2021-03-20

●引用、メモ。『現実界に向かって ジャック=アラン・ミレール入門』(ニコラ・ルフリー 松本卓也・訳)、第二章「精神分析的臨床」より。

●治療ではなく経験、普遍ではなく特異性。

《まず、ミレールは「治療cure」という用語を「経験experience」という用語に置き換える。》

《(…)分析は治癒を目的とはしない。ラカンは「治癒は副産物としてやってくる」と述べることでそのことを指摘していた。これはシニシズムではなく、まったくその反対である。治癒を目指さないのは、そもそも「メンタル・ヘルス(精神の健康)」など存在しないからである。(…)精神分析は主体を何かしらの基準に当てはめようとすることはなく、反対に主体のなかにあるもっとも特異的なものを目指す。》

《(…)「治療」は、主体の側の〔治療を「受ける」という意味で〕受動的な何ごとかを含意するからである。主体が、自分の真理だと信じていたものの形態から、別の形態へと移行するのは、分析においてであり、過程のなかにおいてである。少なくともこうした考えは分析経験を理解するひとつの方法であり、ラカンはそのことを初期の教えのなかで概念化していた。それは弁証法的過程に入り、主体が固有の歴史を引き受け、「主体の歴史のなかの検閲された章を主体が再び取り戻すこと」に到達することであった。》

《こうして、精神分析にとって普遍的なものがはじめから放棄されているのはどうしてなのかが理解できる。それは、人は「他者が望んでいること」、特に私たちの家族が望んでいることほどには、「自分が望むこと」について自発的に語らないからである。無意識が「大他者〔=大文字の他者〕のディスクール(…)」(母親、あるいは家族的布置のなかにある人物のディスクール)であるなら、このディスクールは主体を袋小路へと導くことになる。人は自分に関する〔他者の〕ディスクール、ときにはおのれの誕生以前からすでに存在したディスクールを携えて分析にやってきてそれに不平を言うである。人は自分が望むものを知らず、自分が真に欲望しているものを知らない。ゆえに、分析に賭けられているのは、私たちに固有の欲望を取り戻すことができるかどうかである。》

《私たちは自らに固有の言語を発明したわけではないのだから、言語は大他者によって伝えられたものである。しかし、私たちは自分自身を特異的なものにするひとつの「語られた言葉」を常にもっている。》

《常に特異的なケースを扱う精神分析家は、ケースを前にして、「自分はただひとつのことしか知らない、それは、自分は何も知らないということだ」という態度を引き受けなければならないのだ。概念や理論、症例の構成は後からやって来るものであり、それらは常に生きた実践の外部にある。実践においては、固有のケースの構成〔=構築〕(…)という作業は分析主体の側に任されてすらいる。ある意味では、普遍的なものを目指さなければならないのは分析主体の方なのである。辛抱強く蓄積されたおのれの諸々の真理をいかにしてひとつの知にするのかを探るのは、分析経験に参加する主体の役目である。》

●特異的なものを診断するという矛盾。

《診断について問われるとき、この問題は臨床にとりつき、臨床を悩ませるばかりである。この患者は精神病なのか、神経症なのか? 強迫の主体なのかヒステリー者なのか? という問題である。というのも、精神分析が取り扱う特異的なものという視点に立てば、「それぞれが他の誰にも似ておらず、それぞれがお互いに比較不能」だからである。だとすれば分析は、それぞれにおける特異的なものの出現を受け入れる実践になる。つまり、分析は特異的なものへと方向づけられた経験そのものなのである。すると、分析において診断は、除外されることはないとはいえ、目標とされるものではないことになる。》

《(…)たしかに、フロイトラカンも、無視することができないものとして構造を参照していた(それは、臨床家はたとえば症例が強迫神経症なのかパラノイア精神病なのかを知らねばならないからである)。しかし、それは単に分析的ディスクールのなかで症例の議論ができるように症例を構築するためでしかない、ということを彼らは明確に述べていた。ミレールにとって、症例を構築することは、症例に論理的座標軸を与えることを意味する。論理的座標軸とは、症例の形式的外被とファンタスムの論理のことである。症例の構築は、分析的ディスクールの進展に寄与するために、そして、精神分析家の共同体が歴史的区分に応じた臨床の変化を掴むために必要不可欠である。実際、様々な症状は同じ形式をまとっているわけではなく、ある時代の社会的政治的な文脈に従った形をとるということが知られている。いまだにヒステリー性神経症は存在するのではあるが(それはある種の主体にとっての取りうる方策として常に存在している)、精神病院に収容された、シャルコーの意味でのヒステリーはほとんど見られなくなっている。》

《分析臨床〔でいうところ〕の症状は精神医学臨床の症状とは異なる、という点に注意しておく必要があるだろう。「分析的症状は患者によって語られた症状であり、なによりも語る症状〔=語るものとしての症状〕(…)である。分析的症状に与えられた最初の定義は、症状と中断されたメッセージを同じものとみなしている。症状は、宛て先や対話の相手を見つけられていないメッセージなのである」。》

●転移の下での臨床(お互いに現前していなければならない)。

《ミレールは、適切にも次のように述べている。「精神分析臨床は、症状の種類によって分類された諸々の事実の収集---あるいは症例の叙述---に終わるものではない。[…]精神分析臨床とはむしろ、精神分析経験そのものを構造化させている主体の構成に従って変化する構築の総体である」。実際、分析経験は構築〔=構成〕という間接的な手段からなる。つまり、分析経験では、症状もファンタスムも構築されるものなのである。しかし、このことはなによりも、精神分析臨床が転移の下でも臨床であるということを意味している。もろもろの真理の出現を可能にするために、分析家と分析主体はお互いに現前していなければならず、無意識は単に分析主体の側にあるのでも分析家の側にあるのでもない。無意識は二人それぞれの中にあるのでさえない。というのも、主体の無意識というものは存在せず、存在するのは無意識の主体だからである。》