●読書メモ。清水高志「交差交換と人間」(「現代思想」2015年1月号)
1. 非統合と個
自然と文化は、少しも二つの別の領域ではない。(ハーマン)
諸物が相互に働きかけ、そこに因果性や法則が見いだされるとはいかなることか。
作用や影響はいずれからいずれへ完全に及ぶというよりは、むしろ「部分的に妨げられたたり阻まれたりする」
綜合するもの=人間精神、その残余=モノ という二項性を崩す。
「複数要素としての個」を、それが置かれた関係のうちに回収しきって捉えてしまってはいけない。
個はそれを取り巻く複数の個にとって、いまだ明らかになっていないそれ自体の実在を持っている(→実在的対象)。「あらゆる関係の外部」「深淵のなかに脱去している」もの。
各々の個→(1)関係のうちにある側面と、(2)いまだ知られざる側面と、をもつ。
(後者――「実在的対象」――にとって他の個は、いまだ表層的なもの=「感覚的対象」である。)
複数の個の関係→(1)宙づり状態にあること、と(2)知られざる側面を秘めていること。
(個における、多との関係のうちにある側面=感覚的対象、関係に回収されない側面=実在的対象。)
(2)の、脱去した個は、自らを代替物としてしか他に現さない。
代替物としての個←→個の内奥、のあいだに働く因果=「代替因果」
(1)の、宙づり状態、複数の個のあいだで働く因果=「緩衝因果」
○統合に還元されない諸関係=緩衝因果
○関係に還元されない(モノの奥にある)個のありかた=代替因果
◎個が関係に還元されないからこそ関係(緩衝因果)が成り立つのだし、そして、関係に還元されない個の内実(代替因果)もまた、関係(緩衝因果)の働きによって要請される。
どのように、「新しい実在的対象」が、「感覚的対象と実在的対象との相互作用」から生じるのか。どのように、「感覚的対象」が、(幽霊列車のように)連結されたり解除されたりするのか(ハーマンの問い)。
(一と多、中心的対象と周縁的なものとの相互生成、中心的対象の位置の変化。)
以上のような、ハーマンによる「人間の排除」に対して、このテキストでは、人間の導入、人間の定義の変更、定義の変更を迫るものとしての「道具」、を考える。
2. 自己製作する《道具》について。
骨角器を手にするより前、ヒトザルの手は前肢に過ぎなかった。
人間を翻弄し改変する「道具」
○あらゆる道具と交換できる普遍的道具としての貨幣=唯一の道具
唯一の道具(貨幣)で考えると、モノの価値や目的の変化=交換の文脈となる←→それに対し道具の遍在性を考える。
道具の能動性 準-客体 ラグビーやサッカーのボール
3. 環境化する《道具》
みずからを別のものとして作り出す=道具
レヴィ→道具がすでに(人工的/普遍的)な環境(≒自然)になっている。
ラトゥール→自然=環境にはすでに人為が混入している。
4. ソフトウェアとしての《道具》とは?
「道具」のなかに、人間の意図や目的を迂回させ、道具としての自己をみずから創り出す能動性を認めること。
○エリー・デューリング「プロトタイプ論」→エンジンの発明。それを冷やすための機構の考案。その模索のなかで生み出される形状(可能な様々な形状から選ばれる)は、やがて安定したプロトタイプ(原型)へ至る。この原型から、空冷に関する様々な別の目的が事後的に発見される。
○レヴィ「ヴァーチャル化」→すでにアクチュアル化されている(問題への回答として提示されている)、プログラム、情報、モノの「目的」を宙づりにすることで、「問題提起的な複合体」に戻し(解し)、別の目的性へもつながる媒体となる道具へと変貌させようとする。
既成の「道具」を起点として、事後的に複数の「新たな目的」が発見されること→そのためには、ニュートラルな「規格化」が必要。
(道具は規格化されることで飛躍的な発展を遂げてきた。規格化と互換性)
知や情報という形の「道具」においてもそれは言える→ルネサンスを準備したのもこの「フォーマット化」である(セール)。モノとしての秤だけでなく、数量や単位といった、計量や思考の道具も規格化される。それらは複数組み合わせられ、「系列」をつくり、「協働する」。
→これらの系列化され協働する道具たちによって、「ルネサンス的人間」がつくられる。
ソフトウェアとしての「道具」を経由することで、様々な「道具」が協働し、それがあらたな「道具」をつくり、それに応じて人間も、その思考や身振り、身体性までもほぐされ、再構築される。
5. モノ、ソフトウェア、人間----交差交換と世界の生成
モノ、ソフトウェア、人間、の三者を、いずれも「道具」という水準で捉え、各々に能動的な機能を見いだす。
「情報の支持体としてのモノ」は、フォーマット化が可能な複数の要素を、モノとしてもソフトウェアとしても共存させたハイブリッドであり(情報の支持体=モノ+ソフトウェア)、モノとソフトウェアは、それぞれを折り返し点としながら、互いにどこまでも多極化してゆく。
人間は、モノとソフトウェアのどちらかに偏することなく結びつけることが求められる。
「道具」としての人間→最も普遍的な「秤」、「複数の出口をもつインターチェンジ」→もはや「統合するもの」ではない(精神=統合×)。
互いに干渉しあう三者→一極だけを「あらゆる目的のための道具」とすると、悪の問題が顕在化する。
「モノ」→貨幣と商品だけの世界。物象化と人間疎外。
「規格化、ソフトウェア」→個別性の排除、消失。
「人間」→モノもソフトウェアも欠いた「人間」は不可能。
複数の一者としての「個」→(1)モノが自己を否定しつつ、自己製作的に増殖すること、(2)どの極にも還元されない離散的な状況から、様々な組み合わせを形成しながら新たな「道具」となる流動的な状況が成立すること。
多の一(西田幾多郎)
現実の世界は多の一として決定せられた世界でなければならない
多から一と考えるならば、そこに製作(個物の能動性)という如きものを入れる余地がない
一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない
「多から一」←→「一から多」の相互否定かつ相互生成(どちらかに還元されない)
ハーマンの「代替因果」と「緩衝因果」、ラトゥールの「中心的アクタント」と「周縁的アクター」などに通じる(中心と複数の周縁は容易にその位置をかえるし、一、多のどちらかに理論を還元することを拒む)。
だが、
「多」からまったく切り離された「一」(脱去された個――ハーマン)を構想することは
→それを考える「主体」に依拠する=個物そのものが独自に持ちうる自己否定的な自己製作の契機を個物から奪ってしまう(西田の立場――ハーマンとの違い)。
(西田)自己否定的に自己を製作する「道具(モノ)」の思考→モナドロジーへ
(セール)ライプニッツ研究→「道具」をめぐる考察へ
(互いに互いを反対側から裏書き)
「モノ」「ソフトウェア」「人間」の三項干渉→ライプニッツ「モナドの相互表出」につなげられる。