●引用、メモ。『哲学のプラグマティズム的転回』(リチャード・J・バーンスタイン)、「第1章 パースのデカルト主義批判」より。二項関係と三項関係、そして、二次性と三次性。
●二項と三項。
《「“あらゆる思考は記号である”という命題から、いかなる思考も他の何らかの思考に向かわねばならず、他の何らかの思考を限定しなければならないということが帰結する。なぜなら、それこそが記号の本質だからである」。パースのいわんとすることを明確にするよすがとして、デカルト哲学では直観がどのようなものとして理解されていたを確認しておこう。すでに述べたように、直観は知るがわ(精神)と知られるがわの対象との二項関係である、というのがデカルト哲学の考え方だった。表象の概念を軸にして言語について認識論的、意味論的に説明する場合、記号とそれが表象するものとの関係だけに視線は向けられる。ひるがえってパースは、あらゆる記号活動が三項関係であり、二項以下の関係ではありえないと考えた。つまり記号(第一項)は、ある対象(第二項)を解釈項(第三項)に対して表示すると考えたのだ。これは、彼の思想の要をなす、きわめて独創的な主張のひとつである。パースの三項構造は、言語記号だけでなく非言語記号にとっても本質的な特徴をなしている。彼の記号論はふつう、「解釈者」ではなく「解釈項」という言い方をする。パース自身が強調するように、解釈項それ事態もまた記号だと考えるからだ。しかし、もし記号作用に記号と対象と解釈項の三つがかかわり、解釈項も記号だとするならば、記号は潜在的には無限系列をなすことになる。記号活動の三項的分析で、彼は何を述べようとしているのだろうか。W・B・ガリーからの引用で答えておこう。》
《(W・B・ガリーからの引用)かりに、どの記号にも解釈項として別の記号がともない、どの記号も無数ともいうべき解釈ができるとしよう。もしそうだとすれば、どんな対象であれ、それだけを表わす(唯一無二の)記号などありえず、どんな記号であれ、それだけに対応する(唯一無二の)解釈項もありえないことになる。記号と対象のあいだには意味と呼ばれる単純な二項関係がなりたつという信念は、いまも哲学者たちのなかに広く流布している。だがそのような説の根底には、記号の性質と働きについての、根本的な誤解があると見なすわけである。記号は、生きた記号体系の要素となってはじめて機能するということだ。》
●探求の論理的結論としての「習慣」
《彼はまた、解釈項をさまざまなタイプに区分してもいる。なかでも、探求とは何かを理解するうえで重要なのが「論理的解釈項」である。記号論研究の深まりとともに、一八七八年に登場したプラグマティズムの根本指針は、記号の論理的解釈項を確定する手続きとして位置づけられるようになる。》
《パースが行為(アクション)と行動(コンダクト)とを明確に区別していたことを軽く見てはならない。彼によれば、行為は特殊単一のものだが、行動は一般的なものである。したがって、パースの記号論の観点からすれば、プラグマティズムの根本指針とは、行動習慣を明晰にし、概念や判断から推論によって導かれる帰結を明確にするための手続きだということがわかる。しかも、そうした明晰化の作業はあくまで暫定的なものであり、従来なかった新たな解釈に出会う可能性をつねに秘めているのだ。晩年、パースはさらに分析を進めて、論理的解釈項は行動習慣を言葉で表現したものだと述べている。》
《(パースからの引用)真の、生きた論理的結論とは、そうした習慣なのである。言葉による定式化は、それを表現しているにすぎない。……概念が論理的解釈項といえる場合でも、ある程度はそういえるという話でしかない。それは言葉による定義という性質を完全にまめがれてはおらず、習慣そのものには及ばないのである。言葉による定義が実質的定義に及ばないのと同じことだ。》
●第二性と第三性。第二性(外部との衝突)は、第三性(推論的判断)から遡行的にみいだされる。
《(パースは)経験的知識の土台となる認識論的所与(直観)というものを無条件にしりぞけた。それこそがパースのデカルト主義批判の要であった。しかし、それだけではない。世界はわれわれから独立に存在し、われわれに制約を課しているが、そうした世界との接触をなくしたある種の観念論や斉合主義の誘惑にも、警戒をおこたらなかったからだ。彼が「外部との衝突」で言おうとしたのも、そのことだった。》
《パースは、第一性、第二性、第三性という枠組みをもちいているが、「外部との衝突」で念頭にあるのは第二性のカテゴリーである。(…)第二性のカテゴリーは、むきだしの野蛮な制約、強制、抵抗を意味する。それは経験のもっとも大きな特徴である。》
《第二性と第三性のカテゴリーをもちいれば、知覚判断の二つの側面を正しく理解することができる。認識としての側面と、それが有無を言わせぬ力によって導かれたという点の二つである。単純な知覚報告を材料に考えてみよう。美しく晴れた空を見あげて、「雲ひとつない青空が見える」と報告したとする。(…)こうした報告をするには、パースが第三性と呼んだ推論の習得が不可欠である。しかしこの知覚報告には、有無をいわせぬ力によって導かれたものであるという側面もある。(通常の視力で)空を見あげれば、その青さは否が応にも目にはいる。その意味で、この知覚判断は余儀なくされたものといってよい。》
《(パースからの引用)知覚対象は、知覚判断の証言でしか知りえない。なるほど、知覚対象から衝撃や反動が伝わるのを感じることはある。一個のまとまりとしての対象がどのようなものから構成されているかも、見ればわかる。もちろん心理学者が推論で理解できることもある。しかし、精神を集中して少しでも知覚対象について考えたとき、自分が何を「知覚」しているかを真っ先に教えてくれるのは知覚判断なのだ。理由はこれだけではないが、わたしとしては、知覚判断において直に解釈される知覚対象を「被知覚項」という名前で呼び、考察をくわえようと思う。》
《被知覚項は、われわれに強いられたものである。それはパースがカテゴリー表であげた要素へと分析(分離)もできる。だが被知覚項はばらばらのセンスデータではない。その正しさはおのずから保証されているわけではなく、経験的知識に認識論上の基礎をあたえてくれるものでもない。要するに、それは絶対的な所与ではない。けれども、その判断は余儀なくされたものである。被知覚項が立ち現れるとき、われわれはすでに第三性のレベルにいる。したがって、判断である以上は可謬的であることをまぬがれない。(…)パースは“むきだしの野蛮な強制力”と“認識の権威”とを区別する。(…)世界はわれわれの経験的知識に制約を課している。しかしこの制約(第二性)は、知覚判断や経験的判断(第三性)を媒介にして課されるのだ。》