●明日の中沢新一読書会のためにもう一度『愛と経済のロゴス』を、ラカンの解説書などと比べながら読む。
http://lizliz.tea-nifty.com/mko/2012/05/post-8524.html
この本は一見読みやすく、さらっと読んでなんとなくわかった気にはなれるから、そのレベルで満足したり批判したりするのはぜんぜん難しくないけど、よくみてみるといろんなところに「深みと広がり」があって、たとえば経済に詳しい人ならその方向で、人類学に詳しい人ならまた別の方向で、哲学に詳しい人ならまたまた別の方向で、それぞれ違った形で批判的なツッコミも含めた味わい深い読み方が可能なのではないかと感じさせられる。
●この本ではラカンのボロメオの環の図がでてきて、想像界のところに「贈与」が、象徴界のところに「交換」が、現実界のところに「純粋な贈与」が置き換えられていて、これだけみると「いかにも図式的」な感じがする。でも、そう簡単でもない。
この本では、経済のもっとも根本的な原理が「純粋贈与」で、そこから「贈与」が派生し、贈与から「交換」が生じるということになっている。だとするとそれは階層構造で、もっとも深層に純粋な贈与があって、表層に交換があることになるのだが、しかし表層にある交換が中間層の贈与を経ずに直接、純粋な贈与と接している面もあるので、階層構造であると同時に循環構造でもあるということになる。さらに、この三つの層がすべて直接に接する面もあるから、同時にフラットな並立構造でもある。階層構造であり循環構造であり並列構造でもある(逆に言えば、そのどれでもないとも言える)という、三次元では描写出来ない複雑に絡み合った構造が、ボロメオの環という形で表現されているのではないか。この本で中沢新一が経済の「全体性」と言って示そうとしているのは、このような構造なのではないだろうか。




●もう一つ、ラカンの図で「クッションの綴じ目」と言われている欲望のグラフの一番目の図と、その次の二番目の図が書き換えられて出てくる。ラカンのオリジナルは以下。






(ほとんど対象aのように、システム化されない動き方をする)純粋な贈与の力が、どのようにして「垂直に」贈与や交換のシステムに介入するのかを説明する図として中沢新一はこれを次のように書き換えている。





だが、ラカンの図はもともと、シニフィアンの連鎖に、ある終止符が打たれることによって、そこから遡行的に意味が生まれる(ソシュールとは違って、シニフィアンシニフィエの結びつきが「事後的」である)ことを示す図で、しかし中沢新一の図では、その遡行性が生かされていなくて(もっとも単純な意味としては、ラカンの図はシニフィアンシニフィエが逆向きのベクトルをもっていることが重要なはずだが、中沢図ではベクトルの方向はどうでもよくなっている)、終止符を打たれる点(コードの点「C」)が増殖(生)に、過去に遡って効果が生じる点(メッセージの点「M」)が消滅(死)という風に書き換えられていて、純粋な贈与の場においては増殖と消滅が別のものではないこと、つまり「富」とは有であると同時に無でもある捉えがたいものであることを示す、という意味になっている。
だから最初に読んだ時は、時間的な遡行性(あるいはベクトルが逆向きであること)を示す図を使って、増殖と消滅の両義性を説明するのは強引ではないか、というか、そもそも意味が違うのでわざわざこの図をもってくる必然性がよくわからないと思ったのだが、でも、この図を時間とは関係のない(矢印の方向はどちらでもかまわない)双子性(対称性)を示す図として考えてみれば、これは面白い図ではないかと思い直した。
ここで欲望のグラフの二番目の図が深く関わってくる。この図は、シニフィアン(ランガージュ)の連鎖(D→S)の「向こう側」にもう一つ、まるで双子のような無意識のランガージュの連鎖(D`→S`)が平行してあるという図だ(無意識は一つのランガージュとして構造化されている、と)。そして真の「意味(満足)」は破線で描かれるD→Sではなく、実線で描かれる無意識のレベルでの遡行(A◇d→S(A))において実現される。
中沢新一はこの図を、贈与の体系と交換の体系が双子のように平行してあって、それを純粋な贈与の力が垂直に貫くという図として、かなり単純化して書き換える。つまりこの図では、贈与と交換という並行的双子性と、純粋な贈与の力の効果である増殖と消滅という反転的双子性とが、二つの異なる双子性(対称性)として垂直に交差しているという図になっていて、そう読むととてもおもしろい。
そして、このような図が描けるのは、純粋な贈与、贈与、交換の関係が、層構造でもあり(でもなく)、循環構造でもあり(でもなく)、並列構造でもある(でもない)という複雑な(三次元的にあり得ない)捻じれをもっているからということだろう。そもそもラカンのポロメオの環という三すくみ構造は安定しすぎていて、これだけ取り出すと面白くない。だいたい現実界想像界象徴界と同列にあるわけがない。しかし、そうであるにもかかわらず、人間にとっては同列にあるかのように平面的に立ち現れるしかないという捻じれこそがボロメオの環の示す重要な教えなのだと、この本ではじめて気づいた。
●この二つ目の図をボロメオの環として書き換えると、以下のようになるのだろう。



中沢新一を読んでいると、この人にはある種の数学者や物理学者と同じような発想、つまり、我々の住んでいるこの三+一次元の宇宙は、実はより高次元の世界の写像(影や夢のようなもの)で、その高次元世界の物理法則に支配されているのだが、我々の世界の内部の情報だけではそれを完全に知ることは決して出来ない、というような認識がある気がする。この世界の構造は、実は高次元世界の構造の写像なのだから、この世界内では常に影であり決して完全には構造足りえない、みたいな感じ。
●明日は「こえサイファー」もあるのか…。
●今日の机の上。正面にあるのは、ピエロ・デラ・フランチェスカと利部志穂。