●引用、メモ。上妻世海「森の言葉 序説 全てのひそひそ話のために」(「たぐい」vol.1)より。
《これは「制作へ」のなかで「蝶番」という概念として主題化したものである。例えば、狩りの時、僕たちは獲物の視点から自らを見ることで、翻って、自らの行動をいかにとるべきか知る(獲物が僕がどう動くと考えているかを知ることで、その裏をかくことができる)。あるいは、チェスの場合、自らの駒の動かし得る可能世界だけでなく、向かい合った対戦相手がどの駒をどのように打つかを考えることで、翻って、自らの打つべき手を知る。》
《松野孝一郎はこのような一人称-二人称の現在進行形で「指された後に相手を指すという行為が、実は経験の生成する現場である」と言う。何故なら、この指し示すこと、指されることを巡る往還運動こそ、受動を能動に、能動を受動に変換することであり、その変換運動こそが生成を担っているからである。「蝶番」の機能がこの双方向の変換を担っていることは、狩猟の例、あるいはチェスの例を思い返してもらえれば分かるだろう。(…)故に、この「鏡像反転」は相手の視点へと憑依するだけでなく、相手の想像する自分の視点にも立たなければならない。》
《この「私とあなた」の間にある対話的な往還、一人称-二人称的な言語を松野は「ひそひそ話」と呼んでいる。》
●「制作へ」までは、「間に(事後的に生まれる)鏡を挟んだ二項関係」として描いてきた上記のようなこと(「私でなく」「私でなくもない」)を、ここではパースを援用しつつ、記号過程の三項関係として描こうとしているところがとても面白い。二人称的関係を三項で(三人称で、ではなく)説明することによる意義は大きいと思う。
(そしてこのパース的な三項関係は、ほぼそのままハーマンの議論へとつなげられると思う。これはぼく個人としての興味。)
情報とは「差異を生む差異である」
《(…)情報がどんな情報かは、その個体が差異をいかなる差異として解釈するかに依存する。つまり、どんな個体が「経験の生成する現場」に参入しているかによって、生じる情報は異なるのである。これは情報を一般化できない最大の理由である。情報は個体に依存する。》
《生物学者ジェスパー・ホフマイヤーは「ある晩に私がツグミが不意に鳴き出すのを聞いたとすると、私は木を見上げ、その鳥を見つけようとするだろう。言い換えると、私の耳に届いた音は、身近のどこかにツグミがいるに違いなという効果をもつインフォメーションを私の脳に作り出す。蛾が近くの壁にぴったりついていたとしても、このツグミの鳴き声は蛾にとっては何のインフォメーションももたらさない。ツグミの歌は蛾には聞こえない。完全に相違をつくらない相違がこれである。それゆえ、インフォメーションではない。そして私の小さい息子は「鳥」と言おうとするかもしれないが『ツグミ』とは言わないだろう。彼は、同じ歌声から別のインフォメーションを引き出したことになる」という。》
《これは言い換えれば、情報の基盤には個と個の「蝶番」があり、一人称-二人称の関係があるということだ。そして、その間にある翻訳過程こそが情報を生み出しているのである。》
《パースは、この翻訳過程を記号過程と呼んだ。そして、主体と客体という二項関係ではなく、記号と解釈項と対象という三項関係による記述を必要なものと考えた。パースの記号の定義をホフマイヤーが言い換えたものを引用すると「記号とは…ある観点なり立場から誰かに何かを表すもの」である。つまり、ある観点なり立場がなければ記号は存在しえない。》
《しかし、これは事前に対象と切り離された主体を設定することとは異なる。なぜなら、情報そのものは個と個の接触以前には存在しないからである。個それ自体の情報は接触することによって生じる。》
●経験(情報)の主体は常に《指された後に相手を指す》という形で、二人称的関係の事後(経験の後)に生じる。しかし、そもそも事前に個(主体)がなければ、情報(経験)を生むための「個と個の接触」を考えることはできない。
ここに三項で考えることの意味が出てくる。パースにおける解釈項は、主体や個以前の、その萌芽となるような「記号過程の淀み」のようなものであり、世界の可塑的性質に刻みつけられた「一時的に保持される形態や機能」であり、そして《習慣》であると考えられる。つまり、習慣は、未だ主体足り得ない、世界に遍く散らばっている準-主体的な、弱い主語的統合機能だといえる。
習慣は、世界のなかで(偶発的に)起こる、関係(出会い・出来事)の反復性によって形成されると考えられる。ある特定の出会い(出来事)の偶発的反復が、《「一人称-二人称」の往還運動》にまで発展することで、習慣として記号を解釈する解釈項が生じると考えることはできるだろう。そして、習慣が生まれることで、記号過程の連続的、持続的な生成と発展が促される。
《ホフマイヤーはツグミの鳴き声を聞き、木の方を眺めたが、蛾はそれを聴くこと(記号として解釈すること)ができなかった。(…)それは蛾にとってツグミが関係を持たない生物だからである。つまり両者は接触することが滅多になく、差異(情報)を生み出すことがない。》
《蛾とツグミは出会わない。故に「習慣」が形成されることはない。しかし、世界には多種多様な出会いが存在するだろう。「習慣形成」には「一人称-二人称」の往還運動が必要である。》
●形成された《習慣》は可塑的なものであり、《習慣形成》は終わりのないプロセスである。
《子供が成長し、学習機会に恵まれ、その鳴き声は「鳥」というクラスの「ツグミ」というメンバーであると知れば、次にその鳴き声を聞いたとき、彼の子供も「ツグミ」の鳴き声であるという解釈を行うことになる。これは新たな「習慣」が形成されたことを意味する。(…)差異を生み出すものは「習慣」であり、差異に違いを生み出すのは「習慣形成」なのである。》
《(…)僕たちは「経験を生成する現場」に立ち会うことによってのみ「記号過程」を生きることができ「習慣形成」が生じるのである。その時、「経験を生成する現場」と「習慣形成」とは同時に生成している。(…)「習慣形成」は「現場」で生じているし、「現場」も「習慣形成」によって生じている。》
●このテキストでは、「三人称」の発生についても触れられている。
《松野(孝一郎)は「一人称、二人称を三人称現在形に橋渡しするもうひとつの可能性は、進行形を完了形に変換すること、つまり記録です」という。》
《松野は「進行形」と「結果」の違いを説明するために、進化と自然選択を例に挙げる。自然選択は結果である。それは「結果」として生き延びている生物に対して、自然選択という「原因」を与える。しかし、進化は現在進行形で生じている。進化は個別具体的に進む。それは具体的な視点を持つ生物が絶えず、能動と受動を切り替えながら/切り替えられながら変化していく過程である。》
《そして、それは環境と他種との関わりという受動的な側面だけではなく、生物が環境をつくるという側面も持つ。》
《(松野孝一郎からの引用)たとえば植物は、その勢力を増すにつれ、地球全体の物理化学的環境をも変えてしまった。生物は遺伝子と環境の相互作用によって姿を変えていくのはもちろんだが、環境もまたある程度生物によって帰られていく。生物は自分自身を造り上げるのに能動的な役割を果たしている。》