●ごく大雑把な覚書。
(1)内部観測者は、自分で、自分自身に同一性を与え(刻々と変化する無数の「わたしたち(わたし1)」に、持続的な「わたし2」を与える「わたし3」の作用)、その同一性により、事物や出来事に同一性を与える(大腸菌は混沌とした世界からエサとしてブドウ糖を見出し同一性を与える)。これは、多としてのモノに、一としての精神が一(統合)を与えるという出来事だといえる。精神(一)→モノ(多)へという関係。
(2)『魂と体、脳』(西川アサキ)では、一定の条件のもとで、多数の並列的なエージェント群(モナド)からそのメタレベルと言える「中枢」が自動的に生成されることが、シミュレーションにより示される。多から一が生成される。
しかし、中枢は単独では崩壊し易く安定的ではない。だがそれが、別の場所で生成された「もう一つの中枢」から観測されることで、相互作用により安定することが示されている。ここでは、モナドたち(多)から精神(一)が生成され、精神a(一)と精神b(一)という二人称的関係が、精神の「一」性を安定させる機能が描かれている。
つまり、精神(内部観測者)とモノとの関係ではなく、精神(内部観測者)の精神(内部観測者)に対する関係が描かれる。わたしとあなた。精神(一)→精神(一)への関係。
(3)精神(一)が、モノ(多)を統合すだけでなく、モノ(一)が、精神たち(多)を媒介し、統合するという側面も考えられる。清水高志は、準-モノを説明するラグビーボールの比喩を用いる。火のついたボール(モノ=一)という媒介が、それをパスし合うプレイヤーたち(多)の間に、フォーメーションを生成させる。多としての精神に、一としてのモノが一(統合)を与える。モノ(一)→精神(多)。
(4)『一般意思2.0』(東浩紀)では、合議のない、一人一人の(ひきこり的)バラバラな意思が、現在の情報技術によって、バラバラなまま統合され得る(一般意思が算出される)という描像が示される。多様な個の、その「多様さ」の解析のなかから的確な解が算出可能であるという集合知の概念が、それを裏打ちする。
これは現代において可能になった(3)の新たなバージョンと言え、(3)における媒介としてのモノの代わりに、情報技術のネットワーク、あるいは数学という「見えない=イメージのない過程(媒介)」がその役割を担っている。多としての精神たちに、情報技術が媒介することで、それらが統合され、一としての一般意思が得られる。
●(1)精神(一)→モノ(多)。(2)中枢(一)→モナド(多)、および、精神a(一)→精神b(一)。(3)モノ(一)→精神(多)。(4)情報技術→精神(多)。それぞれ、前者が後者(多)を統合する(同一性を与える)。「一」が媒介するものであり、「多」が媒介されるもの(たち)である。(1)では、精神がモノを媒介し、(3)では、モノが精神を媒介する。(2)は、精神の精神に対する媒介(関係)である。(4)は、現代の情報技術が、精神たちのあたらしい関係を媒介する。
ここで、形式的に考えるならば、(5)モノ(一)→モノ(多)という媒介作用が抜けていると言える。しかし、モノ自身が別のモノに対して同一性を与えると考え得るのか、考え得ないのかは難しい。詳しくは追っていないが、おそらく思弁的実在論では、この(5)の部分を強調しているのではないかと思われる(ハーマン「代替因果について」など)。対して内部観測では、世界に同一性を与えるのは内部観測者――というか、世界と内部観測者との関係――であり、モノ――モノとモノとの関係――ではないことになると思われる。というか、もし、モノ(一)→モノ(多)の媒介が成り立つのならば、そのモノは内部観測者であるということになり、汎精神主義=アニミズムになる。
(たとえば、化学反応における媒体の作用について、どう考えられるのか。)
(あるいは、モノ(一)→モノ(多)という媒介が可能であるのならば、人間を超える人工知能は可能であることになるだろう。)
(内部観測者は、パースの図式で言えば解釈項に当たると言える。ならば、(1)から(5)を――二人称的な関係である(2)を除いて――二項関係ではなく、三項関係として捉え直すこともできるかもしれない。)
●ここに、『キャラクターの精神分析』(斉藤環)で示される「キャラ」という記号の作用を考えあわせるとどうなるだろうか。この本での「(キャラクターと区別されるものとしての)キャラ」の定義は、「同一性」あるいは「同一性のコンテクスト」を伝達する記号、というものだ。キャラは常にそれ自身と同一であり、それ自体を再帰的に指し示す記号である(記号によって指し示される実体・実在物はない)。つまりキャラとは、その同一性だけを伝達する記号である、と(斉藤環は、「固有性−単独性=同一性」としている)。
●同一性を生成するものとしての内部観測者と、ただ同一性だけを反復し伝達する記号であるキャラ。だがもし、モノ(一)→モノ(多)という同一性の付与を考えることができるとしたら、モノがモノに対してキャラ化を行い、モノとモノとがキャラを伝達し合う、ということも考えられる(のか?)。