●たまたま「カメラを止めるな」の上田慎一郎監督のショート動画に行き当たり、うーん、という気持ちになった。
見事と言えば見事なのだが、なんというか、「定型」だなあと思う。
まず最初の「レンタル部下」というアイデアがある。コミュニケーションまでもが金次第という、現代社会のある側面がアイロニカルに戯画化され、そこはかとない悲しさや虚しさが漂う。金を出してまで「部下を叱りたい」男と、それを哄笑する女(若い女性に中年男性をバカにする役割を与えるというのも定型的だ)。次に、その男のさらに悲しい事実が明かされ、畳み掛けて、さらにそれを哄笑する女。状況1に対して、その展開系である(上司と部下が反転した反転系でもある)状況2がくる。すると次には、状況1と2とをうけて、それとは位相の異なる、いわばメタ展開と言える状況3が現れる(哄笑する女もまた、哄笑される男と同じ位置に立たされる)。優位に立つ立場が崩れ、救いがなくなり、さらに虚しさが漂い、観客は絶望する。これが、起承転結の「転」であり、ここのひねりがどの程度効いているかで全体の出来がほぼ決まる。そして最後に、観客を安心させる、ほっこりとしたオチに着地する。これは予定調和的だが、状況3との落差が効いている。
おそらく、最初(状況1)の「レンタル部下」のアイデアさえ思いつけば、あとは技術だけで組み立てて最後まで持っていける。これが出来る(技術的に出来るという意味でもあり、躊躇することなく「定型」を踏めるという意味でもある)のが「プロ」なのだと思う。だが自分のことを考えると、ぼくは「定型」だけは踏むまいと思って行動する人生なのだなあ、と思うのだった。これは理屈ではなく、子供の頃からそういう性分なので仕方がない。こういう「定型」的な作品を見ると、そこからの反射で、自分のそういう性分を思い知らされる(上田慎一郎を批判しているのではなく、自分の性分の話だ)。
(追記。この動画の面白さのポイントは、権力的な優劣の関係の逆転が何度か起こった後、複数の権力逆転という過程を経ることで、権力そのものが相対化されて、下克上的世界の中で水平的な関係が開始されるという点にあり、この点にかんしてはたんに「定型」とだけ言って済ませることはできない。)
(もう一つ追記、ここには、「金を支払う側=サービスを受ける客」が上位にいるのではなく、むしろ「サービスを提供する側=労働者」の方が客を哄笑する上位的立場にあるという反転もある。コミュニケーション労働のアイロニー。役を演じることを強いられているという点では客に経済的優位があるが、「そのような役を必要している客の現状と欲望」を哄笑できるという点で労働者に精神的優位がある。この交差的優劣関係は、どちらも「相手を下にみる」ことで成り立っているので、水平的な関係ではない。)
若いときは、「挨拶」さえ、その「定型性」に嫌気がさして、ちゃんとできなかった(だから明らかにぼくがおかしいのだが)。歳をとって多少図々しくなったので、普通の挨拶くらいはなんとかできるようになったと思うが、でもおそらく、今でもちゃんとはできていないと思う(簡単な挨拶だけのメールを書くということが、ぼくにとっては極めて困難なタスクで、しばしば、書けないままでタイミングを逃してしまう)。
「ゆるい」ものや「ぬるい」ものは大好きだが、定型と紋切り型が耐えられない(ゆるさやぬるさは「定型」を溶けさせる効能がある)。たとえば森高千里の詞が、ぼくにはちょっと耐え難い(それが「あえてする紋切り型」だとしても)。繰り返すがこれはぼくの性分の話で、多くの人が森高千里を好きなのは知っているし、それを否定はしない。ぼくの居場所はそこにないというだけだ。
(リア充というのは、パリピのように派手な交流をする人というよりは、「定型を満喫できる人」というのがぼくの持つイメージだ。その意味で、森高千里は最強のリア充なのだと思う。)
(ここで言う「定型」は、俳句や短歌の定型のようなフレーム、あるいは「法」のようなもののことではなく、決まりきったコード進行というような意味に近い。「形の形」ではなく「内容的・展開的な形」としての定型。いや、ダメなのは、「決まりきったコード進行」そのものというより「それに乗っかることへの躊躇(疑問)のなさ」、あるいは「しのごの言わず乗っかっておけ(それは乗っかるものだから、乗っかるべきなのだ)」という定型を強いる空気の方か。でも、社会的生活では多くの場面でこれを強いられるので、つらい。)
(葬式のお焼香のやり方とか、神社の参拝の作法とか、そういう、ほぼ意味のない「形」だけの形に従うことにはそんなに抵抗ないのだが、例えば「挨拶」などのように、その「形」に「意味的なもの」が含まれると「定型」がキツくなる。)