2022/08/11

青山真治が2015年につくったドラマ、『贖罪の奏鳴曲』をU-NEXTで改めて観てみた。前に観た時に、この日記に《ほとんどそのまま『ユリイカ』その後ともいえる話》だと書いていて、まさにそうなのだが(三上博史は、大人になった『ユリイカ』の宮崎将だといえる)、だが同時に「母への復讐」という主題をもつ『サッドヴァケイション』のつづきの話でもあるのだと気づいた。『サッドヴァケイション』の「母」は、あまりにもわかりやすく底なし沼的権力であったが、『贖罪の奏鳴曲』の母の造形はもう少し複雑になっている(それにしても、青山真治はやはり「日本近代文学」なのだなあとは思う)。

この作品には、自分が人を殺してしまったという事実をどのように背負っていくべきなのかという『ユリイカ』から引き継がれた問いと、自分を捨てた母親に対する感情をどのように扱えばよいのかという『サッドヴァケイション』から引き継がれた問いがあるのだが、前者に関しては『ユリイカ』によって問われた以上の問題の深化はないように思われる。ただ、少なくとも、生き残って、生き続けている、苦しみつつ生きている (あえてここではそう言い切るが) 宮崎将の姿を提示しているという意味はあると思う。彼が生き続けていることにより、たとえばリリー・フランキーのような人がその態度を変化させる。

後者に関して、主人公(三上博史)は実際に母と対峙するのではなく、自分と自分の母の関係の寓意であり類比であるような、とよた真帆染谷将太という母-息子関係と対峙する。とよたは、息子が殺人者だと知りながら、その疑いが自分に向けられていることを受け入れている(とはいえ、それによって無期懲役の刑を受けることは必ずしも受け入れていないようだ)。弁護士である三上は、とよたの無罪を勝ち取ろうとするのだが、もう一方で、「母」という存在に対する不信をあからさまに彼女にぶつける。事件の捜査ととよたとの面会は、三上にとって精神分析的な過程となる。三上の母もとよたも、殺人者の母であるが、三上の母が彼を見捨てたのに対し、とよたは息子をかばって罪を背負っているかのようにみえる。しかし、息子をかばうことは息子を救うことにならない。三上はとよたの無罪を(事実上)勝ち取るが、同時に、染谷が殺人者であることを突き止めて事実を彼に突き付け、染谷は殺人の落とし前をつけるように自ら死を選ぶ。そして、面会室で「おかげで息子とまた二人で暮らせる」と感謝するとよたに、あなたがすべきだったのは息子をかばうことなどではなかった、あなたが今できることは葬式の準備を誰かに頼むことだけだと、息子の死を告げて去る。

ここで三上は、『サッドヴァケイション』の浅野忠信が失敗した「母への復讐」を代理的に果たしている。だがこの復讐は憎しみの発露ではなく、倫理的な一つの解であろう。ここで三上は、息子をかばうことで包摂的に支配しようとする母的権力に対して「否」と言い、とよたのすべきだったことは、息子の罪を身代わりに背負うことではなく、息子の傍らに居続けることだったはずだ、とする。三上は、自分自身が母の包摂的支配の圏外にいる(捨てられた)ことをある程度肯定的に捉え直しつつ、やはり母には傍らに居続けて欲しかったのだという認識を得て、母への感情に一定の落としどころを得る。

(このドラマでは、殺人を犯した息子とその母という関係が、三上博史とその母、染谷将太とよた真帆、の他にも、菅田俊とその母、百瀬朔とその母と、四組あって、それぞれ互いを映し合って複雑なニュアンスを作っている。)

以前にこの日記で、『サッドヴァケイション』から何かが途切れてしまったということを書いたが(7月28日と28日)、実質的に(というのか、仮想的に、というのか)、この『贖罪の奏鳴曲』が、『サッドヴァケイション』のつづきであり、「北九州三部作(というか四部作)」の完結編に当たるものだとさえいえるのではないだろうか。

(三上博史とよた真帆が出ているという意味では、『月の砂漠』のつづきということでもあるのかもしれないが、『月の砂漠』については細かいことはもうほぼ憶えていない。二十年以上前に自分が書いた感想を読み返してみても、この作品と特に強い関連はないように思えた。)

だが、驚くべきことにこの作品は原作モノであり、青山真治は脚本を書くことさえしていない(脚本は西岡琢也とクレジットされている)。監督が脚本にどの程度手を加えたのかは分からないが、あたかも、青山真治のための物語を本人に代わって他人が書いてくれた、かのようにさえ感じられる。

(とはいえそれは完璧なものとはいいがたく、本来ならば、自分のオリジナルシナリオでこの作品に当たるものをつくりたかっただろうが、しかしともかく、この作品があったことは、よかったのではないかと思う。)

作品に興味があっても、作家のインタビューなどにはあまり興味がないので、青山真治の発言はまったく追っかけていないのだけど、この『贖罪の奏鳴曲』については、どんなことを言っているのかはちょっと気になる。この話(この原作? この脚本? )への監督の依頼が自分のところに来た時に、どう思ったのだろうか。どういう経緯でこの話を青山真治が監督することになったのだろうか。