●『社会の新たな哲学』でデランダは、彼が分類学的な本質主義と呼ぶものを批判し、たとえばアリストテレスによる類、種、個という階層構造を解体し、どの階層も等しく歴史的で特異的なものとしての「集合体」という概念として一元的に捉え直そうとする。
分類学的なカテゴリは、対象の特徴となる「持続する特性」を論理的に分析することによって得られるが、分類学的な本質主義は、そのようにして得られたカテゴリを物象化することにより生じる、と。その物象化を避けるためには、それを本質としてではなく、(宇宙論的、進化論的な意味で)歴史的な過程として捉え直す必要がある、と。ここまでは、割とよくある話だとも思われる。
そして、種と個は、どちらも「個的実体」であり、どちらも等しく、生まれては死んでゆく「独自で特異的な存在」であって、両者の違いは(普遍的な階層の違いではなく)時空間的な規模の大小でしかないとする。
だがそうだとしても、「類」は規模の違いとしては捉えられない。種や個のように長さ、領域、規模というような「計量的な観念」では特定できず、例えば「すべての脊椎動物に共通の抽象的な身体平面」のような抽象性の次元として考える必要がある、とする。要するに、類は、抽象的な加工なしに具体像(表象)によって捉えることはできない。そこで、トポロジー的な「可能性の空間(相空間)」を使って類を捉えるというアイデアが出てくる。
(追記。ここで「類」とは「人類」ではなく、具体的には生物学的分類の最も高次のものである「界」や「門」が想定されている。例えば、脊椎動物である人間が含まれる「脊索動物門」が想定されている。)
《これらの構造は、「アトラクター」と呼ばれる不変量だけでなく、空間の次元によって与えられる。その次元は、具体的な物理的ないしは化学的な動力学的なシステムの「自由の度合い」を、つまりはそうしたシステムの適切な変化の方向性を現している。たとえば古典物理学は、力学、光学、および重力にかかわる多くの現象が進化へと開かれている可能性がきわめて制約されていることを発見し、最終的には、ポテンシャルエネルギーと運動エネルギーの差異は最小化されているという見解を支持した。言い換えると、非常に多くの古典的システムの力学は、可能性の空間における最小点に着目した。つまり、それらの長期的な傾向を規定するアトラクターに着目した。》
デランダは「類」という概念を、このような「トポロジー的不変量(アトラクター)のより複雑な配分をともなう相空間」として捉え直せるのではないかと書いている。このようなトポロジー的不変量は、多くの異なるシステム(ここでは、異なる種や個と言える)が共有している特異的、ないしは特別な「トポロジー的特性」であることから、類を(種や個が「個的な特異性」であるのに対して)「普遍的な特異性」と呼ぶことが出来るのではないか、とも書いている。つまり、そのように考え得るとすれば、類、種、個を普遍的な階層構造とする「分類学本質主義」から抜けられる、と。
しかし「普遍的な特異性」というのは「ある抽象性のもつ具体性」のような言い方で、一種の語義矛盾なのではないかという疑問も湧く。そしてデランダは、次のように書く。
《(…)普遍的な特異性と個的な特異性との関連は論理的な分化の過程ではなく、歴史的な分化の過程である。すなわち、抽象的な身体平面を実現化する、すべての異なる脊椎動物の分岐してゆく進化をともなう過程である。》
本質主義」に対する「歴史主義」というデランダの立場から、このように書かれるのは必然なのだが、しかし、ぼくは数学が分からないので細かいところが分からないのだが、トポロジー的な「可能性の空間」という、非常に抽象度の高い数理的な操作を通じてはじめて得られる加工物(身体平面)が、「論理的な分化」によってではなく「歴史的な分化」によって、この宇宙の歴史なかで実体として生じたのだ、ということがあり得る(考え得る)のだろうかという疑問は湧く。数学的な世界が「実在し」、その数学世界そのものが歴史的に「変化する」と考えるのならば、考えられるのかもしれないが。
(この疑問は、批判というニュアンスではなく、おそらくそう考えるしかないのだろうなあという感じに近い。物理学の発展、あるいはビックデータ解析などから考えると、感覚、表象、計量可能なものだけが実在だと素朴に信じることはもはや出来ない。表象不可能だが、抽象化し、計算することは可能だ、というもの(実在)があり得る。ただ、「可能性の空間」というものが概念的な操作ではなく数理的な操作によって得られるものなのだとしたら、「論理的な分化の過程」と「歴史的な分化の過程」との違いもまた、概念ではなく数理的な根拠によって示される必要があるのではないだろうか。)
(つまり、数学の分からないぼくには、「論理的な分化(本質主義)」と「歴史的な分化(非本質主義)」の違いは、自然言語における概念としては理解できるが、それを数理的に考える時にも、その「違い」が有意味であり得るのかという判断が、そもそも出来ない。「普遍的な特異性」という概念は、数理的に有意味であり得るのか、と。あるいは、「普遍的な特異性」という概念を認めたとたんに、「本質主義」と「歴史主義」との対立という構図そのものに意味がなくなって、つまり本質主義批判の意味もなくなってしまうのではないか、とか。)
(だがもう一方で、デランダは、非線形的な因果性ということも書いている。因果関係が決定論的にではなく――相互作用するそれぞれの個たちがもつ閾値のバラツキによって――統計的、蓋然的に働く、という場面を考えなければならない、と。この、因果の非線形性が効くことによって、「普遍的な特異性」が歴史化されるということはあるのかもしれない。)
あるいは、「普遍的な特異性」という概念は、「この宇宙」においてはたまたま普遍的であったが、それ自体としては特異的であるということになろう。ならば、「この宇宙」そのものが唯一の普遍的なものではなく、たまたま「このような宇宙」になったということになり、「この宇宙」自体が独自で特異的な存在ということになるので、必然的にマルチバース的な宇宙論が要請されることになるのではないか。つまり、デランダ(元にあるのはドゥルーズだけど)が「社会」について考えようとする時に用いる「集合体」という概念は、多宇宙論を必要とするのではないか、と。



●今日の富士山。