●引用、メモ。グレアム・ハーマン『非唯物論』から。ハーマンの議論には、一見逆説的にみえる切り返しや、複雑な非対称性が仕組まれていて、そこをちゃんと読まないと、とても単純な議論をしているようにみえてしまう。
《非唯物論はむしろ、対象というコインで取り引きする。またこれによってしばしば、人間にとって様々に異なった経歴を、基礎となる対象への別の応答として見ることができるようになる。たとえば、ヨーロッパの重要な哲学者たちは、よく三人か四人かたまって登場する。どうやらこれは、人間の遺伝的な資質が歴史の特定の時代に課せられるからではなく、むしろ、ある時代をとらえる新しい基本的な考えを明確なかたちにするのに複数のやり方があるからではないか。このようにして、諸個人も集団も、自らが結びついている様々な対象ほど重要ではないことになる。》
《しかし、OOO(オブジェクト指向存在論)についてはよく次のような間違った思いこみがある。曰く、OOOは対象に焦点を絞るゆえに、人間を排除し、消滅させることによって当の対象にいたるに違いない、と。OOOに寄せられる誤解をはらんだ疑問の多くが、この同じ間違った思いこみにもとづいている。「人間がいないとしたら、芸術はどんなことになってしまうのか?」「人間がいない建築とはどんなものに見えるだろう?」と。問題は所与の状況から人間を差し引くこと/ではなく、人間とはただ外部から注視する特権的な観察者というより、人間自身、ある共生における構成要素であるということなのだ。人間自身が対象であるということ、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、われわれはこうした点を忘れてはいけない。こうした理由で、共生を考えるさいにVOC(オランダ東インド会社)の歴史における際だった個人を探すところからはじめてもいいだろう。このことは、あたかもロマン主義から生まれたものは何でもそもそも間違っていたかのように、歴史における「偉人」をめぐる議論や「天才についてのロマン主義的概念」の喪失を嘆く流儀に沿わなくてもできる。》
《共生は、広い意味での集合的属性ではなく、所与の個体の特異性に容易につながる偶然の要素をはらんでいる。別の言い方をすると、新しい段階につながる直近の源は、ある組織や国家の統計的指標よりも、一個人の、その人にしか通じない特異な見方や意志にしばしば結びついているからこそ、われわれは顕著な個人を探すところからはじめなければならなくなる。なぜならそれは一般に現状を変える直接の原因や媒介要因よりも現状にあらかじめ繰り込まれている背景となる条件のうちにあるからである。》