2022/06/27

●『私立探偵濱マイク 名前のない森』(青山真治)をDVDで観た。観終わって、なんとなく「名前のない森」でグーグル検索したら、自分が二十年前に書いた日記が二番目に出てきて、二十年前の自分と思わぬ再会となった。

https://furuyatoshihiro.hatenablog.com/entry/20021203

これは、ぼくの好きな方の青山真治だと思い、菊池百合子とクレジットされている人は、今の菊地凛子だよなあ、とか、通り魔殺人をしてしまう青年の役を樋口真嗣が演じているのか、とか思いながら観ていた。この時期の青山真治の、まだまだイキッている感じと、一方で、他人の企画にのっかった、企画もののテレビシリーズだということで、やや肩の力が抜けている感じが、とてもいい感じに作用し合っていて、こういう感じ(イキりがいい感じの方向に転がっている、みたいな)の青山真治の作品って、これ以降あまりないのだよなあとか思った。

二十年前の日記では、「自己啓発セミナー」みたいなことを書いていたけど、これはそういう時事ネタ的なものではなく、むしろ、すごく抽象的な空間を作ろうとしているように思えた。『惑星ソラリス』みたいな感じなのかなあ、と。

ソラリス」の海が、人の欲望を具体的に形にして、その人の目の前にあらわにしてしまうものだとすると、「名前のない森」は、その人のもつ破壊的な欲望を自覚させてしまう空間ということになるのか。彼らは、「本当の自分」を探しているというより、自分のうちにある破壊的欲望を知ってしまっているが、しかし、鈴木京香が支配する「この空間」にいる限り、「知らないふり」をして破滅の手前で留まったままでいることが出来る。しかし、「知らないふり」を仕切れなくなるほどに自覚的になると、「この空間」を卒業して、破滅に至ることになる。

(破滅なしに卒業できない。卒業できそうだった大塚寧々は、仲間たちに邪魔されて、破滅を強いられる。)

で、この「破壊的な欲望」は、本当にその人の内にあるものなのか、悪魔のような鈴木京香に誘導されることで持たされたものなのか。彼女は、「この空間」にいる限り破滅には至らないという形で(つまり、破滅を逃れ得るここ以外の居場所はない、という形で)、若者たちを支配する。

二十年前の日記でも書いているけど、この作品の面白さは、そのようなものとして、外界から隔絶された抽象的な空間の「造形」によって生まれる、空間(というか時空)そのもののリアリティにあるのだと思う。