2021-12-19

精神分析がおもしろいのは、自分の自分に対する関係(自分の自分に対する支配、自分の自分に対する操作、自分の自分に対する搾取、自分の自分に対する裏切り、など)を問題にできるからだろう。

下の引用は、『享楽社会論』(松本卓也)、第2章「4(+1)つのディスクールについて」からの引用。《無意識は意味を生産し、私たちの口やその他の身体を使って勝手に話しているが、私たちはそのことに通常は気づかない》。このような語り、このような論理、このような思考、このような表現、このような文体、このような皮肉は、精神分析がなければ出てこないものだと思う。

《(…)無意識の形成物、つまり夢や失策行為、機知、症状といったものは、まさに主体が知らぬままに(無意識に)意味を生産した結果として生み出されたものだからである。無意識は意味を生産し、私たちの口やその他の身体を使って勝手に話しているが、私たちはそのことに通常は気づかない。つまり、無意識は「ひとりきりで話す」、誰にも知られずに話す知なのである。反対に、無意識の形成物がもつ意味が他者に知られる(理解される)とき、そこには笑いが生じる(機知の場合が特にそうである)。マルクスの理論のなかでは、資本家は労働者が知らないうちに生産している余剰価値を搾取していたが、ラカンの理論では、資本家をはじめとした主人の位置を占める者が知を搾取する。どちらの場合でも、笑うのは資本家(主人)の側である。「無意識は理想的な労働者」とラカンが言うのはそのためである。》

●ただ、ラカンについて考える時に難しいのは「〈一者〉のシニフィアン」についてどう考えるのかだと思う。人は、言語と最初に出会った時に刻まれた「〈一者〉のシニフィアン」という呪い(トラウマ)に決定的に支配され、それは一生変わることがない、という考えを受け入れていいのだろうか(というか、本当にそうなのか)。後期のラカンが、「真理」ではなく「身体」だと言ったのだとしても、その身体には決して変わることのない原初的なシニフィアンが運命のように刻まれている。