わせる。そういえば「不適切…」でもそうだった。

⚫︎小池栄子は、点として人に接しており、たまたま病院に担ぎ込まれて来た人、たまたま行きあった怪我人に対して「命を救う」という接し方をする。だが、壁一枚隔てたすぐ隣にいるとしても「出会わなかった人」については、そこに困難な人がいるかもしれないということさえそもそも考えない。だからこそ伊東蒼にとって、小池が「(他でもない)個としてのわたし」に直接語りかけてくれているように感じられる。小池と接することで、無気力だった彼女が、性加害をしてくる母親の交際相手を「拒否する」ための元気(活力)を得る。しかし橋本愛は、「歌舞伎町に集まってくる困難を抱えた人たち」を包摂するようなサポートを考えている。できるだけ取りこぼしのないように、できるだけ多く人をサポートしたいと。だから伊東蒼の側からすると自分が「そういう子たたち」として把捉される大勢のなかの一人でしかなく、「個としてのわたし」をみてくれていないという感じ方になるのはある程度は仕方がない。確かに伊東蒼が(薬物による「わたしの拒絶」状態から)「守るに足る尊厳としてのわたし」を発見するためには小池の言葉(小池との出会い)が必要だった。ただ、本当は伊東蒼には両方が必要なのであり、小池だけでは足りない。だが一面で、「そういう子たち」の一人として捉えられるのを嫌うのも仕方がない。ただし、ここに「自己責任論の内面化」が忍び込む余地が生まれてしまうだろう。

一話に出てくる「元反社の老人」も同様に、自分が「社会的弱者の一人」として捉えられるのを嫌ったのだと思われる。元々一廉の者であったという(内的)プライドが、福祉によってサポートされるべき「社会的弱者の一人」として自分を外から「捉え直す」ことを阻害する。もし彼が、弱者であることを受け入れ、サポートされることをすんなりと受け入れていたら、悲劇は起こらなかった。社会的に弱い立場にいる人が、自分たちに有利な政策を掲げる左派の政治家を嫌うというのも、これと近い感情ではないかと思う。おそらくここに橋本愛の困難がある。

この、相補的であるとも言える小池栄子橋本愛が交錯する場が「病院」ということになる。

⚫︎「病院」のもう一つの側面として「大きな家族」がある。家父長制的で、代々続く家族=病院。父を権威とした兄と弟との関係(確執)があり、「家=権威」の存続のためのコマとされる兄の娘がいる(兄の娘は家=病院=家父長的権威の存続を望み、婿養子を探す、自らコマとなることが内面化されている)。父から病院=権威を相続した兄と(権威は相続されたが家は没落する)、権威に反発して実利(金)をとり、その財力によって家=権威に復讐しようとする弟。弟は家=病院への復讐のためには自分の息子すら裏切る。そして、代々仕える執事のような経理担当者。そのような家=病院に、家父長(兄)の過去に関係がありそうな女(小池栄子)と、家族という制度が崩壊する現在を生きている娘(伊東蒼)がやってくる。さらに、復讐する弟=父に裏切られたは弟の息子(仲野太賀)はどうする ? 。この、なんとも大時代的で古臭い「家族の物語」が、多言語的、多国籍的な「歌舞伎町の現在」と重ね合わされる。こうしてみると、このドラマの、古くて新しいありようが見えてくる。