●「新潮」七月号に載っていた、古川真人「窓」を読んだ。気になったのは、一作目の『縫わんばならん』、二作目の『四時過ぎの船』、三作目の「窓」と、一作ずつ確実に「読者にすんなり受け入れられるような小説」に近づいて行っているという感じがすることだ。人によって評価は異なると思うけど、ぼくにはそれが後退にみえる(それを成長とみる人もいるかもしれない)。
(「人にすんなり受け入れられる」ような作風それ自体が悪いというのではなく、それが、作品(作家)の本質的な、必然的な変化としてあらわれているというより、ある種の譲歩、忖度、あるいは弛緩として、そうなっているように感じられるということが気になる。)
一作目がもっとも力強く歯応えがあり、二作目はそれに比べるとややソフトで分かりやすくなっている(しかしとても充実していた)という感じだったのだけど、三作目はあからさまに「評価される(あるいは、分かりやすい)」ことを狙って書かれた小説であるようにぼくには思われた。そして、ぼくには三作目が最も弛緩していて平板であると感じられた。
こういう書き方の小説は既にあるし、こういう内容の小説も既にあって、故に(読む人も読み方が既に分かっているので)受け容れやすいとは言えるかもしれないが、しかしそうだとすれば、こういう書き方、こういう内容で、もっと優れた小説はいくらでもあると思う。ぼくには、あらゆることがそれなりで、中途半端な小説だと感じられてしまった。
(最後の方の「夢」の場面には引いてしまった。ここで「夢」を使うなんて、なんと紋切り型だろうか、と。しかも、ある種の社会的な状況、ディストピア的なイメージを、思想的な切れ味もイメージとしての強さもないふわっとした形で---同時にきわめて説明的に---どっちつかずの「夢」みたいな位置づけで、小説に導入しちゃっていいのだろうか。『縫わんばならん』を書いた作家が、「夢」をこんなにもぞんざいに扱うのかと驚いた。)
(そもそも、主人公が強く嫌悪を感じる、相田という人が考えた小説のプロットが---これが主人公の「夢」に反映されるのだけど---あまりに紋切り型でつまらなくて、小説家志望の人が、こんな練りもひねりもないレベルのプロットを人にみせるのだろうかという次元で疑問が生じる。現代の世相や空気が、思想的な深みもなく、小説としての工夫や特筆すべきアイデアもなく、ただべたっと反映されているだけのように感じた。そういうものを書くつもりなら、ディストピアSFのマスターピースくらいは参照するべきじゃないの、くらいの反応---きわめて表面的なアドバイスではあるが---が主人公からあるのが自然ではないか、と。)
「おわり」の付け方にも疑問がある。「兄」がすべてを知っているのは当然で、朝に窓を開ける習慣があり、外気によって天気を感じている兄が、「臭い」に気づかないはずないのに、という疑問を、冒頭のところで既にもってしまった(蚊取り線香などでごまかせるはずがない)。窓を閉め切っていたとしても、出勤のために外に出るわけだし。最後の場面までずっと(相模原の事件も含め)「兄も当然知っている(敏感に受け止めている)」ということを一緒に暮らしている弟が気付かない(ことにしている)ままという設定で引っ張るのはいかにも無理がある。それが、ラストをうまいこと成立させるために強引に操作された(引き伸ばされた)「気づかなさ」、意図された鈍感さであることは明らかであるように感じられた。
(些細なことだけど、兄が自宅に友人たちを招いて飲んでいる場面を描写しながら、そこに「回想」として、その直前の、弟が相田と飲んでいた場面を混ぜてカットバック的に書くというのは安易ではないかと感じた。『縫わんばならん』の人が、こういうことをするのか、と。)
●同じような主題、同じような設定と物語で、半分以下の分量で、もっとシンプルに、もっと気が利いた小説にすることができると思う。ぼく自身はそのような「出来のよい小説」を面白いとは思わないだろうが。ぼくが気になっているのは、この小説が、そっち(シンプル、かつ気の利いた出来のよいものもの)を目指しているのか、そうではない方向を向いているのかが、中途半端でよく分からないというところだと思う。どっちつかずの煮え切らない感じ。
●この煮え切らない感じが、作家の本質的なメタモルフォーゼの過程で起こっていることで、ぼくがそれに気づけていないだけであればいいと思うのだが。