2019-02-04

●つづき。『社会的なものを組み直す』(ブリュノ・ラトゥール)。引用、メモ。

人形使いと操り人形。

人形使いが、自分の操り人形を完全にコントロールしているかのようにふるまうことはほとんどないだろう。人形使いは、「操り人形が、思いもよらない動き方を教えてくれる」といった妙なことを言うだろう。ある力が別の力を操るからといって、あるひとつの原因が結果を生み出しているとは限らない。(…)こう言ったからといって、操り人形が人形使いをコントロールしていることにはならないし---それでは単に因果関係の順序を逆にしているだけだ---、もちろん、弁証法の出る幕でもない。つまり、ここで興味を引く問いは、誰がどのように行為しているのかを決めることではなく、行為についての確定性から行為についての不確定性に移行することである。》

●行為は常に非局在的である。

《つまりは、行為は自明なものではないということだ。行為は、意識の完全な制御下でなされるものではない。むしろ、行為は、数々の驚くべきエージェンシー群の結節点、結び目、複合体として看取されるべきものであり、このエージェンシー群をゆっくりと紐解いていく必要がある。》

《生来の活力を回復しようとする社会科学にとって決定的に重要なのは、アクターを超えたあらゆるエージェンシーを、それ自体が社会的であろう何らかのエージェンシー---「社会」「文化」「構造」「界」「個人」など、名前は何でもよい---に合成してしまわないことだ。行為を、驚くべきこと、媒介、出来事のままにしておくべきだ。だからこそ、おそらくはいつものように、「社会による行為の規定」「個人の計算能力」「無意識の力」から始めるのではなく、ここでもやはり、行為の未決定性から始めるべきであり、そして、「私たち」が行為するときに誰や何が行為/作用しているのかについての不確定性と論争から始めるべきなのだ---そして、もちろんのことながら、この不確定性の発生源が分析者にあるのかアクターにあるのかを決めることはできない。》

《アクターネットワークという表現における「アクター」とは、行為の源ではなく、無数の事物が群がってくる動的な指標である。》

《「アクター」という語を用いることで表されるのは、私たちが行為しているときに、誰が行為し何が作用しているかは決して明らかではないことだ。舞台上の役者(アクター)は決して独りで演じていないからだ。演技すること(プレイ・アクティング)からして、複雑な局面に身を置くことになり、そこでは、誰がその演技を実行に移しているのかという問いは解決しえないものになっている。(…)このようにアクターのメタファーを展開することを認めるならば、アクターという語自体が、行為の完全なる散開(ディスロケーション)に注意を向けさせてくれる。そして、行為は首尾一貫しておらず、制御されておらず、均整がとれておらず、きれいに仕切れないことを知らしめてくれる。そもそも、行為は決して定置されず、常に非局所的(ディスローカル)である。行為は、借用され、分散され、提案され、影響を受け、支配され、曲げられ、翻訳される。あるアクターがアクター-ネットワークであると言われるならば、何よりも強調されるべきは、行為の起源に関する不確定性の発生源である》。

《ある犯罪者が「私のせいじゃない。私には駄目な親がいた」と言うときに、私たちは「社会が彼女を犯罪者にした」と言ったり、「自分自身の罪から逃れるために、社会という不特定性のなかで自分の過失を減らそうとしている」と言ったりすべきなのか(…)。しかし、その犯罪者はそんなことは言っていない。「私には駄目な親がいた」と言っただけである。その言葉をまじめに受け取るならば、ひどい子育てを何か他のものに自動的に翻訳することはできず、確実に社会には翻訳できない---さらに、その犯罪者は「子を去勢する母親」とも言っていない。私たちが抗わなければならない考えは、アクターによる色とりどりの言葉のすべてをごくわずかな数の社会的語彙に翻訳できる辞書がどこかに存在するという考えだ。》

《つまり、驚かされるがはっきりとした表現を、その背後に隠れているとされるよく知られた社会的なもののレパートリーに取り替えてはならないということだ。アクターには個別言語しかないが、分析者にはメタ言語があり、そこにアクターの言語は「埋め込まれている」などという振りをしてはならない。》

●エージェンシーをめぐる論争を地図に示すためのリスト

《どんな人や物が私たちを動かしているのかが確実にわかることは決してない。しかし、起きていることに対してなされる相反する主張には常にみられる特徴があり、それをリストにすることはできる。つまり、①エージェンシーは報告によって定義される、②エージェンシーには何らかの姿形が与えられる、③エージェンシーは他の競合するエージェンシーと対置される、④エージェンシーは何かしらの明確な行為の理論をともなう、である。》

《第一に、エージェンシーは、何かをするものとして、常に報告に現れる。つまり、ある事態に何らかの変化〔差異〕を作り出し、Cによる試行を通してABに変換するものとして現れる。(…)差異を作らず、変化を生まず、痕跡を残さず、報告に入らない不可視のエージェンシーは、エージェンシーではない。(…)ANTの場合、次のように言うことはできない。「誰にも触れておらず、確証はないが、ここでは何らかの隠れたアクターが背後で動いていることはあきらかだ。」これは、陰謀論であって、社会理論ではない。》

《第二に、エージェンシーとその形象化は別物である。作用を及ぼしているものは、報告のなかで、常に、何かしらの肉付けと容貌が与えられ、何らかの姿や形をまとうことになる(それがどんなに漠然としたものであろうと)。「形象化」は、「社会的説明」という条件を無効にするために導入しなくてはならない専門用語の一つである。というのも、擬人的な形象以外にも多くの形象が存在することを把握することが極めて重要であるからだ。(…)どんな個人についても、どれだけの数の力がそこで同時に働いているのかは誰にもわからないのだ。逆に言えば、統計データの点の集合にどれだけの数の個別性が存在しうるのかがわかる人はいない。形象化によってエージェンシーに姿が与えられるわけだが、必ずしも、具象画家の作品さながらになめらかな描写手法がとられるわけではない。社会学者が自分の仕事をこなすためには、アクターを「描く」際に、現近代美術における形象化に関する議論と同じくらい豊かな多様性が必要である。》

《第三に、アクターもまた、他のエージェンシーを批判することに与しており、そこでは、他のエージェンシーが、偽物である、古びている、馬鹿げている、非合理的である、作為的である、錯覚であるなどとして非難される。グループの遂行的形成(パーフォーメーション)が、自分の社会的世界を作り上げる反対グループを地図に示し、調査者に益するのと同じように、エージェンシーが報告される際には、新たな存在が絶えず加えられるとともに、他の存在が非正統的であるとして取り消される。(…)次の言明を検討してみよう。(…)「市場の力は、官僚よりもずっと有能だ」、「無意識によるこの巧みな言い間違いが、本心をあらわにしている」「人間よりも天然のサケを守りたい」。以上の文の一つひとつが、この世界で正統な役割が授けられたエージェンシーのリストに足し算や引き算を行おうとしている。》

《第四に、アクターもまた、エージェンシーの影響がどのように及ぶのかを説明する独自の行為の理論を提示する力を有している。熟達した一人前の反省的な形而上学者であるアクターは、---ANTの新たな基本姿勢が示すように---エージェンシーがどのように作用するのかに関する独自のメタ理論をもっており、このメタ理論は、伝統的な形而上学者を唖然とさせてしまうものだ。アクターは、どんなエージェンシーが及んでくるのかをめぐる論争に加わるだけでなく、その現れ方に関する論争に加わる。さらに、ここでもまた、そのエージェンシーが---現在、形象化、敵対するエージェンシーが与えられること---中間項として扱われるか、媒介子として扱われるのかによって、大きな違いが生まれることになる。分析者がどちらに決めるのかによって、アクターによる報告の結果は大いに違ったものになる。》

《この違いがあらゆるエージェンシーに(その形象化がどんなものであろうとも)及ぶことを理解することは、これから本書で述べていくことにとって決定的に重要である。いわば「興味を引かないありふれた力の場」が媒介子として報告に加えられることもあれば、身近で、個別的で、「温かく」、「生きられた」志向性を有する人が単なる中間項として使い古されることもある。言い換えれば、どの形象化が選択されるのかを見ても、それだけでは、どの行為の理論が引き合いに出されるのかを予測することはできない。重要なのは、形象の種類ではなく、展開させることのできる媒介子の範囲である。(…)どのエージェンシーを選ぶべきかを主張するばかりで、それぞれのエージェンシーがどのように作用するかについては十分に主張してこなかったのである。ある人が、「生産諸力のありようが、社会的表象のありようを規定する」と断言することで、この使い古された表現がもっと能動的になる場合もある。(…)したがって、形象化と行為の理論は、このリストに登場する二つの異なるアイテムであり、ひとつに合成すべきではないのだ。》