●青山真治の『私立探偵濱マイク/名前のない森』の71分のバージョンをDVDで観た。
物語の骨格は43分のテレビバージョンと、ちょっと拍子抜けするくらい変わってなかった。しかし勿論、長さが違う。43分と71分では28分も違うのだからそれだけで相当なものだ。そしてその28分によって何が一番変わったかと言えば、「空間」の表現の充実だろうと思う。青山真治は、物語の作家でも描写の作家でもなく、アレゴリーの作家だととりあえずは言ってよいと思う。【その歴史的背景への言及は省略して、とりあえずアレゴリーとは、「いま、わたしが見ているのは裸婦だが、しかし、それは見えている通りの裸婦ではなく、なにか他のものを意味している」というような間接的な表現方法であると言っておこう。】(岡崎乾二郎)つまり青山の映画においては、撮影されたある何かは、常に別の何かを意味する。ここには、紋切り型や図式化を恐れない知的な(寓話的な)構築がある。このようなあり方は、エリック・ロメール的な「映画の現実主義」に逆らうものでもある。『名前のない森』を構成する自己啓発セミナーという空間について、ぼくは以前の日記(10/3)で次のように書いた。【この映画の世界は、水飲み人形が首を振るゆったりとした動きと、大塚寧々の足を揺らす動きとがふと共振してしまうような、夢とうつつの中間に拡がる微睡みの世界であり、それと同時に、固有名をなくした者同士が互いに互いを見つめている視線によってがんじがらめに縛られている世界でもある。互いの匿名化した視線で互いを縛り合っているような世界では、そこから解放されるためには、見られている自分を殺してしまうか、自分を見ている他人全てを殺してしまうかの二通りしかない。だから、「自分の本当にやりたい事」は、「無差別殺人」か「自殺」しかなくなってしまう。そのような世界に亀裂を生じさせるには、濱マイク=永瀬正敏の道化じみた身振りなどではなく、いきなり登場する山本政志の野蛮なまでに俗っぽい存在感が必要である。】71分のバージョンでも、これは全くと言っていいほどかわらない。そして、大塚寧々によって、その内部にいると吐き気がするのに、この外へは怖くて出られない、と言われる、固有名を奪われて互いの人間関係だけが全てを支配する閉鎖的空間とは、青山にとって「日本」を意味していると言えるのかもしれない。しかしこのようにアレゴリーは知的といえば確かに知的だが、この程度のことを言うのに何故71分もの映画が必要なのかということにもなってしまうだろう。だが実際は、青山の映画を観る人は、例え青山のアレゴリー的図式に説得されなくても、青山の映画には説得されることになる。例えば、ぼくは『EUREKA』に対して、具体的に扱われた主題や展開については疑問があるものの、映画作品としての素晴らしさには異論はない。では、何が青山映画の「説得力」を形づくっているのかと言えば、その空間的な造形力だとぼくには思える。これは、内容には意味が無いが形式に意味があるという話ではない。アレゴリーというのははじめから表現の「形式」なのだから。つまり重要なのは、閉じられた空間としての「自己啓発セミナー」が何を意味しているか、ではなく、「固有名をなくした者同士が互いに互いを見つめている視線によってがんじがらめに縛られている」ような「夢とうつつの中間に拡がる微睡みの世界」をつくり上げている具体的なショットの連なり、ショットとショットの関係が、それとは別の何かを意味することができ、そこからまた連鎖的に、もっと別の何かをも意味することが出来るという、構築された抽象的な形式の複雑さであり、応用可能性の大きさなのだ。つまり、青山的アレゴリー形式の、複雑さや強さを保証しているのが、そこで示される具体的なショットの連鎖によって構築される映画的な空間の造形力だということだ。『名前のない森』の43分と71分との二つのバージョンは、物語という意味ではほとんど変わらないし、語りの形式の洗練という意味でなら短いテレビバージョンの方が優れているとさえ言えてしまうかもしれないのだが、71分の方は、これは確かに「映画」だと言うしかないような表現になっており、その違いは、そこに出現している青山的な空間の複雑さや強さの違いなのだと思う。(つまりそこで映画的により面白い空間が造形されている、ということ。)
アレゴリーとは、具体的にはAとBとCとの関係によって表象されているものが、DとEとFとの関係を意味することが出来、また、GとHとIとの関係をも意味することが出来るというような表現の「形式」であると言える。だから例えば「意味」としてのDとEとFとの関係のリアリティーを保証するのは、具体的に表象されたAとBとCとの関係のリアリティーによるしかない。(身も蓋もない言い方をすれば、いかにもそこに、読んでも読んでも読み切れない程の意味が隠されている「かのように」造形されなければならないのだ。)青山の映画における具体的な空間造形の面白さは、そのような意味においても青山的アレゴリー表現にとって重要で不可欠なものだろう。だから、ある意味「語り」に徹していると言える42分バージョンよりも、長ったらしいと言えるかもしれない71分バージョンの方が(物語内容としては新たなものはほとんど付け加わっていないにも関わらず)アレゴリーとしての凝縮力は増しているということが言えるのだ。
(71分バージョンでは、冒頭のデビッド・リンチっぽい始まり方が、より一層「夢とうつつの中間に拡がる微睡み」のような、どこでもない世界の出来事の掴み所の無さを生み出しているけど、それにしては「笑った」という結末の付け方は、理に適いすぎているのではないだろうか。それと、やはり山本政志の存在は圧倒的で、この人がいなかったらもっと薄っぺらな感じになってたかもしれない、とさえ思った。)