2025-06-30

⚫︎『ランドスケープと夏の定理』(高島雄哉)から、連作の三つ目「楽園の速度」。まず、この小説の面白さは細部のアイデアの充実だろう。物理学的なアイデアだけでなく、未来のビジョンのようなものも、みっしり詰まっていて、ひとつひとつが面白い。

⚫︎三作目は二作目よりもさらに、俗世的、エンタメ的な度合いが高まる展開なのかと途中までは思っていたら、最後には、一作目と同様に、少人数かつ実験室の世界に回帰する。ただし、一作目では、実験室が宇宙全体のミニチュアとして全宇宙と同等になる感じだったのが、最後には、実験室がその境界を越え出て、宇宙へと拡散され、宇宙そのものが書き換えられる。

この連作のメインテーマである「知性定理」は、第一段階として、あらゆる知性は互いに翻訳可能である、とされ、第二段階として、現時点での人類の知の総体である「理論地図」は、シミュレーションにより人為的に時間発展させることができる、があり、そして第三段階として、時間発展させた「未来の知」の「地図」を、今・ここで解凍し、理解、実践可能な形へ「翻訳」することができる、ということになっている。この「翻訳」の実践の一部が二作目で「運動エネルギーの非保存空間」として描かれたが、三作目では、シミュレーションによって得られた未来の知である「理論の籠」の完全翻訳が目指される。

(未来の知を得ることができれば世界の覇権を得ることができるので、その存在を知ったさまざまな勢力による争奪戦が予測され、まさに当事者である主人公が追われることになる。これが、最初に書いた「世俗的展開」だ。そして、そのような状況を打破するために、さっさと翻訳を完成させて、すべてをオープンにしてしまおう、ということになる。)

ネタバレだが、ラストではその「翻訳」の意味が反転する。未来の知を、今・ここにある我々にもわかるように翻訳するのではなく、今・ここにある我々、そして「この宇宙」そのものの方を、未来の知が理解できるような状態へと変質させる―-宇宙を書き換える―-ということが「翻訳」と呼ばれることになる。

⚫︎以下はちょっとしたメモ。主人公は、《人類がこれまでに発見または考察してきたあらゆる知見を図式化し、無限次元の超空間にマッピングした》「理論地図」を作成し、さらにそれを時間発展させようとしている。しかしその地図には「空白領域」と呼ばれる未知の領域がどうしても生じてしまう。主人公はこれを、まずは死角、あるいは盲点のようなものとして考える。《理論が世界の風景を記述する視点であるならば、〈空白領域〉は死角みたいなものだ。どんな理論にも、自らを見ることはできないはずだ》。常識的に考えれば、そのような(思考の「外部」的な)領域が生じるのは当然だろう。しかし、この小説世界の「知性定理」においては、あらゆる知は互いに滑らかに(過不足なく)翻訳可能であるはずだから、外部を内部化したような「空白(空隙)」があるのはまずい。

《世界はどこも切れ目なく繋がっている。〈空白領域〉なんてないし、出来の悪いCGのようにノイズが入ったりしない。》

《考えれば不思議なものだ。どんなに複雑な環境を作っても、あるいはどんなに高エネルギーを一点に集中しても、世界は悠然と正解をだす。超巨大質量の星が重力崩壊しても、できあがるのは白色矮星ブラックホールといった、数学的に美しい天体なのだ。》

⚫︎世界は本当に連続的なのか、そこは怪しいとぼくは思っているが、それはともなく…。そこで主人公は、この「空白領域」をトポロジー的に変換することで、構造を掴もうと試みる(引用部分から、ラトゥールが「プラズマ」と呼んだネットワークの外にあるものを想起させるが、それがここでは先取り的にトポロジー的に構造化されて抽出される)。

《一億個の点に対して、隣接する点と結びつくように線を定義すると、素朴なネットワークが形成される。線で囲まれた面を、理論化できない〈空白領域〉と見なせば、現状ぼくたちが翻訳できない〈理論の籠〉のモデルとなる。》

《ここで(…)理論がもつ予言能力を反映して、ひとつひとつの点を各々異なる大きさの球に変えると、新しいネットワークが作られていく。さらに空間上の繋がり方―-トポロジーを操作すると、たとえば一重膜のネットワークが三重の膜になったり、三次元球面が穴を持つトーラス状に変形したりするのだ。》

《これが完全翻訳のための辞書となる〈幻影多面体〉――その模型だ。》

⚫︎つまり、ネットワークを構成するもの(ノードと線)に対する背景(地)の部分を「空白領域」として、その「地」の方を構造化する、ということでいいのだろうか。

《まず〈空白領域〉を繋ぎ合わせる。そうすれば〈理論の籠〉と双対の関係にある〈幻影多面体〉が形成されるはずだ。この多面体上では、元の〈理論の籠〉では複雑に絡まり合った概念素の糸たちが、別の姿を見せるはずだ。》

⚫︎地の部分を構造化した「幻影多面体」と、図の部分である「理論の籠」を双対の関係にあるものとしてみることで、一つのセットで意味を持つものとすることができる、ということでいいのか。空白(空隙)を「外部」としてではなく、あらかじめ組み込まれた構造の構成物として考える、ということだろう。

《言ってみれば、〈理論の籠〉はきちんと整理された書棚のようなものだ。矛盾や齟齬を含みながらも論理が連なっている。そして〈空白領域〉あるいは〈幻影多面体〉は書棚のなかの空き、あるいは通路のようなものだ。それなしには、一冊の本を選び取ることもできない。そして書棚と通路、双方が合わさって一つの図書館になる。》