2021-03-21

●昨日からのつづき。引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

(精神分析はどうしても「神経症者」に関する探求が主となるのだが、ここで書かれている「精神病者」や「普通精神病」の有り様についてもっと知りたいと思った。)

精神病者への分析可能性(狂人も「主体の地位」をもつ)。

《ジャック=アラン・ミレールは、精神病患者の分析を成功させることが可能であると考える者の一人である。》

精神病者においては、言語の獲得に欠陥がある。父性隠喩、言い換えれば(何らかの本源的なシニフィアンを抑圧することによって)主体を言語へとくくりつけることを可能にする機能が、精神病の場合では働いていないのである。このシニフィアンが排除されることによって、シニフィアン連鎖が展開されえなかったのだ。ここには言語への参入の拒絶がある。正確に言えば、スキゾフレニー性の精神病にとっては、象徴界はつねに現実的なものとして知覚されている。つまり、彼らは語を物のように扱い、語をその純粋なみせかけとしての側面において考えることができないのである。(…)それでもミレールにとっては、個人にとっての言語は、いかなる病理的な構造をもっていたにせよ、つねに現前している。つねに言語への最小限のつつくりけがあるのだ。》

《(…)ラカンの排除(…)という考えをもちだす。排除とは、精神病に固有のメカニズムであり、抑圧の失敗である。それはあるシニフィアンの拒絶であり、そのシニフィアンは象徴化へと至らない。この拒絶されたシニフィアン現実界のなかに回帰するが、そのときには幻覚という形式をとる。これが精神病である。》

《精神病の問題については、分析経験によって〈主体〉を生産することが可能かどうか知ることがよりいっそう問題となる。精神分析にとっての主体は、ミレールが理解する限りでは、無意識の主体である。それはフロイトが「それがかつてあったところに到達する(…)」ように呼びかける主体である。この意味において、まるで「人間のなかの小人」のような、主体の無意識といったものは存在しない。無意識は、単にシニフィアンの効果にほかならない。無意識は言語のように構造化されており、それは無意識が言語の法に従属していることを意味している。(…)無意識の主体が本質的に分割(…)されているというのはこの理由による。私たちは自分自身と完全に一致することができず、言語へと疎外されることによって分割され、自分の身体には還元されず、何にもまして言語によって「寄生」されているのだ。(Sと記される)無意識の主体は、与えられた(生得の)ものではなく、生産(…)すべきものであることに注意しておこう。》

《(…)ミレールは、ラカンの「狂人は自由な人間である(…)」という発言を取り上げている。この発言は非常に真剣に受け取らなければならない。狂人が自由な人間であるというのは、狂人においては「父性の欺瞞(…)」の拒絶があるという意味においてである。この拒絶は、ある特定の「主体的立場」を伴っている。》

《狂人は狂気を選択したのであり、妄想は差し迫った何らかの驚異に対するひとつの解決として現れたものである。人間は、あらゆる手段で不安から身を守ろうとするものであり、精神病患者が妄想を形成できないとすれば、彼はひどい不安に襲われてしまう(たとえば、身体寸断化の不安。アントナン・アルトーの著作は、この種の不安によって主体が突き落とされる苦悩を十分に示している)。それゆえ、十全な「主体の地位」をもつものとして精神病者を考えなければならないのである。》

《主体を生産すること、それはフロイトの公式を引用するなら、「それがあったところに主体を到達させること」である。この理由から、無意識の主体を出現させるために、分析経験の装置のすべてが必要なのである。その主体は現れるやいなやすぐに消滅するものであるが、失策行為や言い間違い、語られた夢のすべてのなかに見出すことができるような主体である。》

●普通精神病

《ミレールは、正式の呼び名がなく、「未発病精神病」や「白い精神病」あるいは「冷たい精神病(…)」(あいまいな症候群であり、精神病発見のてがかりとなる強い潜在性をもたない精神病)と呼ばれていたものを形式化したのである。それゆえ、普通精神病は臨床的精神病(発病済みの精神病)とは対立する。普通精神病は、主体がはっきりと精神病構造をとりながらも、妄想を発生させることなしに人生を生きることが可能であるという事実を理解可能にしてくれる。》

《この用語は、ミレールにとって「かつては並外れたもの(…)であった精神病は、私たちにとって普通のものである」と説明される。「普通(…)」という言葉は、いくつもの意味で理解されうる。例えば既成の秩序や習慣に合致するもの、ありふれた、平凡なものなどである。精神病は例外的なものに属しているわけではない。つまり、そもそも精神病者は、自らの身体に対して調和した関係を維持していないという点では神経症者とそれほど変わるわけではない。もし私たちがどちらかはっきりとさせなければならないとすれば、むしろ身体への「正常」な関係をもっているのは精神病者の方である。精神病者は常に身体の「破裂」の脅威にさらされている者であり、彼らは自らの身体への敏感で直接的な関係をもっているのである。》

《(…)この臨床は、葛藤の臨床、つまりフロイトの臨床とは対立している。この臨床は「結び目の臨床であって、対立の臨床ではない」。この臨床によって方向付けられた分析は、もはや症状の解釈を目指さず、補填の発明を目指す。あるいは主体によって既に確立されている安定化のモードを支援することを目指す。主として重要なのは、分解をくいとめることである。》

●情動はシニフィエをもつ。

《(…)情動はひとつの意味、シニフィエをもっているのである。》

《情動は感情(…)ではない。感情は人間のなかの動物的な部分に関わっており、環境としての世界への私たちの関係と相関していると考えられるが、情動は、主体により一層関わっており、表象やシニフィアンに対する私たちの関係に関わっている。》

《情動はシニフィアンによって媒介され、ひとつの観念に関連づけられている、と考えてみよう。つまり、この観念、この表象は〔それがもともと結びついていた〕エネルギー量から分離されることが可能なのである。このエネルギー量が情動のもうひとつの側面を構成しており、この量が私たちに情動を感じさせることを可能にしている。それゆえ、情動が結びついた観念を抑圧することはできるが、しかし情動がもつエネルギー量に関しては単に移動され、「離脱され」、「漂流しようとしている。ことになる。》

《情動が移動させられうるものであるとすれば、情動は欺く可能性のあるものだということになる。(…)分析において生じる情動はそのまま受け取るべきではなく、それを実証しなければならない。真理は、事実にはまったく関わっておらず、体系の際深部にその固有の参照点をもつという点で、虚構の構造をもっている。情動は、この後者〔=虚構〕と関係をもちうるものであるが、つねにそうであるわけではない。》

●症状とファンタスム。

精神分析に享楽(…)という用語を導入したのはラカンである。(…)享楽は、快と不快の向こう側にある。快を享楽することが可能であるのと同じように、苦しみを享楽することも可能である。ミレールは、症状とファンタスムは、享楽への関係において結び付いているということを強調する。この二つは、神経症の主体における享楽の二つの源泉、つまり二つの「享楽するモード(…)」となっている。症状は苦しみのなかで、たとえば悲痛な言表行為のなかで、享楽を回復するひとつの手段である。他方、ファンタスムは主体が快く享楽することを可能にする。》

《(…)「ファンタスムの論理(…)」が存在する一方で、症状は「形式的外被(…)」をもっているのである。》

《(…)症状は享楽とメッセージという両方の顔を同時にもっているのである。》

《(…)症状は意味をもつ何かである。それは、そのメッセージを運ぶ主体に対して暗号化されたメッセージである。それはまるで、主体の背中に書かれているために、主体が自分では読むことのできないような何物かである。私たちは、この暗号化されたメッセージを読むことができる。(…)だとすれば、症状が運ぶメッセージの意味を主体に与え、それを解読し、読解し、さらには翻訳すれば、症状が消失すると考えられるであろう。しかし、実際にはまったくそうならない。(…)あらゆる解釈学においてそうであるのと同じように、唯一の可能な意味など存在しない。(…)症状にその究極の意味を与えることは不可能であり、さまざまな意味を、つまり意味それ自体の無限性を与えることしかできない。(…)解釈を行って主体にその症状の意味のひとつを引き渡すだけでは、私たちは終わりなき不明確さの戯れのなかに舞い戻ってしまうだろう。(…)解読の熱情が生まれ、そこではすべての「言うこと」が想定上の意味を孕んでしまう。たとえば、分析家がくしゃみをすれば、主体は分析家がそれによって何を言わんとしていたかと不審に思う…。》

《(…)この袋小路は、症状の「享楽」の側をも考慮にいれなければならないということを教えてくれる。もしひとが治癒しないことに躍起になっているとすれば、つまり自分の症状を守ることに躍起になっているとすれば、それはそのひとがその症状を享楽しているからである。(…)主体は「享楽すること」を続けられることを望み、不平不満と要求の両面において語ることに舞い戻る。ミレールは疎外的なつながり、すなわち苦しむ主体に対して分析家がもちうる真の影響がこのようなものであることを強調する。これが有名な転移、すなわち、自分が苦しんでいることについての知を与えてくれそうな人物を、情熱をもって愛し始めることである。分析の完遂はすべて「自分の転移を精算すること(…)」に到達できるかどうかにかかっている。転移の精算は、非常に様々な方法でなされることができるが、決してなされないこともある。》

《(…)症状は「主体がそれについて不平不満を言う(…)」ものである。他方、ファンタスムは「主体が自らを気に入る場所(…)」である。(…)すなわち、分析に入ることは症状によって生じる。(…)そしてその分析は主体が構成することになるファンタスムによって終わる。つまり、分析の掛け金のひとつであるファンタスムの横断によって分析は終わるのである。》

《(…)精神分析が理解するところのファンタスムはつねに無意識的なものであり、ひとつのフレーズとしての構造をもつものであり、ひとつの文法的モンタージュですらある。(…)主体の基礎的ファンタスム(…)は、論理的かつ文法的な方法で分節化されているような何かである、ということだ。そこでは「主体」が「対象」の位置を占めていることが解ることもるように、受動と能動はいとも簡単に超えられてしまう。ファンタスムは書かれることが可能なものであり、主体にとって固定したものでありつづける。これは、ファンタスムは解釈されないということを意味する。ファンタスムを解釈しないのは、それが多義的なものではなく、固定されたものであるからだ。》

《ファンタスムは、たとえ主体がそれに完全に満足していたとしても主体によって告白されることは決してない。自分が享楽しているファンタスムを表明することには、ある種の羞恥が感じ取られるのである。》

《ここで言われている「〔ファンタスムの〕横断」をどのように理解すればいいのだろうか? 横断するという言葉は、横断されるものを破壊するのではなく、むしろそれを超えて通り過ぎるときに用いられる。横断されるものは、保持されたままで横断される。》

《(…)ひとたびファンタスムが横断されると、ある「進歩」が得られる。それはファンタスムを見出し、位置を割り出し、位置づけることができる状態になるということである。こうして新たな位置が到来することが可能になり、私たちの奴隷状態は軽減される。私たちはこのようにして新たな「主体」のあり方を手に入れる。それはもはや従属しているだけのあり方や、合意の上での犠牲者としての、あるいは無意識の操り人形としてのあり方ではなく、距離をとることのできる主体というあり方である。ファンタスムは消滅せず、変化しない。しかし、ファンタスムは位置を割り出されており、私はもはや無分別に操作されることはない。》