●『現実的なものの歓待』(春木奈美子)に書かれているデュラス『ロル・V・シュタインの歓喜』の分析がとてもおもしろい。以下、同書の第2章「女たちの余白に」第1節「デュラスの描くふたりの女」から引用。
(「苦悩」を表象---意味や理解可能な因果---に閉じこめてしまうような態度を「共感的理解の逆接的不寛容」と呼ぶなど、まさに「精神分析的な文体」だ、と思いながら読んだ。)
《ロルの最初の「事件」を「原因」と見立て、その後の展開を必然的な「結果」とみるホールドは、心的因果性の構築を目論む治療者の欲望を表している。必然性を症状や狂気の説明原理として取り込もうとする試みは、必然性によって偶然性を囲い込むこと、すなわち不可解な〈他者〉性の排除に他ならない。このように治療者側の持ち前の論理に従う「治療」は、言語との出会いで生じた「疎外」の事実に立ち向かわせることはなく、治療者の知によって患者の起源の事実への書き込みを行うことになる。それは、意味に回収されえない領域を無きものとして「いまここでの」表象空間に人間を閉じこめることを意味する。そうした理解のうちにすべてを回収するような行為は、治療とは言えない。こうしたアプローチがいう「語り」とは、いわば余白を許さない社会的ディスクールであり、まさにそのような不寛容なディスクールの余白に、精神分析のディスクールは位置する。それは共感的理解の逆接的不寛容によっては、もはや支えられない主体へ、いわば「到達せぬ苦悩」を抱く主体へと宛てられている。》
《「到達せぬ苦悩」とは、決して不可知論やイデアリズムに肩入れするための文句ではない。存在に必然性を与えてくれるように幻想させる言語との関係の残余として、言語を超えようとする欲望があり、失敗を繰り返しながらも、そのような欲望をあきらめない、そのような態度を言うのである。「到達する」と言うなら、言語を超えようとする欲望が言語そのものに導かれていることになり、また本人にとって「苦悩」でないのなら、その時点ですでに幻想に荷担していると言えよう。意味が常に存在を構成するのではない。存在は、時に意味に先行し、時に意味に後続する。この意味で、わたしたちは、意味とは一致せず、むしろその不一致に留まる限りでの、言い換えれば、己のなかの〈他者〉へと無限にさらされている限りでの、存在であると言える。現前する他者との共有ではなく、己に内在する〈他者〉との分有のうちにある意味は、常に捉えきれない不確実性に留まる。この欠如は、否定的なものに聞こえるかもしれないが、人間の本質とも言えるだろう。》
●精神分析的なディスクールで「言語」と言うとき、それはふつうに言語という語がもつより意味が広くて、可変的(代替可能)な記号・表象・意味が成立するためにその背後で働いているシステム、というくらいの意味にとった方がいいと思われる。道具を使う動物は人間以外にもいるが、道具をつくるための道具を使うのは人間だけだ、同様に、言語的なコミュニケーションを行う動物は人間以外にもいるが、言語についての言語(再帰的なメタ言語)を使えるのは人間だけだ、と酒井邦嘉が言っているが、そのような可変的で再帰的な記号を使えること(たとえば、同じ映像がモンタージュによって異なる意味になる、置かれた伏線の意味がその後の展開によって変化する、というような「操作」が可能であること)、そのようなシステムの内に置かれてあることが「言語」と呼ばれているのだと思われる。
(以前は、象徴界は言語で、想像界はイメージだ、みたいに説明されることが多かったが、今では、象徴界は構造で、想像界は意味だ、と説明されることが多いようだ。精神分析で言う「言語」は、意味を成立させている---ファルス関数的な---構造、という感じだと思われる。)