●引用、メモ。『非唯物論』(グレアム・ハーマン)、「掘り重ねという危険」より。
《モノについての知識には基本的に二つしかない。つまり、われわれにはモノが何でできているか、そしてモノは何をしているか説明することができるという二つである。》
《われわれが対象を、その構成要素や効果についての説明で代えようとするさいには何かが変わる。専門的にいえば、対象を言い換えようとする試みは、つねに対象を掘りくずし(下方還元)、掘りあげ(上方還元)、掘り重ねる(二重還元)ことになる。》
《(…)この掘りくずしから西欧における科学は生まれた。(…)新しい唯物論の画期的なアンソロジーのなかであきらかにされているように、こうした著者たちが、人間が背景となる条件に依存している点を強調するさいにも掘りくずしが働いている。「われわれの存在は一瞬ごとに無数の微生物やより高等な多様な種に依存し、漠然と理解された自分の身体や細胞の反応にも依存し、容赦のない宇宙規模の動きに依存し、また一緒に環境に住まう人工物や自然素材などにも依存している」。掘りくずし(下方還元)につきまとう問題は、対象を構成する様々な断片や来歴から対象が相対的に自立していること、つまり創発としてもっともよく知られている現象を掘りくずしによっては説明できない、という点にある。(…)ある対象はその構成要素より以上のものであり、ゆえに下向きの還元というやり口は対象をうまく言い換える説明にはなり得ない。》
《しかし人文学や社会科学にとって、より大きな危険はこれと全く対極の掘りあげ(上方還元)にある。(…)現代思想家たちは逆に対象はその諸関係や識別できる行為にはかならないと述べている。(…)「その行為を通してしかアクターを画定することはできないし、どんな他のアクターが修正され、変換され、混乱させられ、創造されるのかを問うこと以外に行為を画定しうる方法はない」。掘りあげにつきまとう問題は次の点にある。つまり対象が修正し、変換し、混乱させ、創造するものが何であれ、これをこえて対象にいかなる実在の余剰も許さない、ということである。》
《もし対象が世界においてまさに現に起こっていることの表現にほかならないのであれば、対象はその後に続く時間において別の仕方で何でも行うことはできないからである。いかなる「フィードバックループ」であっても、モノのうちにあるモノどうしの関係をこえた過剰なものの必要性には代えられない。なぜなら、ある対象は他を受け入れる受容体とならなければ、フィードバックを飲みこむことも、これに対応することもできないし、対象は現にそれじたいが行っている動き以上のものでなければならないからである。》
《掘りくずしや掘りあげに単独で別々に出会うことはまれである。ふつう、この二つは互いに強めあい、掘り重ねとして知られる二面的な還元によって結びついている。(…)ある種の科学的唯物論にも見てとれる。これはこの宇宙(コスモス)の究極の層として、素粒子や、ひも、不確定の「物質」といったものをあつかうさいには有無をいわさず掘りくずし(下方還元)を行うのだが、数学がこの純粋な層の一次性質を組み尽くせると主張する場合には容赦なく掘りあげ(上方還元)を行う。》
《掘りくずし、掘りあげ、掘り重ねは知識の三つの基本形態であり、それゆえ人間の生存がこのような知識の獲得にかかっているかぎり避けることができない。しかし、専門科学のうちには知識の形態をとらず、なお認識する上で重要な価値を持つものもある。芸術や建築の作品は、下向きの物理的構成要素に還元されたり、また上向きに社会=政治的な効果に還元される場合、そうした還元を行う専門科学がそのつど何を試みても、間違って理解されてしまう。どちらの方向にせよ、知識が決まって依って立つ、そのままの言い換え(パラフレーズ)に抗って還元に従わないような何かが芸術や建築の作品のうちには存在する。同じことは哲学にもいえる。(…)どんな理論でも哲学的基盤は知識というかたちをとることはできず、もっとたくみな、より間接的な仕方で世界に向き合っているに違いない。》