2019-04-05

●引用、メモ。グレアム・ハーマン『非唯物論』から。対象を「絶え間なく変化する状態」としてみること(漸進主義)への批判のために用いられる「共生」という概念について。

《「新しい唯物論者」の仕組み(動的編成、作動配列)についての理論は、絶え間ない変化の状態にあるものとしてアクターをみることを要求するが、非唯物論の方法は大方の変化をうわべだけのものと見て、重要な変化は概ね共生の事例に見いだす。》

(…)われわれにとってよりよいモデルは、リン・マーグリス(リン・セーガンとして知られている)の連続細胞内共生説のうちに見いだせる。マーグリスは、以下のような理論の指導的な提唱者である。この理論によれば、真核生物の細胞内の小器官は、のちに統一した細胞に従属する構成要素になる前にひとまず独立した生き物であるとされる。(…)つまり、自然淘汰を通して遺伝子プールが漸進的に形成されるためには、進化をうながす力よりも、別々の有機体=生物どうしが出会う分岐点における共生の方が重要である、というものだ。》

《人の一生で要となる様々な契機は、何者も足を踏み入れることのない小部屋に内向きに閉じこもったまま孵化するように生じることなどおよそないということを、われわれは知っている。むしろ、そうした契機は一人の個人、一つの職業、制度、都市、好みの著者、宗教などとの共生を通して、あるいは他の何か生涯を通じて変わるつながりにおいて最もよく生じるものである。》

●だが、共生は「非相互的」である。

《語原としては共にはたらくという響きがあるにもかかわらず、共生はおうおうにして非相互的である。たとえば、わたし自身の人生における転回点として二〇〇〇年のカイロへの移住を、わたしの到来によってエジプトの名高い都市が新しい段階に入った、などといった自己愛的な妄想にかられることなく了解するのに何の造作もない。》

●人間には(連続した)一つの人生も(常に流動する)多くの人生もなく、(飛躍・断絶により)継起する「いくつか(有限数)」の人生がある。同じ対象の「別の位相」を開くものとしての共生について(出来事は相対的にまれである)

《いかなる関係もその関係項に対して重要であるとみなすとすれば、いかなる契機もそこではまさに他と並んで同じように重要とされる「漸進主義的」存在論の立場に嵌ることになる。進化論的な生物学において、いきすぎた漸進主義に抗うすぐれたやり方の一つは、断続平衡の理論である。様々な種はランダムな遺伝的変化や、弱めの個体の若干高めの死亡率を通して徐々に進化するのではなく、つまり進化は突然の飛躍、相対的な安定性をもった比較的長い期間にわたって散発する飛躍を通しておこる。》

(…)共生モデルが示唆することは、ありがちな選択肢のどちらも間違っているということだ。つまり、様々な存在者には永遠という性質もなければ、時間そのものの流れを移し変え、そこに見え隠れする様々な「遂行的」同一性をもった唯名論的な流れもないということである。むしろ、その生の軌跡においていくつかの---だが多くのではない---転回点をくぐり抜けるような対象についてわれわれは考えなければならない。》

《こうした転回点のうちには、ざっと見ても大きな戦争や圧政の増進、あるいは愛のような、歴史的に目立つことがらもある。しかし、こうした喧しい様々の出来事も決定的なものとは証されないし、また共生は、その影響が環境に効果を及ぼすまでは、短期もしくは長期の遅延とともにひそかに生じるといって差し支えない。このことは力点を行為体や行為=活動から移し変えつつ、対象が活動していないさいにも対象をまじめにとりあげるための新たな道具を提供する。アラン・バディウの哲学が人口に膾炙した魅力の一端は、出来事は相対的にまれであるという揺るぎない彼の直感に由来する。》

《わたしは非唯物論の理論の中心概念としての共生について語っているが、ある対象の生における個々の新たな共生が、ある一つの活動段階を生じさせる、ということも言おうとしてきた。(…)マーグリスはこの用語を完全にできあがった新しい種の創発を語るために用いている。これと違って見える仕方で、非唯物論は、ある新しい対象の創造ではなくて、同じ対象の生における有限数の別々の位相を開くカギとして共生をもちだす。》

《もし共生の舞台が一つの同じ対象の生における個々に分離した位相を意味しているというのなら、もちろんこれらの位相は対象の創生と消滅とは区別されなければならない。》