2019-09-08

●引用、メモ。『ブルーノ・ラトゥールの取説』(久保明)、第三章「社会とは何か」より。その一。

●社会的実践を「社会」に還元しない

《「自然」にも「社会」にも還元せずに科学的実践を捉える試みを検討した前章に続いて、本章では「自然」にも「社会」にも還元せずに社会的実践を捉えようとする試みを検討する。》

《だが、社会的実践を「社会」に還元しないとは、どういうことだろうか。(…)既存の社会科学が自明視する「社会的なもの」(the social)に収まらない諸要素の関係性において、社会なるものを捉え直すことが試みられる。「社会とは何か」という問いへの応答もまた、「社会」の定義を著しく改変し、他の領域との区別を無効化する仕方で進められることになる。》

●「社会的なものの社会学」と「連関の社会学

(…)ラトゥールは既存の社会科学一般に対抗するもう一つの社会科学的アプローチとしてANTを提示している。前者は「社会的なものの社会学(Sociology of the Social)と呼ばれ、後者は「連関の社会学(Sociology of Associations)と呼ばれる。》

《「社会的なものの社会学」において、社会とはまずもって人間が集まって織りなす関係性のまとまりである。政治、産業、宗教、経営、科学、テクノロジーといった様々な活動は、その背後にある「社会構造」「社会秩序」「社会システム」などによって大きな影響を受けている。だからこそ、特定の活動に関する社会学(例えば「政治社会学)は、他の学問(例えば「政治学)とは異なる対象を扱う専門分野として他の学問にも寄与しうる。その対象とは、「社会的なもの」という種差的(=他の全てと区別される特性を備えた)現象であり、社会学者は既に組み合わさった社会的なまとまり(「構造」や「システム」)を、体系的な社会理論に基づいて分析できる専門家である。》

《これに対して、「連関の社会学ANT」は、ありとあらゆる種類のまとまりが生みだされていく運動を追跡するアプローチとして定義される。まとまりの種類はあらかじめ限定されない。それは既に組み合わさった構造や秩序を持たず、絶えず新しいものと結びついていく。こうしたつながりの動態を「社会的なもの」と置き換えることをラトゥールは提案する。》

《例えば、新たなワクチンが市場に出回り、新たな職務規程が示され、新たな政治運動が生まれ、新たな惑星系が発見され、新たな法案が評決され、新たな大災害が起こる。どの場合にも、私たちをひとつに結びつけているものに対する考えが揺さぶられる。それまでの定義が多少なりとも有意でなくなっているからだ。》

《簡単に言ってしまえば、「連関の社会学」とは、「社会」なるものを「原理的に還元不可能な諸要素の原理的に制限のない結びつき」として捉え直す試みである。したがって、そこには従来の観点からは社会学とは思われないような研究も含まれることになる。》

《「構造」や「システム」といった所与のまとまりを前提にする「社会的なものの社会学」に対して、「連関の社会学」はそれらのまとまりがいかに生みだされているのかを探求するのである。》

●「構築」という語の意味のちがい(ラトゥール、自然科学者、社会構築主義)

《ラトゥールが度々指摘するように、技術、工学、建築、芸術といった多くの分野において「何かが構築されている」ということはそれが確かに存在することを意味する。》

《科学実験とは、天体望遠鏡や粒子加速器や計算機や溶液や実験動物といった多種多様な非人間と人間を結びつける壮大な構築の果てに新たな事実を生みだすことの成否がギリギリで決まる、ダイナミックで心躍らされる場だった。》

《ラトゥールの議論における科学的事実の「構築」とは、諸アクターが関係し合いながら「循環する指示」を形成することである。「構築する」のは人間や社会ではなく、人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関である。翻訳を通じて隊列が整えられ多数の媒介項が少数の仲介項に変換されると、対象を観察し解釈する「主体」としての人間を、観察され解釈される「客体」としての物質に対置することが暫定的に可能になる。》

《しかし、自然科学者や社会科学者にとって「構築されている」とはそれが真実でないことを意味していた。》

(自然科学者において)パストゥールは、乳酸発酵素を構築したのではなく「発見」したのである。それは、彼の論文に書かれた乳酸発酵素をめぐる言明が、彼の観察以前から実在する乳酸発酵素という物質と正確に対応していることを意味する。このように考えれば、「科学的事実は構築されている」というラトゥールの主張は、ソーカルらに批判されたように、自然の事実に根ざした科学的知識を研究者の人為の所産に取り違える言いがかりだということになる。》

《一方、知識の社会的構成を論じる社会学者は、確かに存在すると思われている事象が、実際には「社会的なもの」に規定される人々の認識によって構築されていると考える。ここでの「構築」とは、世界と言明の対応に規約や解釈といった社会的フィルターが介在することである。彼らもまた、フィルターなしの純粋な対応こそが真実を保証するという対応説的発想を放棄していない。だからこそ、「構築されている」ことはそれが真実でないことを意味する。》

《何かが「構築されている」からこそ、それは固定的なものではなく、私たち自身が解体・再構築できるものとなるのだ。こうして「構築主義」は「脱構築」の同義語になる。》

(ラトゥールにおいて「構築」しているのは「人間と人間以外の存在を含む媒介項の連関」であって、「社会」や「人間」ではないので---「社会」や「人間」は構築の効果なので---脱構築」とは関係ない。)

●意味作用は人間の専有物ではない

《社会構築主義的な発想において、事物が帯びる意味は人間による解釈の産物に他ならない。(…)「物質」としては同じ事物も、人々によって異なる解釈がなされることで様々な意味をもつもの(「象徴」)となる。したがって、それらの解釈を規定する「社会構造」や「象徴体系」こそが人々が経験する世界のあり方を構成している。あらゆる事柄が社会的に構築されているという論法を支えているのは、私たち人間が意味作用を専有しているという前提である。》

《これに対して、ANTにおいて意味作用は人間の専有物ではない。》

(…)ある山の麓の農村では、長い間トウモロコシをすりつぶすのにすりこぎが使用されてきた。ある時、他の地域を旅した村人Aが、風車と粉ひき機が使用されているのを目撃し、製作方法を学んで村に帰ってきた。彼は、簡素な風車を試作したが、山間から強い風が吹きすさぶこの地域では風車の帆や翼板はしばしば吹き飛ばされた。試行錯誤を経て、彼の風車は回転する先端部を持ちクランクと歯車が複雑に組み合わさったものとなった。今や風は安定して風車を回転させ、粉ひき機はすりこぎの何倍もの早さで作業を行うことが可能になる。村人たちの多くはすりこぎを捨て、粉ひき職人のもとにトウモロコシを持ち寄るようになった。昔ながらのやり方を守ろうとする村人も少なくなかったが、村の生産量を向上させようとする村長によって、自宅でトウモロコシをひくことは禁じられた。》

《ここでは、村人Aや風車というアクターを起点にして種々のアクターが変化し結び付けられている。風車を精巧なものに作り変えていく村人Aの「試行」を通じて風というアクターが取り込まれる。風は「厳しい寒風」から「風車を壊す力」へ、さらに「風車を回す力」へと変化し、村人は「すりこぎ上手の農夫」から「奇怪な風車を笑う農夫」へ、さらに「粉ひき職人を必要とする農夫」へと変化する。(…)風車は風を---風車を壊す/回す力として---分節化し、風は風車を---動力をより多く/少なく生みだす装置として---分節化し、両者の結びつきが農夫を---すりこぎに固執する/粉ひき職人に依存する者として---分節化していく。こうして、風車は人々やトウモロコシや風といった種々のアクターにとっての「必須の通過点」となったのである。》

《風車を起点にした「翻訳」の過程は、まさに意味が産出される過程でもある。》

ANTにおいて、意味作用を生みだす方法は言語に限定されない。意味は、人間やその言語使用によって一方向的に事物に付与されるものではなく、非人間を含む種々のアクターの織りなすネットワークの効果として産出される。》

(…)世界が認識される仕方もまた、社会構造や象徴体系といった所与のまとまりによって決定されているのではなく、世界の内側を生きる存在者同士の相互作用を通じて流動的に変化していく。こうして、「私たち人間が認識できないものはこの世界に存在せず、私たちが世界を認識する仕方は社会や文化に規定される」という見解は退けられ、代わりに、「人間の認識や解釈は人間以外の存在者との関係性の効果として生じるものであり、社会や文化もまた人間の専有物ではない」という考え方が提案されることになる。》

(つづく)