2023/02/04

●『闇の中のオレンジ』(天沢退二郎)。おそらく小学生の頃以来に読み返した。予想以上に面白かった。

『オレンジ党と黒い釜』は、新刊として出た直後くらいに図書館で借りて読んで夢中になったのだが、その時点で図書館の児童書コーナーにあった天沢退二郎の本は『光車よ、まわれ!』と『闇の中のオレンジ』の二冊で、すぐに続けて読んだと思うけど、『光車よ、まわれ!』は「黒い釜」と同じくらい面白かったが、『闇の中のオレンジ』はあまりよく分からなかったというのが小学生のぼくの印象で、多分それ以来読み返してないのではないか(本は中学か高校くらいで買ったが、ちゃんとは読んでいないと思う)。

「三つの魔法」四部作や『光車よ、まわれ!』は折に触れて何度か読み返しているし、『夢でない夢』や『ねぎ坊主畑の妖精たちの物語』は大人になってから知ったので小学生以来ということはないのだが(『水族譚』は持っていない)、『闇の中のオレンジ』だけ、ずっと、ぽつんと置いてきぼりにしてしまった感がある。

天沢退二郎の児童文学作品は、最初に73年に『光車よ、まわれ!』と『夢でない夢』が出て、次に76年に出たのが『闇の中のオレンジ』で、この短編集から、「三つの魔法」四部作(1978年~2011年)へ発展していく。

『闇の中のオレンジ』に収録されているのは短編というよりも「断片」と言ったほうがいいと思われるような、ここから「物語」が湧き上がっていくであろうというモチーフがそのまま投げ出されている感じで、いきなり始まって、結末も何もなく、全く収まりのつかないままとぎれるように終わる(最後に置かれた一編のみ、物語としての結構が一応整えられている)。とはいえ、登場人物も一部重複しており、それぞれの断片たちにはゆるい関連というか、共有された(というか、一部共有されつつも、一部ズレていくみたいな)土台のようなものも感じられるので、ただ断片が散らばっているのではなく、(これらの「断片」が「連作」であるということを納得させるような)背後にある世界のトーンというか、収束や統合していく力の「予感」のようなものは感じられる。

この、「モチーフだけが無造作に投げ出されている」感と、「背後に共有された一定のトーンがある」感との兼ね合いが絶妙で、このバランスが、作者の意図による制御を超えた面白さになっているように思った。

ここに置かれた強烈なモチーフたちは、この後実際に、「三つの魔法」シリーズという結構の整えられた「物語」へと発展していく。この「結構の整えられた」物語に小学生のぼくは魅了されていくのだが、この時のぼくは何に魅了されていたのだろうか。モチーフのみが露呈したような『闇の中のオレンジ』はよく分からなかったのに、結構が整った『オレンジ党と黒い釜』には強く惹かれた。

ただ、ぼくはこれ以降、ファンタジー小説が好きになっていくわけではない。むしろ今に至るまでどちらかというと(小説だけではなく、アニメとかでも)ファンタジーは苦手だ。だから、ファンタジー的な「物語の結構(例えば「聖杯伝説」のような)」に惹かれたということではないと思う。おそらくぼくが惹かれたのは「天沢的モチーフ」の感触の方だったのだと思う。

ただ、小学生のぼくは、いきなりモチーフだけを見せられてもそれをどう受け取ったら良いか分からず、一応、筋路の通った物語というガイドに沿って進むことが必要で、その上で、そこに埋め込まれている(その下で動いている)モチーフのリアリティを感じて、惹かれたのではないかと思われる。

そしてこのことは、ぼくだけではなく多くの人にも当てはまるのかもしれないと思った。ある程度整った「物語としての結構」は、その下で動いている(非合理的な)モチーフのリアリティをおもしろがることを自分に許すための、(常識人である「はず」の)自分自身への「言い訳」として要請されるものなのではないか、と。

●昨日の日記でリンクをはった天沢退二郎の動画、観返すごとにしみじみと良くて、動画で朗読される詩が収録されている『御身あるいは奇談紀聞集』をAmazonマーケットプレイスで注文してしまった。