2019-02-03

●『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)を読み始めた。以下、引用、メモ。

●「社会的なものの社会学者」と、「連関の社会学(ANT)」。

《社会的なものの社会学者は「社会的慣性」に訴えることを好み、まるでどかで紐帯が貯蔵されており、その蓄えは長い時間をかけてはじめて減少していくものであると言わんばかりだ。ANT(アクター-ネットワーク-理論)に言わせれば、グループを作り続けることを止めれば、グループはなくなってしまう。「社会的な力」から生まれる力の蓄えが助けてくれることはない。社会的なものの社会学者にとっては、秩序が常に見られるのであって、減退、変化、創造は異例なことである。連関の社会学者にとっては、遂行が常に見られるのであって、説明されるべきは、つまり、問題をはらむ異例なことは、ありとあらゆる、長期に及ぶ、もっと規模の大きな安定性である。二つの学派では、背景と前景が逆さになっているかのようだ。》

《この反転のもたらす影響はとてつもなく大きい。慣性、持続性、射程、堅牢性、傾倒、忠誠、執着などが説明されなければならないのであれば、そうした安定性を生み出せる〔エージェンシーの〕移送装置、ツール、器具、材料を探すことが不可欠だ(…)。社会的なものの社会学者にとって、社会に訴えることの大きな利点は、この長期にわたる安定性をただでやすやすと示せることにあるが、その一方で、私たちの学派にとっての安定性は、まさに、手間暇のかかる諸々の手段に訴えて説明しなければならないものである。さらに、そうした器具はそもそも「社会的」であることとは別の特徴を有しているはずだ。》

《社会的なものの社会学者の場合、そうした用語が指し示すのは、同じ社会秩序がとりうる数多くの化像(アバター)であり、あるいは社会秩序が「表象」されたり「再生産」されたりする際に用いられる多様なツールである。社会的なものの社会学者にとってみれば、「社会的な力」は常にすでに背景に存在しているので、それを顕在化させる手段が極めて重要なのである---けれども、決定的に重要なのではない。》

《連関の社会学者の場合には、手段によって世界は大きく変わってしまう。というのも、元から存在している社会はなく、人びとを結びつけるものを貯蔵する倉庫もなく、以上見たようなグループのすべてをひとつに結びつける接着剤の入った頼もしい瓶もないからだ。今、祭りを開かなかったり、今日、新聞を印刷しなかったりすれば、グループの形成を維持することはまったくできない。グループは、修復が必要な建物ではなく継続が必要な運動である。(…)だから、直示的な定義と遂行的な定義との区別を持ち込む必要があったのだ。直示的な定義の対象は、傍らで見ている者の指標記号(インデックス)がどうなろうとも、変わらないままである。しかし、遂行的な定義の対象は、それが遂行されなくなると消えてしまう---もし消えていなければ、他のアクターがその中継を引き継いだことになる。そして、この中継は、当然「社会的世界」ではありえない。というのも、「社会的世界」こそが新たな中継を何よりも必要としているからだ。》

●「中間項」と「媒介子」

《この入門書で必要となる専門用語はごくわずかであるが、そのうち二つを用いれば、社会的なものを生み出す手段を中間項として捉えるのか、媒介子として捉えるのかによって、非常に大きな違いが生まれる。》

《中間項は、私の用語法では、意味や力をそのまま移送する〔別のところに運ぶ〕ものである。つまり、インプットが決まりさえすれば、そのアウトプットが決まる。実際のところ、中間項はブラックボックスとして捉えられるだけでなく、たとえその内部が多くのパーツでできているとしても、ひとつのものとして扱われる。他方で、媒介子は、きっかりひとつのものとみなすことはできない。媒介子は、ひとつのものとされるかもしれないし、物の数に入らなくなるかもしれないし、かなりの数のものとされるかもしれないし、無数のものとされるかもしれない。インプットからアウトプットをうまく予想することは決してできない。その都度、翻訳し、ねじり、手直しする。中間項はどんなに複合的であろうとも、実際には、きっかりひとつのものとみなされるだろう---あるいは、簡単に忘れ去られてしまうこともあるために、物の数に入らなくなる場合すらある。媒介子はどんなに単純に見えようとも、複雑になる可能性がある。媒介子は、多方面に広がり、自らの役割について加えられる諸々の相反する報告をすべて作り変えてしまう場合もある。》

《正常に作動するコンピュータは複合的な中間項の格好の例とみなせる一方で、日常の会話は、恐ろしく複雑な媒介子の連鎖になることもあり、そこでは、感情や意見、態度が至るところで枝分かれする。しかし、コンピュータは、壊れてしまえば、恐ろしく複雑な媒介子に一変するだろう。(…)これらから少しずつ明らかになるように、事物の根本的な性質に関するこの絶えざる不確定性---その事物は、中間項として振る舞っているのか、媒介子として振る舞っているのか?---は、私たちが目を向けることにしたすべての不確定性の源泉である。》

●ナイロンと絹。

《たとえば、ある社会的差異が服装の細部に「表現」ないし「投影」されており、この細部---たとえば、ナイロンにはない絹の輝き---が、何らかの社会的意味---「絹は高級な人向けだ」、「ナイロンは低級な人向けだ」---を忠実に移送する中間項と見なされるならば、生地の細部が取り沙汰されてきたことは無駄であった。生地の細部は、ただ例を挙げるために持ち出されてきたからだ。絹とナイロンに化学的な違いがなくとも、高級な人と低級な人の社会的差異は、どのみち存在し続けることになるだろう。その社会的差異は、その性質とはまったく無関係である布きれに、「表象」ないし「反映」されてきただけである。逆に、化学面、製造面での一つひとつの違いが媒介子として扱われるならば、絹とナイロンの感じ、手触り、色合い、輝きといった数々の違いがなければ、この社会的差異はまったく存在しないことになるだろう。この非常に小さな媒介子と中間項の区別から、最終的には、私たちが求めている二つのタイプの社会学の違いのすべてが生まれることになる。この対照をおおざっぱにまとめるならば、社会的なものの社会学者が信じているのは、一種類の社会的まとまりが存在し、多くの中間項があり、媒介子はほとんど存在しないことである。他方のANTの場合、他に勝る社会的なまとまりはなく、無数の媒介子が存在しており、そして、媒介子が忠実な中間項に変わるならば、それはいつものことではなく、めったにない例外的なことであり、何らかの特別な手間をかけて説明される必要があるということである---たいていは、さらに多くの媒介子を持ち出すことによって!