2021-09-07

●『ロル・V・シュタインの歓喜』についてのテキスト(『現実的なものの歓待』第2章)で春木奈美子は、語り手であるジャック・ホールドのロルに対する欲望に「治療者の欲望」を見出し、それは「共感的理解の逆接的不寛容」であり、その治療は「表象空間に人間の生を閉じこめる」ことになると批判的に書いている。実際、小説を読むと、終盤のジャックとロルによるT・ビーチへの再訪とその夜の二人の接触からは、かなり強く「治療」めいたニュアンスが感じられるし、二人が結ばれた翌朝、《彼女はマイケル・リチャードソンについて、彼女の気の向くことについて私になんでも言える》ようになっていると書かれるロルは、あたかもトラウマを克服して治癒したかのようだ。そして小説の最後の場面、森のホテルの裏のライ麦畑でロルは、もはやホテルの部屋でのジャックとタチアナの逢瀬を見守る必要などなくなったかのように眠っている。

無理矢理に小説の終わりとして据わりのよいオチをつけたかのようなこのラストが、この小説の最も弱い部分であるようにみえる。「ジャックによって触れられるタチアナの肉体」の位置の自分の存在(と存在の欠如)を見出すことで「自分」を確保していたロルは、(タチアナに触れる者であるはずの)ジャックから触れられることで、《自分をタチアナ・カルルとロル・V・シュタインという二つの名前で呼ぶ》という錯乱=歓喜を迎える。その錯乱の後に、そんなに穏やかな「正気」に着地できる(治療が完了する)とは考えにくく、ロル(でありタチアナでもある「存在」)は、さらに深い混乱と困難に直面するのではないかと思われる。だから、このラストに現れているのは「話者」としてのジャックの欲望であり、このラストのあり方はロルという存在を、了解可能な意味・因果にどじ込めていると言える。逆にいえば、ジッャクという話者によってでは、このようにしか物語は語れないということだろう。

この物語はジャック・ホールドによって語られ、ジッャクの欲望に従って組み立てられている。ロルが、「ジャックとタチアナの肉体関係」をその外側から見ることによって「ロル自身の存在(の欠如)」を到来させるのと同様に、ジャックもまた、「ロルと(語られる「彼」である)ジャック自身との愛の関係」を、その外側から(語る「私」として)見ている(下図)。

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どちらも、自分(の分身)と自分の欲望の対象との関係を、その関係の外に立って見ているという点で相似的であり、対称的であろう(自分が、見られる・語られる=オブジェクトレベルと、見る・語る=メタレベルのどちらにも存在する)。だが、ロルが、ジャックとタチアナ(=ロル)との関係に見出しているものと、ジャック(私)が、ロルとジッャク(彼)との関係(を語ること)に見出しているものは異なっている。

春木奈美子は、ジッャクは「欲望しうる対象を欲望する主体」であるのに対して、ロルは「欲望しえない対象---存在そのもの---を欲望する主体」であるとする。ジャックは、ホテルの窓から見た「ロルの姿」によってもたらされた不安を、《ロルもまたこちらを見ているはずだ》と思うこと(「ロルからの視線」へと還元すること)で解消する。名前のない不安にロルと名付けること(意味の体系のうちに位置づけること)によって蓋をして、意味に結びつけられたロルを欲望する。ここでジャックはラカンが「宮廷愛」と名付ける愛の形式を生きる。ジャックは、「無理難題を課してくる非人称的で、共感不可能な女」=貴婦人としてロルを対象化する。この時、ロルは、不条理(無意味・存在の欠如)のいっさいを引き受けてくれる謎として存在し、謎は、不条理を表現すると同時にそれを隠蔽する。ジャックは、ロルという謎を欲望し、謎に奉仕している限り、不条理(存在の欠如)と直面するのを避けることができる。

ジャックは、治療者としてロルという謎を解こう(治療しよう)とする。謎を解くとは、ロルという存在を意味の体系のうちに再構成するということであり、そのような欲望のなかでこの物語(ジッャクとロルの愛の関係)が組み立てられる(ジャックは語り手となる)。

対して、ロルが「ジッャクとタチアナの関係」に見いだしているのは、謎でもその解決でもない。ロル→「ジッャク→タチアナ」という構造が表現するのは、「ロルの存在(の欠如)」という事実そのものであって、その意味や隠喩ではない。構造と事実とは、謎とその解読(=意味)によって結びついているのではなく「直接的」に繋がっている(おそらくこれはラカンが「結び目」と言っているものだ)。ロル→「ジャック→タチアナ」という構造は、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事と直接的に響き合うことでそれを表現し、それをやり直す。そしておそらく、ロル→「マイケル→アンヌ=マリ」という出来事もまたオリジナルな出来事ではなく、別の出来事の反復として、それと直接的に響き合うものとして到来したのだろう(少なくともタチアナはそのように感じている)。

つまり、ロルは「意味」の次元で生きてはいない。ジャックから「何を望んでいるのか」と問われたロルは、「ただ望むの」と答える。このやりとりは「意味」としては成立していない(意味がない)。ロルは意味を望んでいるのではなく、唐突に「それ」と響き合ってしまう(未だ到来していない、あるいは決して到来することのない)未知の何かを、その具体像を全くもつことないまま、ただ望んでいるのだろう。

しかし、このようなロルのありようを、ロル自身の存在の形式に従って、その内側から「語る」ことは困難だ。それはほとんど支離滅裂なものにしかならないだろう。だからこの物語には、登場人物たちの関係に偶発的に巻き込まれたに過ぎない存在である、ジャックという(凡庸な欲望を持つ)語り手が必要だったのではないか(ジャックはたまたまタチアナの愛人であったことで、ロルによる「愛の関係」に巻き込まれる)。作家自身が狂気に陥ってしまわないためにも。しかしこの「ジャックの語り」として組み立てられた小説には、ジャックの視点に還元出来ないものが確かに含まれている。