2019-05-17

●『さらざんまい』、第六話をU-NEXTで。

●尻子玉というのは、他から個を隔てている「秘密」を守る殻であると同時に、他者や世界とのつながりを保証する媒体でもあるという意味で、両義的なオブジェクトであるようだ。

「欲望」というのはそもそもそういうものだと言える。「欲望とは他者の欲望である」という手垢のついた言い方もあるが、そういう言い方をしなくても、欲望が個として閉じているとしても、そもそも欲望があるからこそ、他者や世界への興味が開かれる、という素朴な意味で、欲望は閉じてもいるし、開いてもいる。

●地上にそびえるスカイツリーに対して、地下深くに掘られて潜行するカワウソ帝国のアジトがある、というトポロジカルな反転的対称性がある。また、隅田川を挟んで、墨田区側に「今ある」塔であるスカイツリーに対して、浅草側に「かつてあった」塔である凌雲閣という反転的対称性がある。凸と凹という反転的対称性と、存在(今ある)と非在(今はない)という反転的対称性。『さらざんまい』の世界は、このように反転的対称性の重なりとしてできている。

●その一方、「思い」の方向の一方通行性というか、非対称性というのがある。たとえば 一稀は、春河に対して一方的に「うしろめたさ」を負っている。また、燕太は一稀に対して一方的に「強い好意」をもっているし、悠は兄()に対して一方的に「強い憧憬のようなもの」を抱いている。また、これまで対称的な二人組と思われた 玲央と真武の間にも、一稀→春河、燕太→一稀、悠→誓と同様の一方通行性(玲央→真武)があることが匂わされた。玲央にとって真武は、なにかしらの意味での特別な「思いの対象」であるようだ。

●第六話では、一稀の春河に対する一方的な「うしろめたさ」があるのと同時に、春河の一稀に対する一方的な「うしろめたさ」もあるのだということが明らかになり、この二つの非対称性の間に繋がりがみいだされる。

しかしこの繋がりは、 一稀と春河との二項の間での双方向性(対称性)として実現するのではない。一稀の捨てたミサンガを春河が拾い、それが燕太を通じて再び一稀のもとに戻ってくる、というような、別の経路を通じて繋がりが実現される。二項関係においては、一稀→春河であるか、春河→一稀である、というように、「思い」は常に一方方向にしか流れない(二つの流れは重ならない)。ケッピ、燕太、悠といった、二項関係には含まれない別のアクターによって媒介される(パス回しされる)迂回路を通ってはじめて、食い違うそれぞれ個別の「思い」が双方向化する。ミサンガが、燕太を通じて一稀に戻ってくることで「春河→一稀」の通路が開け、ケッピが、悠から燕太にパスされ、燕太から一稀にパスされることで「一稀→春河」の通路が開かれて、それによって「思い」の循環が生じる。

●決裂寸前の危機にあった一稀と春河との二項の関係が、その関係の外部にある第三者的なアクター(ケッピ、燕太、悠)の媒介によって回復される。おそらくこれが第六話において起こっていることだと思われる。そしてここで媒介となるアクターたちもまた、純粋な媒介ではなく、それぞれ個別の「思いの一方通行性」を抱えた存在でもある。

(玲央と真武のような、二項で相互補完的に完結しているように見える二人でさえ、その関係は自己完結的ではあり得ない。)

●第六話でもう一つ触れられているのが、「尻子玉」を失うと、あらゆる「関係」から脱落してしまって、存在しないことになってしまう、ということだ。あらゆる「関係」から脱落することで、「(今は存在しないが)かつては存在した」という事実まで失ってしまうのだ、と。

これは「ピングドラム」から引き継がれる重要な主題だが、ここで、あらゆる関係から脱去する「何者とも出会わないオブジェクト」の存在について考えるハーマンを思い出さないでいるのは難しい。しかしここで問題になっているのは、「何者とも出会わないオブジェクト」そのものというより、存在と非存在の境界、関係と非関係の境界にあるもののことであり、ある対象が、そのどちらにも転び得る状態にあるということの方であると思われる。

さらに言えば、存在と非存在、関係と非関係を、図と地のようなものとして考えるということではないか。