2022/06/26

●『アクターネットワーク理論入門』(栗原亘・編著)の第ニ部を読んだ。とても面白いし、アクターネットワーク理論が重要だということがまず前提としてあるとしての話だが、ちょっと気になってしまう感じはあった。

これは、誤解に基づいた言いがかりに近いと思うのだが、アクターネットワーク理論がとてもリア充的にみえてしまう。常に関係に対して開かれていて、常に試行錯誤を怠らず、常に議論や競争に参加し、常にさまざまな試験に受かりつづけていないと、存在することすら許されない、みたいなニュアンスを感じてしまうところがある。怠惰に、不活性的に、ひっそりと、存在することが許されない感じ。

たとえば、「ひきこもり」という状態が成立しているのは、ひきこもりを成立させるような、人間も非人間の含めた様々なアクターたちのネットワークによってであろう。実家の家の広さや、両親が受給している年金制度、過剰な干渉を行わない近所の住環境、「ひきこもり」と社会的に名付けそれについて親身になって発言する著名人、など。これは、ひきこもりでいることのできるネットワークで、それと同時に、ひきこもりにならざるを得ないネットワーク、たとえば、過去の人間関係の大きな失敗の記憶、厳しい就労環境、日本の経済状況、職歴の空白、内向的な性質、関心を内向きに固着させる---外に出なくても安価に娯楽を得られる---ネット環境、など、があるだろう。だから、不活性的に、隠れて存在することを成立させるのも、多様なアクターたちのネットワーク(社会的ネットワークからの脱去のためのネットワーク)であるし、このネットワークもまた、常に安定しているというわけでもない。モノたちの連関の変化により、より不活性と隠匿の度合いが高まる場合(閉鎖病棟などへの移行など)もあれば、やや活性と顕在の方向へと移行する場合(オフ会への参加など)もあるだろう。

(このようなネットワークをひとつひとつ拒絶して、徐々に非存在に近づいていくのがバートルビーではないか。)

だから、アクターネットワーク理論がリア充的だというのは誤解だと思うのだが、しかし、そのような誤解が生じてしまうのも仕方がないというくらいの「リア充感」があることもまた、否定できないのではないかとも思う。

アクターネットワーク理論は、法や政治や社会という領域で、主体や責任といった近代的で古くなってしまった(古くなってしまったが、これらなしには済ませられないので、なんとかみんな騙し騙し使っている)概念を構築し直すために非常に重要だと思う反面、(すべてを連関-関係としてとらえるというのは)存在論としては、ちょっときついなあとも感じてしまうところはある。いや、ここで法や政治や社会という「人工物」と、存在論という「自然」を分けて考えることこそが、近代的な「純化」として批判されているのだ、というのはわかるのだが…。

●以下は、第八章「ANTと政治/近代」(栗原亘)からの引用、メモ。

集合体と「存在体の収集(=政治)」

《(ラトゥールは)人間中心的なイメージがつきまとう「社会」という語ではなく、「集合体(collective)」という語を用いる。(…)そして、こうした社会観にあわせて、「政治」もまた、脱・人間中心的に拡張し、組み直そうとするのである。》

《ラトゥールにとって「政治」とは、「集合体」へと何らかの新しい存在体(entity)を収集(collect)する活動を広く指示するものなのである。それは存在論的な政治(ontological politics)と言い換えられるような次元にかかわるものであり、科学を含むあらゆる活動が政治的な活動として包括される。》

《たとえば、太陽系の外に新しい惑星が発見されるようなことや、新しい技術が発明されることまでもが含まれなければならないのである(…)。なぜなら、そうした活動もまた、まぎれもなくわれわれが住まう地続きの世界の中に、新しい構成子(メンバー)を受け入れていく活動に他ならないからである。》

命題の分節化とモノ(thing)

《ラトゥールは、「集合体」への存在体の収集を、命題(proposition)の分節化(articulation)とも表現する(…)。これは、「実在(reality)」の構築とも言い換えられる。》

《まず、ラトゥールの議論において、命題とは、(…)「川、象の群れ、気候、エルニーニョ、市長、街、公園」(…)など、ありとあらゆるものを指す。》

《こうした命題=存在=モノという術語の関係については、ラトゥールの用語一覧における「命題」の項目における記述をもとにしている(…)。》

《ラトゥールはモノ(thing)を、いわゆるオブジェクト的なモノ、つまり個的な物体としてのモノではなく、その周囲に集まり(assembly)が形成されていくような出来事を指す語として用いる。すなわち、ラトゥールは、thingに、モノゴト的な意味をもたせるのである。(…)つまりモノ(thing)という語は、その周囲に人間と非人間とから成る異種混成的なネットワークが形成されていくような出来事を指す。》

《モノと存在体とをイコールで結ぶことでラトゥールが示唆しているのは、つまり、あらゆる存在体は、人間と非人間から成る連関によって、はじめてある特定の仕方で実在するに至る、ということである。そして、このことをふまえると、命題の分節化というのは、存在体がある仕方で実在するために必要とされる異種混成的なネットワークの構成素(アクター)とその働き(アクション)が明確化され、安定化していくことを意味する。》

集合体の中における居場所の獲得(=実在)

《こうした過程は、新しい存在体が集合体の中における居場所を獲得していく過程そのものであり、実在がわたしたちの世界の中でのあり方を獲得していく仕方である。つまり、細菌にせよ、新素材にせよ、それははじめからある特定の本質(essence)をもった完成された姿で、いきなりわたしたちの世界の中に放り込まれてくるのではない。それは、実験室や開発室をはじめとする具体的な現場においてぼんやりとした姿で立ち現われ、さらにすでにわたしたちの住まう集合体の中の多様な場所に存在していた、これまた多様な存在体と連関していくなかで実在になっていくのである。》

《この観点からすれば、存在体は、集合体内における他の存在体とのネットワークを増やせば増やすほど、より強固で安定的なものになっていく。逆に、つながりが少なければ少ないほど、その存在体は頼りない、根無し草のようなものとなるわけである。したがって、集合体による存在体の収集が成功するためには、できる限り集合体の他の存在体との間に結びつきをうまく作り出していく必要がある。別様にいえば、事実をより広範なアクターを巻き込む形でより強固なものとして構築していく必要がある。》

(ここでちょっと引用者---ぼく---の発言だが、上のブロックに書かれているようなところにどうしても、リア充であることを政治的、かつ、存在論的に強制されているような感じをもってしまう…。)

分節化の過程の明示とモノたちの議会

《しかし、近代的な科学の事実制作の仕方は、以上のようなネットワークの構築活動としての分節化の過程を明らかにしないまま、最終生産物である事実をあたかも他の何とも結びついてないようにみせる。つまり、自らが構築した存在体を、それ自体で存在しており、何物もそれに影響を及ぼさないつるつるした表面のものとして提示する。本来はネットワークで毛むくじゃらであるにもかかわらず、それらのネットワークはブラックボックスのなかに隠されてしまう。》

《ある存在体をよりはっきりと集合体内に位置づける、つまり真正な意味で、わたしたちにとっての事実として成立させるためには、それにかかわるあらゆる要素を明確にする作業を実験室や学術雑誌のなかで終わらせるのではなく、集合体内の関係するあらゆる存在体がそれぞれの立ち位置において継続していかなければならない。》

《ここで最後に、「モノたちの議会(parliament of things)」という発想について確認することにしたい。》

《(…)ラトゥールの議論において、存在体は、すべからく人間と非人間との連関、ネットワークによって成り立っている。この点において、たとえば、「私個人」という存在体と「細菌」という存在体は、いずれも同等のものとされる。そして、「モノたちの議会」とは、要するにこうした「私個人」のような存在体と「細菌」とが同じテーブルで交渉することが可能になるという、いっけん奇異極まりないことを、まったく問題なく思考することを目指したものなのである。》

representationとモノたちの議会

《ラトゥールは、representationの意味が二つに分裂してしまっているのもまた、「近代」の枠組みのもとで、人間のみから成る「社会」にかかわる政治と、非人間のみからなる「自然」に関わる科学という二分法が成立しているせいであると考える。ラトゥールは、この枠組みを取り外して非近代的な思考へ至ることで、政治家が誰かの利害を代弁することも、科学者が何らかの非人間の性質等について発話することも、いずれも適切な手段を用いて、誰/何かの声を代表/表象する営みであるという点で同等のものとして捉えようとするのである。そうすることで、人間も非人間も交渉のテーブルにつくことができると主張するのである。》

《(…)彼らは、一定の適切な手続きを経てやっと代理人になれる。しかも、常に何らかの形で罷免されうる。すなわち、利害関心をどのように「翻訳」し、それをいかにして明示するか。何を以て、その利害関心が達成されたとするのか。こういった一連のことは、いくつもの手続きを経て決定される。そしてその決定は常に覆されうる。ANT的な観点からいえば、そこには人間と非人間から成る膨大な連関が必要になる。そうした連関によってはじめて、あらゆる存在体は、実在し、互いに交渉することができる。そうすることで、人間とされるモノも非人間とされるモノも、代理人を通じて対等に対話することができるとされるのである。》

政治の形はその都度あらわれる

《ここで描かれているのは、すでに存在しているモノ(thing)(=人間と非人間の連関)たちが、新しいモノ(=人間と非人間の連関)たちを受け入れていく過程である。どのようなモノが集められるのか、具体的にどのような仕方で交渉がなされるのか。それらはすべて、その都度、具体的なそれぞれの場において決まる。つまり、コスモポリティックスという次元で捉えられる脱・人間中心的な「政治」においては、あらかじめ「政治」のカタチを定めることができないし、定めてはならない。》

《ラトゥールは、こうした自らの政治観を「争点指向的(issue-oriented)」と形容しもする。(…)すなわち、ある特定のモノ(=争点)の周囲に人間と非人間のネットワークが形成されていくことをもって「政治」の成立の契機と捉える。》