2019-06-17

●『さらざんまい』、第十話。なるほど、そうきたか、してやられたという感じ。

まず、肛門・直腸=カッパ、突起物・男性器=カワウソとして見えていた対立が偽のものだったことが判明する。これは対立ではなく、同じ側(カッパ)の反転的な二つの側面に過ぎなかった(玲央も真武もカッパであった)。さらに、一方に希望の白ケッピがいて、他方に(カワウソに捕らえられた)絶望の黒ケッピがいるという構造もある。塔も地下への穴も、実はどちらにしてもカッパの領分なのだった。カワウソは(陥没したり突起したりする穴・管ではなく)不定型な闇としてあった。それは、仮の輪郭である赤い線に囲われてはいるが、場所を持たずに遍在するものだ。

カワウソは、相手の欲望を映す鏡となり、そこに映された欲望の像を虜として相手を支配しようとする。玲央は、欲望の対象(真武)が、自分の欲望の鏡像であると知りつつ、それに執着する。真武は偽物だと非難しながらも、どこにも居ない「真の真武」を求めることに固執する。ルアーを否定するという行為を通じてルアーに支配されている、といえる。決して追いつくことの出来ないニンジンを目の前にぶら下げてくるくる回る馬のように、玲央は、自分と、自分の鼻先に吊された欲望の対象という二項関係の果てのない循環のなかにいる。

   真武が、玲央の欲望の反映である以上、「本当の真武」はどこにも居ない、あるいは、偽物の真武こそが真武なのだと言える。偽物であることによって存在が許されている真武は、「本物の真武」へと昇格した途端に、心臓が潰れて消えてしまうしかない。欲望の対象の「本物」には決して手が届かない---手が届かないということによってしか「本物」であり得ない---という構造を、カワウソが作り出していて、玲央はその隘路のなかにいる。

(燕太の一稀に対する関係が、玲央の真武に対する関係の対となるように描かれている。燕太は、カワウソによる「欲望の対象としての一稀」を餌とした罠を---かろうじてだが---拒否するし、一稀の自己犠牲---自分の尻子玉を譲ることで燕太の命を救おうとする---も拒否する。対して、玲央はカワウソの罠の内に捕われており、真武は玲央に真実を告げることと引き換えに自己を消滅させる。穴・管も突起物もどちらもカッパであり、双方は反転的関係ではあるが、対称的関係というわけではないようだ。ここに「二」と「三」の違いが効いている。)

逆に言えば、人がその隘路にいる限り、出口のない回路をくるくると回り続けるので、欲望のエネルギーは供給され続けることになる。カパゾンビが生まれ、欲望の対象を引き寄せる引力が生まれ、真武の心臓は動きつづけるだろう。そしてこの物語では、この回路は「秘密」によって維持されている。わたしの心はあなたには分からず、あなたの心はわたしには分からないからこそ、欲望の回路が回りつづける。尻子玉を抜かれて心(秘密)が漏洩してしまうと、輪廻から解脱するかのように、欲望(および欲望を持つ存在)は昇華されて消えてしまう。

(とはいえ、この物語には二種類の「秘密の漏洩」がある。一つは、尻子玉を抜かれることによってカパゾンビの秘密が明かされるということで、もう一つは、その尻子玉をケッピに送信する時に、送信するカッパの秘密が漏れてしまうということだ。前者は、それによって欲望が昇華され、欲望をもった者の存在まで含めて世界から消えるのだが、後者の場合は、秘密も存在も消えることなく世界に残って、その後の人物たちの関係を変えることになる。後者の漏洩かが生む関係の変化は、この世界の未来にかかわるのだ。)

だがここで、玲央と真武とは完全にカワウソの罠の支配に屈しているという訳ではない。真武は自らカパゾンビとなり、玲央がカッパとなってその尻子玉を抜くことによって---「つながること」を禁じられた二人に---直接的な接触が可能になる。今までのカパゾンビとは異なり、真武ははじめから玲央の方に尻を向けている。これまでの二人の関係はカワウソ型の人形焼き---代理的な男性器---を介したものだったが、真武は直接その肛門を玲央に対して開き、玲央は肛門に分け入って行く。この接触行為によりカワウソの罠を踏み越えた交流が二人の間に生じる(そしてそれは「希望の皿」を生む)が、しかしその交流は生まれた途端に消えてしまうことが運命づけられている(真武の存在は、玲央の記憶からも消える)

(この事実は、「カッパがカパゾンビの尻子玉を抜く」という行為が、悪者をやっつけるというような単純で一方的なものではなく、カッパとカパゾンビとの間にある種の「交流」をもたらすものでもあったことを示してもいる。)

結局、玲央と真武は---燕太がカワウソの罠を拒否するために割ってしまった皿の代理であるような---希望の皿一枚と引き換えに、対消滅するように消えてしまう(玲央を撃つのは悠だが)。つまり、玲央と真武の自らの存在と引き換えになされた交流は、結果として燕太の命を救うことになる。二人の交流は、この世界から跡形もなく消えてしまったのではなく、そのような形で影響(痕跡)を残すことになる。とはいえ、そもそも燕太を銃で撃ったのは玲央なのだから、責任を取っただけでプラスマイナスゼロだ、とも言えるが(希望の皿には、このようなマイナス分の補填という程度の力しかない)

●ここまでで、玲央と真武との関係にかんしては一応の決着をみたと言える。そしてこの後に、悠(と一稀と燕太)の問題が浮上することが予告されて終わる。悠はまず、希望の皿によって誓の命を復活させる欲望を放棄した(命を燕太に譲った)。しかしそれは、この世界への執着の放棄でもあり、何かよくない力に引き込まれていく。