2022/08/10

●「ランダム再生「偽日記」@インスタグラム」をはじめたので、自分の書いた過去の日記をランダムに読み返すことが増えた。で、2001年の8月26日の日記にちょっと面白いことが書いてあった。

笠井潔『群集の悪魔』/風俗/革命/ラカン/ジジェク(だらだらつづく話) - 偽日記@はてなブログ

ジジェクは、デリダへの批判として、手紙は届いた瞬間に手紙になるのであって、手紙が届く前に、ある目的地へと向けて投函される訳ではない、と述べている。だから、到着に先立って、手紙が何処かを彷徨っているような状態などありえない、と。つまりそれは、無意識が実体として何処かにある訳ではなくて、ある痕跡があって、そこから遡行すること(読み取ること)によってはじめて無意識の存在が露わになるのと同じである。届いた瞬間に手紙となり、届いたその場所こそが宛先であるような手紙が、何故、誤配されたりするのか、という訳だ。しかしデリダによって問題とされているのも、宛先に既に届いている手紙に、かつてあったはずの誤配可能性、ということだったのではないか。例えばそれは、アウシュヴィッツにおいてハンス少年が殺された、という事実があった時に、《ハンスが殺されたことが悲劇なのではない、むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかもしれないことこそが悲劇なのだ(東浩紀)》、と言うような意味での誤配可能性のことなのだ。すでに「そのように」あってしまったことが、「そうでなかったかもしれない」可能性を想定することが出来る、ということが誤配の可能性であり、届かなかったかもしれない、というその可能性によって、主体は「幽霊」に憑かれるのだ。(だから、どのような特権的な主体によっても、「幽霊」を解消すること=世界を解明することは、できないのだ。)それは、手紙が届いてしまったことを主体の「運命」だと速やかに受け入れるジジェクとは根本的に違っている訳なのだ。》

「誤配」という概念では、「手紙は本来正しく配達される(手紙には正しい宛先がある)」ということが前提となってしまっている。だが、「事前」に正しい宛先などない。だからこそジジェクは「(たまたま)届いた所」こそが正しい宛先なのだ、と言う(これは精神分析的には正しい)。だがこの日記でぼくは、「誤配」とは、《宛先に既に届いている手紙に、かつてあったはずの誤配可能性》のことではないか、と書いている(この考えは、東浩紀の「ソルジェーニツィン論」からきている)。既に宛先に届いてしまっている手紙がかつて持っていた(今は失われた)誤配されるかもしれない可能性。

それについてこの日記のぼくは、主体に「届かなかったかもしれない」可能性として、「主体」の側から解釈しているが、そうではなく、「手紙」の側からみた「誤配されたかもしれない可能性」について考える方が面白いように思う。手紙は、届いたところこそが「正しい宛先」なのだから、どこかに届くより前には、「誤配」の可能性はない。しかし、どこかに「届いた」ことではじめて、事後的に、「(届くことで消えてしまった)誤配されたかもしれない可能性」について考えることができるようになる。

「正しい宛先」は、どこかに届くことによって事後的に発生するのだから、「誤配」もまた、手紙が宛先に届くことで可能性がなくなることによってはじめて、その可能性について考えることができるようになる。もともとない可能性が、あたかもかつてはあったかのように、事後的に発生する。これこそが「幽霊」である、と。

(物語上の奇妙な細部の、どれが伏線で、どれが伏線でないのかは、「複線が回収された後」にしか分からない。そしてその時に改めて、回収されなかった細部に「幽霊」が宿る。フィクションに限らず、歴史や人生の「分岐点」もまた、後から振り返った時にはじめて明らかになる。チャンスを摑んだと思っても、その後たいして変わり映えしないこともあれば、特に意識しない気まぐれが、大きな変化に繋がることもある。)