ラカン精神分析の治療論』(赤坂和哉)、第四章まで。明晰な記述で、今まであいまいだったいろんなことが明確になる感じ。
ラカン前期においては「大文字の他者大文字の他者は存在する」(「父の名」として)。しかし、中期においては、「大文字の他者大文字の他者は存在しない」(「対象a」による享楽が、その「みせかけ」として機能する)という風に変化する。おそらく、前期のみをみるならばラカンの理論はそれほど難解ではない。要するに、二項の関係(想像的な関係-愛)に規定されている欲望は相手方に依存するものだから駄目で、父の名による象徴的な去勢を受け入れて、二項関係に依存しない第三項としてのシニフィアンの連鎖のなかで、自分自身の欲望を「歴史的な真理」として引き受けなくてはならない、と。
ここから見れば、ラカン派によるクライン派への批判も分かり易い。クライン派の分析は想像(鏡像)的な二者関係(愛)に退行している、と。彼らの言う、分析家と分析主体との間に生まれる「分析の第三主体」とは、分析家の欲望の投影にすぎないのだ、と。ここにあるのは、世界を二人称としてみるのか三人称としてみるのかという対立ということになる(というか、二項の関係から第三項が生まれる(創造される)のか、あらかじめ二項関係の外にある三つ目の項によって、二項の関係が(再)規定されるのか、という対立、ということか…)。
とはいえ、中期になり「大文字の他者(シニフィアンの集合)」の「大文字の他者(シニフィアンの集合を構造化する特権的なシニフィアン・父の名)」が存在しないということになれば、しかもそれ(父の名)を代替わりしているのが、存在の見せかけとしての(空である)対象aなのだということになると、シニフィアンの連鎖によって産出された意味を「真理」として格付けするものが消え、それによって第三項の権威が消えてしまう。
そもそも、ラカンの前期から中期への移行は、フロイトの分析のもつ限界を越えるためだったという。そこでは、わたしとあなたとが自我(直接的な愛)によって関係するのではなく、分析家が二項関係のなかで自らの「自我」を欠落させることで、分析主体を無意識という「一つのランガージュとして構造化されたもの」である第三項へと導くことが目指される。しかしこの時、大文字の他者大文字の他者が存在するということになれば、わたしは、「あなたの愛」を直接的に得ようとする者から、大文字の他者大文字の他者の愛(権威)を得ようとする者へとシフトするだけということになる危険がある。そこに誕生するのは強い権威主義者ではないか。実際フロイトの分析では、患者がフロイトと同一化すること(想像的な愛の関係、フロイトに愛されようとすること)を脱することは出来ても、フロイトの欲望や思想に同一化する(フロイト-権威者の欲望を欲望すること)ということから脱するのは困難であり、いったんシニフィアンへと開かれた欲望が再び「愛」へと絡め取られてしまう。それによってしばしば分析がそこでストップしてしまう、と。その時患者は、(教師の直接的な愛を望むという段階は脱したとしても)教師の望む模範解答を自身の欲望であるかのように思い込む優等生のようになってしまい、無意識(シニフィアン)からの声を閉してしまう(いや、これってホントに、人間の関係や欲望において最も困難な箇所であるように思う)。
そこで、大文字の他者大文字の他者の位置に、意味としては無でありつつ、現実界からくる享楽でもある対象aを置く。それによって、無意識-シニフィアンの構造は「歴史的な真実」の場から「幻想」の場へと後退する。症状とは、シニフィアンの構造である無意識のシニフィカシオン(意味作用)であるから、分析によってその意味に正しい解釈を与え、主体がその解釈を自らの歴史的な「真理」として受け入れる(無意識に同一化する)なら症状は改善されるはずだ、というのが前期ラカンの分析の目指されるところだった。
ここで「真理」を支える大文字の他者大文字の他者である「父の名」が消え、代わりに「対象a」が置かれることで、歴史の真理が「幻想」(複数あるフィクション)へと格下げされる。対象aは「みせかけ」(知っていると想定される)としてのみ、第三項の地位を支える。父の名によって支えられる真理は、解釈を通じて与えられる「意味」としてあったが、幻想を支え、その根拠となる対象aは、それ自体としてはみせかけ(空)であり、同時に現実界にある欲動でもあるから「無意味」(シニフィアンによっては把捉できない)である。中期の分析では、フィクションとしての複数の幻想を通過することで、主体が、欲動(対象a)に直面することが目指される。無意識(シニフィアン)に向かって開かれ、そこに同一化することから、そこを通り抜けて欲動(対象a)に突き当たること、への変化。しかし、分析とはシニフィアンのシニフィカシオン-解釈(意味づけ)であるのだから、それが効果を及ぼすのはシニフィアンの舞台で演じられる幻想の範囲までのはずで、その先の、「無意味」である対象aにどのように近づくというのか。
まず、「それがわたしの真理だ」という形で作動する様々な「幻想」への解釈が何度もやり直され、繰りかえされることからはじまる。そして、複数回繰り返される解釈のなかから、幻想の解釈-意味というより、幻想を構成しているものの布置(構造)というべき「根源的幻想」が浮かびあがる。そして、そのような解釈の煮詰まりを通じて、つまり、数々の幻想が数え上げられ、シニフィアンが享楽の外堀を少しずつ埋めてゆくような作業の果てに、埋められない「穴」として、対象aが一瞬だけ浮かび上がるのだ、と(反転!)。意味(幻想)→構造・布置(根源的幻想)→(図と地が引っくりかえって)→穴の露呈(対象a)、というプロセスで。
しかしこれはつまり、わたしの根拠はわたしの欲動である、ということ(ループ)になり、第三項としての象徴界(シニフィアン)の地位の失墜ということになる。《分析の終わりとは、知を想定された主体が失墜することと、この主体がこの対象aの出現へと還元されることにあるのです。》
《(…)分析主体は「自分は大文字の他者のために存在していた対象であったのだ」と気付くのである。それはまた別様に言えば、自分の人生を方向づけていた享楽の残余への固執を知ることでもある。こうした洞察を通して、分析主体は「私はこの幻想に捕らわれて人生を過ごしてきたのだ」と実感し、そうした幻想を失墜させるに至る。(…)主体の欲望はここから対象aに基づいた享楽的な色合いを帯びた欲望となっていくだろう。》
前期の分析では、第三項(真理)によって二項関係(愛)が切断、相対化され、中期の分析によって、その第三項の権威も(幻想へと)失墜される。そして欲望の根拠は、わたし自身に、しかしわたし自身が関与できない現実界からやってくるわたしの欲動に返される。
このような地点を、ニヒリズムの場所とみるか、底の抜けた、すっきりした、清々しい場所とみるかで、その受け取る印象はずいぶん違う気がする。
●ここで、意味-解釈とは別の、無意味-解釈の技法に触れているところが、ぼくにはとても面白い。無意味としての解釈とは、分析主体のパロールの流れに隙間を穿つものである、スカンシオン(セッションをいきなり中断する)と沈黙であるという。それは、適切な位置で隙間を入れるということであり、意味を与えるというより配置を変え、リズムをずらすようなことであろう。だからこれは、無-意味というより、意味と無意味の中間にあるようなことではないだろうか。