2019-04-11

●引用、メモ。グレアム・ハーマン『非唯物論』から。

●ある対象の諸性質と他の対象の諸性質とが相互作用(関係)するのではなく、他の対象の性質と相互作用するのは、当の「ある対象」そのものである。

OOO(オブジェクト指向存在論)は関係のうちに自律した対称性を受け入れない。なぜなら、OOOは様々な対象とその諸性質の間の分裂に注意を向けるからだ。フッサール現象学は、この原則の援用を重要なものとしているが、その場合、ある対象は「性質の束」にほかならないという古くからある経験主義の考え方を拒むことによってそうしている。フッサールは次のように主張することで、この哲学的常套句をひっくり返している。つまり、まずある対象を経験し、その対象の性質そのものはある瞬間から別の瞬間へと移り行くにしても、これを同じ対象と見なしつづける、と。対称的な関係は、ある対象の性質が他の対象のそれと相互作用する場であるような関係であるのに対し、非対称的な関係において他の対象の諸性質と相互作用するのは、まさにある対象そのものなのである。》

●あらゆる関係は等しく重要というわけではない。

《われわれの共生をめぐる議論において、これはすでにあらゆる活動=行動がひとしいわけではないという事例としてある。ある対象の生にはほんの些細な契機があり、ゆえにその対象の実在そのものを変形する共生の契機があることになる。ANT(アクターネットワーク理論)はこの点に関して無頓着なので、環境に対する外からの余計な影響に特別な意義を認めることによるしか、重要か重要でない契機かを区別する術はないことになる。しかし、共生というさい、われわれはまずもって、その環境に対してではなく、対象にとって重要な契機について語っている。さらに一般的に言って、他と比べてANTは重要な出来事と重要でない出来事を区別できないので、ある対象の生の周期に光をあてることができない。(…)アクターをいかなる瞬間にもアクターがとる関係の総和と過剰に同一化させることによって、ANTは「この同じ」対象を時間軸上に実際に存在させることはできないからである。》

●出来事としての対象は、対象としての対象の残響である。

《何年か前、アップルとマイクロソフトによって成し遂げられたパーソナルコンピュータ革命についてのテレビのドキュメンタリーをたまたま見る機会があった。この映像でインタビューされている者の一人が、アメリカの大衆文化についておよそ無邪気な見方を述べている。「六〇年代が実際に起こったのは七〇年代だったことを忘れてはいけない」。この所見の重点は、ある対象は、それがはじめに経た隆盛よりあとに続く段階で「より」実在する、ということのように思われた。ある意味ではドラスティックな一九六〇年代のマリファナ喫煙やフリーセックス、国内での暴力も、悪趣味でつまらない一九七〇年代によってもっとうまく例にとれた。》

●あるオブジェクトの凋落は、それがもつ共生を文字どおり解釈することからはじまる。

《芸術や哲学の場合には、成功した運動をみちびく曖昧な刷新が、どんな三文文士でも使える公式に還元されてしまうさいにデカダンスという言葉が使われる。ピカソマチスがまた正体の知れないお笑いぐさの若手であったころにパリを圧巻していた代表的な「アカデミー芸術」を考えてみよう。また、一九六〇年代初頭の陳腐な後期「抽象表現主義」の絵画や、今日の日曜画家の誰でも手のとどくお手軽なキュビズムを考えてみよう。ドイツ観念論現象学脱構築の後半の年代、すでに頂点を迎えた哲学の運動のどれかを思い出してもいいだろう。物書きたちはフッサールデリダドゥルーズと「同じように語り」、言葉と概念のマニエリスムを繰り返すのに、もはやそうした思想家たちが直面していた危機に立ち向かうことはない。絶え間ない刷新が求められる理由がこれでわかる。(保守派がするように)永劫の真理の支配に溺れる意匠の空虚な戯れでも、(左派が言うような)吸血鬼のような資本主義にその血を吸い取られる新たな商品の終わりなき生産でもなく、どんな対象もいつも自分自身のカリカチュア---つまり、容易に真似できる、簡単にマスターできる下手な内容---になってしまうがゆえに刷新が必要なのだ。》