2022/05/17

●『祇園囃子』(溝口健二)。ミゾグチの映画には本当にクソ男しか出てこない。

ミゾグチの現代劇では、古い女性と新しい女性の対比(決して対立ではないところが重要)がよく出てくる。『噂の女』では、田中絹代久我美子の母娘として、『赤線地帯』では他の女性たちに対して京マチ子が若さを強調する、『祇園の姉妹』では、梅村蓉子と山田五十鈴の姉妹として、そして『祇園囃子』では木暮実千代若尾文子の師弟関係として。古い女性に対して、新しい女性は、進歩的、合理的な考えや行動を示し、古い女性を驚かせ、呆れさせる。しかし、新しい女性の新しい価値観は、決して状況を変えることがない(それ自体として状況を変える力をもつわけではない)。そしてこの「状況は変わらない」という無力感が、古い女性と新しい女性の間に、対立を超えた連帯を成立させる。彼女たちの連帯は、負けることによって生まれていると言える。

(『赤線地帯』の若尾文子のみが、状況を変えるのではなく、それを利用して上手く立ち回り、幸福を得る。)

祇園囃子』において、権力をもつのはクソ男三人組ではないようにみえる。彼らは人物像としては紋切り型で薄っぺらなザコキャラでしかなく、迫力のある悪であり、真の権力者であるのはお茶屋の女将(浪花千栄子)である。この作品のフレームのなかでは、浪花千栄子こそが力だ。もし浪花千栄子がクソ男三人組の片棒を担がなければ、木暮実千代若尾文子が男たちの要求をのまなくても、ただ太客を失うだけだ(実際、東京では、二人は男たちを拒否した)。しかし浪花千栄子が男たちの側についている以上、彼女に逆らうと、「芸子であること」そのものが不可能になる。そのような力が見せつけられる。

しかし、作品の外(社会)にまで視野を広めれば、権力を持つのはやはり男たちだ。お茶屋を維持するためには、浪花千栄子は男たちの言うことを聞かないわけにはいかない。浪花千栄子は、「芸子システム」内の権力者に過ぎない。もし仮に、浪花千栄子が太客を失う覚悟で木暮実千代の側に立ったとしても、それで、若尾文子が「京都の名物も世界の名物もみんな嘘や」と言うような、祇園の芸子システムが変わるわけではない。

この物語で最も強い権力をもつのは役所の課長(小柴幹治)だが、彼は自らの権力を行使することなく、ただ「彼には権力がある」という事実が場に作用する。車両メーカーの専務とその部下が彼の願いを勝手に忖度し、お茶屋の女将に要求を出し、お茶屋の女将が、いわば汚れ役を引き受けて、彼女の権力を行使する。手を汚すのはお茶屋の女将だが、それをさせているのは、自らの手は汚さない役所の課長(役所の課長という位置がもつ権力)なのだ。権力者は自らの権力を見せつける必要すらなく、回りが勝手にお膳立てしてくれる。

(若尾文子に舌を噛まれた専務は、そのこと自体は問題にしない。重要なのは自分の欲望ではなく、あくまで役所の課長の要求であり、だから問題の中心にあるのは若尾文子ではなく木暮実千代なのだ。男たち+女将にとって若尾文子はもはや、木暮実千代をおびき出すための餌以上の意味をもたない。その意味で専務も状況の駒でしかない。)

木暮実千代が座敷に入って来るなり、彼女を至近距離で凝視する小柴幹治(課長)の目つきはあきらかにヤバい奴だが、しかし問題は、彼自身の気持ち悪さにあるのではなく、彼がいる位置が孕む権力にある。だから、男たちは個としての人ではなく、たんに「位置」を示す役割り記号にすぎないとも言える。故に、この映画のクソ男三人組は、あまりにも分かり易すぎる典型的人物像なのだ。

(それとは別に、この映画の祇園の「路地」の空間はすばらしい。)