●子供の頃に図書館で借りて繰り返し読んだ児童文学の本で、おもしろくて仕方がなくて大好きだったのだが、図書館の児童書コーナーからいつの間にか消え、大人になってからも時たま思い出して古本を探すのだけどまったく見つからない、『午前2時に何かがくる』(佐野美津男)という本が記憶にあるのだが、神奈川県立図書館で別の本を検索している時、ふと思い立って検索してみたら収蔵されているのが分かり、おおーっ、こんなところで出会えたか、と思って借りて来ていたのだった。ざっと四十年ぶりくらいの再会。装丁も色も手触りも記憶していたこの感じ。ありがとう、神奈川県立図書館。
●とはいってもそれはたんなるノスタルジーで、今になって読んでもそんなにおもしろくないのではないかと思っていたのだが、読んでみたら思いの外おもしろかった。精神病や精神病院に関する表象が、現在のコードでは受け入れられないものになっている(要するに、古臭いものになっている)ことをのぞけば、文章もいいし、児童向けということを差し引く必要なく、かなりおもしろい(74年に出版された本だ)。
まず最初に、この話を聞いた人は同じ話を三人にしないと三日後の午前二時に幽霊に襲われるという幽霊話を主人公が聞かされるところからはじまる。しかし、三日後の午前二時がくる前に、物語は終わってしまう。つまりこの謎は解決されない。
主人公は、この話を聞かされたことをきっかけに、連鎖的に次々と(相互に関係があるのかないのかわからない)怪しい出来事に出会うことになる。事件と言ってもその多くは兆候であり、裏に恐ろしい何かが隠されているような不吉な気配を濃厚にもった出来事ということで、怖い話を聞いたことによって世界が恐ろしい兆候に満ちた場に変わったという感じだ。
しかしそれは、全てがたんにまったくの気のせいということでもない。濃厚な兆候の連鎖に導かれるようにして、小学生である主人公にはその全貌が伺い知れないような、恐ろしい「大人たちの事情」が背後で働いているらしいという事実に突き当たる。自分たちの日常からは想像もできないような「恐ろしい策略」が世界の裏側で進行していて、主人公はその裏の世界のほんの端っこだけを、日常の側に軸足を残したまま、垣間見ることになる(この「恐ろしい策略」も、その恐ろしさが断片的=兆候的に知られるだけで、具体的にはよくわからないままで終わる)。
そして、そのような「世界の裏側の大きなうねり」のなかに巻き込まれ、しかしそれと果敢に戦っている、自分と同年代の少女の存在を主人公は知ることになる。主人公はその少女とほんの一瞬ふれあい、しかし「関係ないのに、関係しないでください」と関係を拒絶される。少女が《鳥の羽のついた白い帽子》を被って夜道を走る様を主人公がイメージするところで、物語は終わる。主人公は、《ああいう、ものすごい他人にかかわりあうことはできない》という、《はずかしいような、情けないような、なんともみょうな気分》に、敗北感のようなものに襲われて終わる。
これはつまり、『ブルーベルベット』の子供版みたいな話なのだ。世界の裏側で進行している策略、暴力の気配、強度のある兆候の蔓延、謎ばかりが満ちていて答えがほとんどない、など、デヴィッド・リンチ的な世界が展開されている。ラストの場面で、主人公が少女の姿を見るのが「クローゼットのなかからの覗き見」ということも『ブルーベルベット』と一致している。
出来事が次々と転がってゆき、伺い知れる闇が深まってゆくので、最初の幽霊話が、最後にはどうでもいい子供っぽい話のように思えてくる。児童文学なので、残酷な描写や過度にショッキングな出来事が描かれるわけではない。そのかわり、兆候の密度がとても濃い。そのことが作品を先鋭的なものにしている。ここまで先鋭的で、ここまで密度が高い作品だったとは思わなかったので驚いた。しかし、ぼくは子供の頃からこんな話が好きだったのか。