●『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス)という小説の全体としての形は、下の図のようになっていると言えるだろう。ロルが、ジャックによって服を脱がされ裸にされたタチアナの肉体の位置に、自分の存在を確保する場所を見出す。ロルは、空である自身の存在を、ジャックによって見られ、触れられたタチアナという、自分の外側に見出すことで自分を保つ。だが、小説の最後でジャックと結ばれることで、ロルは、ロルでもありタチアナでもある者とならざるを得ず、錯乱(歓喜)する。
そして、そのようなロルを(ロルの物語を)、その外側からジャックが語っている。ここで、ジャックがロルについて語ることになる(ジャックがロルに強く惹かれることになる)起点としてあることがらが、ジャックが、タチアナと密会するホテルの窓から、ホテルの裏にあるライ麦畑に横たわるロルを目撃したという出来事だ。ジャックは、ロルから見られているのを、見る(逆向きの赤い矢印)。その時にジャックはロルという存在に把捉され、彼女を愛し、彼女について語らざるを得なくなる。
上の図では、一方的に見られ、触れられ、利用されるだけに見えるタチアナだが、そもそもこの物語の発端となるT・ビーチでの出来事を(その時のロルを)見ているのはタチアナだけである。T・ビーチで、ロルが、マイケルによって裸にされたアンヌ=マリの肉体の位置に、自分の存在するための場所を見出すことに失敗した(見出し損なった)、という出来事が、ロルを狂気に追い込み、後のそれをジッャクとの関係において反復させる。そしてこの起源ともいえる出来事を語ることができるのは、その時、ロルの傍らにいて、ずっと彼女の手を擦っていたというタチアナだけなのだ(下の図)。
タチアナの視点を取り入れ、上の二つ図を合成すると、下のような図になるだろう。小説の語り手はジャックだが、この物語はジャックのみでは語り得ず、(T海岸の場面に限らず)タチアナの視点が必須であり、タチアナの視点は潜在的に常に利いていると考えるべきだろう。一見タチアナは、何も知らされないまま、ロルとジャックのための疑似餌として利用されるだけのようにも感じられるが、(ジャックがタチアナから聞いた話として、ジャックの視点に還元することのできない)タチアナ視点の独自性が随所で機能している。ジャックが、語る者(私)であると同時に語られる者(彼)であるのと同様に、タチアナは、ロル(ロル+ジャック)から見られる者であると同時に、ロルを見る者でもある。
(この物語の起点が、物語を構成する三つの視点にとって三者三葉なのが興味ぶかい。ロルにとっては、T・ビーチの出来事が物語のはじまりだが、ジッャクにとっては、ホテルの窓からロルを見つけた場面こそが物語のはじまりであり、それ以前の物語は遡行的に補完されたものだ。そして、タチアナが言うには、ロルの狂気の起源はT・ビーチの事件では決してなく、それより前、学生時代から既に予兆はあったとされる。)
(ロルはすべての人に見られている。T・ビーチの事件はS・タラでもT・ビーチでも知られているし、ロルがその事件の被害者(?)であることも、みんなが知っている。だから、ロルが匿名的存在としてSタラを散歩したり、T・ビーチに再来したりしても、みんな彼女を見ているし、彼女がロルであることを知っている。自分が誰なのかわからないのは、彼女自身だけだとも言える。)