2021-12-18

●引用、メモ。『享楽社会論』(松本卓也)、第1章「現代ラカン派の見取り図」より。フロイトからラカン初期において、人の心の標準モデルは「神経症」であったが、後期ラカンから現代ラカン派において標準モデルはむしろ「精神病(普通精神病)」および「依存症」となった。「普通精神病」においてはエディプスコンプレックスが機能せず、〈父の名〉が効いていないので、「見せかけとしての〈父の名〉」が必要となる。

普通精神病について。

《(…)少なくともラカンは一九五九年の時点で、エディプスコンプレクスを無意識を支配する標準的なモデルとしてみることをやめている。さらに、〈父の名〉もまた六〇年代前半には「〈複数の父の名〉(…)」と綴られるようになり、七〇年代にはエディプスコンプレクスは人間の心的構造のトポロジカルな結び目をつなぎあわせる複数の方法のなかの一つにしかすぎないものとなる(…)。このような態度の変化によって、後にも述べるように、彼は非エディプス的で倒錯的な欲望を重視するようになっていった。というのも、セクシュアリティを規範化=正常化するエディプスコンプレクスがもはや作動していない以上、あらゆる欲望はどこかしら倒錯的であることになるからである。》

《ただし、〈父〉がもはや自明な存在でなくなったとしても、それは私たちが〈父〉から解放され、あらゆる支配から自由になる可能性をもつといったユートピア的世界観とはほど遠いものである。ラカンセミネール第二三巻『サントーム』で述べたように、〈父の名〉とは「それを利用するという条件で、それなしに済ませることができるものである(…)」。つまり、〈父〉が不在であるからこそ、みせかけ(…)としての父が必要となるのである。》

《精神医学において、「統合失調症の軽症化」が唱えられて久しい。同様に、ラカン派においても精神病(精神医学でいうところの統合失調症や狭義のパラノイアに概ね相当する)が、以前のような華々しい幻聴や妄想を示さないようになり、精神病構造をもちながらも未発症のまま生活を送っているような症例が多いことがしばしば指摘されてきた。》

《ただし、「普通精神病」という診断名がそのような症例に対してすぐさま与えられるわけではない。「普通精神病」は、むしろ「神経症である」という確たる証拠が見いだせないときに、隠された精神病があるのではないかという疑診の意味で付けられる暫定的診断として捉えるべきであるともミレールは述べている。「普通精神病」という用語は、発病する代わりに脱接続というモードであらわれる現代的な精神病を、微細な特徴によって診断可能にすることに寄与するのである。その微細な特徴を、ミレールは次の三つの外部性の様態によって例示している。》

《①社会的外部性 : ルソーをはじめとして、統合失調症者の放浪というのは昔からよく観察されてきたが、このように社会のなかに固定した位置を占めないという外部性のことを指す。現代的な精神病では、職場や家庭から脱接続するという特徴がみられる。反対に、社会(職場)に対して過剰に同一化する形式での普通精神病もありうる。この場合、職を失うことを契機に発病することもあるとミレールはいう。なぜなら、彼らにとって「職をもつことは〈父の名〉である」からである。》

《②身体的外部性 : 普通精神病では身体が自己に接続されず、ズレをはらむことがある。この実例は、ジョイスが『若い芸術家の肖像』のなかで記述した、自己の身体が崩れ落ちるような体験である。このような身体の不安定性に対する対処行動として、ミレールは「タトゥー」を挙げている。つまり、彼らにとって「タトゥーは身体との関係における〈父の名〉になる」のである。》

《③主体的外部性 : 普通精神病では、独自の空虚感がみられることがある。もちろんこのような空虚感は神経症でもみられうるものであるが普通精神病の場合はその空虚を弁証法的に否定することができないことが相違点であるとされる。》

《ミレールによれば、普通精神病という用語の導入は、その理論的、臨床的帰結として二つの方向を同時にもたらすのだという。

一方では、普通精神病という存在が気づかれて以降、臨床家は神経症の診断の精密化を行わなければならなくなった。当然のことながら、幻覚や妄想がないからといって神経症であるとは言えないのである。この立場からは、五〇年代のラカンが理論的前提にしていた〈父の名〉の有無による神経症/精神病の鑑別診断の原則が維持されることになる。

他方では、「精神病の普遍化」という方向が得られる。精神病が以前の時代ように明確な発病を示さず、さらには神経症と精神病を分けるとされていた〈父の名〉の機能が衰退している以上、精神病という病理が薄められたかたちで蔓延すると考えることができるからである。これと呼応するように、最晩年のラカンは「人はみな狂人であり、言い換えれば、妄想的である(…)」と述べていた。》

自閉症について。

象徴界と〈父〉の位置づけをめぐるこのような理論的変化と並行して、現代ラカン派では二つの新たな臨床形態に大きな注目が集まった。ひとつは、一九九八年に提唱された「普通精神病(…)」であり、もうひとつは「自閉症(…)」である。》

《(…)彼(ミレール)の精神病論によれば、パラノイアは「享楽を大他者〈他者〉に見出す」(なんらかの大他者〈他者〉が自分を享楽しようとしている、という妄想を形成する)病であり、スキゾフレニーは「享楽が身体に回帰する」(自らの身体が過剰に享楽的なものになる自体性愛的な態勢の回帰を示す)病であるとされる。ローラン(エリック・ローラン)は、このミレールの議論に、自閉症による享楽の回帰の特殊な様態を付け加え、自閉症とは「縁の上への享楽の回帰(…)」によって特徴づけられる病である、と定義したのである。ここで「縁 bord 」と呼ばれているのは、口や耳といった、縁取りの構造をもつ身体器官のことである。身体に享楽が回帰するスキゾフレニー患者では、全身に異様な圧力を感じたり、性器を撫で回されるような感覚をもったりすることがあるが、自閉症における享楽の回帰は、身体のなかでも縁の上に焦点化されるという点に違いがあるというわけである。》

自閉症者における縁の上への享楽の回帰は、彼らがもちいる言語がきわめて常同的、かつ享楽的であることを説明してくれる。自閉症者はしばしばひとつのシニフィアン(言葉)を反復してもちいる(これを精神医学では「常同言語」と呼ぶ)。また、彼らがしばしば行う決まりきった儀式的行動も、ひとつのシニフィアンの反復として把握することができる。このシニフィアンは、ラカン派ではしばらくのあいだ「ひとつきりのシニフィアン(…)」と呼ばれてきたが、近年では「〈一者〉のシニフィアン(…)」あるいはたんに「S1」と呼ばれるようになっている。このシニフィアンは、語(シニフィアン)の効果とそれを発語することから得られる享楽の効果がわかちがたく一体化している「ララング(…)」の性質をもっており、他者とのコミュニケーションにほとんど役に立つことはないが、享楽を得るためのツールとしてもちいられていると考えられている。》

《このララング(=ひとつきりのシニフィアン)は、それぞれの自閉症者にとって、特異的(…)な享楽のあり方を伴うものである。しかし、ララングは自閉症者のみならず、神経症や精神病といったあらゆる主体がはじめて出会う言語でもあり、すべての主体が自体性愛的な享楽を伴ったララングを刻み込まれていると考えることができる。現代ラカン派では、このような観点から、症状がもつこの自閉症的な側面が自閉症のみならず依存症の領域やあらゆる症状のもつ中毒的な側面にまで拡張されて議論されている。》

〈一者〉のシニフィアン、依存症について。

《(アラン・ミレールからの引用)ラカンは、この発見の軌跡のなかで、去勢という言葉をもちいていません。(…)ラカンは、単に突然の変調、〈一者〉(…)が享楽のトラブルを引き起こすと言っています。身体の享楽そのものは恒常的なものであると想定されていますが、それは動物の享楽や、さらには植物の享楽について想像することと同じであり、その享楽は釣り合いがとれたものです。そして、言語が享楽のこの〔釣り合いがとれた〕領域に導入されるのです---フロイトはそれを去勢と呼びましたが、ラカンは去勢を含むより広い言葉として、忘れることのできない享楽の侵入の記憶を留める〈一者〉の反復(…)、という言葉をもちいました。その侵入以来、主体は、反復のサイクルに繋ぎとめられます。その反復の審級は集積するようなものではなく、反復の経験は主体に何も学ばせてくれません。このような享楽の反復は、今日では依存症(…)と呼ばれています。なぜ依存症と呼ぶかといえば、それが加算(…)ではないからであり、経験が集積(…)することがないからです。(…)反復的な享楽、依存症と呼ばれる享楽、そしてラカンがまさにサントームと呼ぶものは、依存症の水準にあります。この反復的享楽は、〈一者〉のシニフィアン、S1以外のものとは関係をもちません。つまり、知を代理表象するS2とは一切関係をもたないのです。この反復的享楽は知の外部(…)にあり、S2なしにS1をもちいることによって身体を自己-享楽すること(…)にほかなりません。S2の機能を果たすもの、このS1にとっての〈他者〉の機能を果たすものは、身体それ自体です。》

《少々誇張的な宣言ではあるが、ミレールにとってはもはや隠喩的な意味をもった症状(S2)はほとんど問題ではなく、その根にある依存症的に反復される享楽(S1)こそが精神分析の掛金とされていることがわかるだろう。さらに彼は、ラカンの「人はみな狂人である」(…)という一文を、「人はみなトラウマ化されている」(…)と読み替え、私たち人間はみな〈一者〉のトラウマを反復している、とみる立場をとるようになっている(…)。言い換えれば、晩年のラカンが、あらゆる人間を精神病をモチーフとして相対化しようとしていたとすれば、近年のミレールはあらゆる人間を依存症(そして依存症と同じくS1の純粋な反復をみせる自閉症)ないしトラウマの被害者として相対化しているのである。》

《ただし、それはシニフィアンを重視した解釈がもはや不要であるというわけではない。シニフィアンは、いまだにラカン派の実践において重要でありつづけている。しかし、現代的な症状の解釈は、シニフィアンによって意味を付け加えるのではなく、むしろ意味を削減する方向でシニフィアンをもちいる必要がある。つまり、すでにある症状に対して別の意味を付け加え、意味の飽和状態を作り出すのとは反対に、むしろ症状がもつ意味をそぎ落とし、あらゆる主体に存する原初的な無意味のシニフィアン(要素現象…)へと遡り、身体の水準における享楽を捉えることが現代ラカン派の解釈において賭けられているものなのである。》